ココはトウキョウのマンションの一角。
男は玄関を前に立っていた。
とうに午前3時を過ぎ去り、最終電車の夜汽車に乗って来てしまった。5歳になる娘の寝顔を少しでも見ようと、軽やかなステップで、しかし、慎重さ
と緊張さが混ざり合う変な感覚に浸りながら、給料ギリギリで買った御節をぶら下げ、ドアノブを引いた。高揚して眼鏡が曇ってしまった。
だが・・・男は抜け殻になってしまった。暗いダイニングで一人、なんとか手に入った御節料理を床に落としてしまった。しかし、男はそんなことを気
付く余裕など無かった。ある1枚のメモ用紙に書かれた一言を前にして、とうとう立ち尽くし、蝉の抜け殻のように土の養分になるのを待つかのようになってし
まった。誰もいない部屋で何故かあざけ笑われるような感覚さえもした。
こんな事があるものか!いや!うちに限っては無いと思っていたのに!
しかし、そのメモ用紙には一言、二言こう告げられていた。殴り書きのような字で
「あなたへ 母の家で正月を迎えさせてもらいます。『いつか』帰ります。」
男はその「いつか」に何度も目をやってしまった。男の妻は「いつか」という言葉を使う時、それは「一生無い」という意味となるからである。
いわゆる、「お国に帰らせてもらいますっ!」である。
男は全く見当がつかなかった。
自分が何をしでかしたか。どんな事が離婚に繋がるか考えてみた。サスペンスやそういう昼ドラなどホトンド見たことのない男にとってソレは至難の問いだったが、一人知恵を働かせ、離婚とは大抵、「不倫」が原因となる事に気が付いた。
だが男は頭を抱えた。全く見当がつかないのである!
男は眼鏡をはずした。何故、男が身勝手に振られたのか!
男は一人暗いリビング机に手を押しやり憤慨した!
そして、男は目が覚めたように閃いた。
あの女に問い詰めれば良いだけの事じゃないか!
男は走ることを決意した!!
とっさに考え付いた最も原始的な動作である。あの女が男に走るという原始的本能を呼び覚ましてしまったのである。
今行きたい!!だが、電車はもう使えない!タクシーはこんな狭いトウキョウの住宅街だ。タクシーが来るのに時間がかかる。いやむしろ、ドライバーが迷子になってしまうだろう。
走って住宅街を抜けたところでタクシーを拾おう。
彼は今じゃ全く慣れなくなったスニーカーの靴紐を結びながら、眼鏡の先の目が血走ってソレを全て物語らせた。
男は細身であり、中学時代に陸上経験があった。だから、それが身体を呼んだのだろう。
ココから女の実家は16kmである。だが、それは単純計算の話で、実際には曲がりくねったトウキョウの住宅街という迷宮を潜り抜けなければいけないのである。だから、実際に住宅街を抜け、実家までたどり着くには実に20kmとなるのである。
それでも男は走った。
16km・・男はこのマンションを買わされた不動産の男を思い出した。頭がハゲでバーコードの毛もその毛が隠し切れないほどの荒野もペタペタに汗で光る肉付きが悪い男だ。
男はその実家から16kmと言っていた。だが、それはものさしで図られたただの予測の時間にすぎず、実際は駅も遠い、実家も遠い位置のマンションを買わされてしまったのである。
(家を探すのにも、行くのにも全てに泣いた。)
あの不動産の男が自分の福沢諭吉をペラペラ舌鼓していると思うと無償に腹が立った。
男は既に何でもかんでも走る欲求にぶち込む気でいた。
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