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*第六話 恐怖の正体
鶴畑屋敷の客部屋に入るなり、理音は外套を脱いでベッドにダイブした。ダブルほどの大きさの客用ベッドは、金持ちらしいふかふかのやわらかい造りをしていた。飛び込んだ瞬間理音の体が半分も沈んだのである。
しっかりと手入れしてあるから、埃がたつはずもない。
「やわらかぁい」
甘くたるんだ声を出して理音はベッドの上でもがいた。きっと寝返りを打とうとしたに違いないのだろうが、部屋の宙で浮かびながらダイビングの一部始終を呆れ顔で見ていたクエンティンの頭には、もがいた、という動詞しか浮かんでこなかった。
「そんな歳にもなって大人気ない」
「いいじゃないの。ベッドダイビングはいくつになっても楽しいものよ。それに」
やっとのことで仰向けになった理音。
「こんなベッドで寝られる機会なんて、今ぐらいしかないわ」
ぱふぱふと羽毛布団をたたいた。その下のベッドマットは、どうやらやわらかいだけではなく就寝する人間の体系に合わせてベストな凹凸を作り出すハイテクベッドらしかった。微細なモーター音がクエンティンの聴覚センサーに入ってくる。無論理音には聞き取れる音ではないだろう。
「なんだか眠くなってきた」
「ちょっと、お姉さま、せめてお風呂に入ってからにしましょうよ」
「いいじゃないのよう。仕事し通しでおまけにひと騒動あったんだから、眠らせなさいよ。お風呂は朝でもいいわ」
外出時にしゃれっ気を出す人間ほどプライベートな空間の中ではズボラになるものだとはいつか心理学概説の本で読んだ気がするが、もしかして自分の主人がそういう人種なのかしら、とはクエンティンは今の今まで夢にも思っていなかった。
「これから何が起こるかわからないってのに……」
クエンティンはため息をつく。本当はため息ではなく、ただの排気、放熱なのだが。武装神姫は連続的な呼吸はしない。
「心配性ねえ」
理音はもどかしそうに上半身を起こした。
「もう傷はよくなってるわね」
クエンティンの体のヒビや傷は、もうすっかり修復されていた。
修理されたのではない。自然に直ったのだ。生物が怪我を治すように。
「アタシじゃないわ。エイダのおかげよ」
『ありがとうございます』
機械的な礼の返事だった。
新型、プロトタイプとはいえ、エイダと自分は同じ武装神姫のはずだ。なのになんでこんなに違うのだろう。
彼女に三原則はインプットされていない。彼女の持つ自己保存の欲求は、人工知能基本三原則とは別だろう。厳密には欲求ですらない。ただのコンピュータプログラムだ。
クエンティンの、死にたくないという感情とは別のものだった。少しは影響しているのかもしれないが、エイダと融合したクエンティンはデルフィとの戦闘時、三原則なしで、自己を保存したい、死にたくない、と思ったのだ。
武装神姫は人工知能である。欲求などというものはなく、すべてが陽電子頭脳の生み出したコンピュータプログラムに過ぎないはずだ。そして三原則はその根幹に根ざす、基本理念。幹のような、出発点なのだ。
別にプログラムが悪いわけではない。プログラムはプログラムでかまわない。プログラムであろうとそれで動いているクエンティン自身はそれを感情や欲求として感じているのだから、それで良かったのだ。何も思い悩むことはなかった。
今までは。
クエンティンはあるひとつの疑問に気がついた。
自分はどうしてエイダに違和感を覚えるのか?
エイダも自分も同じ武装神姫だ。確かにエイダはすこし無感情なところがあるかもしれない。ちょっと無機的だなとも思える。
だがそれはよくよく考えてみれば、彼女の言うとおり「武装神姫」の「総合戦闘支援」のために感情を抑えられているのであって、つまり武装神姫としては自分となんら変わらないはずなのだ。
なのにどうして自分はさっき、彼女の自己保存への欲求を「ただのコンピュータプログラムだ」と思い切ってしまったのだろう?
エイダも自分もプログラムで動いているはずなのに、プログラムで動いているはずの自分自身がプログラムを卑下している。クエンティンはその事実に突き当たった。
ちりちり。ゲイザーを出したときの手動プログラムの名残が、脳の片隅で弱くはじけた。軽い頭痛。
「何か深刻な悩み事がありそうね」
「お姉さま……」
「さっきから時々難しそうな顔をするから分かるわ」
再びクエンティンはため息。これは安堵の。お姉さまはなんでもお見通しなのだ。
クエンティンは理音の手のひらの上に降り立つ、そのままひざから崩れるようにへたり込んだ。
「お姉さま」
クエンティンは理音の顔を見上げずに言った。
「アタシはおかしいのかもしれない」
とつとつと語り始める。
三原則もないのに死にたくないと思った自分。エイダのコンピュータプログラムで動く頭脳を卑下した自分。
そもそもエイダによって自分の三原則が封印された時点で、自分はガラリと変容するはずなのだ。プログラムの根幹が封印されエイダのオリジナルの根幹に置き換わった瞬間、根幹を絶たれた自分はまったくの別人になるはずなのである。鶴畑興紀を殺そうとしたことは些細な問題だ。
「アタシ、変わった?」
「姿だけはね。あとはいつもどおりのクエンティンよ」
理音はそう答えた。
でも、それはおかしいことなのだ。
三原則がなくなっただけで、いつもどおりのクエンティン自身がそのままの状態でいることがあり得ないのである。
いや、あるいはもう変容してしまっているのだろうか?
エイダのコンピュータプログラムからくる思考回路を卑下しているのだから。
ではそうやって卑下してしまう自分はいったい、何なのだろう?
「クエンティン……」
理音は何もいえなくなったように、ただクエンティンを見下ろす。
「お姉さま、アタシ怖い。自分が自分でなくなっていくみたいなの」
『申し訳ありません』
エイダが言う。
「ちがうよ、エイダは悪くない」
そんなはずはない。原因がエイダなのは間違いない。エイダが融合したせいでこうなってしまったのだ。
それでもクエンティンはエイダを責める気にはなれない。それはなぜか。
良心? ちがう。
エイダのせいで変わったのではなく、エイダと融合することによって自分のおかしさが分かったのである。
自分はもとからおかしかったのかもしれない、ということだ。
「お姉さま、アタシはいま、アタシなのかな」
クエンティンはあらためて尋ねた。
「……お風呂に入りましょう、クエンティン」
彼女を両手で包み込みながら、理音は言った。
浴室は客部屋に併設されたものだが、その広さは一般的なマンションの浴場とは比べ物にならないほどだった。面積だけで言えば小さな旅館の大浴場に匹敵し、しかし客部屋の浴室であるから大人二人以上が利用することは想定されていない。シャワーセットは一人分しかないし、浴槽も大人二人が寝そべって入ってぴったりの容積である。
窓側は一面ガラス張りで、地平線には都市部の夜景が見えている。だがそこ以外は外灯すら見当たらない。おそらくそこらはすべて鶴畑の私有地で、無駄な設備を省いているのだろうとクエンティンは予想した。外灯の代わりにえらく物騒なセキュリティ装置が仕込まれているに違いなかった。あのファランクス砲を見れば用意に察せる。鶴畑の土地はきっと治外法権なのだ。
いまのクエンティンには、ずっと遠くにある都市部が、まるで自分を拒絶しているように感じられて仕方が無かった。
湯船には紫色の花弁が浮かべられ、淡いラベンダーの香りが湯気とともに立ちのぼっていた。ラベンダーの香りは心を落ち着かせるというが、それは神姫にも効果があるらしかった。
いや、と思い直す。神姫にも、ではなく、自分だけに効果があるのかもしれない。神姫にラベンダーの香りはセンサーを刺激するだけで、「ラベンダーの香り」だとは分かってもそれで心が落ち着くなどということは無いはずだ。あってもそれは人間である主人のまねごとだろう。無意識の。
クエンティンは、心が落ち着いていた、と明確に感じていた。
心が、どうする、あるいはどうなる。そう感じる。それが問題だ。
武装神姫にそんなメタ的なものがあるとは思えない。武装神姫とはあくまで、身体は人工物であり思考はコンピュータプログラムであり、それで十分なのだ。それで自分らは満足であり、安心する。言い換えれば武装神姫はそうでなくてはならない。
現にその範疇から逸脱しようとしているらしい自分は、不安にさいなまれているではないか。それがラベンダーの香りで代わられたならどんなに良いだろう。
クエンティンはラベンダーの香りをいっぱいに吸い込んだ。それは陽電子頭脳や素体駆動部を冷却するための吸気でしかない。が、クエンティンは体内にまとわりついた不安を洗い流すようにラベンダーの香りを嗅覚センサーに刺激させ続けた。
「おまたせ」
カチャリとドアが開いて、理音が入ってきた。
小さなタオルで前を隠しているだけの姿だった、細い体格に似合わぬ大きな乳房は今にもタオルからまろび出そうにふるふると揺れている。豊満な女性のシンボルのすぐしたには薄く肋骨が浮かんでおり、すこしやつれた顔や、血色の薄い皮膚、そして慢性的な寝不足がたたって消えなくなった目の下の細いくまとともに、ある種独特のコケットリーを備えていた。
れっきとした大人の女性でありながら、まるで少女のような儚さを持っている。クエンティンはそんな感想を覚えた。これも武装神姫としてはおかしいのかもしれない。
「まったくもう、本当にいいカラダしてるわね」
さすがお姉さまだわ、と、クエンティンは言って自分の不安をごまかした。
「胸だけよ。頭じゃなくこっちに行っちゃった栄養を取り戻すのに、苦労したわ。学生の頃だけど。あとは痩せ細った骸骨みたいな女」
「いまどきの男の人は好きそうだと思うけどな」
「経験もないくせに、生意気言ってら」
「ぷー」
理音は湯船にゆっくりと浸かった。満杯のお湯が溢れだした。ほっそりとしていてもこれだけの体積があるのだ。もっと自慢してもいいのに、とクエンティンは思った。理音の両の乳房は湯船にぷかぷか浮くほどだった。
「あなたも入りなさい」
言われてクエンティンも湯船に入る。完全防水の素体は湯船に浸かったくらいでは壊れたりしない。が、理音の胸元に近づくことはできなかった。突起物だらけのこの体では、理音の肌をちくちくと刺激し、最悪傷つけてしまうおそれがある。いつものように抱きつくことさえはばかられてしまうのだ。
理音の白い皮膚は風呂の熱でピンク色に上気していた。エロティックな魅力が増す。アタシが男の人だったら間違いなく襲い掛かっているだろうな、とクエンティンは思った。
……いま、アタシは自分を人間にたとえなかっただろうか?
「またそんな顔して」
理音は湯船からちゃぷりと手を出して、クエンティンの小さな頭をなでた。
「どんな風になっても、クエンティン。あなたはクエンティンよ。それは変わらないわ」
おいで、と、理音は招いた。
「でも」
「いいの」
クエンティンは慎重に、理音の胸元へと身を寄せた。特に右腕のブレードには気をつけた。フォールドされている状態では切れないが、それでも先っぽはこの体の中で一番とがっている。
理音は両手と胸元で小さなクエンティンを抱きしめた。
クエンティンは耳の突起に気をつけて、頬を胸にうずめた。
湯の熱と理音の体温が、クエンティンの量子活動効率を低下させる。心地よい眠気。
母親に抱かれるというのはこんな風なのかもしれない。クエンティンは感動していた。
だが、肝心の不安はすこしも消えなかった。
それでクエンティンは思い至った。
自分は、自分が変容することが怖いのではない。それはむしろ自然なことだ。自己とはうつろいゆくもの、変わってゆくものなのだ。学習や、環境や、体験で。
本当に怖ろしいこと。
それは、自分が武装神姫でなくなることだ。
「あーあ、もうこんな時間」
ベッドの横のカウンタテーブルに置かれた金細工の施された置時計の針は、すでに夜明けの方が近い位置を示していた。
理音は客用のガウン姿で、時々あくびをこらえつつ髪の毛を乾かしている。前は結んでおらず、緑色の下着があらわになっている。黒ぶちの眼鏡が置時計の横に置かれている。そういえば、自分の眼鏡はどうしたろう、とクエンティンは思い出した。
この体になったときから眼鏡をかけていない。あの道端で落としたか。
エイダに聞いても『分かりません』と言うだけだった。
『お望みであれば眼鏡を分子融合でお作りいたしますが』
そんなこともできるのか。
しかしクエンティンは、
「今はいいわ。たぶん邪魔なだけだから」
と断った。
理音が髪を乾かし終え、やっとベッドにとびこもうとした時。
ドンッ、ドンッ。
乱暴に扉を叩く音がした。
インターホンがあるくせに誰だろうと思い、理音はドアを開けた。
「アンタがお兄様の連れてきた女、ってやつか」
太った子供が立っていて、いきなりそう言い放った。
「あなた、どなた?」
ガウンの前を開いたまま、理音は眠たそうな目をこすりながら訊いた。
子供はわざとらしくうんざりして、
「鶴畑大紀だ。つ、る、は、た、ひ、ろ、の、り。知らないのか? これだからセカンドの有象無象は……」ぶつぶつぶつぶつ。
ずいぶん嫌な子供だ、と、クエンティンは思った。鶴畑、ということは、あの興紀の弟だろうか。それにしては似ていない。
「まあ、いい。お前、僕の相手をしろ」
こいつは何を言っているのだ。クエンティンは呆れた。言葉も無い。
「もう少し大きくなってからなら考えてあげるわ」
理音はかるくあしらおうとする。
「違う」
顔を赤くしたのがクエンティンには分かった。
「今から僕と神姫バトルしろと言っているんだ」
理音とクエンティンは思わず顔を見合わせた。
つづく
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*第六話 恐怖の正体
鶴畑屋敷の客部屋に入るなり、理音は外套を脱いでベッドにダイブした。ダブルほどの大きさの客用ベッドは、金持ちらしいふかふかのやわらかい造りをしていた。飛び込んだ瞬間理音の体が半分も沈んだのである。
しっかりと手入れしてあるから、埃がたつはずもない。
「やわらかぁい」
甘くたるんだ声を出して理音はベッドの上でもがいた。きっと寝返りを打とうとしたに違いないのだろうが、部屋の宙で浮かびながらダイビングの一部始終を呆れ顔で見ていたクエンティンの頭には、もがいた、という動詞しか浮かんでこなかった。
「そんな歳にもなって大人気ない」
「いいじゃないの。ベッドダイビングはいくつになっても楽しいものよ。それに」
やっとのことで仰向けになった理音。
「こんなベッドで寝られる機会なんて、今ぐらいしかないわ」
ぱふぱふと羽毛布団をたたいた。その下のベッドマットは、どうやらやわらかいだけではなく就寝する人間の体系に合わせてベストな凹凸を作り出すハイテクベッドらしかった。微細なモーター音がクエンティンの聴覚センサーに入ってくる。無論理音には聞き取れる音ではないだろう。
「なんだか眠くなってきた」
「ちょっと、お姉さま、せめてお風呂に入ってからにしましょうよ」
「いいじゃないのよう。仕事し通しでおまけにひと騒動あったんだから、眠らせなさいよ。お風呂は朝でもいいわ」
外出時にしゃれっ気を出す人間ほどプライベートな空間の中ではズボラになるものだとはいつか心理学概説の本で読んだ気がするが、もしかして自分の主人がそういう人種なのかしら、とはクエンティンは今の今まで夢にも思っていなかった。
「これから何が起こるかわからないってのに……」
クエンティンはため息をつく。本当はため息ではなく、ただの排気、放熱なのだが。武装神姫は連続的な呼吸はしない。
「心配性ねえ」
理音はもどかしそうに上半身を起こした。
「もう傷はよくなってるわね」
クエンティンの体のヒビや傷は、もうすっかり修復されていた。
修理されたのではない。自然に直ったのだ。生物が怪我を治すように。
「アタシじゃないわ。エイダのおかげよ」
『ありがとうございます』
機械的な礼の返事だった。
新型、プロトタイプとはいえ、エイダと自分は同じ武装神姫のはずだ。なのになんでこんなに違うのだろう。
彼女に三原則はインプットされていない。彼女の持つ自己保存の欲求は、人工知能基本三原則とは別だろう。厳密には欲求ですらない。ただのコンピュータプログラムだ。
クエンティンの、死にたくないという感情とは別のものだった。少しは影響しているのかもしれないが、エイダと融合したクエンティンはデルフィとの戦闘時、三原則なしで、自己を保存したい、死にたくない、と思ったのだ。
武装神姫は人工知能である。欲求などというものはなく、すべてが陽電子頭脳の生み出したコンピュータプログラムに過ぎないはずだ。そして三原則はその根幹に根ざす、基本理念。幹のような、出発点なのだ。
別にプログラムが悪いわけではない。プログラムはプログラムでかまわない。プログラムであろうとそれで動いているクエンティン自身はそれを感情や欲求として感じているのだから、それで良かったのだ。何も思い悩むことはなかった。
今までは。
クエンティンはあるひとつの疑問に気がついた。
自分はどうしてエイダに違和感を覚えるのか?
エイダも自分も同じ武装神姫だ。確かにエイダはすこし無感情なところがあるかもしれない。ちょっと無機的だなとも思える。
だがそれはよくよく考えてみれば、彼女の言うとおり「武装神姫」の「総合戦闘支援」のために感情を抑えられているのであって、つまり武装神姫としては自分となんら変わらないはずなのだ。
なのにどうして自分はさっき、彼女の自己保存への欲求を「ただのコンピュータプログラムだ」と思い切ってしまったのだろう?
エイダも自分もプログラムで動いているはずなのに、プログラムで動いているはずの自分自身がプログラムを卑下している。クエンティンはその事実に突き当たった。
ちりちり。ゲイザーを出したときの手動プログラムの名残が、脳の片隅で弱くはじけた。軽い頭痛。
「何か深刻な悩み事がありそうね」
「お姉さま……」
「さっきから時々難しそうな顔をするから分かるわ」
再びクエンティンはため息。これは安堵の。お姉さまはなんでもお見通しなのだ。
クエンティンは理音の手のひらの上に降り立つ、そのままひざから崩れるようにへたり込んだ。
「お姉さま」
クエンティンは理音の顔を見上げずに言った。
「アタシはおかしいのかもしれない」
とつとつと語り始める。
三原則もないのに死にたくないと思った自分。エイダのコンピュータプログラムで動く頭脳を卑下した自分。
そもそもエイダによって自分の三原則が封印された時点で、自分はガラリと変容するはずなのだ。プログラムの根幹が封印されエイダのオリジナルの根幹に置き換わった瞬間、根幹を絶たれた自分はまったくの別人になるはずなのである。鶴畑興紀を殺そうとしたことは些細な問題だ。
「アタシ、変わった?」
「姿だけはね。あとはいつもどおりのクエンティンよ」
理音はそう答えた。
でも、それはおかしいことなのだ。
三原則がなくなっただけで、いつもどおりのクエンティン自身がそのままの状態でいることがあり得ないのである。
いや、あるいはもう変容してしまっているのだろうか?
エイダのコンピュータプログラムからくる思考回路を卑下しているのだから。
ではそうやって卑下してしまう自分はいったい、何なのだろう?
「クエンティン……」
理音は何もいえなくなったように、ただクエンティンを見下ろす。
「お姉さま、アタシ怖い。自分が自分でなくなっていくみたいなの」
『申し訳ありません』
エイダが言う。
「ちがうよ、エイダは悪くない」
そんなはずはない。原因がエイダなのは間違いない。エイダが融合したせいでこうなってしまったのだ。
それでもクエンティンはエイダを責める気にはなれない。それはなぜか。
良心? ちがう。
エイダのせいで変わったのではなく、エイダと融合することによって自分のおかしさが分かったのである。
自分はもとからおかしかったのかもしれない、ということだ。
「お姉さま、アタシはいま、アタシなのかな」
クエンティンはあらためて尋ねた。
「……お風呂に入りましょう、クエンティン」
彼女を両手で包み込みながら、理音は言った。
浴室は客部屋に併設されたものだが、その広さは一般的なマンションの浴場とは比べ物にならないほどだった。面積だけで言えば小さな旅館の大浴場に匹敵し、しかし客部屋の浴室であるから大人二人以上が利用することは想定されていない。シャワーセットは一人分しかないし、浴槽も大人二人が寝そべって入ってぴったりの容積である。
窓側は一面ガラス張りで、地平線には都市部の夜景が見えている。だがそこ以外は外灯すら見当たらない。おそらくそこらはすべて鶴畑の私有地で、無駄な設備を省いているのだろうとクエンティンは予想した。外灯の代わりにえらく物騒なセキュリティ装置が仕込まれているに違いなかった。あのファランクス砲を見れば用意に察せる。鶴畑の土地はきっと治外法権なのだ。
いまのクエンティンには、ずっと遠くにある都市部が、まるで自分を拒絶しているように感じられて仕方が無かった。
湯船には紫色の花弁が浮かべられ、淡いラベンダーの香りが湯気とともに立ちのぼっていた。ラベンダーの香りは心を落ち着かせるというが、それは神姫にも効果があるらしかった。
いや、と思い直す。神姫にも、ではなく、自分だけに効果があるのかもしれない。神姫にラベンダーの香りはセンサーを刺激するだけで、「ラベンダーの香り」だとは分かってもそれで心が落ち着くなどということは無いはずだ。あってもそれは人間である主人のまねごとだろう。無意識の。
クエンティンは、心が落ち着いていた、と明確に感じていた。
心が、どうする、あるいはどうなる。そう感じる。それが問題だ。
武装神姫にそんなメタ的なものがあるとは思えない。武装神姫とはあくまで、身体は人工物であり思考はコンピュータプログラムであり、それで十分なのだ。それで自分らは満足であり、安心する。言い換えれば武装神姫はそうでなくてはならない。
現にその範疇から逸脱しようとしているらしい自分は、不安にさいなまれているではないか。それがラベンダーの香りで代わられたならどんなに良いだろう。
クエンティンはラベンダーの香りをいっぱいに吸い込んだ。それは陽電子頭脳や素体駆動部を冷却するための吸気でしかない。が、クエンティンは体内にまとわりついた不安を洗い流すようにラベンダーの香りを嗅覚センサーに刺激させ続けた。
「おまたせ」
カチャリとドアが開いて、理音が入ってきた。
小さなタオルで前を隠しているだけの姿だった、細い体格に似合わぬ大きな乳房は今にもタオルからまろび出そうにふるふると揺れている。豊満な女性のシンボルのすぐしたには薄く肋骨が浮かんでおり、すこしやつれた顔や、血色の薄い皮膚、そして慢性的な寝不足がたたって消えなくなった目の下の細いくまとともに、ある種独特のコケットリーを備えていた。
れっきとした大人の女性でありながら、まるで少女のような儚さを持っている。クエンティンはそんな感想を覚えた。これも武装神姫としてはおかしいのかもしれない。
「まったくもう、本当にいいカラダしてるわね」
さすがお姉さまだわ、と、クエンティンは言って自分の不安をごまかした。
「胸だけよ。頭じゃなくこっちに行っちゃった栄養を取り戻すのに、苦労したわ。学生の頃だけど。あとは痩せ細った骸骨みたいな女」
「いまどきの男の人は好きそうだと思うけどな」
「経験もないくせに、生意気言ってら」
「ぷー」
理音は湯船にゆっくりと浸かった。満杯のお湯が溢れだした。ほっそりとしていてもこれだけの体積があるのだ。もっと自慢してもいいのに、とクエンティンは思った。理音の両の乳房は湯船にぷかぷか浮くほどだった。
「あなたも入りなさい」
言われてクエンティンも湯船に入る。完全防水の素体は湯船に浸かったくらいでは壊れたりしない。が、理音の胸元に近づくことはできなかった。突起物だらけのこの体では、理音の肌をちくちくと刺激し、最悪傷つけてしまうおそれがある。いつものように抱きつくことさえはばかられてしまうのだ。
理音の白い皮膚は風呂の熱でピンク色に上気していた。エロティックな魅力が増す。アタシが男の人だったら間違いなく襲い掛かっているだろうな、とクエンティンは思った。
……いま、アタシは自分を人間にたとえなかっただろうか?
「またそんな顔して」
理音は湯船からちゃぷりと手を出して、クエンティンの小さな頭をなでた。
「どんな風になっても、クエンティン。あなたはクエンティンよ。それは変わらないわ」
おいで、と、理音は招いた。
「でも」
「いいの」
クエンティンは慎重に、理音の胸元へと身を寄せた。特に右腕のブレードには気をつけた。フォールドされている状態では切れないが、それでも先っぽはこの体の中で一番とがっている。
理音は両手と胸元で小さなクエンティンを抱きしめた。
クエンティンは耳の突起に気をつけて、頬を胸にうずめた。
湯の熱と理音の体温が、クエンティンの量子活動効率を低下させる。心地よい眠気。
母親に抱かれるというのはこんな風なのかもしれない。クエンティンは感動していた。
だが、肝心の不安はすこしも消えなかった。
それでクエンティンは思い至った。
自分は、自分が変容することが怖いのではない。それはむしろ自然なことだ。自己とはうつろいゆくもの、変わってゆくものなのだ。学習や、環境や、体験で。
本当に怖ろしいこと。
それは、自分が武装神姫でなくなることだ。
「あーあ、もうこんな時間」
ベッドの横のカウンタテーブルに置かれた金細工の施された置時計の針は、すでに夜明けの方が近い位置を示していた。
理音は客用のガウン姿で、時々あくびをこらえつつ髪の毛を乾かしている。前は結んでおらず、緑色の下着があらわになっている。黒ぶちの眼鏡が置時計の横に置かれている。そういえば、自分の眼鏡はどうしたろう、とクエンティンは思い出した。
この体になったときから眼鏡をかけていない。あの道端で落としたか。
エイダに聞いても『分かりません』と言うだけだった。
『お望みであれば眼鏡を分子融合でお作りいたしますが』
そんなこともできるのか。
しかしクエンティンは、
「今はいいわ。たぶん邪魔なだけだから」
と断った。
理音が髪を乾かし終え、やっとベッドにとびこもうとした時。
ドンッ、ドンッ。
乱暴に扉を叩く音がした。
インターホンがあるくせに誰だろうと思い、理音はドアを開けた。
「アンタがお兄様の連れてきた女、ってやつか」
太った子供が立っていて、いきなりそう言い放った。
「あなた、どなた?」
ガウンの前を開いたまま、理音は眠たそうな目をこすりながら訊いた。
子供はわざとらしくうんざりして、
「鶴畑大紀だ。つ、る、は、た、ひ、ろ、の、り。知らないのか? これだからセカンドの有象無象は……」ぶつぶつぶつぶつ。
ずいぶん嫌な子供だ、と、クエンティンは思った。鶴畑、ということは、あの興紀の弟だろうか。それにしては似ていない。
「まあ、いい。お前、僕の相手をしろ」
こいつは何を言っているのだ。クエンティンは呆れた。言葉も無い。
「もう少し大きくなってからなら考えてあげるわ」
理音はかるくあしらおうとする。
「違う」
顔を赤くしたのがクエンティンには分かった。
「今から僕と神姫バトルしろと言っているんだ」
理音とクエンティンは思わず顔を見合わせた。
つづく
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