「アルバイトですか。」
「うん、そう。アルバイトだと思ってちょっと頼まれてくれないかな。」
新しい武装を買いに最寄りの神姫センターに訪れていた黒野白太とイシュタルは小泉一郎こと店長に声を掛けられた。
頼みたい事があるとの事。それ自体は特に珍しい事ではなく二人に今までに何度か新しく入荷した武装のテストを任されていた。
ちゃんとした契約こそ交わさなかったが決して少なくは無いお小遣いが貰えたので当初はその類だと黒野白太は思っていた。
「内容にも依りますけど、何なんですか? また新しい神姫や武器で神姫バトルをすればいいんですか?」
「頼みたいのはバトルじゃないよ。君には観察を…率直に言えばイシュタルにはある素体のテストをして欲しいんだ。」
「私にか?」
イシュタルが反応する。イシュタルも黒野白太も店長の要件が今一つよく分からなかった。
ここは神姫センターだからストラーフMk.2型の神姫は星の数程居る。
確かにイシュタルは少し市販の神姫とは逸脱しているところがあるがそれは店長も知っているし充分に調査させたはずだ。
となると記憶だろうか。八年間で培われた記憶は新たなAI開発に役立つかもしれない。そう結論付けるより先に店長が答える。
「白太君とイシュタルは神姫にも人間サイズの素体がある事は知ってる?」
「知ってますよ。心を持ったダッチワイフですよね。」
「一概に目的が性欲処理とは限らないのだけど、まぁ大体合ってる。」
「で、それがどうしたんですか?」
「アーンヴァルとストラーフ、二体の神姫の人間サイズの素体の製作を依頼されてね。ストラーフの方の試験運転を頼みたい。」
「人間サイズの神姫の製作や所持や売買って犯罪ですよね?」
「神姫をダッチワイフだと勘違いしている輩だったら一蹴してたんだけどね―。僕個人への依頼だったから断り切れなくて。」
「「…。」」
黒野白太もイシュタルも店長とは八年以上の付き合いではあるが彼がどこまでの人物であるかは知らない。
十万馬力の機械少年に憧れ何時か自分の手で造る為にロボット工学科に進みMMS学科を専攻し神姫センターに就職した。
それだけの詰まらない人生送ってきたよと本人の口から聞かされているのだが瓶底眼鏡は一体何を見てきたのかは知らない。
だから偶に法律や良識よりも自分の矜持や我欲を優先させる様な発言をしてもそれは特に奇妙な事では無いのだ。
そういう者達に対しては適当に話を合わせ自分達が不利益を被りそうなら逃げるのが吉であると黒野白太は考えている。
「イシュタルには家事をしてもらって動作に不具合が無いかをチェックして欲しいだけだよ。」
「あ、成程、神姫を性欲処理の捌け口にじゃなくて家事を行わせるメイドにしたいんですね、製作の依頼主は。」
「そういう事。イシュタルは日常的に白太君の家事を手伝ってるんだから動作を確認をさせるには持って来いだと思ってね。」
「ついでに言えば私達は秘密を共有し易い間柄だしな。それで、期間や報酬の給料は?」
「期間は三泊四日。報酬は、そうだね、一日二万円として、八万円でどうだろう。」
「随分と気前がいいんですね。」
「やってる事は治験と大差無いからね。しかも非合法。」
「なら一日四万として十六万下さい。倍プッシュです。」
「三万。」
「三万九千。」
「千円ずつ削るんじゃない。三万二千。」
「三万八千九百。」
「百円単位で削るんじゃない。三万四千!」
「僕は神姫以外に趣味無いんですから奮発してくれてもいいじゃないですか。三万八千。」
「…三万八千。」
「成立ですね。それで僕は具体的に何をすればいいんですか?」
「白太君は特にする事は無いよ。イシュタルを連れて帰っても構わない。彼女が毎日ここに来て検査を受けてくれるだけでいい。」
「え、それ大丈夫ですか? 人間サイズの神姫だってバレたらまずいんじゃ…。」
「人間サイズの神姫なんて日常的に見られるものじゃないから大丈夫だよ。問い詰められてもコスプレだって言えばバレない。」
「なんか凄くいい加減な気が…分かりました、それでアルバイトは何時からですか?」
「今日から。」
「え?」
「もう素体は出来上げってるんだよ。今日白太君が来なかったら電話掛けるつもりだった。」
「CSCとかは大丈夫なんですか?」
「問題無し。ここで移し替えは不味いから僕の部屋に行こうか。」
「店長の部屋に行くのは久し振りですね。」
店長は神姫センターの一部に自分の部屋を作ってそこに住んでいた。
個人経営の店なら兎も角チェーンストアである神姫センターの一部を作り変えるのは問題であるはずだが何故かお咎めが無い。
これもまた長い間付き合っておきながらも黒野白太とイシュタルが知らない彼の謎の一つである。
だがこれもまた真面目に問い詰めても不真面目に逸らされるだろうし切羽詰まった問題でも無いので特に気にしてはいない。
彼が住む部屋は一階業務員通路の突き当たりから右に曲がったところにある。
店長は腰のポケットから鍵を取り出してドアを開けた。店長は独り暮らしだというのに部屋は2Kと広く電気もガスも水道もネットもクーラーも完備。物が散らかっていないので部屋に入った黒野白太とイシュタルは部屋の隅で三角座りをしている水色の髪の女性が真っ先に目に入った。
「店長、あれが…。」
「うん、あれが人間サイズのストラーフ型神姫だ。イシュタルには今日を含めた四日間、あの素体で過ごしてもらう。」
「人間サイズの同型というのは初めて見るが感動するな。良い意味でも悪い意味でも。」
「さーて今センターの業務をほったらかしているんだしちゃっちゃとやっちゃうよ。イシュタル、そこのクレイドルで電源落として。」
「分かった。ではな、マスター。」
「店長、僕は何をしてればいいですか。」
「白太君は特にする事は…あ、そうだ、そこにあるタンスの上から三段目辺りに試験中にイシュタルが着る服が入ってあるから持ち帰ってよ。」
「服も店長が作ったんですか?」
「そこまで僕はマルチな人間じゃないよ。○ニクロで適当に見繕ってきだけ。終わったら親戚の子に上げる予定。」
「し○むらじゃないんですね。」
黒野白太は指摘されたタンスの段から洋服を取り出して鞄に詰め込んでいく。手慣れた様子で綺麗に畳まれた状態を崩さずに洋服を詰め込んでいくと段の隅に女性物の下着が見えてしまったので意識的に手を止めた。
「店長、下着も買ったんですか。」
「そこはあまり触れないでくれ。思い出したくないから。」
「ちなみにバストのサイズは?」
「アーンヴァルがC、ストラーフがB。依頼主はB~D辺りの程良いサイズがお好みらしい。」
「作者の趣味じゃないですか、それ。」
下着も鞄に詰め込んでいく黒野白太。途中、鞄に入り切れなかった分は店長かビニール袋を借りてそちらに詰め直した。
店長は作業しながら応答していたようだ、左手に工具を持ちアナログ的に右手にはノートパソコンを持ちデジタル的に分解と再構築を行っている。一人で二つの同時進行作業に黒野白太は驚きつつも自分は何が出来るかを考えながらイシュタルを見守る。店長が凄いと言うのは分かるが、凄過ぎて蚊帳の外な自分は何をすべきかが分からない。いっそのこと何もしない方がいいのかもしれない。
「よし、終わり。」
「もう終わったんですか?」
「まぁ両手を使ったからね。何時もの半分の時間で済む。」
「ちょっと意味が分からない…。」
「じゃあイシュタルを起動させるよ。」
「んん…。」
それまで三角座りをしていた女性が目覚ます。
人間サイズの素体へと移し替えられたイシュタルは前に組んでいた両手を解き顔を上げてぼんやりとした眼差しを持ち上げた。
しばらくして目に映る景色を頭の中で処理出来たのか明確に目を開き片手を床につけてゆっくりと立ち上がった。
人間サイズとなったイシュタルに黒野白太は顔にこそ出さなかったが内心では驚いていた。
「…あの、えっと、イシュタル…なんですか?」
「私に敬語を使うな。気持ち悪い。」
「人間サイズになった気分はどう?」
「不可思議だ。普段からマスターの肩に乗っていたから人間の視線というものよく知っているつもりだったが。」
「特に問題は無い様だね。とりあえず第一関門はクリアだ。」
「…今のイシュタル、僕より身長高い。」←158cm
「それも作者…じゃなかった、依頼主の趣味。」←173cm
物理的にマスターを見下すと言うのはいいものだな。」←165cm
「黒野白太です。神姫がSです。黒野白太です。」
「また懐かしいネタを…。」
両手を強く握りしめ俯きながらも悲壮感たっぷりに小言を漏らす。
そんな黒野白太に店長は元々のイシュタルの素体であり今は眠るように瞳を閉じている普通の神姫を手渡した。
「じゃあ、今日からテスト開始だから。イシュタルには明日から今と同じくらいの時間にここにきて検査を受けて欲しい。」
「そして三日後に返却と。その時はマスターを同伴させるかアスタロトを持って行った方がいいな。」
「その素体は人間に代わり家事を行う事を目的として設計した。防水性は完璧だ。錆びないし内部がショートする事も無い。湯船にだって浸かれる。」
「文明の利器はついに長年の天敵である水を克服したのですか…。」
「重たいものも持てるようにパワーもかなり高めに設定した。腕力は平均的な成人男性よりも強くしてある。」
「ほう。」
そう言って片手で逆立ちを始め、さらにそこから指先一つで立ちその状態で腕立て伏せを始めるイシュタル。
丁度五回ほど体全体を上下させた後で指先で跳ね上がり空中で前転、両足を床へと着地させる。
「いつもイシュタルがしてた事だけど…人間サイズになると、とんでもない化け物に見えるね…。」
「普段よりも少し体全体が動かし辛いが全てが人間の基準になっているんだ、パワーアップしていると捕えるべきだな。」
「で、イシュタルにやって欲しいのは料理、洗濯、掃除の三つ。サボってもいいけど検査の際にメモリを見せてもらうから隠せるとは思わないでね。」
「素体の洗浄は? 風呂に入ればいいのか?」
「テストが終わったら改めて洗浄するから、その辺りは自由にしてくれていいよ。でも君達の過失で故障した場合はその部分のパーツの代金だけ給料から差し引きする。」
「まぁ、妥当だね。」
話が纏まり掛けてきたその時、ふいに店長が思い出したかのようにわざとらしく発言を翻した。
「あ、そうそう、言い忘れてた。その素体にはまた別の機能があるんだよ。」
「別の機能? ロケットパンチとか天を突くドリルとか暴走形態とか輝くトラペゾヘドロンとかですか?」
「そんな凄いものじゃないよ。簡単に言えば人間の性欲の捌け口になる程度の機能。」
「…うわー、すごーい。」
黒野白太、どんびき。
「先に言っておくけど僕の趣味じゃないから。依頼主からそういうものを付けるように特に念入りに言われているのさ。」
「料理に掃除に洗濯に…ついでに夜のお勤めもこなす、と。」
「そういう事。この機能はテストしなくてもいいけど使ってもいいよ。」
「いやいや、使いませんって。」
「え、使わないの?」
「何でそこでそんな顔をするんですか。流石の僕でも神姫がデビルトリガー卒業の相手とか嫌ですよ。」
「年取るとその辺りどーでもよくなるよ? 女性物の下着にさえ「止めて下さい。哀しくなります。」
哀しき男の運命を青き若草が遮る。
下世話な話に慣れているのかそれを聞くイシュタルは動じない。
「兎に角、だ。別に白太君がイシュタルを使おうとも僕は君を咎めない。そこは覚えていて。」
「何を企んでいるかは知りませんけど絶対に使いません。」
「うん、じゃあ僕はセンターに戻るけど、君達はどうする? このまま家に帰るかい?」
「そうですね。四日で予算が増えるんですし新しい武装を買うのは後にします。じゃあ帰ろうか、イシュタル。」
「分かった。だがどうするんだ。自転車は一つしかないだろう。」
「あ、そうか。僕かイシュタルのどっちかが歩いて帰らなくちゃいけないね。店長、この素体って自転車は使えるんですか?」
「使えるよ。人間用の二輪や四輪の自動車、ぶっちゃけ戦車や飛行機や戦闘機だって操縦出来る。」
「じゃあイシュタルが自転車を使いなよ。僕は歩いて帰るから。」
「二人乗りは駄目なのか。」
「駄目。警察に、特にバッカスに目を付けられるのは嫌だから。」
「成程、では先に帰って簡単な掃除でもしていよう。ではな、店長。また明日。」
「一日三万八千円だという事を忘れないでくださいね。さようなら~。」
「(…まぁ、製作費で数百万貰ってるから、別にいいか。)じゃ、明日からちゃんと来てね。素体の持ち逃げは厳禁だよ。」
部屋を出る二人の後ろ姿を見届けた店長は、AIの移転に利用したノートパソコンやコードを纏めて定位置に片付け始める。
それが済むと殆ど同時に白いワンピースを着た金髪の女性が入ってきた。
彼女が持つ手掛け鞄には様々な種類の食材が入っており、直ぐに食材を入れられるように鞄を冷蔵庫の手前に置く。
「ただいま帰りました、店長。」
「お帰り。どう? 素体の具合は。」
「問題はありません。今でも夢みたいです、人と肩を並べて歩ける日が来るなんて。」
「はしゃぐのは構わないけどはしゃぎ過ぎて素体を壊さないようにね。そうだ、ジブリール、誰かとすれ違わなかった?」
「え? …いえ、そんな事は。誰か来ていたのですか?」
「それならいいんだ。向こうは君の事を知らないから驚くかもしれないと思ってさ。」
「あ、その人って、ストラーフ型のマスターですね。」
「そうだけど、やっぱりすれ違った?」
「ストラーフ型の素体が無くなっているのでテストに協力してくれている人なんだな、って思いついただけですよ。」
「ああ、成程。」
ジブリールと呼ばれた金髪の女性、人間サイズのアーンヴァル型神姫はそう言って笑った。
…。
…。
…。
テスト開始一日目、黒野白太が久方振りに歩いて帰路に着きマンションの部屋にまで帰ってくると見知らぬ女性がワイパーで床を拭いていた。警察を呼ぼうかと考え携帯電話を取り出したがそこでそう言えばと人間サイズになったイシュタルが先に帰っていた事を思い出す。
「…ただいま、って言えばいいのかな。」
「言えばいいだろう。何故戸惑っているんだ?」
「いや、帰ってきたら家に人が居るって、今まで無かったから。」
「今まで私が居ただろうに。」
「うん、そうだったね。…それでも僕は人が欲しかった。」
最後の辺りは囁きのような小さな声で呟いて靴を脱いで玄関から上がった黒野白太は鞄を下ろし何となくイシュタルの挙動を眺める。人間サイズとなったイシュタルは黒ジャケット、濃い色のジーンズと普段のボディスーツに比べればラフな格好をしている。「と言うかアレ男物じゃね?」と思った黒野白太であったがでは女性らしい服装とはと問い質されれば閉口するしかないので口に出さないでおいた。
「(それにしても…。)」
椅子に座り新聞紙を手に取って視線を隠すように偽装工作をしながらもイシュタルの臀部を追い掛ける。
床を磨くワイパーと手に合わせて腰を前後上下にさせる度に動く、お尻。
形は良いが小振りであり余計な場所に肉が無いが必要な場所にまで肉が無いので全体的にキュッと引き締まっている。
安産型と言うよりは難産型、が、これはこれで美しいラインを描いているので撫で廻したくなるような見所があり需要があるだろう。
特にクールなイメージが強い神姫であればそういったお尻の形もマッチするかもしれない。
「(良い尻だな、感動的だ。だが無意味だ。)」
少なくとも黒野白太の脳内ではマッチしていたのだが、その結論に達した瞬間に自分の頬を殴りつけた。
歯は食い縛っていたし手は抜いていたのであんまり痛くは無いのだが煩悩を祓うには十分である。
それでも尚、抜け切れぬ執念に苛まれ歯を思い切り食い縛り彼の手に握られている新聞紙の両端が歪んだ形に潰された。
「(あれは神姫だあれは神姫だあれは神姫だあれは神姫だあれは神姫だあれは神姫だあれは神姫だあれは神姫だあれは神姫だあれは神姫だあれは神姫だあれは神姫だあれは神姫だあれは神姫だあれは神姫だあれは神姫だあれは神姫だあれは神姫だあれは神姫だあれは神姫だあれは神姫だあれは神姫だあれは神姫だ。)」
黒野白太は神姫を性的な対象として見る事にちょっとした忌み嫌いを感じていた。
全国の神姫の中には「そういうこと」を目的として造られたものがいて、それに対し熱狂をする人間が居る事は知っている。
そういった連中に対し大きな声で糾弾するつもりはないが内心では見下して嫌悪し出来る限り関わり合わないようにする程度には忌み嫌っていた。
だが今自分がその嫌悪される側を隔てる境界線に立たされた時、滅多に起きない自己嫌悪を感じ懊悩していた。
頭の中で何処からとなく飛んできたアーンヴァル型が良識とモラルを護らせる為に懸命にグランニューレを駆り煩悩と戦っている。
それに対応するようにストラーフ型が飛んできた欲望を解放させる為にコインを増やして訳の分からない怪人を増やしている。
そんな中でストラーフが戦いの最中だというのに黒野白太に語り掛ける(普段から聞いている声なので脳内再生余裕)。
『何故諦める。何を迷う事がある奪い取れ! 今は自分に正直な者が微笑む時代なんだ!』
後半には同意していたが、それでも矢張り神姫を性的な意味で襲うと言うのは躊躇いも迷いも捨て切れなかった。
「おい、マスター。」
「うわ!…あ、何、イシュタル。」
「さっきからどうしたんだ。自分を殴ったり椅子を揺すったり新聞紙をグチャグチャにしたり。」
「いや、最近、主人公とヒロインのキスシーンばっかり見てる気がしてさ。この怒りをどこにぶつけていいのか迷っていた。」
「ふぅん。八つ当たりを咎める気は無いが自己完結出来る程度にな。」
「うん、大丈夫、もう済んだから。」
イシュタルのクールな台詞を聞いたら何だか萎えてきた、とは絶対に言わない。
興奮も落ち着いてきたところでそろそろイシュタルの尻を追い掛けるのを止めにして黒野白太は学校行き用の鞄を手に取り今日出された宿題を確認する。
「それじゃあ僕は自分の部屋で宿題やってるから。」
「ああ。そう言えば、宿題を終わらせた後はどうするつもりだ?」
「え? どうって今日のバトルの反省会…あ、そうか、今日まだバトルしてないや。」
普段であれば宿題を終えるとその日に行った神姫バトルの反省会を行い宿題に費やす以上の時間を費やす。
だが今日は神姫センターに行って直ぐに店長からアルバイトを頼まれそのまま素体を移したのでバトルはしていない。
となると性格の悪さ故に友達が居らず神姫一筋で他に趣味らしい趣味を持っていない黒野白太は時間を潰せる手段が無かった。
かと言って眠るには時間が早過ぎるしネット対戦は出来ないし武器のメンテナンスも今日は使って無いので必要無い。
「仕方が無い。宿題終わらせたら明日の予習でもして時間を潰してるよ。」
「よし。じゃあ手伝おう。」
「え、何で?」
「掃除なら何時でも出来る。それよりもマスターの勉学を補った方が有意義だ。」
「ん、そう。有難う。」
「どういたしまして。」
口先で了承こそしたが実際のところ黒野白太はこの時点ではイシュタルが宿題や予習の役に立つとは思っていなかった。
神姫には初期段階である程度の知識がインストールされているがそれはあくまで必要最低限の社会的常識である。
幾ら稼働期間が長いイシュタルでも社会情勢やスーパーの特売日やいい○ものの明日のゲストは分かっても授業の内容が分かるわけがない。
彼はそう思っていた、少なくとも宿題を始めてから三十分後までは、三十分後にはその意識は覆されていた。
「違う、そこじゃない。x=3y+4はここに代入する。すると計算が出来るようになるだろう。」
「え、あ、本当だ。」
「もう同じミスが三回目だぞ。ちゃんと私の説明を聞いているのか。」
「いや、だってほら、僕は文系脳だから。」
「言い訳をするな言い訳を。理系脳でも文系脳でも逃げていたら一生出来ないぞ。」
「えーと、ごめんなさい。」
「取り合えずで謝るな。これと同じ公式を使った問題をまた作ってくるからそれまでに自分のミスを頭に叩き込んでおけ。」
「わーい、いしゅたるさんはやさしいなー。」
初めの二十分程度は公式や記号の意味が分からず質問してばかりのイシュタルであったが、三十分後には質問される立場へと変貌していた。
黒野白太が解けなかった問題を解くどころかその問題と同じ解き方を使用したまた別の問題を作るまでに成長している。
問題文とは解答者が解ける事を前提として作られている、その製作には公式への正しい理解と知識が必要だ。
ただ数字や記号を撒き散らせばいいというもではない事をたった三十分でそれを理解し黒野白太の家庭教師と化したイシュタル。
「何でイシュタルは数学得意なの?」
「得意と言うか、これは積み将棋みたいなものだろう。数字や記号を入れ替えていけば答えは見える。」
「それに何だか楽しいそうだね。」
「あぁ、楽しい。数学はとても楽しい。」
だがそんな彼女にも苦手な科目はあったようだ。
「羅生門に居た老婆の言葉を聞いた下人が何を思ったか…? そんなこと分かる訳無いだろう。」
「ここ。『下人の心にはある勇気が生まれた。この老婆を捕えた時の勇気とは反対な方向に動こうとする勇気である。』。」
「これが意味するものは?」
「エゴイズムの肯定だね。別の言い方をすれば『死人の髪を抜いている老婆が悪い。だから引剥ぎをする僕は悪くない』。」
「成程、良く分かった。」
現代国語は苦手らしい。
が、黒野白太は文系脳を自称するだけあってそっちは得意らしく、現代国語においては彼が教える立場に居る。
「随分と楽しそうだな、マスター。」
「実際に楽しいからね。こういう話を読んで色々と考えるのって。」
「私にはいまいち理解出来ないんだが…私の数学に対する態度のようなものか。」
「そういう事。」
そんなこんなで二人は協力して問題の意味や公式を理解しつつも読み解き少しづつではあるが確かに知識を深めていく。イシュタルが元の15㎝の素体であったならマスターと神姫の微笑ましいやり取りに見えるだろうが、今の彼女は165cmの人間サイズである。
傍から見れば、仲の良い姉弟の教え合いだとか、もしくは性格の良い家庭教師からの授業とも見えるだろう。実際にその渦中に居る黒野白太は彼女が人間サイズになっている事と相乗してイシュタルが段々とそういう存在のように思えてきた。
「(あぁ、いいなぁ、こういうの。段々と胸が温かくなってきて…)……ソォイ!」
そこで黒野白太はボールペンを自分の右手の甲に突き立てた。
勿論手加減はしたので突き刺さる事は無かったがそれでも肌と触れる表面積が少ない分だけ殴った時よりも鋭い痛みが伝わってくる。鋭い痛みは一瞬であるが彼に湧き上がっていた感情を押し殺すには充分であったようだ。
「(危ない危ない。一瞬本気でイシュタルにときめくところだった。)」
「…どうしたんだマスター、突然。」
「いや、何だか最近、一人の男を巡る女同士の修羅場な話が多い気がして。」
「何だその理由は……。」
「あーあモテる男とか皆死ねばいいのにー☆」
「とうとう狂ったか。」
「いや、ちょっと疲れてきただけだよ。ほら、もうこんな時間だし、お風呂に入って寝よう。」
「む、もうこんな時間なのか。月並みだが楽しい事は時間が過ぎるのが早いな。」
「そうそう。それで、どっちから先に入る?」
「マスターから先に入ってくれ。私は風呂に入るのは初めてだからちょっと時間が掛るかもしれない。」
「普段は専用のクロスで拭くとか綿棒で汚れを取るとかその程度だったからね。分かった、じゃあ、先に入るよ。」
黒野白太はイシュタルから逃げるように浴室へと掛け込む。
「………ふぅ。」
自分しかいない浴室で体を洗うついでに心も入れ替える。
「イシュタルー、空いたよ―。」
「不思議な事だ、神姫である私が風呂に入れる日が来るとはな。」
「別には入らなくてもいいんでしょ?」
「いや、入る。入りたい。」
「そう。じゃあこれ、パジャマ。これを持ってシュバ!」
その場で脱ぎ出したイシュタルにパジャマをその場に投げ捨ててから逃げ出す黒野白太。
彼が彼女の突然のストリップに対しても冷静に対応し的確に戦略的撤退を選んべたのは既に風呂場にて心の平穏を取り戻していたからに他ならない。
付け加え悟りの境地へと至っていた頭脳が次に襲い掛かってくるだろう災難を神からの天啓の如く予知する。
「このままベッドで眠ったら次の朝には眼の前にイシュタルの寝顔が目の前にあって僕の正気値が大変な事になるかもしれない。」
勿論、そんなものは過剰な自意識から来るただの被害妄想でしかないのかもしれない。
だが逆に言えば零ではない可能性で起こり得る出来事でありそれが事前に対策出来るものであれば。
例えどんな小さな可能性であっても見逃さず徹底的に叩き潰す、それが勝利を求めてきた黒野白太の信じるものの一つであった。
「とりあえずイシュタルが上がるのを待つか。それでどっちかがベッドを使って、どっちかが布団を使えばいい。」
待ち続けパジャマを着た彼女と話し合い、黒野白太はベッドに、イシュタルは布団で眠る事になった。
これで自分は起きて直ぐに彼女の寝顔を見て欲情する事も無く心の平穏と人としての尊厳を守る事が出来る。そう思っていた黒野白太であったが、既に自分がイシュタルを神姫ではなく人として捉えている事実には気付いていない。
「うん、そう。アルバイトだと思ってちょっと頼まれてくれないかな。」
新しい武装を買いに最寄りの神姫センターに訪れていた黒野白太とイシュタルは小泉一郎こと店長に声を掛けられた。
頼みたい事があるとの事。それ自体は特に珍しい事ではなく二人に今までに何度か新しく入荷した武装のテストを任されていた。
ちゃんとした契約こそ交わさなかったが決して少なくは無いお小遣いが貰えたので当初はその類だと黒野白太は思っていた。
「内容にも依りますけど、何なんですか? また新しい神姫や武器で神姫バトルをすればいいんですか?」
「頼みたいのはバトルじゃないよ。君には観察を…率直に言えばイシュタルにはある素体のテストをして欲しいんだ。」
「私にか?」
イシュタルが反応する。イシュタルも黒野白太も店長の要件が今一つよく分からなかった。
ここは神姫センターだからストラーフMk.2型の神姫は星の数程居る。
確かにイシュタルは少し市販の神姫とは逸脱しているところがあるがそれは店長も知っているし充分に調査させたはずだ。
となると記憶だろうか。八年間で培われた記憶は新たなAI開発に役立つかもしれない。そう結論付けるより先に店長が答える。
「白太君とイシュタルは神姫にも人間サイズの素体がある事は知ってる?」
「知ってますよ。心を持ったダッチワイフですよね。」
「一概に目的が性欲処理とは限らないのだけど、まぁ大体合ってる。」
「で、それがどうしたんですか?」
「アーンヴァルとストラーフ、二体の神姫の人間サイズの素体の製作を依頼されてね。ストラーフの方の試験運転を頼みたい。」
「人間サイズの神姫の製作や所持や売買って犯罪ですよね?」
「神姫をダッチワイフだと勘違いしている輩だったら一蹴してたんだけどね―。僕個人への依頼だったから断り切れなくて。」
「「…。」」
黒野白太もイシュタルも店長とは八年以上の付き合いではあるが彼がどこまでの人物であるかは知らない。
十万馬力の機械少年に憧れ何時か自分の手で造る為にロボット工学科に進みMMS学科を専攻し神姫センターに就職した。
それだけの詰まらない人生送ってきたよと本人の口から聞かされているのだが瓶底眼鏡は一体何を見てきたのかは知らない。
だから偶に法律や良識よりも自分の矜持や我欲を優先させる様な発言をしてもそれは特に奇妙な事では無いのだ。
そういう者達に対しては適当に話を合わせ自分達が不利益を被りそうなら逃げるのが吉であると黒野白太は考えている。
「イシュタルには家事をしてもらって動作に不具合が無いかをチェックして欲しいだけだよ。」
「あ、成程、神姫を性欲処理の捌け口にじゃなくて家事を行わせるメイドにしたいんですね、製作の依頼主は。」
「そういう事。イシュタルは日常的に白太君の家事を手伝ってるんだから動作を確認をさせるには持って来いだと思ってね。」
「ついでに言えば私達は秘密を共有し易い間柄だしな。それで、期間や報酬の給料は?」
「期間は三泊四日。報酬は、そうだね、一日二万円として、八万円でどうだろう。」
「随分と気前がいいんですね。」
「やってる事は治験と大差無いからね。しかも非合法。」
「なら一日四万として十六万下さい。倍プッシュです。」
「三万。」
「三万九千。」
「千円ずつ削るんじゃない。三万二千。」
「三万八千九百。」
「百円単位で削るんじゃない。三万四千!」
「僕は神姫以外に趣味無いんですから奮発してくれてもいいじゃないですか。三万八千。」
「…三万八千。」
「成立ですね。それで僕は具体的に何をすればいいんですか?」
「白太君は特にする事は無いよ。イシュタルを連れて帰っても構わない。彼女が毎日ここに来て検査を受けてくれるだけでいい。」
「え、それ大丈夫ですか? 人間サイズの神姫だってバレたらまずいんじゃ…。」
「人間サイズの神姫なんて日常的に見られるものじゃないから大丈夫だよ。問い詰められてもコスプレだって言えばバレない。」
「なんか凄くいい加減な気が…分かりました、それでアルバイトは何時からですか?」
「今日から。」
「え?」
「もう素体は出来上げってるんだよ。今日白太君が来なかったら電話掛けるつもりだった。」
「CSCとかは大丈夫なんですか?」
「問題無し。ここで移し替えは不味いから僕の部屋に行こうか。」
「店長の部屋に行くのは久し振りですね。」
店長は神姫センターの一部に自分の部屋を作ってそこに住んでいた。
個人経営の店なら兎も角チェーンストアである神姫センターの一部を作り変えるのは問題であるはずだが何故かお咎めが無い。
これもまた長い間付き合っておきながらも黒野白太とイシュタルが知らない彼の謎の一つである。
だがこれもまた真面目に問い詰めても不真面目に逸らされるだろうし切羽詰まった問題でも無いので特に気にしてはいない。
彼が住む部屋は一階業務員通路の突き当たりから右に曲がったところにある。
店長は腰のポケットから鍵を取り出してドアを開けた。店長は独り暮らしだというのに部屋は2Kと広く電気もガスも水道もネットもクーラーも完備。物が散らかっていないので部屋に入った黒野白太とイシュタルは部屋の隅で三角座りをしている水色の髪の女性が真っ先に目に入った。
「店長、あれが…。」
「うん、あれが人間サイズのストラーフ型神姫だ。イシュタルには今日を含めた四日間、あの素体で過ごしてもらう。」
「人間サイズの同型というのは初めて見るが感動するな。良い意味でも悪い意味でも。」
「さーて今センターの業務をほったらかしているんだしちゃっちゃとやっちゃうよ。イシュタル、そこのクレイドルで電源落として。」
「分かった。ではな、マスター。」
「店長、僕は何をしてればいいですか。」
「白太君は特にする事は…あ、そうだ、そこにあるタンスの上から三段目辺りに試験中にイシュタルが着る服が入ってあるから持ち帰ってよ。」
「服も店長が作ったんですか?」
「そこまで僕はマルチな人間じゃないよ。○ニクロで適当に見繕ってきだけ。終わったら親戚の子に上げる予定。」
「し○むらじゃないんですね。」
黒野白太は指摘されたタンスの段から洋服を取り出して鞄に詰め込んでいく。手慣れた様子で綺麗に畳まれた状態を崩さずに洋服を詰め込んでいくと段の隅に女性物の下着が見えてしまったので意識的に手を止めた。
「店長、下着も買ったんですか。」
「そこはあまり触れないでくれ。思い出したくないから。」
「ちなみにバストのサイズは?」
「アーンヴァルがC、ストラーフがB。依頼主はB~D辺りの程良いサイズがお好みらしい。」
「作者の趣味じゃないですか、それ。」
下着も鞄に詰め込んでいく黒野白太。途中、鞄に入り切れなかった分は店長かビニール袋を借りてそちらに詰め直した。
店長は作業しながら応答していたようだ、左手に工具を持ちアナログ的に右手にはノートパソコンを持ちデジタル的に分解と再構築を行っている。一人で二つの同時進行作業に黒野白太は驚きつつも自分は何が出来るかを考えながらイシュタルを見守る。店長が凄いと言うのは分かるが、凄過ぎて蚊帳の外な自分は何をすべきかが分からない。いっそのこと何もしない方がいいのかもしれない。
「よし、終わり。」
「もう終わったんですか?」
「まぁ両手を使ったからね。何時もの半分の時間で済む。」
「ちょっと意味が分からない…。」
「じゃあイシュタルを起動させるよ。」
「んん…。」
それまで三角座りをしていた女性が目覚ます。
人間サイズの素体へと移し替えられたイシュタルは前に組んでいた両手を解き顔を上げてぼんやりとした眼差しを持ち上げた。
しばらくして目に映る景色を頭の中で処理出来たのか明確に目を開き片手を床につけてゆっくりと立ち上がった。
人間サイズとなったイシュタルに黒野白太は顔にこそ出さなかったが内心では驚いていた。
「…あの、えっと、イシュタル…なんですか?」
「私に敬語を使うな。気持ち悪い。」
「人間サイズになった気分はどう?」
「不可思議だ。普段からマスターの肩に乗っていたから人間の視線というものよく知っているつもりだったが。」
「特に問題は無い様だね。とりあえず第一関門はクリアだ。」
「…今のイシュタル、僕より身長高い。」←158cm
「それも作者…じゃなかった、依頼主の趣味。」←173cm
物理的にマスターを見下すと言うのはいいものだな。」←165cm
「黒野白太です。神姫がSです。黒野白太です。」
「また懐かしいネタを…。」
両手を強く握りしめ俯きながらも悲壮感たっぷりに小言を漏らす。
そんな黒野白太に店長は元々のイシュタルの素体であり今は眠るように瞳を閉じている普通の神姫を手渡した。
「じゃあ、今日からテスト開始だから。イシュタルには明日から今と同じくらいの時間にここにきて検査を受けて欲しい。」
「そして三日後に返却と。その時はマスターを同伴させるかアスタロトを持って行った方がいいな。」
「その素体は人間に代わり家事を行う事を目的として設計した。防水性は完璧だ。錆びないし内部がショートする事も無い。湯船にだって浸かれる。」
「文明の利器はついに長年の天敵である水を克服したのですか…。」
「重たいものも持てるようにパワーもかなり高めに設定した。腕力は平均的な成人男性よりも強くしてある。」
「ほう。」
そう言って片手で逆立ちを始め、さらにそこから指先一つで立ちその状態で腕立て伏せを始めるイシュタル。
丁度五回ほど体全体を上下させた後で指先で跳ね上がり空中で前転、両足を床へと着地させる。
「いつもイシュタルがしてた事だけど…人間サイズになると、とんでもない化け物に見えるね…。」
「普段よりも少し体全体が動かし辛いが全てが人間の基準になっているんだ、パワーアップしていると捕えるべきだな。」
「で、イシュタルにやって欲しいのは料理、洗濯、掃除の三つ。サボってもいいけど検査の際にメモリを見せてもらうから隠せるとは思わないでね。」
「素体の洗浄は? 風呂に入ればいいのか?」
「テストが終わったら改めて洗浄するから、その辺りは自由にしてくれていいよ。でも君達の過失で故障した場合はその部分のパーツの代金だけ給料から差し引きする。」
「まぁ、妥当だね。」
話が纏まり掛けてきたその時、ふいに店長が思い出したかのようにわざとらしく発言を翻した。
「あ、そうそう、言い忘れてた。その素体にはまた別の機能があるんだよ。」
「別の機能? ロケットパンチとか天を突くドリルとか暴走形態とか輝くトラペゾヘドロンとかですか?」
「そんな凄いものじゃないよ。簡単に言えば人間の性欲の捌け口になる程度の機能。」
「…うわー、すごーい。」
黒野白太、どんびき。
「先に言っておくけど僕の趣味じゃないから。依頼主からそういうものを付けるように特に念入りに言われているのさ。」
「料理に掃除に洗濯に…ついでに夜のお勤めもこなす、と。」
「そういう事。この機能はテストしなくてもいいけど使ってもいいよ。」
「いやいや、使いませんって。」
「え、使わないの?」
「何でそこでそんな顔をするんですか。流石の僕でも神姫がデビルトリガー卒業の相手とか嫌ですよ。」
「年取るとその辺りどーでもよくなるよ? 女性物の下着にさえ「止めて下さい。哀しくなります。」
哀しき男の運命を青き若草が遮る。
下世話な話に慣れているのかそれを聞くイシュタルは動じない。
「兎に角、だ。別に白太君がイシュタルを使おうとも僕は君を咎めない。そこは覚えていて。」
「何を企んでいるかは知りませんけど絶対に使いません。」
「うん、じゃあ僕はセンターに戻るけど、君達はどうする? このまま家に帰るかい?」
「そうですね。四日で予算が増えるんですし新しい武装を買うのは後にします。じゃあ帰ろうか、イシュタル。」
「分かった。だがどうするんだ。自転車は一つしかないだろう。」
「あ、そうか。僕かイシュタルのどっちかが歩いて帰らなくちゃいけないね。店長、この素体って自転車は使えるんですか?」
「使えるよ。人間用の二輪や四輪の自動車、ぶっちゃけ戦車や飛行機や戦闘機だって操縦出来る。」
「じゃあイシュタルが自転車を使いなよ。僕は歩いて帰るから。」
「二人乗りは駄目なのか。」
「駄目。警察に、特にバッカスに目を付けられるのは嫌だから。」
「成程、では先に帰って簡単な掃除でもしていよう。ではな、店長。また明日。」
「一日三万八千円だという事を忘れないでくださいね。さようなら~。」
「(…まぁ、製作費で数百万貰ってるから、別にいいか。)じゃ、明日からちゃんと来てね。素体の持ち逃げは厳禁だよ。」
部屋を出る二人の後ろ姿を見届けた店長は、AIの移転に利用したノートパソコンやコードを纏めて定位置に片付け始める。
それが済むと殆ど同時に白いワンピースを着た金髪の女性が入ってきた。
彼女が持つ手掛け鞄には様々な種類の食材が入っており、直ぐに食材を入れられるように鞄を冷蔵庫の手前に置く。
「ただいま帰りました、店長。」
「お帰り。どう? 素体の具合は。」
「問題はありません。今でも夢みたいです、人と肩を並べて歩ける日が来るなんて。」
「はしゃぐのは構わないけどはしゃぎ過ぎて素体を壊さないようにね。そうだ、ジブリール、誰かとすれ違わなかった?」
「え? …いえ、そんな事は。誰か来ていたのですか?」
「それならいいんだ。向こうは君の事を知らないから驚くかもしれないと思ってさ。」
「あ、その人って、ストラーフ型のマスターですね。」
「そうだけど、やっぱりすれ違った?」
「ストラーフ型の素体が無くなっているのでテストに協力してくれている人なんだな、って思いついただけですよ。」
「ああ、成程。」
ジブリールと呼ばれた金髪の女性、人間サイズのアーンヴァル型神姫はそう言って笑った。
…。
…。
…。
テスト開始一日目、黒野白太が久方振りに歩いて帰路に着きマンションの部屋にまで帰ってくると見知らぬ女性がワイパーで床を拭いていた。警察を呼ぼうかと考え携帯電話を取り出したがそこでそう言えばと人間サイズになったイシュタルが先に帰っていた事を思い出す。
「…ただいま、って言えばいいのかな。」
「言えばいいだろう。何故戸惑っているんだ?」
「いや、帰ってきたら家に人が居るって、今まで無かったから。」
「今まで私が居ただろうに。」
「うん、そうだったね。…それでも僕は人が欲しかった。」
最後の辺りは囁きのような小さな声で呟いて靴を脱いで玄関から上がった黒野白太は鞄を下ろし何となくイシュタルの挙動を眺める。人間サイズとなったイシュタルは黒ジャケット、濃い色のジーンズと普段のボディスーツに比べればラフな格好をしている。「と言うかアレ男物じゃね?」と思った黒野白太であったがでは女性らしい服装とはと問い質されれば閉口するしかないので口に出さないでおいた。
「(それにしても…。)」
椅子に座り新聞紙を手に取って視線を隠すように偽装工作をしながらもイシュタルの臀部を追い掛ける。
床を磨くワイパーと手に合わせて腰を前後上下にさせる度に動く、お尻。
形は良いが小振りであり余計な場所に肉が無いが必要な場所にまで肉が無いので全体的にキュッと引き締まっている。
安産型と言うよりは難産型、が、これはこれで美しいラインを描いているので撫で廻したくなるような見所があり需要があるだろう。
特にクールなイメージが強い神姫であればそういったお尻の形もマッチするかもしれない。
「(良い尻だな、感動的だ。だが無意味だ。)」
少なくとも黒野白太の脳内ではマッチしていたのだが、その結論に達した瞬間に自分の頬を殴りつけた。
歯は食い縛っていたし手は抜いていたのであんまり痛くは無いのだが煩悩を祓うには十分である。
それでも尚、抜け切れぬ執念に苛まれ歯を思い切り食い縛り彼の手に握られている新聞紙の両端が歪んだ形に潰された。
「(あれは神姫だあれは神姫だあれは神姫だあれは神姫だあれは神姫だあれは神姫だあれは神姫だあれは神姫だあれは神姫だあれは神姫だあれは神姫だあれは神姫だあれは神姫だあれは神姫だあれは神姫だあれは神姫だあれは神姫だあれは神姫だあれは神姫だあれは神姫だあれは神姫だあれは神姫だあれは神姫だ。)」
黒野白太は神姫を性的な対象として見る事にちょっとした忌み嫌いを感じていた。
全国の神姫の中には「そういうこと」を目的として造られたものがいて、それに対し熱狂をする人間が居る事は知っている。
そういった連中に対し大きな声で糾弾するつもりはないが内心では見下して嫌悪し出来る限り関わり合わないようにする程度には忌み嫌っていた。
だが今自分がその嫌悪される側を隔てる境界線に立たされた時、滅多に起きない自己嫌悪を感じ懊悩していた。
頭の中で何処からとなく飛んできたアーンヴァル型が良識とモラルを護らせる為に懸命にグランニューレを駆り煩悩と戦っている。
それに対応するようにストラーフ型が飛んできた欲望を解放させる為にコインを増やして訳の分からない怪人を増やしている。
そんな中でストラーフが戦いの最中だというのに黒野白太に語り掛ける(普段から聞いている声なので脳内再生余裕)。
『何故諦める。何を迷う事がある奪い取れ! 今は自分に正直な者が微笑む時代なんだ!』
後半には同意していたが、それでも矢張り神姫を性的な意味で襲うと言うのは躊躇いも迷いも捨て切れなかった。
「おい、マスター。」
「うわ!…あ、何、イシュタル。」
「さっきからどうしたんだ。自分を殴ったり椅子を揺すったり新聞紙をグチャグチャにしたり。」
「いや、最近、主人公とヒロインのキスシーンばっかり見てる気がしてさ。この怒りをどこにぶつけていいのか迷っていた。」
「ふぅん。八つ当たりを咎める気は無いが自己完結出来る程度にな。」
「うん、大丈夫、もう済んだから。」
イシュタルのクールな台詞を聞いたら何だか萎えてきた、とは絶対に言わない。
興奮も落ち着いてきたところでそろそろイシュタルの尻を追い掛けるのを止めにして黒野白太は学校行き用の鞄を手に取り今日出された宿題を確認する。
「それじゃあ僕は自分の部屋で宿題やってるから。」
「ああ。そう言えば、宿題を終わらせた後はどうするつもりだ?」
「え? どうって今日のバトルの反省会…あ、そうか、今日まだバトルしてないや。」
普段であれば宿題を終えるとその日に行った神姫バトルの反省会を行い宿題に費やす以上の時間を費やす。
だが今日は神姫センターに行って直ぐに店長からアルバイトを頼まれそのまま素体を移したのでバトルはしていない。
となると性格の悪さ故に友達が居らず神姫一筋で他に趣味らしい趣味を持っていない黒野白太は時間を潰せる手段が無かった。
かと言って眠るには時間が早過ぎるしネット対戦は出来ないし武器のメンテナンスも今日は使って無いので必要無い。
「仕方が無い。宿題終わらせたら明日の予習でもして時間を潰してるよ。」
「よし。じゃあ手伝おう。」
「え、何で?」
「掃除なら何時でも出来る。それよりもマスターの勉学を補った方が有意義だ。」
「ん、そう。有難う。」
「どういたしまして。」
口先で了承こそしたが実際のところ黒野白太はこの時点ではイシュタルが宿題や予習の役に立つとは思っていなかった。
神姫には初期段階である程度の知識がインストールされているがそれはあくまで必要最低限の社会的常識である。
幾ら稼働期間が長いイシュタルでも社会情勢やスーパーの特売日やいい○ものの明日のゲストは分かっても授業の内容が分かるわけがない。
彼はそう思っていた、少なくとも宿題を始めてから三十分後までは、三十分後にはその意識は覆されていた。
「違う、そこじゃない。x=3y+4はここに代入する。すると計算が出来るようになるだろう。」
「え、あ、本当だ。」
「もう同じミスが三回目だぞ。ちゃんと私の説明を聞いているのか。」
「いや、だってほら、僕は文系脳だから。」
「言い訳をするな言い訳を。理系脳でも文系脳でも逃げていたら一生出来ないぞ。」
「えーと、ごめんなさい。」
「取り合えずで謝るな。これと同じ公式を使った問題をまた作ってくるからそれまでに自分のミスを頭に叩き込んでおけ。」
「わーい、いしゅたるさんはやさしいなー。」
初めの二十分程度は公式や記号の意味が分からず質問してばかりのイシュタルであったが、三十分後には質問される立場へと変貌していた。
黒野白太が解けなかった問題を解くどころかその問題と同じ解き方を使用したまた別の問題を作るまでに成長している。
問題文とは解答者が解ける事を前提として作られている、その製作には公式への正しい理解と知識が必要だ。
ただ数字や記号を撒き散らせばいいというもではない事をたった三十分でそれを理解し黒野白太の家庭教師と化したイシュタル。
「何でイシュタルは数学得意なの?」
「得意と言うか、これは積み将棋みたいなものだろう。数字や記号を入れ替えていけば答えは見える。」
「それに何だか楽しいそうだね。」
「あぁ、楽しい。数学はとても楽しい。」
だがそんな彼女にも苦手な科目はあったようだ。
「羅生門に居た老婆の言葉を聞いた下人が何を思ったか…? そんなこと分かる訳無いだろう。」
「ここ。『下人の心にはある勇気が生まれた。この老婆を捕えた時の勇気とは反対な方向に動こうとする勇気である。』。」
「これが意味するものは?」
「エゴイズムの肯定だね。別の言い方をすれば『死人の髪を抜いている老婆が悪い。だから引剥ぎをする僕は悪くない』。」
「成程、良く分かった。」
現代国語は苦手らしい。
が、黒野白太は文系脳を自称するだけあってそっちは得意らしく、現代国語においては彼が教える立場に居る。
「随分と楽しそうだな、マスター。」
「実際に楽しいからね。こういう話を読んで色々と考えるのって。」
「私にはいまいち理解出来ないんだが…私の数学に対する態度のようなものか。」
「そういう事。」
そんなこんなで二人は協力して問題の意味や公式を理解しつつも読み解き少しづつではあるが確かに知識を深めていく。イシュタルが元の15㎝の素体であったならマスターと神姫の微笑ましいやり取りに見えるだろうが、今の彼女は165cmの人間サイズである。
傍から見れば、仲の良い姉弟の教え合いだとか、もしくは性格の良い家庭教師からの授業とも見えるだろう。実際にその渦中に居る黒野白太は彼女が人間サイズになっている事と相乗してイシュタルが段々とそういう存在のように思えてきた。
「(あぁ、いいなぁ、こういうの。段々と胸が温かくなってきて…)……ソォイ!」
そこで黒野白太はボールペンを自分の右手の甲に突き立てた。
勿論手加減はしたので突き刺さる事は無かったがそれでも肌と触れる表面積が少ない分だけ殴った時よりも鋭い痛みが伝わってくる。鋭い痛みは一瞬であるが彼に湧き上がっていた感情を押し殺すには充分であったようだ。
「(危ない危ない。一瞬本気でイシュタルにときめくところだった。)」
「…どうしたんだマスター、突然。」
「いや、何だか最近、一人の男を巡る女同士の修羅場な話が多い気がして。」
「何だその理由は……。」
「あーあモテる男とか皆死ねばいいのにー☆」
「とうとう狂ったか。」
「いや、ちょっと疲れてきただけだよ。ほら、もうこんな時間だし、お風呂に入って寝よう。」
「む、もうこんな時間なのか。月並みだが楽しい事は時間が過ぎるのが早いな。」
「そうそう。それで、どっちから先に入る?」
「マスターから先に入ってくれ。私は風呂に入るのは初めてだからちょっと時間が掛るかもしれない。」
「普段は専用のクロスで拭くとか綿棒で汚れを取るとかその程度だったからね。分かった、じゃあ、先に入るよ。」
黒野白太はイシュタルから逃げるように浴室へと掛け込む。
「………ふぅ。」
自分しかいない浴室で体を洗うついでに心も入れ替える。
「イシュタルー、空いたよ―。」
「不思議な事だ、神姫である私が風呂に入れる日が来るとはな。」
「別には入らなくてもいいんでしょ?」
「いや、入る。入りたい。」
「そう。じゃあこれ、パジャマ。これを持ってシュバ!」
その場で脱ぎ出したイシュタルにパジャマをその場に投げ捨ててから逃げ出す黒野白太。
彼が彼女の突然のストリップに対しても冷静に対応し的確に戦略的撤退を選んべたのは既に風呂場にて心の平穏を取り戻していたからに他ならない。
付け加え悟りの境地へと至っていた頭脳が次に襲い掛かってくるだろう災難を神からの天啓の如く予知する。
「このままベッドで眠ったら次の朝には眼の前にイシュタルの寝顔が目の前にあって僕の正気値が大変な事になるかもしれない。」
勿論、そんなものは過剰な自意識から来るただの被害妄想でしかないのかもしれない。
だが逆に言えば零ではない可能性で起こり得る出来事でありそれが事前に対策出来るものであれば。
例えどんな小さな可能性であっても見逃さず徹底的に叩き潰す、それが勝利を求めてきた黒野白太の信じるものの一つであった。
「とりあえずイシュタルが上がるのを待つか。それでどっちかがベッドを使って、どっちかが布団を使えばいい。」
待ち続けパジャマを着た彼女と話し合い、黒野白太はベッドに、イシュタルは布団で眠る事になった。
これで自分は起きて直ぐに彼女の寝顔を見て欲情する事も無く心の平穏と人としての尊厳を守る事が出来る。そう思っていた黒野白太であったが、既に自分がイシュタルを神姫ではなく人として捉えている事実には気付いていない。