2ページ目『猫、襲来』
薄壁一枚の向こう側で、鉄子が弧域にマンツーマンで授業してもらっていることを思うと、さっきまでの逆ギレ(自分が悪いことは重々承知している)の勢いはみるみるうちに萎んでいった。
ゴワゴワした肌触りの枕に頭を預けて横を向くと、机の隅に置かれた武装神姫、悪魔型ストラーフが目に入った。お手製の学ランを着こなしスラリと立つその姿は普段なら見ていて飽きることはないが、今はそんな気分にはなれなかった。ストラーフの隣に並んだ大小様々色とりどりの教科書が、嫌でも目に入ってしまうからだ。
嫌なこと、理解できないことから目を背け続けても、姫乃を叱る者は誰もいない――いや、いなかったのはつい数分前までのことだった。
大多数の大学生が頭を悩ませることの一つ、就職活動。研究者になる、ニートになるなどの一部を除き、学生は学業の合間にその準備を進めなければならない。しかし姫乃は専ら永久就職後のことを気にしていた。贅沢を最大の敵としたシビアな家計簿。子供の成長を見守る多忙ながらも暖かな家庭。その中には共働きをすることも含まれていた。前提である内定入手のことは、一切考慮されずに。
(将来のための勉強って言われても、分からないよ)
永久就職の前にすべきことを具体的に考えていなかった姫乃である。その絶大なコネで採用されるはずだった就職先に「勉強しない人は嫌だ」と拒絶され、愛すべき同レベルの友にも「や、勉強せんとガチでヤバいし」と突き放され、途方に暮れるしかなかった。
(私だって、留年したくない……みんなと卒業したい)
素直に謝りに行けば1分とかからず元の輪の中に入れる、そのことが増々、意地っ張りな姫乃を凍えさせた。毛布にくるまってもなお、冷気が身に染みる。
「……寒すぎ」
気持ちの寂しさなど超えて、いくらなんでも寒すぎることにようやく気付いた姫乃だった。築数十年のボロアパートとはいえ、室内には隙間風と呼ぶには強すぎる冷風が流れこんでいた。一際強い風がベランダの窓から侵入してきて、カーテンが大きくはためいた。
一人暮らしであるにもかかわらず、気づかない間に開いていた窓。それが何を意味するのかを想像して、姫乃の体は竦んでしまった。
(やだ、誰かいる!?)
大きな声を出せばすぐに弧域が飛んできてくれることにすら気が回らず、狸寝入りを続けることしかできない姫乃は、泣きそうになるのを辛うじて堪えた。早鐘を打つ心音すら侵入者に聞かれそうだと恐れ、じっと息を潜めた。
胸が詰まり、その苦しさがかつて負った心の傷を抉るように開いた。弧域と出会ってから決別したとばかり思っていた悪夢に心臓を鷲掴みされるようだった。不意にどこからか、カチカチカチカチ、と小刻みな音がした。
(な、何の音!? 静かにしてよっ……!)
それが自分の歯が鳴っている音であることにすら気づけず、姫乃はその音が侵入者に聞こえないことを祈った。
窓のほうを覗き見ることもできず、風が流れる音とカーテンが揺れる音に混じった音を拾った。複数の侵入者の声、そして……ピコンピコンというレトロチックな電子音。
「レーダーの反応が強い――ここで間違いなさそうにゃ」
不当に侵入したというのに微塵も悪びれることなく窓際に立つ、身長15cm程度の人形。この後、その小さな姿を見た姫乃は、もう少し勇気を持とうと決意するのだった。
ゴワゴワした肌触りの枕に頭を預けて横を向くと、机の隅に置かれた武装神姫、悪魔型ストラーフが目に入った。お手製の学ランを着こなしスラリと立つその姿は普段なら見ていて飽きることはないが、今はそんな気分にはなれなかった。ストラーフの隣に並んだ大小様々色とりどりの教科書が、嫌でも目に入ってしまうからだ。
嫌なこと、理解できないことから目を背け続けても、姫乃を叱る者は誰もいない――いや、いなかったのはつい数分前までのことだった。
大多数の大学生が頭を悩ませることの一つ、就職活動。研究者になる、ニートになるなどの一部を除き、学生は学業の合間にその準備を進めなければならない。しかし姫乃は専ら永久就職後のことを気にしていた。贅沢を最大の敵としたシビアな家計簿。子供の成長を見守る多忙ながらも暖かな家庭。その中には共働きをすることも含まれていた。前提である内定入手のことは、一切考慮されずに。
(将来のための勉強って言われても、分からないよ)
永久就職の前にすべきことを具体的に考えていなかった姫乃である。その絶大なコネで採用されるはずだった就職先に「勉強しない人は嫌だ」と拒絶され、愛すべき同レベルの友にも「や、勉強せんとガチでヤバいし」と突き放され、途方に暮れるしかなかった。
(私だって、留年したくない……みんなと卒業したい)
素直に謝りに行けば1分とかからず元の輪の中に入れる、そのことが増々、意地っ張りな姫乃を凍えさせた。毛布にくるまってもなお、冷気が身に染みる。
「……寒すぎ」
気持ちの寂しさなど超えて、いくらなんでも寒すぎることにようやく気付いた姫乃だった。築数十年のボロアパートとはいえ、室内には隙間風と呼ぶには強すぎる冷風が流れこんでいた。一際強い風がベランダの窓から侵入してきて、カーテンが大きくはためいた。
一人暮らしであるにもかかわらず、気づかない間に開いていた窓。それが何を意味するのかを想像して、姫乃の体は竦んでしまった。
(やだ、誰かいる!?)
大きな声を出せばすぐに弧域が飛んできてくれることにすら気が回らず、狸寝入りを続けることしかできない姫乃は、泣きそうになるのを辛うじて堪えた。早鐘を打つ心音すら侵入者に聞かれそうだと恐れ、じっと息を潜めた。
胸が詰まり、その苦しさがかつて負った心の傷を抉るように開いた。弧域と出会ってから決別したとばかり思っていた悪夢に心臓を鷲掴みされるようだった。不意にどこからか、カチカチカチカチ、と小刻みな音がした。
(な、何の音!? 静かにしてよっ……!)
それが自分の歯が鳴っている音であることにすら気づけず、姫乃はその音が侵入者に聞こえないことを祈った。
窓のほうを覗き見ることもできず、風が流れる音とカーテンが揺れる音に混じった音を拾った。複数の侵入者の声、そして……ピコンピコンというレトロチックな電子音。
「レーダーの反応が強い――ここで間違いなさそうにゃ」
不当に侵入したというのに微塵も悪びれることなく窓際に立つ、身長15cm程度の人形。この後、その小さな姿を見た姫乃は、もう少し勇気を持とうと決意するのだった。
■キャラ紹介(2) ホムラ
【 1/2 】
かつて、テレビコマーシャルの中で動くマオチャオに心を奪われた一人の男子高校生がいた。
裕福な家柄だったことが幸いし、彼は発売日に5体のマオチャオを手にすることができた。冷ややかな妹の視線などまるで意に介さず、数時間かけて名前を決めた愛らしいマオチャオ達に囲まれた彼は、これまでにない幸福感を味わった。
かつて、テレビコマーシャルの中で動くマオチャオに心を奪われた一人の男子高校生がいた。
裕福な家柄だったことが幸いし、彼は発売日に5体のマオチャオを手にすることができた。冷ややかな妹の視線などまるで意に介さず、数時間かけて名前を決めた愛らしいマオチャオ達に囲まれた彼は、これまでにない幸福感を味わった。
目覚めさせた順番に長女、次女、三女、四女、五女として、彼はマオチャオ達が自由気ままに過ごすのを見守った。時間が経つにつれてそれぞれの個性が出来上がっていく様子は彼にとって驚くべき、そして喜ぶべき発見だった。次々と彼に新たな喜びを提供していく彼女らとの生活には、しかし、時間的な限りがあった。高校生である以上、何よりも学業が優先されてしまう。
だから彼の取った行動は至極単純で、当然のものだった。一日毎に一体ずつ、学校の鞄に忍ばせることにしたのだ。少しでも長い時間を、マオチャオ達と過ごしたい。そんな純粋な想いが、結果的に彼を破滅させるとは知らずに。
だから彼の取った行動は至極単純で、当然のものだった。一日毎に一体ずつ、学校の鞄に忍ばせることにしたのだ。少しでも長い時間を、マオチャオ達と過ごしたい。そんな純粋な想いが、結果的に彼を破滅させるとは知らずに。
比較的大人しく聞き分けの良い長女を月曜日に、次の日は次女……というローテーションの一周目は、彼の想像に反して何事もなく過ぎていった。鞄の中に隠れたマオチャオ達は皆、ほとんどの時間を眠って過ごしていたからだ。
しかし二週目の月曜日、我慢の限界を迎えたのはマオチャオではなく、彼自身だった。
弓道部内ではその日、思い思いに着飾らせたホイホイさんの自慢大会が開かれていた。武装神姫とは一桁以上値段が安いホイホイさんは部内でのブームになっていて、高価な神姫を持っていたのは彼一人だけだった。
最初は遠巻きにその自慢大会の輪を見守っていただけだったが、手作りのドレスを着たホイホイさんや、ゴテゴテに武装されたホイホイさんを見ていると、彼は無意識のうちに、鞄から長女を出していた。
「よいのですにゃ? わたくしたちの存在はわたくしたちだけの秘密では……」
長女の諫言に耳を貸さず、その日【たまたま持っていた武装】を長女に装備させた彼は、ホイホイさんの輪の中に長女を投入した。
ホイホイさんと比較して圧倒的に精密な人形である長女は、一瞬で部員達の視線を独占した。人間に近い身体、生き生きとした動き、そして多数の人に囲まれて目を白黒させる長女の可愛らしさ。それらすべてが、彼が望んだ通りの部員達の反応を呼んだ。
質問攻めにあう彼と長女。代わる代わる抱かれて長女の顔に少々疲れの色が見え始めた頃、部員の中の一人が、こう言った。
「ホイホイさんと神姫って、どっちが強いんだ?」
女子部員達は、そんなことはどちらでもいい、と興味が無さそうだったが、彼を含めた男子達はそうではなかった。
彼はまだ、マオチャオ達にバトルをさせたことがなかった。この時はまだ神姫の黎明期であり種類が少なく、バトルができる筐体もあまり見かけなかったこともあるが、彼はマオチャオ達との生活を楽しむあまり、バトルのことをすっかり忘れていたのだ。
もしこの時彼が、武装神姫を専用筐体以外で戦わせるのは禁じられていることを思い出していれば、直後の悲劇は回避できたことだろう。あるいは、常識を持った長女がもう少し強く諌めていれば、彼女が無残な姿になることはなかったかもしれない。
ホイホイさんが一切の感動を込めず引いた引き金に連動して発射された、一発の銃弾。それを回避した長女は、瞬間、自分が猛獣の檻の中に放り込まれていたことを悟った。
一対一であったはずの、異種格闘技戦。
しかし銃声に反応した多数のホイホイさんは、単純な知能に従い、状況を開始した。
しかし二週目の月曜日、我慢の限界を迎えたのはマオチャオではなく、彼自身だった。
弓道部内ではその日、思い思いに着飾らせたホイホイさんの自慢大会が開かれていた。武装神姫とは一桁以上値段が安いホイホイさんは部内でのブームになっていて、高価な神姫を持っていたのは彼一人だけだった。
最初は遠巻きにその自慢大会の輪を見守っていただけだったが、手作りのドレスを着たホイホイさんや、ゴテゴテに武装されたホイホイさんを見ていると、彼は無意識のうちに、鞄から長女を出していた。
「よいのですにゃ? わたくしたちの存在はわたくしたちだけの秘密では……」
長女の諫言に耳を貸さず、その日【たまたま持っていた武装】を長女に装備させた彼は、ホイホイさんの輪の中に長女を投入した。
ホイホイさんと比較して圧倒的に精密な人形である長女は、一瞬で部員達の視線を独占した。人間に近い身体、生き生きとした動き、そして多数の人に囲まれて目を白黒させる長女の可愛らしさ。それらすべてが、彼が望んだ通りの部員達の反応を呼んだ。
質問攻めにあう彼と長女。代わる代わる抱かれて長女の顔に少々疲れの色が見え始めた頃、部員の中の一人が、こう言った。
「ホイホイさんと神姫って、どっちが強いんだ?」
女子部員達は、そんなことはどちらでもいい、と興味が無さそうだったが、彼を含めた男子達はそうではなかった。
彼はまだ、マオチャオ達にバトルをさせたことがなかった。この時はまだ神姫の黎明期であり種類が少なく、バトルができる筐体もあまり見かけなかったこともあるが、彼はマオチャオ達との生活を楽しむあまり、バトルのことをすっかり忘れていたのだ。
もしこの時彼が、武装神姫を専用筐体以外で戦わせるのは禁じられていることを思い出していれば、直後の悲劇は回避できたことだろう。あるいは、常識を持った長女がもう少し強く諌めていれば、彼女が無残な姿になることはなかったかもしれない。
ホイホイさんが一切の感動を込めず引いた引き金に連動して発射された、一発の銃弾。それを回避した長女は、瞬間、自分が猛獣の檻の中に放り込まれていたことを悟った。
一対一であったはずの、異種格闘技戦。
しかし銃声に反応した多数のホイホイさんは、単純な知能に従い、状況を開始した。
後に “Mの悲劇” と呼ばれる事件である。