闇の中。
霧の中。
途切れ途切れに灯る街灯の下に立つは、コートをまとった小柄な影。
朝霧の中、ずっとその場に立っていたのだろうか。コートの表面はうっすらと湿りを帯び始めているが……それでも彼は、その場から動こうとはしない。
やがて照度センサーで働く街灯が輝きを失い、入れ替わるようにして淡いオレンジの波が広がっていく。
辺りが穏やかな温もりに満たされる頃、コートの少年に掛けられたのは、男の声だ。
薄手のカーディガンに、淡い色のチノパン。重いコートとは対照的な、春の朝に相応しい軽装である。左手に提げられた小さなアタッシュケースだけが、唯一異彩を放っているが……陽光の中に沈む暗いコートほどではない。
「……十貴君」
驚きか、呆れか。もしくはその両方を含んだ声が、朝の光の中、少年の名を紡ぎ出す。
「……倉太さん」
コートの少年は疲れたように顔を上げ、男の名前を呼び返した。コートは朝の光で乾ききっていたが、それでもなお、十貴の声からは重い湿りが抜けていない。
「全く、入学式は三時間も後だっていうのに……。慌てて竿を引き上げたところで、獲物はかかりやしないよ?」
男も少年の湿り気が移ったかのように、重い声。
しかし、彼の視線は少年のはるか先、黒髪の少女に向けられており、それどころかケースを提げていない右手までぶんぶん振っている始末。
「……せめて、口と体の動きをシンクロさせてください。マスター」
同時、肩に座っていた神姫から鈍器の殴撃を食らい、横方向に吹き飛ばされた。百八十センチの長身が街灯までゴロゴロと転がって、何かがひしゃげる鈍い音が響き……。
「……それに、彼女達だって心配してる。レディを心配させるのは、男のする事じゃないなぁ」
やがて男は、何事もなかったかのように立ち上がる。
「それは分かってます。……けど」
言われ、少年も後ろにちらりと目を遣った。
そこで彼を待つのは、黒髪の少女と……肩に載った、二体の神姫。神姫達は不安そうに、少女はいつもの柔らかなポーカーフェイスのままで、感情を見せる気はないようだった。
「まあ、気持ちは分からないでもないけどね……。はい、随分と待たせてしまったね」
そして、倉太は己の持つたった一つの違和感……小さなアタッシュケースを、十貴へと手渡した。
「……これ……が?」
「そう。新しい……ジルの体だよ」
中央のつまみに触れれば、鍵は掛けられていないらしく、先へと続く手応えがある。そのまま押し込めば、かちりという軽い音がして、ケースが開いたことを教えてくれた。
開いたケースの中、素体保護用のクリアケースに眠るのは……。
「ハーモニーグレイス……ですか?」
淡いグリーンの髪に、小作りな顔。ボディに浮かぶパターンは、悪魔型と同じ黒をベースにしたものだ。
「すみません。本当はストラーフなら良かったのでしょうけれど……こちらで準備できる素体が、これしかなかったもので」
倉太の肩に戻った彼の神姫が、申し訳なさそうに頭を下げる。
20xx年現在、悪魔型神姫シリーズが主力モデルの座を後継機であるMK-2に明け渡して久しい。中古市場に出回っているものもほとんど見つからないという。ほんの数日で、ジルと同じ旧モデルの悪魔型の良品を、困難な作業と並行しながら手に入れろ……というのは酷な話だろう。
「せめてもの……と言っては何だけど、ハーモニーグレイス用の装備も用意させてもらったよ。必要ならば、使ってみてくれ」
見れば、ケースの空いた場所にはハーモニーグレイス用の武装一式が納められていた。特徴的な腰部装甲に、頭部装甲。十字架型のランチャーに、幾つかの手持ち武器。
だが少年にとって、その品定めの優先順位は限りなく低いもの。
「それで……」
ケースの中、ただ一点を見つめながら、少年は誰に問うでもなく問い掛ける。
「ええ。ジルの複製術式は想定通り、99.9%成功しているわ。もちろん、起動してみるまでは分からないけど……」
ケースの中のシスター型神姫は、深い眠りについたまま。
アタッシュケースにバッテリーユニットが設えられている所を見ると、このケースからでも神姫の起動は可能になっているらしい。
「じゃ、僕達は離れておくから」
「すみません」
倉太達が離れたのを確かめて、十貴はクリアケースの起動ボタンを押し込んだ。
(そういえば、神姫を起動させるのって、初めてだな……)
彼女と初めて会った時、彼女は既に起動した後だった。限りなく一方的な契約の後、共に遊び、共に戦い、笑い合って、悔しがって……。
一度は途切れかけたその繋がりを取り戻すため、二人は、少女の今一度の生を願った。
「ジル……」
祈るような声。
それに応えるよう、やがてケースの蓋が開き。
「……システム起動完了」
無機質な声がかすかに響いて、黒い悪魔型を滅する黒が、ゆっくりと身を起こす。
「ジル……」
少年の顔を映すだけだったカメラアイに、やがて意志在る光が宿る。
開いた瞳の色は、情熱を秘めた朱ではなく……透き通るほどの黄金の色。
「…………?」
そして。
少女が最初にした動作は、小首を傾げる事だった。
「あなたが……私の、マスターですか?」
霧の中。
途切れ途切れに灯る街灯の下に立つは、コートをまとった小柄な影。
朝霧の中、ずっとその場に立っていたのだろうか。コートの表面はうっすらと湿りを帯び始めているが……それでも彼は、その場から動こうとはしない。
やがて照度センサーで働く街灯が輝きを失い、入れ替わるようにして淡いオレンジの波が広がっていく。
辺りが穏やかな温もりに満たされる頃、コートの少年に掛けられたのは、男の声だ。
薄手のカーディガンに、淡い色のチノパン。重いコートとは対照的な、春の朝に相応しい軽装である。左手に提げられた小さなアタッシュケースだけが、唯一異彩を放っているが……陽光の中に沈む暗いコートほどではない。
「……十貴君」
驚きか、呆れか。もしくはその両方を含んだ声が、朝の光の中、少年の名を紡ぎ出す。
「……倉太さん」
コートの少年は疲れたように顔を上げ、男の名前を呼び返した。コートは朝の光で乾ききっていたが、それでもなお、十貴の声からは重い湿りが抜けていない。
「全く、入学式は三時間も後だっていうのに……。慌てて竿を引き上げたところで、獲物はかかりやしないよ?」
男も少年の湿り気が移ったかのように、重い声。
しかし、彼の視線は少年のはるか先、黒髪の少女に向けられており、それどころかケースを提げていない右手までぶんぶん振っている始末。
「……せめて、口と体の動きをシンクロさせてください。マスター」
同時、肩に座っていた神姫から鈍器の殴撃を食らい、横方向に吹き飛ばされた。百八十センチの長身が街灯までゴロゴロと転がって、何かがひしゃげる鈍い音が響き……。
「……それに、彼女達だって心配してる。レディを心配させるのは、男のする事じゃないなぁ」
やがて男は、何事もなかったかのように立ち上がる。
「それは分かってます。……けど」
言われ、少年も後ろにちらりと目を遣った。
そこで彼を待つのは、黒髪の少女と……肩に載った、二体の神姫。神姫達は不安そうに、少女はいつもの柔らかなポーカーフェイスのままで、感情を見せる気はないようだった。
「まあ、気持ちは分からないでもないけどね……。はい、随分と待たせてしまったね」
そして、倉太は己の持つたった一つの違和感……小さなアタッシュケースを、十貴へと手渡した。
「……これ……が?」
「そう。新しい……ジルの体だよ」
中央のつまみに触れれば、鍵は掛けられていないらしく、先へと続く手応えがある。そのまま押し込めば、かちりという軽い音がして、ケースが開いたことを教えてくれた。
開いたケースの中、素体保護用のクリアケースに眠るのは……。
「ハーモニーグレイス……ですか?」
淡いグリーンの髪に、小作りな顔。ボディに浮かぶパターンは、悪魔型と同じ黒をベースにしたものだ。
「すみません。本当はストラーフなら良かったのでしょうけれど……こちらで準備できる素体が、これしかなかったもので」
倉太の肩に戻った彼の神姫が、申し訳なさそうに頭を下げる。
20xx年現在、悪魔型神姫シリーズが主力モデルの座を後継機であるMK-2に明け渡して久しい。中古市場に出回っているものもほとんど見つからないという。ほんの数日で、ジルと同じ旧モデルの悪魔型の良品を、困難な作業と並行しながら手に入れろ……というのは酷な話だろう。
「せめてもの……と言っては何だけど、ハーモニーグレイス用の装備も用意させてもらったよ。必要ならば、使ってみてくれ」
見れば、ケースの空いた場所にはハーモニーグレイス用の武装一式が納められていた。特徴的な腰部装甲に、頭部装甲。十字架型のランチャーに、幾つかの手持ち武器。
だが少年にとって、その品定めの優先順位は限りなく低いもの。
「それで……」
ケースの中、ただ一点を見つめながら、少年は誰に問うでもなく問い掛ける。
「ええ。ジルの複製術式は想定通り、99.9%成功しているわ。もちろん、起動してみるまでは分からないけど……」
ケースの中のシスター型神姫は、深い眠りについたまま。
アタッシュケースにバッテリーユニットが設えられている所を見ると、このケースからでも神姫の起動は可能になっているらしい。
「じゃ、僕達は離れておくから」
「すみません」
倉太達が離れたのを確かめて、十貴はクリアケースの起動ボタンを押し込んだ。
(そういえば、神姫を起動させるのって、初めてだな……)
彼女と初めて会った時、彼女は既に起動した後だった。限りなく一方的な契約の後、共に遊び、共に戦い、笑い合って、悔しがって……。
一度は途切れかけたその繋がりを取り戻すため、二人は、少女の今一度の生を願った。
「ジル……」
祈るような声。
それに応えるよう、やがてケースの蓋が開き。
「……システム起動完了」
無機質な声がかすかに響いて、黒い悪魔型を滅する黒が、ゆっくりと身を起こす。
「ジル……」
少年の顔を映すだけだったカメラアイに、やがて意志在る光が宿る。
開いた瞳の色は、情熱を秘めた朱ではなく……透き通るほどの黄金の色。
「…………?」
そして。
少女が最初にした動作は、小首を傾げる事だった。
「あなたが……私の、マスターですか?」
マイナスから始める初めての武装神姫
番外編2 前編
神姫センターよりも広い講堂に、大きな声が響いている。
ただそれは、大会会場のように複数の声が重なり合って響く声じゃなくて、拡大されたたった一人の声だったけれど。
カバンの中から見上げれば、静香は講堂の壇に立つおじさん……彼がこの声の主だ……のほうを向いて、真剣に話に聞き入っている、ように見える。
ああ、あの顔は、退屈しきってものすごく下らないことを考えている顔だ。
そして、同じように退屈している子が、もう一人。
「ね、お姉ちゃん」
もそもそと身を寄せながら、花姫が私の名を呼んでくる。
静香のカバンには神姫が入れられるポケットが付いているのだけれど、それはあくまでも一人用。そこに私と花姫が入っているのだから、狭いことこの上ない。
「あのコ、ホントにジル姉なの?」
耳元に花姫の柔らかい吐息を感じながら、私は隣の椅子に視線を移す。
そこには十貴と、再生されたシスター型神姫が座っていた。
「ええ。そのはず……なんですが」
センサーから流れ込む固体識別情報に従えば、彼女はジルとは全くの別固体という事になる。もっとも神姫の識別情報はコアユニットのシリアルに依存するから、複製されてシリアルが変わった今、それは当たり前の事なのだけれど……。
ジルくらいよく知った神姫になれば、声紋や各部の駆動音、モーションデータのクセで互いを識別することも難しくない。けど、私の知っているジルの全てと照らし合わせても、目の前のシスター型神姫は私の見知ったジルとは別固体だという結論が下されていた。
ただそれは、大会会場のように複数の声が重なり合って響く声じゃなくて、拡大されたたった一人の声だったけれど。
カバンの中から見上げれば、静香は講堂の壇に立つおじさん……彼がこの声の主だ……のほうを向いて、真剣に話に聞き入っている、ように見える。
ああ、あの顔は、退屈しきってものすごく下らないことを考えている顔だ。
そして、同じように退屈している子が、もう一人。
「ね、お姉ちゃん」
もそもそと身を寄せながら、花姫が私の名を呼んでくる。
静香のカバンには神姫が入れられるポケットが付いているのだけれど、それはあくまでも一人用。そこに私と花姫が入っているのだから、狭いことこの上ない。
「あのコ、ホントにジル姉なの?」
耳元に花姫の柔らかい吐息を感じながら、私は隣の椅子に視線を移す。
そこには十貴と、再生されたシスター型神姫が座っていた。
「ええ。そのはず……なんですが」
センサーから流れ込む固体識別情報に従えば、彼女はジルとは全くの別固体という事になる。もっとも神姫の識別情報はコアユニットのシリアルに依存するから、複製されてシリアルが変わった今、それは当たり前の事なのだけれど……。
ジルくらいよく知った神姫になれば、声紋や各部の駆動音、モーションデータのクセで互いを識別することも難しくない。けど、私の知っているジルの全てと照らし合わせても、目の前のシスター型神姫は私の見知ったジルとは別固体だという結論が下されていた。
「……?」
あ。彼女と目が合った。
「……」
声は出さないけれど、ハーモニーグレイスのジルはこちらにニッコリと微笑みかけてくれる。
いつものジルならとっくに飽きて、こちらへ遊びに来ようとして……十貴に必死で止められている頃なのに。
もう、本当にジルじゃないんだろうか。
「……私と同じ、なのかなぁ?」
そんなことを考えていると、私に抱き付いていた花姫が、ぽつりと小さく呟いた。
「そうなのかも、しれませんね」
そうだ。
忘れることの出来ない沢山の事件を経て、初代花姫のコアユニットを使って起動した今の花姫は、いわば『二代目の』花姫となる。
記憶も想いも、再登録でシリアルさえも変わってしまったけれど。先代の彼女を知る静香達の弁を借りれば、先代の意志は彼女の中に確かに受け継がれているという。
「それに、私とも……」
姫のプラスチックの肢体をきゅ、と抱きしめながら、私もそう応える。
私のコアと素体も、かつてクウガと呼ばれた神姫から受け継がれたもの。その時の記憶は無いけれど……彼女と静香の願いを受けて、今の私はこの場所に立っている。
それを知っているからこそ、別固体となった新しいジルの中にも、かつてのジルの想いが受け継がれているはずだと……そう、思う。思いたかった。
「だから、私達は……花姫が来た時みたいにすればいいと思いますよ。出来ますよね? 花姫」
私達神姫は、人間ほど長くは稼動できない。バトルや日常生活で壊れる可能性だってあるし、もっと単純にマスターに捨てられ、機能を停止してしまう事だってある。
神姫にとって『別れ』とは、ごくごく身近な隣人として自身のすぐ側に立っているのだ。
だからこそ……。
「うん。ジル姉も、新しいジルちゃんも、お友達……でいいんだよね? お姉ちゃん」
「ええ」
そうだ。
私の知ったジルがいなくなってしまった事は悲しいけれど……。
去ってしまった友人に涙を流すより、新しく来た隣人を喜びたいと。妹の長い髪を撫でながら、神姫としての私はそう、思う。
マスターが悲しんでいる所に神姫まで悲しんでしまったら、誰も慰める者がいなくなってしまう。
マスターのサポートをするのが神姫の本懐であるなら、私まで悲しんではいられない。
新しく来た彼女が、親友の意志を受け継ぐ者なら……なおのことだ。
「それよりも、心配なのは……」
こちらを見て微笑むジルから視線を上げれば……そこにあるのは、生気の抜けた瞳で壇上の老人を眺めている十貴の姿。
「大丈夫なんですかね、十貴は」
花姫のマスターである私も、いつか彼女と別れる時が来る。恐らく、私が動作停止する日の方が早いだろうけれど……。
あ。彼女と目が合った。
「……」
声は出さないけれど、ハーモニーグレイスのジルはこちらにニッコリと微笑みかけてくれる。
いつものジルならとっくに飽きて、こちらへ遊びに来ようとして……十貴に必死で止められている頃なのに。
もう、本当にジルじゃないんだろうか。
「……私と同じ、なのかなぁ?」
そんなことを考えていると、私に抱き付いていた花姫が、ぽつりと小さく呟いた。
「そうなのかも、しれませんね」
そうだ。
忘れることの出来ない沢山の事件を経て、初代花姫のコアユニットを使って起動した今の花姫は、いわば『二代目の』花姫となる。
記憶も想いも、再登録でシリアルさえも変わってしまったけれど。先代の彼女を知る静香達の弁を借りれば、先代の意志は彼女の中に確かに受け継がれているという。
「それに、私とも……」
姫のプラスチックの肢体をきゅ、と抱きしめながら、私もそう応える。
私のコアと素体も、かつてクウガと呼ばれた神姫から受け継がれたもの。その時の記憶は無いけれど……彼女と静香の願いを受けて、今の私はこの場所に立っている。
それを知っているからこそ、別固体となった新しいジルの中にも、かつてのジルの想いが受け継がれているはずだと……そう、思う。思いたかった。
「だから、私達は……花姫が来た時みたいにすればいいと思いますよ。出来ますよね? 花姫」
私達神姫は、人間ほど長くは稼動できない。バトルや日常生活で壊れる可能性だってあるし、もっと単純にマスターに捨てられ、機能を停止してしまう事だってある。
神姫にとって『別れ』とは、ごくごく身近な隣人として自身のすぐ側に立っているのだ。
だからこそ……。
「うん。ジル姉も、新しいジルちゃんも、お友達……でいいんだよね? お姉ちゃん」
「ええ」
そうだ。
私の知ったジルがいなくなってしまった事は悲しいけれど……。
去ってしまった友人に涙を流すより、新しく来た隣人を喜びたいと。妹の長い髪を撫でながら、神姫としての私はそう、思う。
マスターが悲しんでいる所に神姫まで悲しんでしまったら、誰も慰める者がいなくなってしまう。
マスターのサポートをするのが神姫の本懐であるなら、私まで悲しんではいられない。
新しく来た彼女が、親友の意志を受け継ぐ者なら……なおのことだ。
「それよりも、心配なのは……」
こちらを見て微笑むジルから視線を上げれば……そこにあるのは、生気の抜けた瞳で壇上の老人を眺めている十貴の姿。
「大丈夫なんですかね、十貴は」
花姫のマスターである私も、いつか彼女と別れる時が来る。恐らく、私が動作停止する日の方が早いだろうけれど……。
その時に私がどう思うのかは、マスターになったばかりの私には、ついぞ想像が出来ないのだった。