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鉄の三羽烏」(2009/03/24 (火) 19:56:27) の最新版変更点

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八月十五日。 夏休みも終わりに近い、今日は終戦記念日だ。 辺りではうるさいぐらいに蝉が鳴いている。 田舎によくあるような家の縁側に老人が座って空を見上げていた。 老人の視線の先には、白く、長い飛行機雲がスッと描かれている。 しばらく老人はそれを眺めていたが、徐々に飛行機雲が消えてゆくと顔を伏せた。 十分程すると、ガラガラっという引き戸の音が聞こえ、騒々しい足音が聞こえた。 「おじいちゃぁん、ただいま!」 「啓太か、お帰り」 老人は啓太と呼ばれたまだ小学生ぐらいの子供にそういった。 「お母さんは?」 「ああ、晶子はね、いま商店街のスーパーにね、買い物に行ってるんだよ」 「あー、お菓子買っといて、って言っとけばよかったなぁ」 啓太は悔しそうに地団太を踏んだ。 老人はそれを微笑ましそうに見ている。 「あ、そういえばね、おじいちゃん」 「なんだい?」 「今日ね、小学校の登校日だったでしょ?でね、先生から宿題が出たんだ」 「ほう、どんな宿題だい?」 「えーっとね……」 啓太はそういうと、肩から掛けていたカバンの中から一枚のプリントを取り出した。 『身近な人で戦争を体験した人に、戦争のことを聞いて感想を書いてこよう』 プリントにはでかでかとそう書いてあった。 啓太はそれを見ながら言った。 「おじいちゃんって戦争の体験者だったんでしょ?だったらおじいちゃんに戦争のことを聞こう、って思ったんだ」 「そうかい。それなら聞かせてあげようかい?」 「うん!……で、どんな話なの?」 「ああ、それはね……」 老人はもう一度空を見上げながら言った。 「空に生き、空に死んだ、三人の男の話だよ」 老人の見上げる先に、もう飛行機雲はなかった。 1944年6月12日。 一人の男が児並第三空挺部隊に入隊した。 男の名は菊田 平治、階級は伍長。 先月、操縦士の研修課程を終え、今日航空部隊に配属されたのだった。 研修生の中では抜群の腕を見せ、練習機とはいえ一度も墜落判定を受けたことのない新人でもあった。 翌13日。 菊田は同時に配属された数人の新人操縦士とともに営舎の前に集合させられた。 そしてその菊田の前に、三人の男が現れた。 「おう、お前ら今日からここに配属されたやつだな?俺は佐木 浩史、階級は少尉だ」 と、いかにも歴戦の猛者、というような筋骨隆々の壮年の男が言った。 角刈りに、菊田の太腿ぐらいはあろうかと言う二の腕。 まさに「戦士」と言うに相応しかった。 そしてその隣には、佐木には及ばないものの、十分な体つきをした男がいた。 細い眼をしていて、そこから漏れ出る眼光は鋭く、重かった。 彼はわずかに口を開くと、重い声で自己紹介をした。 「……俺は伊住 睦彦。階級は少尉……」 それだけ言うと、あとは黙りこんだまんま、口を開くことはなかった。 そして伊住の隣にいたのは、まだ青年の域であろう、若い男がいた。 黒く日焼けした健康そうな肌、それに似合わないやや長めの髪を持っている。 「よう!俺は仲村 幸造!階級は准尉だ、よろしくな!」 仲村は快活に笑うと、つかつかと菊田の方にやって来て、そして言った。 「お前、今度の研修生の中で一番の腕だそうだな!どうだ、俺と模擬空戦でもしないか!」 「……ええ、構いませんよ」 菊田はこの時は新人の中で最も優秀だったせいか、少々偉ぶっていた。 それはもはや傲慢と言っても良かっただろう。 (フン、所詮は俺よりちょっと強い程度だろうな) 佐木、伊住、仲村に対して、そう思っていた。 だが、その考えは直ちに脆くも崩れ去ったのであった。 20分後、菊田は同時に配属された数人の新人とともに練習機に乗った。 相手は仲村ただ一人。 (楽勝だな、フフン) そう思いながら、菊田達は空へと飛び立った。 その一分後、仲村も後を追って離陸した。 菊田はしばらく操縦桿を握っていたが、後方でサイレンの音が聞こえたのを感じ、後ろを振り向いた。 (なんだ、あの仲村とかいう奴、もう落ちたのか。やっぱり所詮は……) 菊田は絶句した。 仲村が離陸してまだ一分も経っていない。 なのにすでに菊田の寮機は1機たりとも残っていなかった。 「おい、おいおい……、嘘だろう……?」 思わずそう呟いていた。 仲村の機体も菊田たちと変わらない練習機である。 何も違うこともなかった。 そして仲村はすぐそこまで迫っている。 菊田は振り切るために急旋回した。 だが、いきなりの急旋回に操縦桿がうまく回らなかった。 そして。 ビーッビーッビーッ サイレンの音。 菊田もまた、墜落判定を受けたのである。 着陸し、地上に降り立つと仲村がちかづいてきた。 その顔には一条の汗すらも見受けられなかった。 「はっはっは、あそこでの急旋回、判断は悪くなかった!だが機体の限界を超えてる事を悟れなかったのはお前の判断不足だ!」 「……」 「さしずめ、新人の中で一番という誇りと驕りがあっただろうがな、そんなものは戦場では要らんのだ!せいぜい今ここで捨てる事だな!」 仲村はそう言うと、伊住と佐木の方へと歩いて行った。 周りの新人たちは顔を伏せていた。 そして、菊田もまた、悔しさをこらえるのに必死だった。 『鉄の三羽烏』。 研修生時代にちらと聞いた覚えがある。 彼らの異称。 その異称の意味を思い知った瞬間だった。 模擬空戦からほぼ二週間後の29日。 児並第三空挺部隊に出動命令が出た。 作戦場所は児並第三空挺部隊の基地である加地島空軍基地より東へ500kmの海上。 『その海域を通る敵軍の補給艦および駆逐艦をすべて撃墜せよ』 空軍相の緊急入電はそう伝えていた。 菊田はあの模擬空戦以来、自らの傲慢と未熟を思い知り、意気消沈していた。 周りの新人たちもみな同じように気落ちしていたが、菊田のそれは彼らに比べると格段に重いものであった。 「……菊田。佐木が呼んでる……」 「伊住……少尉……?」 「……俺は伝えた。行け……」 伊住はそれだけ言うと、自分の部屋に入って行った。 菊田はのろのろと気が重い中、その気分を引きずって佐木の所へ行った。 「おう、菊田。来たか」 「……何でしょうか、佐木少尉」 菊田はこれまで気にすることもなかった階級をきちんと名前の後につけていた。 一種の負け惜しみであったのかもしれない。 佐木は苦笑しながら、菊田の肩をポンと叩いて言った。 「まあそう気を落とすなよ。此処だけの話、仲村はな、俺や伊住よりも半分以下の戦歴にも関わらず、『三羽烏』の中で最撃墜王なんだよ。 純粋に空戦技術だったら俺や伊住よりも奴の方が一枚上手だからな」 「そうなんですか……?」 菊田は少し驚いて佐木の顔を見た。 佐木は、事実だ、と顔で答えた。 「すごい……俺よりも少ししか歳は変わらないのに……」 「まあそう考え込むな。あいつは空戦の天才だ、比べるのは酷ってもんさ」 「……」 菊田はお前は天才ではない、と言われたような気がしたが、考えすぎだと頭を振って振りはらった。 「ところで、何故俺は呼ばれたのですか?」 「ああ、実はな」 と、佐木は机の引き出しから古ぼけた航空図を取り出した。 かなり擦り切れていて、ところどころ読みにくかったが、今回の作戦の場所とは関係ない場所であったので何の支障もなかった。 「今回の作戦の地はここだ」 佐木は貧乏削りの鉛筆をポケットから取り出し、地図の上にバツ印を付けた、 そしてその左に矢印、また下に弧を描くようにして矢印を書いた。 「お前には敵艦隊後方の補給艦を奇襲してもらう。作戦地点西50kmの地点で南から迂回して後ろを衝け」 佐木はさっき書いた弧状の矢印を指した。 「おそらく急襲に対抗するために大型の空母が随行している。甘く見積もっても、60機は戦闘機が艦載されているだろう」 空母の絵の所に60、と数字を書き込んだ。 「そこでだ」 パンと手をたたくと、佐木は菊田の方に向いてまっすぐ菊田の目を見てきた。 鷹のように鋭いその眼に菊田は思わず後ずさりそうになったが、ぐっと踏ん張った。 「俺たち三人がその60機を陽動してる間にお前が新人たちを引き連れて補給艦を急襲してほしい。補給艦さえ無くなれば空母や駆逐艦といえどもただの鉄の塊。海のど真ん中でいずれ燃料が尽きるのを待つしかあるまい」 航空図を丸めると、それを菊田に渡しながら佐木は言った。 「この戦、お前に全てがかかっている。仲村はお前に言ったな、不必要な誇りは捨てろ、と。だがな」 佐木はまた射抜くようなまなざしで菊田の方を見てきた。 だが、今度はさっきの様に後ずさりそうになることはなく、むしろ体の中に熱い物がこみあげてくるような感じがした。 「この任務の最重要人物はお前だ、菊田平治!そしてこの任務を拝領したことに誇りをもて、それは必要な誇り、ゆめゆめ捨てるな!作戦開始は明朝8時、それまでに他の新人に作戦の説明をしろ!」 「……!はい、分かりました、佐木少尉!」 菊田はかつての気力を取り戻した。 そしてその根源には、一片の驕りはなく、純粋な誇りのみがあった。 「よし、行け」 「はいっ!」 菊田は元気に敬礼し、そして退出した 1944年6月30日。 この日は菊田にとって特別な日に当たる日だった。 つまり、実戦で初めての出撃になり別動隊の指揮も任された、記念すべき時なのである。 午前5時23分。 児並第三空挺部隊の隊員、総勢21名は格納庫奥の作戦室に集まっていた。 そこではすでにこの後の作戦の大まかな内容が発表されていた。 陽動部隊は佐木少尉、伊住少尉、仲村准尉ら『三羽烏』の3名。 急襲部隊はニ部隊あり、菊田伍長を始めとする新人部隊、計7名。 そしてもう一部隊は志島伍長という人物を始めとする、歴戦の操縦士部隊、計11名である。 この志島伍長、もともと加地島空軍基地に配属されていた操縦士だったが、児並第三空挺部隊が発足してからはその中に編入された人物である。 まだ壮年期の初め頃だが髪は白髪だらけで、右耳はなかった。 かつては歩兵だったらしく、その時に失ったものらしい。 体や腕にはおびただしい古傷が見受けられた。 「それでは佐木少尉、私は北から迂回すればよろしいのですな?」 「そうだ、南からは菊田が迂回する。こいつには補給艦の殲滅を命じた。志島、お前は菊田隊の方向に駆逐艦の類が向かわんように、攻撃してくれ」 「承知しました。佐木少尉方は本当に3名でよろしいので? 私の隊から2、3名は出せますが」 「いや、これは俺たち三人じゃないと意味がない。『三羽烏』の印象を強調するためにはそっちの方が都合がいい」 「は、左様ですか。差し出がましい事をいたしました」 菊田は椅子に座りながらその会話を上の空で聞いていた。 初めての実戦。 そう考えるだけで体が震えるようだ。実際、膝は震えている。 「……、…くだ、菊田!」 「え、あ、は、はい!」 「何を呆けているんだ。今回の任務、お前の役割が重要なのにおまえがそんなのでどうするんだ」 「あ、す、すいません、佐木少尉」 「しっかりしろよ、菊田。もしこの戦に生き残れたら俺の部屋までこい。いい物やろう」 「いいもの、ですか?」 「ハッハッハ、それは終わってからのお楽しみだ。せいぜい死なんように頑張れよ」 そう言うと佐木はバシバシと菊田の肩を叩いた。 その強さに思わず呻き声をあげそうになったが、何とか堪えた。 作戦会議は終了した。 そして隊員はそれぞれの機体の元へと向かった。 午前5時47分。 児並第三空挺部隊は加地島空軍基地より飛び立った。 向う先は西へ500kmの海上である。 十分な燃料を積み込み、万が一のために250kmの地点に補給艦が待機することになっていた。 そして、午前7時43分。 予定地まで50kmの地点に差し掛かった。 ここで佐木ら『三羽烏』と急襲部隊は分散することになる。 『……あー、聞こえるか、菊田?」 「はい、十分に聞こえます、佐木少尉」 操縦席の無線からは雑音の混じった佐木の声が聞こえてきた。 『……くれぐれも無茶はするな、菊田。補給艦三隻だけ沈めるだけでも十分すぎる戦果だ。駆逐艦まで沈めようとか、そんなことは考えるなよ? というか、闘っては駄目だ。まだお前には早すぎる』 「分かっていますよ、佐木少尉。それにそれほど俺が動けるとは思いませんし」 菊田は操縦桿を見ながら言った。 練習機のそれとははるかに重い。 緊張してることも加味すると、2、3倍の重さぐらいには思える。 『まあ、死ななかったらそれでいい。これからの空軍を担うものが死ぬのは惜しいからな』 無線の向こうからは佐木の豪放な笑い声が聞こえてきた。 菊田はその笑い声を聞いて、幾分か気分が楽になった。 『よし、それではな』 「はい、ご武運を、佐木少尉」 『それは俺の台詞だ、菊田伍長』 無線の向こうからかすかにレーダーの反応音が聞こえた。 どうやら敵戦闘機と遭遇したらしい。 そして、無線はガッという音を立てて切れた。 「……よし!」 菊田は操縦桿を握る手に力を込めた。 時は午前7時56分。 作戦開始時刻まで、あとわずかだった。 午前8時12分。 作戦開始より12分が経過していた。 菊田率いる新人部隊は南より迂回して敵後方の補給艦目指し、急行していた。 『菊田、そろそろ補給艦が見えてくる頃と思うんだが』 「そうか、分かった。皆に臨戦態勢に入るよう命令を回してくれ」 『了解』 無線機からは、研修生時代からの友人である飯島康平の野太い声が聞こえてきた。 今回の作戦では、菊田の副官的な立場にあった。 佐木がそうした方が良いと言ったからだ。 『皆に言ったぞ。で、この後どうすんだ?』 「とりあえず水面すれすれで低空飛行、だな。レーダーには反応するだろうが、この機体なら目視では見えないだろうさ」 この機体、つまり菊田達が乗ってる機体は、「松浪」という名の機体だった。 機動力、速度性能は最も低いが、汎用性に富み、生産コストも安いという、なんとも新人にお誂え向きな機体である。 しかも、外装は深い青で塗装されており、水面上を低空飛行すればまず目視はできないようにされているのであった。 その分、陸上ではその青は非常に目立つので、専ら海戦用の戦闘機という位置づけになっている。 『お、見えてきたぞ。戦闘開始まで、あと2分、てとこだな、菊田』 「……だな。ああ畜生、今になって膝が震えてきてやがる」 『お前、膝だけだろ、俺なんかもう全身ガクガク、だ。他の奴らも似たようなもんだ、膝だけの菊田がうらやましいぞ』 「飯島でもそうなるもんか、やはり初陣、だからかな」 『だな……うし、いっちょ行って、うまい酒でも飲もうぜ』 「おうよ、生きて帰るぞ」 菊田は飯島の声が震えているのを聞いていたが、自分もそんなもんだ、と思い口にはしなかった。 そして、ようやく一隻目の補給艦が見えてきた。 菊田は操縦席横のスイッチを押して、兵装を陸戦用から海戦用に切り替えた。 周りでもそれに呼応して入れ替えている機械音がしている。 「よし、全機に次ぐ、一気呵成に敵補給艦を殲滅する!」 菊田はそのまま急加速し、一直線に補給艦へと進めた。 それに続き、残り6名の新人も急加速させた。 午前8時16分。 菊田隊は一斉に海面上8メートルから急浮上した。 そして敵の補給艦目掛け、次々と魚雷を撃った。 敵は事前にレーダーで観測していたのだろう、船側の防衛用銃口より誘爆させるための金属片を放出した。 魚雷はほぼそれに当たり、補給艦へ届くことなく爆発したが、菊田の撃った一発がうまく船側に当たり、補給艦は揺れた。 「よし、そのまま沈めろ、魚雷は使うな、あと二隻残ってるんだ!」 菊田は無線機に向けて怒鳴った。 初陣のせいか、少々興奮しているのだろう。 顔を紅潮させ、操縦席の機銃レバーを握ると、機銃を撃ちながら敵補給艦に突っ込んだ。 機銃は船橋を的確に打ち抜き、一隻目の補給艦は徐々に沈んで行った。 『やったな、菊田!』 「逸るな飯島!次の二隻は一筋縄では行かない。おそらく伝令が行ってる、10機ほど戦闘機が来るかもしれない」 そう言いながらも、菊田は来ないとほぼ確信していた。 今頃、北の志島伍長が駆逐艦と傍の戦闘機を翻弄しているころだろう。 「よし、次だ、次!補給艦何ぞ、さっさと沈めて少尉たちの援護に向かう!」 菊田達はすぐ北に位置する補給艦二隻に向かった。 だが、そこには菊田の予想を裏切るものがあった。 「くそっ、駆逐艦がこっちにきてやがる……」 志島伍長が引き受けているはずの駆逐艦のうち三隻がこっちに向かって来ていた。 向こうの陽動部隊に、何かあったのかもしれない。 おそらく二隻を沈めている間に間違いなくここに間に合うだろう。 『菊田伍長!俺があの駆逐艦を沈めてきてやります!』 「おい、まてっ……」 血気にはやった新人の一人が駆逐艦めがけて接近した。 一分もしないうちに駆逐艦の上空に差し掛かった。 だが、その瞬間。 ヴァヴァヴァヴァ! 一瞬、駆逐艦の真上に雲が出来た。 それほどの量の弾幕が一瞬で張られていた。 新人が射程距離に入った瞬間、駆逐艦の対空機銃が火を噴いたのである。 新人の機体は目視できるぐらいに、蜂の巣になっていた。 もう彼は生きてはいないだろう。 『おいおい、菊田、どうすんだよ?』 「どうするもこうするも……」 菊田は再び海水面ギリギリまで低空飛行した。 飯島たちもそれに続こうとしたが、それを止めるように菊田が言った。 「お前らは補給艦を沈めてろ!」 『何でだよ、お前は、どうすんだ!』 「決まってるだろ!」 菊田は低空飛行のまま駆逐艦に向かって突っ込んで行った。 「あの駆逐艦を……沈めるんだ、よ!」 菊田は操縦桿をぐっと握りしめ、兵装のレバーに手をやった。 もうすでに膝の震えは止まっていた。 菊田は低空飛行を続けながら、魚雷を三発、駆逐艦の一隻に撃った。 予想通り、船側の防御用銃口より金属片が散布され、三発とも届くことなく爆発した。 『菊田、危険だ!戻れ!』 無線の向こうからは飯島の声が聞こえてくる。 菊田はそれを無視し、無線機のランプを消した。 「さあ、俺の人生最大の……賭けだ!」 菊田はそのまま急浮上すると、限界まで急旋回し、一隻目を通り過ぎて二隻目の駆逐艦へ急行した。 その時、またあの斉射の不気味な音が聞こえた。 だが、雲ができた位置は、菊田のはるか後方だった。 「やっぱり、予想通りだった……」 菊田は大きく一息つくと、再び無線機のランプをつけた。 『……だ、菊田!無事だったか!』 「ああ、何とかな。それよりも、あの駆逐艦の対抗手段がわかったぞ」 『何だって!?どうやってそれを……』 「まあ落ちつけ、飯島。あの駆逐艦の対空機銃はな……」 菊田は興奮を懸命に抑えながら、飯島に言った。 「方向固定対空機銃、だと思う」 『ばかな、そんな旧世代の兵器を載せてるわけが……』 方向固定対空機銃とは、その名の通り方向が固定されている対空機銃のことである。 3、40年前の世界大戦で登場した兵器だ。 当時の可動式対空機銃は方向は変えれるものの、命中率が極めて低かった。 それならば、いっそ射程直線上を通った物に対してだけ撃てばいい、という観念から生まれたものである。 これならば、射撃指揮装置に任せても信用に足るものになる。 ただ、近年になって射撃指揮装置の性能が向上し、可動式対空機銃でも良く命中するようになった。 それ以来、めっきり姿を消してしまった兵器だった。 「とにかく、その証拠が幾つかあるんだ」 『なんだ、その証拠って?』 菊田は飯島の問いに答えて言った。 「まず俺の戦闘機の動きについてこれていなかったこと。それだけならまだ分かるんだが、もう一つ、さっきからあの三隻の駆逐艦、陣形が全く変わってないだろ?つまり一か所に弾幕の雲を張るためには……」 『あの陣形じゃないと駄目だ、ということか』 「ご名答。それじゃ、もう一度行ってくる」   菊田は再び駆逐艦に急接近し、そしてまた急浮上、急旋回で二隻目の駆逐艦に近づいて行った。 その際、菊田は兵装を海戦用から陸戦用に切り替えた。 そして、弾幕が現れた瞬間。 「よし、いまだ!!」 菊田は兵装用のレバーをきつく引いた。 機体の下から、ガコンという音が聞こえ、そして。 ……ズオオォォンン…… 鈍い爆発音が聞こえた。 菊田は背面旋回を行い、敵駆逐艦の方をふと垣間見た。 そこには、船橋を無残にも破壊され、航行不能になっている駆逐艦が一隻あった。 「まさか……ここまでうまくいくとはな……」 海空戦で陸戦兵装を使用するという、この前代未聞の行為が思わぬ戦果を呼んだのである。 菊田はそのまま残り二隻となった駆逐艦も沈めようと、加速した。 その時、無線機から声が聞こえた。 『…くだ、…ザこえるか、菊田…ガガ?……すぐその場…ザ…離脱……!』 「仲村准尉……?」 ノイズがひどくてほとんど聞き取れなかったが、その声は確かに仲村のものだった。 菊田はほとんど聞き取れなかったので、再度仲村に聞き直そうと、無線機に手を伸ばした。 「仲村准尉、いったい何があったのです?」 『い…から、はや…ザザ…の海域……抜け出ザ…!そっちに……戦闘機がザ…ガ…っているん……!」 「戦闘機?一体どういうことですか、仲村准尉!准尉!」 『ザ……ガ……』 無線の向こうからは無機質なノイズの音しか聞こえてこなかった。 菊田は首をかしげながらも、飯島宛てに無線を回した。 「おい、聞こえるか、みんな」 『菊田か!大丈夫だったか、よく見えたぞ、まさか本当に駆逐艦を止めるとはな!』 「それよりも、仲村准尉の方から無線が入ってな」 『無線?』 「ああ」 菊田はさっき聞こえた限りのことをすべて飯島に話した。 飯島は無線の向こうから不思議そうな声で言った。 『おかしいな、この海域はそんなに電波を発する施設とかはまるでないのに、なんでそんなにノイズが入るんだろうか……』 「ともかく、准尉からの命令だ、いったん基地に帰投する」 『了解だ、皆に回すぞ』 「頼んだ」 そう言って無線を切った刹那。 菊田の「松浪」の隣を何かが抜けた。 何かと思って振り返った。 そこには、にわかに信じられない光景が映っていた。 「ば……かな……こんな戦闘機の大群、何故俺は今まで気付かなかった……」 そこには最後尾の菊田に追いつかんばかりの敵戦闘機が10、いや20はあった。 菊田は急いで操縦席のレーダーを見た。 だが、レーダーには何の反応もない。 「く……そ!こんな時にレーダーが故障か!おい、飯島、お前の所のレーダーに機影は映っているか!」 『あ、機影?何の話……な、なんだこりゃ……何でこんなに戦闘機が……レーダーに反応はないのに……!』 「とにかく、今すぐここを逃げろ!必ず生きて加地島空軍基地に帰るんだ!」 『おう!』 飯島の無線が切られ、微かにノイズが入った。 飯島が無線を回してるのだろう。 菊田は急加速させ、後ろの機体を振り切ろうとした。 だが、「松浪」の限界速度ぎりぎりまで上げても、全く振り切れない。 それどころか、徐々に差を詰めてきてるようにも思える。 「くそっ、なんだこの化け物は!速いし、レーダーには映らんし、畜生!」 その一瞬。 菊田の前を光が一閃した。 菊田にはそれが機銃の弾であると、なぜかわかった。 その先には、新人の機体があった。 光は、吸い込まれるかのように機体の右翼付け根にあたり、そして。 ドオォォン! 爆発した。 緊急脱出装置を起動させる暇もなかったのであろう、黒こげになった人影が海に落ちて行くのが見えた。 「くそっ、くそっ、くそっ!絶対に生きてやる、生き延びてやるぞ!」 菊田隊の寮機は残り4機になった。 午前8時34分。 菊田の腕と「松浪」はもはや限界だった。 敵戦闘機の機銃を避け続けてきたが、もはや菊田の腕には力が入らなかった。 背面旋回、急浮上、急降下。 ありとあらゆる技術を駆使しても、まだ7機ほどついて来ていた。 「……飯島達は……逃げ切れただろうかな……?」 菊田はその体を囮として、仲間を救う事を選んでいたのである。 だが、それでも飯島を含めて3機、あるいは2機しか菊田の寮機はもはや残っていなかった。 先刻、一揆が叩き落されたのが遠目ながら見え、またもう一機は尾翼が大破していたように見えた。 あのまま加地島空軍基地までたどり着くのは、もしかしたら無理かもしれない。 「さて……そろそろ俺もお休みの時間かな……」 迫りくる7機を背に、菊田はもはや諦めていた。 燃料の方も無理な操縦をしたせいか、半分以下に減っていた。 敵に追われているせいで、途中の補給艦に降りることは不可能、 だが燃料は直線距離で基地に戻って、やっと足りるかという量だった。 しかし直線距離で飛行すれば、機銃をよけることは不可能。 即ち、「死」である。 「……は、は、は。終わった、か……」 菊田はそう呟きながら、操縦席後方にある、橙色の機材を取り出した。 航空時情報記録装置、通称「ブラックボックス」と呼ばれるものである。 本来は映像・音声で墜落時の状況を残し、情報解析に使うものだが、この頃は辞世の句を残すのにも使われていた。 菊田はブラックボックスの蓋をあけ、音声録音機の録音ボタンを押そうとした。 が、まさにその時だった。 後方の敵戦闘機の1機がいきなり爆発したのである。 そして、無線の向こうからは聞き覚えのある声が聞こえてきた。 『…菊田、聞こえ……?俺だ、佐木だ…ザ…応答しザ……!』 「佐木……少尉!?」 『そう…ザ…むう、ノイズがひどザザ……な…ザ…』 「い、今どこにおられるんですか!」 『敵戦闘機の後…ザ…だ。伊住も仲村もい…ザ…話ザ……後だ、お前は早……ザ帰れ』 そこで無線は切れた。 菊田は渾身の力を振り絞って、体をねじ曲げ、後ろを見た。 そこには、空中を踊り、舞い、そして暴れる三羽の烏の姿があった。 菊田は目を見開き、三羽の烏の姿を目に焼き付けようとした。 それほどまでに、三羽烏の戦闘機の動きは凄まじかったのである。 背面旋回、急降下、急浮上などは菊田のそれと比べ物になるレベルではなく、さらに旋回をしながら回転、急停止からの機銃など、常人に真似の出来る筈の無い程の技を難なく使いこなしていた。 「す、すごい……俺なんかとは……格が違いすぎる……」 菊田は改めて佐木、伊住、仲村の力のすごさを思い知った。 そうこうしているうちに、何といつの間にか7機の戦闘機は、三羽の烏の餌食となっていた。 三人はまるで掃除が終わったかのごとく、悠々と飛行し、菊田の機体とと並行飛行した。 『……無事か、菊田……』 「伊住少尉ですか。俺は……なんとか無事ですが……でも俺の寮機達は……」 『……ここで悔やむな……奴らのことを本当に思うなら……お前は絶対に死ぬな……』 「伊住少尉……」 無線機の向こうから聞こえてきたのは、伊住の声だった。 何故かは知らないが、ノイズはなく、よく聞こえた。 普段は寡黙で、峻厳な指導者である伊住。 その伊住のこの言葉は、菊田の心の奥深くに響いた。 『おう、菊田、無事か?腕の一本でもふっとんじゃいやしねえか、はっはっは!」 「仲村准尉……不吉なこと言わないで下さいよ……」 『はっはっは、その様子だと大丈夫のようだな。いや、よかったよかった、はっはっは!」 仲村は、いつもどおり快活に笑い飛ばしていた。 不思議と、その笑い声は菊田の疲労感を麻痺させるもので、自然と操縦桿を握る手に力が入った。 そして、最後に聞こえてきたのは佐木の声だった。 『おう菊田、俺が部屋で言った事を覚えているか?』 「部屋?何のことです?」 『おうおう、こいつめ、上官の言った事をすっかり忘れてやがるよ』 「あ、いや……その……」 『まあ気にするな、初陣でいきなり色々あったんだ、忘れて当然だろうよ』 「……で、佐木少尉は部屋で何と?」 菊田はおずおずと尋ねた。 佐木はそれに少し笑いながら言った。 『ああ、この戦に生き残ったら、いい物やる、って言ったんだよ』 「……あ!」 『思い出したかな、菊田。ついでに話もあるし、あとで必ず来いよ』 「は、はい……」 佐木は大声で笑うと、そのまま速度を上げた。 それに続いて仲村・伊住もついで加速した。 菊田はその加速について行くのがやっとだった。 「こんなところでも、俺との差は歴然なんだな……」 菊田は苦笑すると、彼も加速レバーを大きく引いた。 午前10時34分。 菊田ら四人は作戦地点から帰還した。 相当菊田も限界に来ていたらしく、三度ほど着陸に失敗し、再浮上を繰り返した。 だが、三羽烏は全員一発で着陸を決めた。 「……ふぅ……ああ、疲れた……うわっ!」 菊田は「松浪」から降りようとしたが、足がうまく動かず、転げ落ちた。 だが、誰かが菊田の腕を掴んで支えてくれた。 ふと見上げると、そこには屈託のない笑顔で笑う、飯島の姿があった。 「飯島!無事だったか!」 「当たり前だ、必ず生きて酒を呑もう、と言っただろうが。忘れたのか?」 「いや、そうだが……そういえば……他の連中は?」 「……ああ」 と、飯島は顔を別の方向に向けた。 そこには、飯島の乗っていた「松浪」の他に、新人の機体はなかった。 「お前と別れた後、俺を含めて四機残っていたんだがな。一機は敵にすぐ叩き落され、もう一機は尾翼を打ち抜かれて墜落、最後の一機は、燃料の無駄遣い飛行をしたらしく、途中で燃料切れで堕ちたよ……」 「……そうか……分った」 菊田はすこぶる悔やんだが、伊住の言葉を思い出し、ぐっと堪えた。 そして、菊田は飯島に支えられながら営舎に戻っていった。 数時間後。 菊田は佐木の部屋に居た。 「佐木少尉、話とは何でしょう?」 菊田はあえて「いい物」の事を話さずに言った。 「菊田」 「はい?」 菊田は返事をした瞬間、物凄い勢いで殴り飛ばされていた。 珍しく、佐木は激怒していた。 「さ、佐木少尉?いったい何を……?」 「菊田、お前は命令に反したな」 「……え?」 「俺は空に出た時、何と言った?」 「……」 菊田は痛みで意識が朦朧としていたが、記憶は勝手に機内での無線会話に向いていた。 『駆逐艦まで沈めようとか、そんなことは考えるなよ? と言うか闘ってはダメだ。お前にはまだ早すぎる』 「……あ……」 「どうやら思い至ったようだな。俺はいわば『駆逐艦に手を出すな』と言ったんだ。 なのにお前は駆逐艦に手を出した。これは明らかに俺個人への命令違反だ」 「……」 菊田は返す言葉もなく、じっと黙って聞いていた。 佐木は続けて言った。 「だが喜べ、そんなお前に一つ朗報がある」 「朗報……ですか……」 菊田は少し期待したが、ろくな事では無いだろう、と悲観視していた。 だが、佐木の口から出たのは予想外のことだった。 「お前を『飛曹長』に昇格する、とのことだ。喜べ」 「……は?」 菊田はさっきの憤怒の形相とは打って変わって、笑顔の佐木を見て困惑した。 佐木は混乱している菊田に言った。 「俺の命令違反は今の拳骨一発で許してやる。 ともかくお前は初陣で駆逐艦を沈めるという、大戦果をあげた。 それに目を付けた空軍相が、お前を昇格させたんだ。お前は新しい役に就けばいい。 ついでに、お前の隊の生き残りの……飯島か、あいつは『伍長』に昇格だそうだ」 「本当ですか!そうか、飯島が昇格か……」 「おいおい、お前も自分のことを喜べよ……」 佐木は苦笑しながら言った。 そして佐木はひとつの鍵を菊田に投げてよこした。 「少尉、これは?」 「ああ、俺の昔乗ってた機体の鍵だ。お前にやる」 「昔乗っていた……?」 「ああ、まだお前には話していなかったな」 そういうと佐木は部屋の壁に飾ってある写真を剥がした。 そこには佐木と、今のっているのとは違う種類の戦闘機が写っていた。 「これが俺が昔乗っていた機体だ。名前は『菊一』。 お前の名前にも菊の文字が入っていることだし、似合うと思ってな」 「今のっているのはなんというのですか?」 「今のは『八咫烏』という。空軍相が俺たち三人のためだけに作った、三機だけしか無い戦闘機だ」 と佐木は珍しく誇らしげに言った。 どうやら「八咫烏」は彼の誇りの一つであるらしい。 佐木は思い出したように菊田に言った。 「今たぶん整備が終わったはずだから、『菊一』に乗ってきたらどうだ?」 「いいんですか?」 「いいも何も、もうお前の機体だ。お前の好きにしろ」 「……ありがとうございます!」 そう言って菊田は佐木の部屋を飛び出して行った。 佐木はそれを微笑ましそうに見送っていた。 菊田は駆けていた。 自分の機体がもらえる事に、これまでになかったほどの喜びを感じていた。 しかも古い機体とはいえ、あの佐木の乗っていた機体である。 いやがおうにも意気は上がった。 三分ほど経って、菊田は加地島空軍基地の格納庫に来ていた。 しかし、そこにはなぜか人だかりができていた。 ふと見ると、そこには横たわっている志島の姿があった。 菊田は心配になって、志島のもとへ駆け寄った。 どうやら彼は数々の機銃の弾を受けたらしく、憔悴しきっていた。 志島の様子を見るに、たった今帰投したばかりであろう。 彼の「松浪」はぼろぼろであった。 「志島伍長、志島伍長!いったい何があったのです?」 「……き…くだ……伍長か……済まん……足止めが出来……なかった……」 「いったい何があったのですか?」 志島はズタズタになった腕で必死に胸ポケットにある、写真を取り出そうとした。 菊田はそれを察すると、すっと志島の胸ポケットから写真を取り出した。 その写真は、おそらく志島が機内で取ったものだろう。 敵の戦闘機が映し出されていた。 「それは……おそら……く……新式の……戦闘機……」 「なんですって?」 菊田は志島のその言葉に驚いた。 しかし写真を良く見ると、確かにこれまでの敵の主力戦闘機である「E-1F」とはだいぶ形が違うような気がする。 それに機体の側面にはこれまで見たことのないような機械が取り付けてあった。 志島は苦しそうに言った。 「無線……ノイズ……レーダー無反応……恐らくその……機械のせい……」 「……どういうことですか?」 「電波……電磁波……」 志島はそれだけ言うと、気を失ってしまった。 そのすぐあと、当直の軍医がやって来て志島を搬送した。 菊田が見たところ、腕だけでなく足もやられているようだった。 もしかすると、志島は二度と空を飛ぶことはできないかもしれない。 菊田は少し気が重くなりながらも、格納庫の中へと向かった。 菊田は格納庫に入るのは初めてだった。 練習機も実機も、すべて既に滑走路に出ている物にしか乗ったことが無いからだ。 恐る恐る菊田は格納庫のシャッター横にある、作業員用扉から入った。 「あの、誰かいませんかぁ」 菊田は真っ暗な格納庫の中に向かって言葉を発した。 もう機体のメンテナンスの時間は終わっているから、作業員はいないのかもしれない。 そう思った瞬間だった。 「あぁん、あんた誰だ?」 「うおっ!?」 菊田の背後から声が聞こえていた。 一つ気に懸ったのは、声の高さがかなり高かったことだった。 とにかく、背後にいる誰かに向かって、菊田は言った。 「あ、俺、菊田といいます。この度飛曹長になったものです。 すいませんが、佐木少尉の『菊一』という機体はどこにありますか?」 「ああ、あんたが菊田か。分かった、ついてきな」 その人物は壁に掛けてあったランタンに火を灯すと、格納庫の奥に進んで行った。 菊田もそれに倣い、ついて行く。 しばらく歩いた後、その人物は一つの戦闘機の前で立ち止まった。 その機体、菊田が佐木の部屋で見た写真の機体と同じものだった。 「こいつが佐木少尉の『菊一』だ。おっと、ちょっと待ってな」 その人物はつかつかと歩いて行くと、ボタンをポチと押した。 すると、前面の壁が下から上がって行った。 壁と思っていたが、どうやらシャッターだったらしい。 シャッターが開くにつれて、徐々に格納庫の闇は薄れて行き、光が満ちて行った。 「う……まぶし……」 菊田は思わず目の前を覆った。 すると、声が聞こえてきた。 「あんた、菊田飛曹長だったな。あたしは黒部千代。 一応技術少尉だからあんたより格上なんだぜ」 「……!?」 菊田は思わず目を疑った。 そこにいたのは何と女だったのである。 豊満な体に長い髪を後ろで束ねていた。 束ね方が飯島と似ているから、もしかしたら出身が近いのかもしれない。 そんな下らない事を考えながらも、菊田は思わず口をついていた。 「あんた、女だったのか……?」 「失礼だね、菊田。あたしはこれでもれっきとした女性だよ!」 とぴしゃりといわれてしまった。 菊田はてっきり男だと思い込んでいたので、何となく気まずい気分に襲われた。 とりあえず、この気まずい状況を打破するために、菊田は「菊一」に乗ろうと考えた。 そう思って、「菊一」に乗り込もうと思った瞬間、怒号が飛んだ。 「あんた!!いったい何やってんだい!!」 「はい!?」 菊田はびっくりしたのか、素っ頓狂な声を出してしまった。 黒部はまだ少し怒りながら言った。 「格納庫の中だって言うのに、何であんたは乗り込もうとするんだ? こんなところでプロペラなんか回してみろ、あたしなんかだったらすぐに膾切りにされてしまうよ!」 「え、ああ、それはすまん……」 「全く、これだから後ろを顧みない烏は嫌いなんだよ。どれだけの人が後ろでふんばってるか、考えてくれよな」 「あ、ああ……」 なんとも強烈な女性と出会ってしまったものだ、と菊田は心の中で思ったのだった。 およそ二ヶ月後。 1944年8月5日。 菊田は悠々と「菊一」を乗りこなせるようになっていた。 佐木や伊住、仲村の技術を良く吸収し、またそれを実践することでメキメキと技術を上げている。 ついこの間も、加地島空軍基地に来襲した敵戦闘機を3機落として、飛曹長から飛軍曹に再び昇格したばかりだ。 この昇格速度は異例のほどで、三羽烏の後継者、とも裏では囁かれることになる。 が、当の本人はそんなことには気づく由もない。 この日、三羽烏は加地島空軍基地を離れ、本土へと帰還していた。 先日の作戦の詳細報告と志島伍長の見舞い、そして本営の情報能力の低さを訴えるためである。 先日の作戦、本営の情報では駆逐艦六隻、補給艦三隻であった。 だが実際には空母が一隻、それにいっぱいまで艦載された戦闘機もあった。 佐木は、 「こんな事が続くようでは俺らはどうしようもない」 と、事の重大さを訴えるためにわざわざ佐木と伊住まで連れて本土に帰還したのである。 だが、これが菊田の命運を左右することになったとは、この時は誰も予想することはできなかった。 午後3時54分。 一本の入電が入った。 本営の総合情報部からである。 いま三羽烏はいないので、加地島空軍基地で暫定的に位が高い、黒部が取ることになった。 「はい、なんだい?」 『……その声は黒部技術少尉だな。口の訊き方を直せ、と何度言えば分かるのだ』 「そんなもん、あたしの知ったこっちゃないね。で、いったい何の用なのさ?」 菊田は内心驚きながら聞いていた。 総合情報部からの入電、ということは、少なくとも相手の階級は大佐以上である。 間違いなく不届き者は軍法会議にかけられ、死罪となる階級だ。 だが黒部はそんなことにも構わず、話を続けていた。 「おい、聞いてるのかい?一体何だって言うんだい?」 『……そっちに敵戦闘機が接近中だそうだ。型番は先日の作戦で見られた新式戦闘機。編隊は凡そ30、増援の出現の可能性あり。……以上だ』 一気にそういうと、総合情報部からの入電は切れた。 「全く、急に切るとはあんなのが上にいるなんて全く信じられないよ」 「……」 菊田はそれはあんたのせいだ、と言いそうになったが、そんなこと言ったらどういう目に遭うかわからなかったので、口を慎んだ。 黒部は受話器を置くと、菊田に言った。 「とにかくあたしは機体の整備に行くからね。あんたはほかの奴らに連絡しな」 「ああ、分かった」 菊田はそういうと、飯島のもとへ駆けて行った。 だが駆けながら、菊田は深い不安にとらわれた。 (この戦、俺が指揮を執るんだよな……ふう、大変だ……) 事実、この加地島空軍基地に戦闘機乗りで飛軍曹以上の階級がいないので、当然といえば当然と言えた。 だが、指揮官である菊田も、その副官である飯島も、まだ本格的な空戦は数回しかしたことがない。 (こんな時、志島伍長が居られればなぁ……) 心の中からそう思った菊田であった。 菊田は営舎の中を駆け、ようやく飯島の部屋にたどり着いた。 飯島の部屋は、一等兵のそれと違って、雑魚寝の部屋ではなく個室に変わっていた。 伍長昇格と菊田の副官に正式に任命されたからであろう。 菊田は扉を開けると、飯島はすでに操縦服に着替えていた。 「おう菊田。基地の戦闘機乗りには全員伝令を回したぞ。準備はオッケーだ」 「飯島、今基地には何人ぐらい操縦士がいる?」 「この前の欠員補充を含めて、ざっと16、7人かな。敵は?」 「以前見た新式戦闘機が30機程。増援の可能性もあるそうだ」 「あー……厳しいなぁ……」 飯島は後ろで束ねた髪の留め金を外して、再び束ね直した。 菊田と飯島は窓の外にまさに引き出されている戦闘機を見ながら言った。 「『松浪』と向こうの新式戦闘機はあれだな、雀と鷹ぐらいの差があるな……」 「『菊一』ですら、たぶん鳶と鷹ぐらいじゃないか、と思うがな」 「じゃあ『八咫烏』でやっと?」 「いや……たとえ『八咫烏』でも性能は向こうが上かな」 「そりゃほんとか……?良く俺達、『松浪』で逃げれたな……」 飯島が頭を振りながら言った。 しかし、菊田はそれに反論した。 「だがな、飯島よ。俺らですら逃げ切れたのだ。向こうの操縦士とこっちの操縦士じゃ、こっちの方が力量は上、ってことにもなるだろ?そう悲観ばかりするなよ」 「……ああ、そうだな。菊田の言う通りだ」 飯島は自分の頬をたたうと、気合いを入れた。 するとそのまま部屋の方に行き、操縦服の胸ポケットに強いさな汚れたお守りを入れている。 菊田はそれを見て飯島に言った。 「飯島、そのお守りはなんだ?」 「ああ、これか。これは俺の親父が俺のために作ってくれたお守りさ。虎の刺繍がして有るんだよ」 「虎?」 よく見ると、そのお守りは表面に虎の文様が掘られていた。 手作りのようで、ところどころ形が歪んでいるが、その温もりはとても感じられる。 飯島はそれを大切そうに再び胸ポケットに入れた。 「『虎は千里を行って、千里を帰る』だそうだ。親父が俺が研修学校に入る前に言った言葉だ」 「『虎は千里を行って、千里を帰る』、か……」 (飯島……お前の父は、実に息子のことを想っておられるんだな……) 菊田は深くそう感じた。 ふともう一度外を見ると、操縦士たちが並び始めているのが見えた。 それに伴い、同じ数の「松浪」も引き出されている。 「よし、そろそろ行くか……」 「そうだな……しかし、指揮官というものは胃が痛いな。今もキリキリ痛んでるよ」 「だが初陣の時よかましだろ?あの時は全身ガクガクだったからな」 「俺は膝だけだったがな」 「そうだったな……」 飯島はポリポリと頭を掻くと、部屋の外へ出て行った。 どうやら先に外にでるらしい。 「ふう……」 菊田は壁に掛かっている時計を見た。 時刻は午後4時15分。 「さて、どう転ぶか……願わくば、良い方向であってほしいものだ……」 菊田はボソ、と呟いた。 心の中でも同じ念を強く念じた。 別にそれでどうとなるわけではないが、とにかくやってみたようだ。 「……っしゃ、行くか!」 菊田は自らを奮い立たせ、早足で外へと向かった。 菊田が外に出ると、すでに児並第三空挺部隊の全戦闘機乗りが集合していた。 かつての加地島空軍基地沖の作戦では21名いた戦闘機乗りは、いまや古参が5名、補充要員が2名、新人は1名と、数が減っていた。 菊田、飯島、佐木、仲村、伊住を含めても13人しかいない。 「あー、皆さん。俺が今回の指揮を執ることになった、菊田飛軍曹と言う」 菊田がやや緊張しながら話し始めた。 流石は軍人と言うべきか、腹の中では不満がとぐろをまいていようとも、それを顔に出すことはない。 誰一人反論の声を上げることなく、黙って菊田の話を聞いていた。 「今回、俺は不運と言うべきか、この戦闘の指揮官となった。だが、指示には従ってほしい。 まだ若輩の身だが、そこらの戦闘機乗りよりかは指揮を執る余裕があると思う。だから、今回限りでいい、俺の指揮に従ってくれ。以上だ」 菊田が話し終えた。 すると、黙って聞いていた彼らは、鋭く、俊敏に敬礼をし、そして各々の愛機へと駆けて行った。 菊田はほぅっと息を吐きだし、飯島に言った。 「以前、菊田隊を率いたときよりも、遥かに苦しいな……」 「が、菊田隊を率いたときよりも指揮官らしくはなってるぜ。おら、菊田、自信持てよ」 「……ああ、ありがとう、飯島」 「よせよ、らしくねぇ。お前は指揮官らしく、堂々と威張り散らしとけばいいのさ」 「……それが出来る余裕があったらさせてもらうさ」 菊田は飯島にそういうと、『菊一』の方へ歩いて行った。 そして、菊田は『菊一』の翼を撫でながら、呟いた。 「なあ、『菊一』、お前との本格的な空戦はこれが最初だな。お前に俺の命を預けるから、願わくば空の仲間たちの命を守ってやってくれ……」 菊田はそして『菊一』に乗り込んだ。 来る空戦に向けて、心を落ち着かせた。 無線機から声が聞こえた。 『んじゃ、あんたたち、順次飛んでいいわよ。無事で帰ってきな、帰ってきたら上手い飯でも作ってやるからね』 黒部の温かい、そして勇気づけられる声が聞こえた。 菊田は微笑みながらその声を聞き、そして。 空へ飛び立った。 1944年8月5日。 午後4時41分。 菊田率いる児並第3空挺部隊10名は、海上を巡視旋回していた。 幸いにしてまだ日は落ちていない。 何時、何処から来ても、即刻陣形を組み立てる事が出来る状態を維持していた。 『……なあ、菊田。妙だと思わないか?』 「何がだ?」 『いや、何となくなんだが、こう、たった30機で戦闘機のみが攻めてくるってのはどうも合点がいかないんだよ』 「むう、確かにそうだが、本営は援軍が来るかもしれない、と言っていたぞ」 菊田はそうは言ったものの、飯島の言うとおり何か嫌な予感がしていた。 が、その嫌な予感が何か分からぬまま、その時は来た。 無線機の番号が切り替わり、飯島とは別の声が聞こえた。 『菊田飛軍曹!12時の方向に、機影を発見!レーダーに反応がないことから、例の新式戦闘機かと思われます!』 その声に菊田はすぐさま反応し、無線機のダイヤルを全体に切り替えた。 そして、菊田は腹の底から、力強く言った。 「全機に次ぐ、敵は3倍の数を有し、さらには新式戦闘機と来ている!だが、操縦士の腕は我々の方がはるかに上だ! 一機一機丁寧に、深追いせずに叩き落す事を命じる!諸君の健闘を祈る!」 『了解!』 無線機を通してですら聞こえる、力強い声。 それが重なり合って、たくましい唱和となり、それは菊田の心を励ました。 そして、2分もしないうちに敵の戦闘機の編隊がはっきりと見えてきた。 菊田は『菊一』の中で、『菊一』にむかって再び語りかけた。 「『菊一』、戦が始まる前に俺は言った。『空の仲間の命を助けてくれ』と。 『菊一』、俺はお前を信じるぞ。だからお前も俺を信じてくれ!」 菊田は操縦桿を力強く叩いた。快い反響音がした。 まるで『菊一』が、返事をしてくれたかのようだった。 握り締めた操縦桿が震えた。 たった今、真横を敵の新式戦闘機が通過して行ったのだ。 突破を試みた戦闘機は7機あったが、無事突破できたのは、4機だった。 残りの三機は、一応は突破した。 だが、1機は爆発炎上、また1機は空中分解、もう1機は恐らく操縦士に機銃が当たったのだろう、徐々に高度を下げて、最後は墜落した。 『……ふう!怖えぇ……』 無線機の向こうから、明らかに震えている飯島の声が聞こえた。 どうやらまだ誰も落ちてはいないらしい。 味方の機体反応はきちんと10あった。 「飯島、ボケっとしてる暇はないぞ。ほら、もう奴ら旋回して帰ってきやがった」 『解ってるさ、だがたぶん帰って来るのは25機ほどだぜ』 「俺の落としたの以外に2機落としたのか?」 『ああ、1機は落とし損ねたが、たぶん飛行不能になった。基地に帰るか、脱出装置で駆逐艦が来るまで待つんじゃないのか?』 「そうか、それならいいんだ」 と、言ってるうちに、向かってくる編隊から一機だけ戦闘機が離れて行き、そして操縦席の上の方からパラシュートとともに、人影が飛び出した。 ほぼ同時に、その戦闘機は爆発した。 「だが、これからが本番だぜ、飯島」 『おう、生きて帰らなきゃな。今日も帰ったら』 「酒、だろ?生きて帰れたら思う存分付き合ってやるさ」 『ははは、やっぱりばれてたか。ほいじゃ、気合い入れ直していきますか』 飯島は明るそうな声で、いや、明るさを装った声でそう言い、無線は切れた。 そして、再び敵の戦闘機編隊とすれ違った。 菊田は機銃を7.7mm機銃から20.0mm機銃に切り替えつつ、それを撃ち放った。 菊田自身、普段から7.7mm機銃しか使った事がなかったが、今改めて20.0mm機銃を使ってみて、菊田はその威力の恐ろしさに思わず粟がたった。 「これ、すごいな……」 命中精度と引き換えに得たその威力、それは命中精度の無さを補って余りあるものだった。 7.7mm機銃では穴をあけるので精一杯だった本体、それをやすやすと貫通し、今その穴からは燃料が零れ続けている。 そして数瞬後。 ドオォォンッ! 菊田の傍を通り過ぎようとした4機の哀れな戦闘機。 20.0mm機銃による燃料漏れ、それに基板のショートが重なり大爆発を引き起こしたのである。 『菊一』は4機撃墜の代わりに、1発だけ敵の機銃を被弾したが、飛行に何ら影響はなかった。 無線機から声が聞こえた。 飯島からではなく、それはなんと佐木からのものであった。 『……菊田かザ……聞こえる…ザ…?』 「もちろんです、佐木少尉」 『今……ザザらに向かザ…いる、もうしばらく……ザザ』 「分かってます、佐木少尉。少尉らが来られるまで、防ぎ抜きますよ」 『そう……菊田、た……んだ…ザザ…』 そして無線は切れた。 おそらく、基地、海上中継基地を経由してきたものだろう。 相当ノイズが混じってたが、菊田は佐木の言わんとしたことの殆どが理解できた。 そして、菊田は旋回してくる敵戦闘機の方へ突っ込んだ。 20.0mm機銃を撃ち込みながら、飛び回り、1機1機、まるで草を刈り取るかのように丁寧に撃ち落として行った。 飯島たちもそれに続き、戦闘開始から1時間後、30機全機を退けることに成功した。 無線機を通じて聞こえてくる歓声、笑い声。 指揮艦の気分を束の間でも味わえて、菊田は満足だった。 『よう、指揮官殿。大勝利だな!』 「ああ、これもお前らのおかげだよ」 『水くせえ、お前の力が大半さ。幸い、誰も落ちてないし、被弾数も極めて少ない。大勝利だ、もっと胸を張れよ!』 「そう、そうだな。ああ、そうだとも!」 『ははは、そうだ、指揮官は威張ってるぐらいがちょうどいいんだぜ。今から威張る練習でもするか?』 「いや、それは遠慮する」 『ははは』 菊田は久しぶりに笑った気がした。 何とも気持ちのいいことだろう。 そう思っていた矢先、ふと、ある言葉が脳裏をよぎった。 『援軍の可能性あり』 その瞬間、菊田の体は一斉に鳥肌が立ち、ダイヤルを加地島空軍基地に回した。 そして、一抹の希望を残して、必死に呼びかけた。 「黒部、黒部!黒部技術少尉!返事をしてくれ!」 返事は、なかった。 菊田は三度ダイヤルを回したが、つながることはなかった。 「飯島、今すぐ基地に帰るぞ!」 『お、何かあったのか?』 「基地からの応答がない、もしかしたら俺達は敵の術中にはまっていたのかもしれない……」 『なんだと?』 「陽動だよ、飯島。あの30機の編隊は俺達を基地から引きはがすものであったかもしれない!」 『何だって!?すぐ帰ろう、菊田!基地にはほとんど戦闘員はいないんだ!』 「分かってる!全機、全速で基地まで帰還せよ!」 菊田達は、疲れを労う事もできず、その体を鞭打ち、基地へ機首を向けたのだった 菊田はかつてないほどまで、『菊一』を加速した。 低燃費飛行だの空気抵抗を考えた飛び方だの、全く考えず、ただひたすら加地島空軍基地へと機首を向けていた。 と、無線機に反応があった。 しばらくノイズが続き、そして聞き覚えのある声がした。 『……ガ菊田……かい?』 「その声は、黒部か!」 『黒部技術ガガ……、と呼び……一応…ガ……もあんたよりか……階級ガガ……上なんだよ…ガ…』 「それより状況は!いったいどうなって……」 『……ガガ……ガ…、敵……戦闘機ガ…輸送機……降下…ガ…ガガ…ガ』 「黒部、黒部!返事をしろ、黒部!」 『……ガ……ガガ……』 無線は、切れた。 菊田はダイヤルを回し、全隊通信に切り替えた。 「加地島空軍基地が、敵の手に落ちかかってるみたいだ、皆、急ぐぞ!」 『承知っ』 『了解!』 各員から個々に返事が返って来て、菊田は何となく安心した。 閉鎖された操縦席内では、そういう気分になってしまうものなのか。 深くは考えたことはなかったが、どうもそう言う気分を誘発されるような雰囲気はしている。 だが、そんな事を考えている暇はない、と頭を振って、とにかく菊田はがむしゃらに基地に急行した。 1944年8月5日。 午後6時36分。 菊田らは加地島空軍基地まで、あと数十分と言うところまできた。 徐々に基地がその眼に入ってきた。 菊田は見た。 基地の上に飛びまわる無数の戦闘機を。 まるで獲物を狩る鷹の群れの如き動きを。 「あの戦闘機部隊……手練れだな……」 菊田はそう考えると、無線機を取って再び全体通信に切り替えた。 「皆、よく聞け!今基地を襲撃している戦闘機部隊、あれは間違いなく手練れだ! 命の危険を感じたら、即時撤退、安全圏まで逃げてから再度攻撃を仕掛けるように! 決して死ぬな、以上!」 そして、菊田は返事も聞かずに無線を切った。 菊田の頭には、佐木たちから教えられ、また練習してきた動作が渦巻いていた。 加速、急降下、低空飛行、急上昇、そこからの急襲。 殲滅専用の飛行法。 実践するには早すぎるが、そうもこうも言ってられなかった。 菊田は操縦桿を深く握った。 そして、深く息を吸い言った。 「これより加地島空軍基地防衛戦を開始する!」 菊田は、きつく操縦桿を握った。 「これは、なかなか厳しい戦になりそうだな……」 そう呟きながら、望遠桿を覗きこんだ。 映る機影はおそらく100は下らない。 ただ、全部が戦闘機というわけではなく、おそらくだが爆撃機と護衛機、あとは輸送機も中にはあるだろう。 それでも甘く見積もって新式戦闘機が50機。 言わずとも、莫大な戦力だった。 『菊田…ガ…まずど…ザ…すればい…ガガ…?』 無線機の向こうからノイズ混じりの飯島の声が聞こえてきた。 菊田はひとしきり思案を巡らすと、望遠桿を覗きながら言った。 「とりあえず、俺らが着陸できなかったら元も子もない。まず爆撃機から、その次に輸送機、最後に護衛機と戦闘機だ。言っとくが、無理するなよ?」 『はっは、駆逐艦…ザ…沈め…ザザ…とき…ガガ…りかはずっと…ザ…ましだと思うぜ…ザ…』 「ああ……そうかもな」 『かもじゃね…ガ…、そうなんだ…ザ…』 飯島も経験のせいかだいぶ余裕が出てきたように感じる。 ふと外を見ると、飯島の『松浪』は他のそれと比べて格段に動きが滑らかだ。 菊田はふっと笑うと、操縦桿を大きく引いた。 『菊一』はまるで体をのけぞらすかのように急降下し、そして再び水平に飛び始めた。 「とりあえず、俺が突っ込む。その後にすきを見て突っ込んで来てくれ。危なくなったらすぐに退くこと。いいな?」 『……ああ、任せザザ……くれ』 「よし、じゃあな」 菊田はそういうと、無線機のランプを落とした。 そしてもう一度、望遠桿を覗いた。 その中に、特に動きの凄まじい戦闘機がいるのに気付いた。 倍率を大きくしてみると、どうやらこの部隊を指揮している者らしい。 機体の側面に大きなツバメのマークが設えてあった。 「あれを墜とせば、この戦い、勝てるだろうが…… かなり難しいな。それ以前に、勝てる見込みもほとんどないしな……」 と菊田は呟いた。 その飛び方から見て、佐々木らに匹敵する乗り手というのが手に取るように分かったからだ。 菊田は、出来れば空の上でばったり出くわさないように祈りながら、さらに加速させた。 1944年8月5日。 午後6時57分。 とうとう菊田の『菊一』のレーダーに、加地島空軍基地が映り込んだ。 と同時に、敵の戦闘機のうち、三機ほどがこちらに機首を向けたのが見えた。 それを確認すると、菊田は限界速度まで加速させ、その三機に突っ込んだ。 ヴァヴァヴァヴァ! 敵の機銃が火を噴いた。 流石は新式と言うべきか、きちんと機首の向いている方に的確に発射している。 しかも連射速度は依然と倍近くはある。 「だが……それが命取りだ!」 菊田は急停止と急加速を繰り返しながら、すいすいと敵の機銃網をくぐり抜けて行った。 そして、お釣りに数発、機銃をぶち込んだ。 当たった一機は片翼が大破し、螺旋を描いて地上へと墜ちて行った。 「あんたらとは、戦わんよ。優先すべきは……」 菊田はそう言いながら機首をまさに対地爆弾を落とさんとしている爆撃機へと向けた。 そして、菊田は機銃のレバーを引き、爆撃機に打ち込んだ。 数発撃ちこまれた爆撃機は、その腹の中に収められていた火薬に引火したのであろう、大爆発を引き起こして大破した。 後方では後方で、飯島達が敵の戦闘機相手に奮戦していた。 どうやらもうすでに3機ほど落としたようだ。 しかし、未だ自軍機は一機たりとも落ちてはいない。 「これは……なんとかなりそうだな……」 そう思って菊田は再び操縦桿を握り締めた。 その後、菊田達は縦横無尽に空を駆け巡り、何とか敵の輸送機、爆撃機はすべて殲滅することに成功した。 だが、輸送機に居たであろう降下兵と、空挺戦車の一部はすでに基地へ降り立っているようだ。 基地のところどころでは煙が上がっている。 「皆、さっさと敵を撃退して、基地を守る!これ以上好き勝手にさせるな!」 『お…ザ…おおぉ!』 無線機の向こうからは、皆の気のこもった声が聞こえてくる。 菊田はそれを聞き、心の底からうれしく感じた。 「ああ、こんな俺でも皆がついて来てくれる…… 佐木少尉、伊住少尉、仲村准尉……あなた方が帰って来た時にはきっとこの基地を取り返して……」 その呟きは、最後までされることはなかった。 ドオォォオォォン! はるか後方で、爆発音がした。 レーダーを見ると、味方の機体反応が九つになっている。 『……ガガ…ガ……ガガ……ガガガ…ガガ……ガ……』 無線機から、激しいノイズがする。 ランプ横のコード番号を見ると、見たことのない番号だった。 菊田は、恐る恐る無線機を取り、言った。 「何者だ……なぜ無線機をつなげた……?」 『……ガガ…はろー、若キからすサン…ガガ…』 「……片言の日本語……?あんたいったい何者だ?」 『……ガ…アナタノ横ヲ…ガ……飛ンデル者デス…ガガ…ヨ……』 菊田は慌てて横を見た。 そして、あいた口がふさがらなかった。 「馬鹿な……いくら俺が未熟者だからと言って……並行されて気付かないなんて……」 そこには、『菊一』と並行して飛ぶ1機の戦闘機。 その機体の側面には、あの時望遠桿で見た、大きなツバメのマークが鎮座していた。 菊田はもはや何も考えず、ただひたすら操縦桿を切った。 逃げる。 ただそのことのみを念頭に置いて、『菊一』の機体耐久の限界すれすれまで、旋回をした。 だが。 『…ザザ…マダ……話ハ終ワ…ナイ…ガ…ンデスケドネ……』 「俺の方はあんたと話など無い!」 『一ツ…ザ…聞キタイ……ガアル…ガガ…ガ…ケデス……黒部中佐…ザザ…ハ…ドコニイル…ザ…デスカ』 「知ら……ん……?」 (黒部、いま黒部と言った気が……だが、黒部は技術少尉だったはず、間違っても中佐では……) 菊田は自分の耳を疑いつつも、操縦桿を切り続けた。 しかし、ツバメはいつまでも付いてくる。 そして最後には完全に後ろにつかれてしまった。 『……何モ知ラナイ…ザ…ラ貴方ヲ…生カ…ガガ…意味ハナイ……ネ……サヨウナラ…ザ…若キ…からすサン…ガガ…』 「くっ……!」 菊田は急降下と急ブレーキを最大に使用して、わざと落下した。 これは少しばかり虚を突いたのか、ツバメから菊田は離れることに成功した。 しかし、速度が下がった分、再び再加速するのに手間がいる。 新式戦闘機に乗っているツバメは、そのわずかな時間の間に旋回をこなし、そして再び菊田の後ろについた。 「くそっ……万事休すか……!」 菊田は再び落下を試みた。 だが、流石に今度は準備がしてあったのだろう、見事なまでについてこられている。 「……ぐ、ぐう……少尉……准尉……」 懸命に振り切ろうとするも、振り切ることはできない。 そして。 ヴァヴァヴァヴァ! ツバメの機銃が唸った。 その精度の良さから、機首の向いている方向さえわかれば避けれるその機銃も、ツバメの操縦技術のせいでうまく特定できない。 もはや勘に頼って避けていたが、数え切れないほど掠り、何発か被弾もしている。 幸い燃料タンクにも、航空機能にも異常は見当たらない。 だが、落とされるのは時間の問題だった。 第一もう燃料が持たない、大体持って一時間というところ。 今の飛び方だったら、あるいは30分持てばいい方かもしれない。 『……菊田…ザ…大丈夫か! 今行く…ガガ…!』 「い……いじま……来るな……お前ではどうにも……」 菊田の声は届かなかった。 飯島を始めとする8名全員が、まっすぐに菊田とツバメのもとへ飛んできた。 案の定、一旦ツバメは菊田の追撃をやめ、飯島達の方へと機首を向けた。 『…うおお…おおぉぉ……ぉぉっ!……』 無線機の向こうからは、力強い唱和。 全員が菊田のために命を張って、一丸となっていた。 ほんの一瞬、なんでもできるように思えた。 ツバメを落とすことも基地を取り返すことも。 だが次の刹那、それは儚い想像だったという事を思い知らされるだけだった。 ドオォオン! ズオオォオンン…… 立った数秒の交錯。 それだけで、機体反応が二つ消えた。 迫りくる8機を、まるでいなすかのように避け、しかもおまけで2機も落とした。 その化け物じみた強さに、残った6機はほんの一瞬、動きが凍った。 そして、それがまた命取りになった。 ヴオン、という不気味な音を響かせ、ツバメのプロペラが唸った。 それは今までとは回転数が明らかに違っていて、旋回の速度が異常であった。 そのままツバメはこれまでの常識では考えられないほどの旋回で再び6機を急襲したのである。 機体の性能も、操縦士の腕も明らかに下回る6機に為す術はなかった。 1機、また1機と落とされていき、そして残るのは飯島の操縦する『松浪』ただ1機。 彼もまた、窮地に落とされていた。 『…ザ…コノからすサン……ナカナカシブト…デスネ…ガガ…』 無線の奥からはツバメの声が聞こえてくる。 その間も菊田はツバメを追うが、追い付くどころか、離されている気すらする。 それでも必死に追った。 だが、もはや届かないと悟った時、菊田は悟った。 「……っ、頼むっ! 飯島を……飯島を落とすのをやめろぉっ!」 その時。 菊田は気付かなかった。 レーダーに機影反応があることを。 その数が、3つであることを。 菊田は気付かなかった。 敵と無線を共有しているとき、敵の無線に入った言葉も自分の機内に入るという事を。 『ヴァセトアァァァァクッッ!! 貴様ぁぁっ!!』 『……これ以上の狼藉は、俺達が許さん……』 『……ハハッ……流石にこれは……楽天家の俺でも……許せねぇなぁっ!?』 菊田が心の奥底で今聞きたいと願っていた声。 後ろを振り向くと、水平線の彼方に確かに三つの機影が確認できた。 「ああ……少尉っ……准尉っ……」 菊田は、溢れる涙を止める事が出来なかった。 そして、無線が入った。 佐木からであった。 『ザザ……よく耐えた、菊田…ザ…話は後だ、今はあの男を…ザザ…中佐の仇を…ガ…』 菊田は佐木の口から「中佐」という単語が飛び出るのを聞いた。 だが、今はそんな事よりも、あふれ出る涙と安堵感を噛みしめたかった。 菊田はこれまで見たどんな空戦よりも、これまで聞いたどんな空戦よりも、激しい空戦を見る事となった。 機内から、ツバメの声が聞こえた。 『…ザ…オヤ、コレハ…三羽烏ノ面々…ガガ…デハナイデスカ…ザ… 黒部中佐…ザ…オ元気デ……ザザザ…スカ……』 「……中佐はな…ザ…貴様が……ザザ…殺した……ガ…」 『……ソウデスカ…ザ…ヤハリ…ガ…ノ時ニ……被弾シ…ガガ…タカ……』 佐木とツバメの間では、菊田の理解できない会話が渦巻いていた。 ある程度冷静さを取り戻した菊田は、それを理解しようと試みたが、情報がなかったので理解することはかなわなかった。 とりあえず菊田は、四人の空戦を邪魔しない位置へと移動することにした。 「……ガ……ガガ……」 無線機の婿から聞こえてくるのは砂嵐の音だけ。 どうやらノイズのせいでもう聞こえなくなってしまったらしい。 菊田は旋回しながら、佐木と伊住、仲村の様子を見る事にした。 三羽烏の動きは、壮絶というよりも、暴虐というよりも。 限りなく美麗だった。 互いの位置を呼吸で察知し、わずかな動きをもすべて理解し、最適の動きを行う。 そうして終始ツバメを追いこんで行った。 だが。 ヴオン、という不快な音を立てて、再びツバメのプロペラが回った。 その加速力は、急いで加速を合わせた三羽烏の追従を許さぬほどだった。 ツバメはそのまま急旋回すると、ヴァヴァヴァ、と機銃を撃ってきた。 だが、流石は三羽烏と言ったところか。 正確無比なその機銃を紙一重ですべてかわしたのだ。 2、3発、機体に被弾していたとしてもおかしくないものだった。 「やっぱり……三人はすごい……」 菊田は思わず呟いた。 こんな三人の下で戦っていることを、心の底から誇りに思った。 と、その時、無線から音が聞こえた。 方角からすると、南の方角。 そっちに目を向けると、よろよろと飛行する一機の『松浪』。 菊田は急いでダイヤルを回した。 「飯島! 大丈夫だったか?」 『…ガ…ちょいと……ガガ……厳しい……かな』 「ともかく、お前は離れてろ! 今のままじゃ、犬死にするだけだ!」 『……ガガ……そうもいか……ねぇ…ザ…俺はお前…ガガ…副官だから……ザザ……』 「……分かった。それなら絶対に。墜ちるんじゃないぞ!」 『……了解…ザザザ…』 飯島はそういうと、再びよろよろと飛び始めた。 菊田は自動操縦に切り替えているから、あの飛び方でもしばらくすれば追い付いてくるだろう。 菊田は三羽烏とツバメ戦闘機の方へ眼を向けた。 やはり、終始三羽烏がツバメを圧倒しているようにもみえる。 だが、やはりツバメ戦闘機の機体性能に、圧倒されてもいた。 しかし数分後、異変が起こる。 それまでと変わらず、三羽烏との激しい戦闘を繰り広げるツバメ。 被弾した様子も見られず、操縦の方も衰えは見えない。 「くっ……少尉たちでも落せないのか……」 そう菊田が呟いた瞬間。 『……ガガガ…ザ………ガガガガ…ガガ……ザ………ザザ………』 無線機から異常なほどのノイズ音。 それは次第に大きくなり、そして。 バツンッ! 異様な音を立てた。 その瞬間。 「な……いったい何が起きた……?」 菊田の目の前には、いたるところで点滅する計器。 レーダー、高度計、速度計、無線、機体損傷度。 ありとあらゆる計器の状態が正常に戻った。 そして、無線機の向こうからは、声が聞こえてくる。 『……電波妨害機ノばってりーガ無クナリマシタカ。ココマデ粘ラレルトハ、流石ハ黒部中佐ノ教エ子サンデスネ……』 さっきまでとは打って変わって、砂嵐音ひとつない、鮮明なツバメの声。 そして。 『……ヴァセトアーク、ここに俺らがいる限り、加地島空軍基地は墜ちる事はない。 今回は手を引け、いずれ、また戦う事になるのだから……」 『……ヴァセトアーク少佐……俺達は……いまここであんたを……墜としたい…… だが……今は基地を……守るのが先だ……』 『……はっは、結構怒りが発散できたからな! 今回はこれで見逃してやるからさっさと消えろ!』 『……ソウデスネ。ソウシタ方ガ、賢明ナヨウデスネ。……分カリマシタ、今回ハ引キアゲル事ニシマショウ……』 さっきまでは聞こえなかった、三羽烏の声。 そして、ヴァセトアークと呼ばれた、ツバメ戦闘機は悠々と引きあげて行った。 「……良かった……俺は、生きているんだな……」 心の底からそう思った。 だが、そこに檄の入った無線が届く。 佐木からのものだった。 『……菊田、安心するんじゃないぞ。俺たちの戦いはまだ終わっていない。 基地の敵地上兵力を殲滅せんと、俺達は降りる事すらできないことを忘れるな……』 「……そうか、まだ基地には敵が……そうだ、佐木少尉! くっ……黒部が……黒部技術中尉がまだ基地に……!」 『……なにっ? それはまずい。何としてでも助けるぞ……すぐに殲滅に取り掛かる』 「了解!」 菊田はそう大きく、はっきりと返事をすると、機首を加地島空軍基地に向けた。 兵装を陸上用に切り替え、操縦桿をしっかりと握り。 目はまっすぐとしていた。 その眼には、必ず助ける、といった意志の炎が揺らめいていた。 しかし、菊田は気がつかなかった。 助ける意思があまりに強すぎた故に、レーダーを見る事が出来なかった。 味方機の反応が、4つしか無い事に。 今頃、横に侍っているはずの機体が、いないことに。 1944年8月5日。 午後7時40分。 加地島空軍基地は、燃えていた。 敵空挺戦車と降下兵の攻撃によって、今にも制圧されかかっていた。 基地内には歩兵銃が数丁のみ、対戦車砲と爆薬はまるでない。 戦力は皆無に等しく、歩兵訓練はおろか銃さえ触ったことがないというものばかりだった。 だが、これまで耐えられたのは、一人の女傑がいたからだった。 「あんたたちっ! 絶対あきらめるんじゃないよ、きっと菊田達が、すぐ帰ってくる! それまで、この基地を取られちゃいけないんだ、だから頑張るよ!」 「おうっ! 姐さんがそう言うんだ、耐えるぞっ!」 出来合いのもので作ったバリケードの陰で、黒部率いる整備班の生き残りは気勢を上げた。 今なお銃弾飛び交うその状況で士気が上がるというのは、指揮官が相当しっかりしていることの表れでもあった。 銃を扱えるものはここで防戦に努め、扱えないものは後方に下がってバリケードを作る。 黒部の編み出した、苦肉の奇策だった。 だが、これは思いのほか効果をあげている。 バリケードの残骸は空挺戦車が前進するのを阻み、敵の侵攻路を固定するので防御もしやすい。 惜しむるは、こちらの数が少ないことか。 最初はやや優勢に進んでいたが、降りてくる敵の兵力が増えるにつれ、徐々に数の差が大きくなっていった。 「うわっ!」 「おい、大丈夫かい!?」 「へへ……姐さんが大丈夫なら……大丈夫……で……さ……」 「しっかり、おい、こんなとこで死んじゃあいけないよ!」 「……」 「ああ、どうしてこうなるんだい……!」 また一人、敵の銃弾に整備士が倒れた。 最初は15人いた、防戦担当の整備士も、黒部を合わせて6人まで減ってしまった。 「このバリケードは駄目だ! 後ろに下がるよ!」 「了解!」 黒部はまたひとつ、バリケードを後退した。 さっき駆けまわるのに使っていた装甲車まで、あとバリケードは三枚しか無かった。 バリケード担当の整備士たちは、補強材料がないか探しまわっているのだろう。 後方には一人も姿が見受けられなかった。 「どうやら上が騒がしいね……そろそろ空の戦いが終わったころなんだろうね」 「みたいですね。……それよりも姐さん、顔色が優れませんよ。ここは俺らが踏ん張るんで、少し休んでください」 「馬鹿言っちゃいけないよ、あんたたちが頑張ってるのに私が頑張らないんでどうするんだい」 黒部はそう言うと銃を持って、飛び出してきた敵兵を撃とうとした。 が。 カツゥン…… カランカランカラン…… 何かが落ちてきた。 ばっと見ると、『それ』は黒光りする黒い金属の球。 整備士達は、初めて見るそれが何か分からなかった。 だが、黒部は一度だけ、自分の『父』がそれを持っているのを見たことがあった。 「あんたたち、伏せてっ!」 「? 姐さん、いったい何……」 カチッ…… ――ドォォォオォォン―― 『それ』は、白い光を発して爆発した。 爆発に巻き込まれ、吹っ飛び燃える仲間の整備士。 赤い意識の中、黒部はそれを見ながら、呟いた。 「……白炎……手榴……弾……かい……見落として……たよ……」 黒部は、崩れたバリケードに身を隠し、敵兵が過ぎ去るのをやり過ごした。 そして、気配が建物の中に移ったのを見て、壁伝いに足を引きずらせながら、格納庫へと向かった。 「あんたたち……ごめんよ……」 そう呟きながら、仲間の遺体をとりあえず隠し、先へと進む。 『父』の形見の傍で、最期を迎えようとするために。 「くっそ……まだ滑走路がふさがってやがる……」 空の上で菊田は悪態をついた。 上空から視認できたのは、滑走路に数台の空挺戦車と、少し型の違う戦車。 それらは、盛んに滑走路を走り回っていた。 「佐木少尉、これはどうすれば……」 『……そうだったな。「菊一」には”4.4”が付いていないんだったな……』 「4.4? なんです、それは」 『……これだ……』 無線機の向こうから、ガコン、という音が聞こえると隣を旋回している佐木の『八咫烏』の機銃が変わった。 菊田の『菊一』にも装着されている7.7mm機銃よりも細いものに変わったのだ。 その銃口は、対空の物ではなく対地の仕様となっていた。 『……少し待ってろ。俺が掃除してくる……』 『……対空戦車……あるぞ……』 佐木の声のすぐあとに、伊住の重い声が聞こえた。 どうやら、さっきの少し型の違う戦車が対空戦車らしい。 だが、佐木はからからと笑い声を上げると、事もなげに言った。 『……伊住、俺がこれまで被弾したことは、あったかな……』 『……まあ……そうだな……無用の心配……だったか……』 とんでもない話を菊田の前で佐木は繰り広げ、そしてそのまま佐木は急降下した。 地上の対空戦車からは、行く手を阻むかのように弾幕が張られる。 また、空挺戦車も射角いっぱいまで砲塔をあげ、佐木を狙っていた。 だが、それらは一つたりとも佐木の『八咫烏』に掠ることはなく、戦車群はひとつ、またひとつと崩れ落ちて行った。 そして、ほんの数分もしないうちに、加地島空軍基地の滑走路には空挺戦車の残骸しか残されていなかった。 「やりましたね、佐木少尉!」 『……喜ぶのは、早いぞ。このままでは俺らは下りられん……』 「は?」 『……菊田! 考えてみろよ!  滑走路の真上に戦車の残骸があって、俺らはどうやって降りんだよ!……』 「……あ」 菊田は仲村の指摘を受けて、思わず間の抜けた声を発した。 まさにそうである。 残骸が山積みの滑走路に、戦闘機が着陸できるわけがない。 かと言って、戦闘ヘリのように戦闘機は空中で停止が出来ない。 だから飛ばしておいて、パラシュートで降りる事も出来ない。 第一、そんなことをしたら戦闘機はおじゃんになる。 基本、戦闘機という物は一人乗りだからだ。 自分が降りたらだれが回収する、という話である。 「じゃ、じゃあどうするんです!?」 『……焦るな、じき来る……』 「来る?」 『……そうだ、菊田。俺らが泰然自若と待っているんだ、安心して待て。まだ燃料は残っている事だしな……』 「はぁ……」 菊田は、不安と安寧の隙間に挟まれ、変な気分になった。 が、信用している三人が悠々と飛行しているのを見て、少しずつだが不安が遠のいて行った。 その瞬間になって。 ようやく戻ってきたのである。 「……飯島……?」 ほんの一時間前は飛んでいた一機の『松浪』。 その姿がどこにもない事に、今、菊田は気づいたのである。 「飯島! どこだ、返事しろ!」 菊田は無線機のダイアルを回し、飯島に向けて無線を発した。 だが帰ってくるのはただただ、砂嵐の音ばかり。 レーダーを見ても、菊田ら4人の機体以外は、反応がない。 「そんな……飯島……飯島ぁっ! 飯島ぁぁあぁっ!!」 菊田は、空から消えた親友の名を叫びながら、ただただ泣き続けた。 佐木たちは、その声を無線越しで聞き、わずかに表情を曇らせた。 その時、無線に入電が入った。 一瞬、菊田は顔を明るくさせた。 だが、表示された番号は、飯島の物でも、三羽烏の物でもなかった。 無線の向こうで、佐木が無線機を取る音がした。 『……済まんな、遅れた。流石は三羽烏だな、もう片付いている……』 『……お待ちしておりました。片桐殿……』 『……それ止めろと言ってるだろうが。本営ならともかく、空の上では対等の戦士だ。今は身分を気にするな……』 『……でしたな、片桐さん……』 菊田の耳に聞こえるのは佐木の声と、聞いたことのない人物の声、そして聞き覚えのある「片桐」と言う名前。 名前を模索しながら操縦していると、また操縦席内の声が響いた。 『……まったく、遅かったじゃないっすか、片桐さん! もう俺は待ちくたびれましたよ!』 『……まあそう焦るな。後十分もしないうちに来る手筈になっている……』 『……さっすが片桐さんっすね! 手筈は整えているってことですか!』 『……まあな。これでも一国の宰相、張ってるんでね……』 「……あっ!」 菊田はその人物の言葉で思い出した。 彼の名を。 「片桐庄三郎……空軍相……!」 片桐庄三郎。 この国の空軍において、最高の権力と指揮権を持つ男である。 元空軍総帥で、机上の戦術ではなく現実の戦場をくぐり抜けてきた、生粋の戦闘機乗り。 操縦士としては退いたものの、未だにその操縦技術は目を見張るものがあり、現役としても十二分に戦える力を持った、希代の宰相として国内外に幅広く名が知れ渡っていた。 「そんな人がなんでこんなところに……」 と一人頭を回転させている菊田の元に無線が入った。 『……君が菊田平治君だな。若き烏、期待している……』 「はっ……はいっ! この身が尽きるまで戦い抜きます!」 『……少し違うな。私が期待しているのは、この戦争を次の世代へ語り継ぐ。その役目を担ってくれることを、だ。だから若い君は死んではならん。分かったな……』 「はい、分かりました!」 それだけ言って片桐は無線を切った。 続いて、今度はまた別の番号から無線が入った。 無線の向こうでは、佐木か片桐か、どちらかはわからないが無線を取る音がした。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――ココマデ 『……ガガ……こちら……井黒第二歩兵中隊……ガ……間もなく……加地島空軍基地に……到着……』 『……こちら片桐。了解した、ただちに掃討作戦を行え。伊田の許可は下りている』 『……ガガ……陸軍相のです……か……ザ……分りました……ガガ……では……』 それでその無線は切れた。 再び、今度は全体無線に切り替わった。 『……各々、聞いたな。たった今井黒第二歩兵中隊が加地島空軍基地の再占拠に乗り出した。間もなく滑走路の障害物も取り除かれる。ただちに着陸、整備士を助け出せ。生きている者、亡くなった者問わず、21名の整備士全員、探し出せ。以上だ……』 『……了解しました……』 『……分りましたよ!……』 『……了解……』 「……はいっ!」 無線機を通して、菊田と三羽烏の声が重なった。 そして数分後、空軍基地横の森から、歩兵がドッと出てきた。 それは機敏な動きで滑走路、司令塔、そして各拠点に向かって広がって行った。 歩兵たちはすぐに残骸を回収、そして滑走路は瞬く間にきれいになった。 『……では武運を祈る。私は地上兵装がないのでな、ここでしばらく待機だ。私も直に降りる』 『……了解しました……』 佐木はそれだけ言うと、直ちに着陸準備に入った。 伊住、仲村もそれに続く。 そして菊田もそれに続きながら、無線を取りダイヤルを回した。 「飯島、俺らも着陸……」 菊田は話しかけようとして、その相手がいないことを再び思い出した。 持っていた無線機の電源を切り、それを横に掛けた。 「……」 菊田は複雑な顔をしながら、着陸態勢に入った。 「いつもここは静かだね。それで、冷たい……」 格納庫の最奥、古く錆びた鎧戸の前まで黒部はやってきた。 黒部は、もはや動かすのも苦痛であろうその体を無理に動かし、その鎧戸を開けた。 久方ぶりに光を浴びた中の『それ』は、静かに、そして厳かに鎮座していた。 「父さん……久しぶりだね……」 黒部は力なくそう呟くと、『それ』に縋って倒れた。 「はは……父さん……あたし、頑張ったかなぁ…… 皆に迷惑、かけてなかったかなぁ……」 声は反響することなく、不思議と『それ』に吸い込まれていった。 普段の強かな性格とは裏腹に、黒部は涙を流して言った。 「ねえ、父さん……父さんはいつもこんなところで闘ってたんだね…… あたし、知らなかった……戦争がこんなにつらく苦しいものだなんてね……」 そう言うと、一つ二つ咳をした。 血も一緒に出てきている。 「あたしも、ここまでだね……皆、生きておくれよ…… 佐木少尉……伊住少尉……仲村……菊田……飯島…… ありがとう……あたしはちょっと先に、眠らせてもらうよ……」 『それ』にもたれかかりながら、そう呟く。 冷たいはずの『それ』が、心なしか少し温かく感じた。 瞼が重くなってくるのを感じると、力を振り絞って黒部は声を出した。 「父さん、いや、黒部義則中佐…… 今からそちらに逝きます……」 辞世の句とは程遠い、短く素直な言葉だった。 最後の言葉を発して、黒部は小さく息をつきながら瞼を閉じた。 そして、格納庫内に聞こえてきた呼吸の音が、消えてなくなった。 聞こえるのは、遥か外から聞こえる機銃の音だけだった。 慣れない。 実に慣れない。 そう突っ込みながら、菊田は歩兵銃を持って走っていた。 銃剣の付いた三八式歩兵銃。 空兵の菊田は無論、触ったことのないものだった。 「おいおいおい、いきなりこれかよ……」 如何に井黒歩兵中隊が突っ込んだ後といっても、未だ息のある敵歩兵はいた。 このまま踏ん張れば、駆逐艦辺りが助けに来る…… そう信じて疑わない眼で、彼らは応戦してきた。 空兵の筈の三羽烏は、何度か不時着の後、白兵戦を切り抜けたこともあるらしい。 道理で歩兵銃の扱いに長けていた。 「佐木少尉!」 「分かっている、伊住、仲村!」 「おう!」 「……なんだ……」 銃口を敵に向けたまま、二人は返事をした。 「格納庫だ、伊住、仲村。黒部奈良あそこを真っ先に守りに行くはずだ!」 「合点承知!」 「……了承……」 二人は短く返事をすると、格納庫の方へ走って行った。 菊田はリロードしながら佐木に聞いた。 「黒部、大丈夫ですよね……?」 「……分からん。もし、最奥の格納庫が開いていたら……」 「開いていたら?」 「いや、何でもない。ともかく今は目の前の敵を倒す事だ。倒せば二人の元へ行こう!」 「……了解です」 菊田は嫌な予感がしていた。 黒部はもしかしたら死んでしまったのではないのかと。 だが、飯島が死んだ時にはこんな感じはしなかった。 もしかしたら、黒部は生きているのかもしれない。 そう思って菊田はただひたすら撃ち続けた。 数分後、遮蔽物を挟んで対峙していた敵兵は、みな事切れていた。 辺りには無数の銃痕と空薬莢が散乱していて、さながら分隊同士のぶつかり合いの様な様体を表していた。 菊田は操縦なんかよりもはるかに息を切らし、その場にへたり込んでいる。 歩兵堅堅のある佐木はしゃんと背筋を伸ばして未使用の弾や歩兵銃の手入れをしていた。 「菊田! 何をへたり込んでるんだ! さっさと行くぞ!」 「り、了解……」 菊田は決しに喉を声から絞り出し立ち上がる 重い石の様な体を必死に動かし、菊田と佐木は懸命に格納庫へと走って行った。

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