幕末なんでもQ&A

楽太郎さんが設立した 「幕末なんでもQ&A」 のまとめです。

ちょっとしたマメ知識から、幕末史の大きな出来事まで、みなさんが知りたいこと、わかりにくいことをなんでも聞けるスレッドを目指します!!
答えるのは以前からのゼミ生でも、新しくゼミ生になった人でも誰でもいいってことで。
以前からのゼミ生にも不勉強な人(?)や初心者も多いので、恥ずかしがらずになんでも質問してくださーい。(不評だったらなくしちゃいますっ)

約束事:質問はあまり漠然とせず、聞きたいポイントを。1投稿で複数質問もアリだけど、1問あたりを簡潔に。



Q:坂本竜馬は剣が強かった? [投稿者:楽太郎]

A:北辰一刀流というすごい剣術の免許皆伝(グランドマスター)だったから、メチャ強かったと思います。
  でも実際に剣で戦った経験はほとんどなくて、寺田屋で襲われた時はピストルで戦った。
  一説には、免許皆伝じゃなかった、剣術じゃなくて(女性が使う)薙刀の免許だったという人もいます。だいたい竜馬嫌いの人がそういう意見ですw [投稿者:楽太郎]


Q:佐幕と倒幕ってナニ? [投稿者:楽太郎]

A:佐幕は「幕府を佐けて(たすけて)、徳川政権を維持しよう!」という考え方。東北の諸大名には佐幕派が多かったです。
  倒幕は「徳川幕府の政治ではニッポンを救えない。だから倒しちゃえ!」って考え方で、薩摩(鹿児島)、長州(山口)がその主軸でした。
  倒幕といっても、「平和的な手段(話し合い)で、幕府から朝廷に政権を返させよう(大政奉還)」とする“平和倒幕”と、
  「何が何でも戦争を起こして、徳川幕府や佐幕の諸藩をぶっ潰そう!」とする“武力討幕”の2つがありました。
  竜馬は“平和倒幕”派だったといわれてます。 [投稿者:楽太郎]


Q:もしあの時、竜馬が殺されていなかったら 日本はどのようになってましたか? [投稿者:遼恒パパ]

A1:これはあくまで予想の範疇になってしまいますが、自分は「恐らくさほど変わらなかった」かと思います。
  そもそも、龍馬は大政奉還の後、自分は政治の中枢には入らず海援隊(亀山社中)で外国相手にビジネスを行いたい!と切望していたはずなので、
  そう考えると、岩崎弥太郎が基礎を気づいた三菱のような巨大商社がもう一つ今の日本にあったかもしれません。
  岩崎弥太郎が海援隊の経理をやっていたことを踏まえると、三菱⇒海援隊かな? [投稿者:LION]

A2:LIONさんがすでにお答えされていますが、私もちょっと♪龍馬が生きていたら鳥羽伏見の戦いに始まる戊辰戦争がなかったか、縮小されたと思います。
  龍馬は手紙や資料で平和的な新政府建設を理想にしていたことがわかりますから、あのてこのてで戦争を回避したんじゃないかなあ?
  私のファンタジーかもしれないですけど、龍馬ならそうしたかなって思いたいですね。 [投稿者:森の水]


Q:竜馬が殺されたことで日本はどのように変わったのでしょうか? [投稿者:遼恒パパ]

A:これも難しいですが、もし龍馬があのまま自分の思想を世に反映していたならば、
  幕府(徳川)がさほど力を失うことなく大政奉還の後、また武力行使+海外支援によって第二次江戸幕府を立ち上げていたかもしれません。
  しかし、もしそうなっていたら、、、日清、日露戦争は回避、しいては原爆の投下もなかったかもしれません。
  しかし、もしそうなっていたら、、、今ほど平和と自由の国になっていなかったかも。。ちょんまげは嫌ですね~。
  でも、歴史の偉大な人物がもし生きていたら?それを考えるのは楽しいですね!
  吉田松陰や、高杉晋作が自分の人生を最後までまっとうできていたら?も気になります。 [投稿者:LION]


Q:龍馬暗殺とは別ですが、そもそも、京で新撰組が坂本龍馬を狙っていた理由ってなんでしょうか? [投稿者:LION]

A1:そもそも新撰組とはなんであるか、という点からお話しします。
  新撰組とは、会津藩が京都の治安維持のために創設した治安維持部隊で、多くが浪人によって構成されていました。
  当時会津藩は幕府側で、楽太郎さんが解説してくれた通り「佐幕派」でした。つまり新撰組は、会津藩の命のもと、
  幕府を倒そうという人々(倒幕派)の犯行の芽を摘むことを目的としていた組織だったのです。そのため、倒幕派に抵抗するために強力な武装を持っていたわけです。
  坂本竜馬は倒幕派における首謀者みたいな存在で、暗殺リストのトップに記されてしかるべき人物でした。
  そのため新撰組は個人的な恨みとかそういうもので探していたのではなく、
  治安維持という大義名分のもと、犯罪者坂本竜馬を追いかけていた、というわけです。 [投稿者:あじのひらき]

A2:新選組は当時の警察ですから、龍馬に限らず幕府に敵対したり治安を乱す者は誰でも取り締まりました。
  特に龍馬が薩長同盟の立役者というのは幕府もわかっていたようで、薩長は幕府に敵対していたから龍馬も仲間と疑われたのだと思います。
  龍馬の倒幕論は薩長とは違ったと思いますが…。
  また寺田屋事件で龍馬を捕まえに来た幕吏(警察官?)を殺傷しちゃってるので、その意味では新選組や幕府から見ると龍馬は犯人ですねw
  私は正当防衛だと考えたいですけど。 [投稿者:森の水]


Q:竜馬暗殺の謎とよく言われていますが、実際のところ、どのような説があるのでしょうか? [投稿者:あじのひらき]

A:研究テーマで西谷教授がまとめてらっしゃいます。
   http://nishiya-bakumatsu-semi.com/research
  ではお答えにならないのでw、他にフリーメイソンに利用されて殺されたという小説やマンガがありますが、トンデモ説だと思います。
  本人の手紙(百何十通も発見されています)や資料からはまったく窺えません。 [投稿者:森の水]


Q:戊辰戦争で徳川家は許されたのに、なんで会津藩は徹底的に攻撃されたのでしょう? [投稿者:森の水]

A:「戊辰戦争」の第二期と呼ばれる時期の事ですな。
  もともと、前京都守護職であった会津藩、それと江戸警護職の庄内藩は新政府から目の敵にされ、朝敵とされます。
  会津藩は、孝明天皇からかなりの信頼を得ていたのですが、岩倉、大久保、木戸あたりが、幼い明治天皇を利用し密勅をださせる、これで、賊軍の謗りをうけるわけです、
  さらに、戊辰の中盤に奥羽越列藩同盟が北白川宮能久親王を掲げて、北部に独立国を起こそうとし、
  そこに蝦夷共和国を目指す榎本があって、会津戦争になるわけですな。会津は不運な事にいろいろな思惑に挟まれてしまったんですね
  徳川については徳川慶喜の存在があったとの説もあります。 [投稿者:izou]


Q:維新の三傑といわれる、英雄西郷 隆盛は何故討伐されたか? [投稿者:izou]

A:これは大きく2点の日本情勢に関わっていたように感じます。
  まず1点目は「士族(元武士階級)の反乱」
  江戸時代を含め、これまで武士と呼ばれる人たちは主君から多くの俸禄を受け取ったり、刀・脇差を持てるといった数々の特権を持っていました。
  が、明治政府が興り近代化が進む中、版籍奉還の影響で武士⇒士族となった人たちはこれまでに受けた特権を次々と剥ぎ取られていきました。
  その影響で多くの「士族による反乱」が起きています。
  次2点目は「征韓論」
  征韓論とは「鎖国により封鎖された朝鮮を武力行使により開国させる」と言ったものでした。
  そこ論争の中、政府の中枢に居た人物は意見が真っ二つ。
  賛成:西郷隆盛、板垣退助、江藤新平
  反対:大久保利通、木戸孝允、岩倉具視
  この論争に敗れた西郷隆盛はそれ以後政府から退き、薩摩へ帰還しています。
  士族はここに目を付けました。
  政府から退いたとは言え、西郷隆盛は相当の権力者です。
  彼を持ち上げ、戦乱を起こすことで自分達に都合の悪くなった日本をまた「士族にとって住みやすい国」に変えてしまおうとしました。
  これが西南戦争です。
  当時西郷隆盛は西南戦争に参加する気はなかったそうですが、多くの期待を背負う中自分が役に立つのならと立ち上がりました。
  が、結局戦争に敗れ、西郷は命を落とすことになりました。
  大分はしょりましたが、こんな感じでしょうか。フォロー願います。 [投稿者:LION]


Q:以前、龍馬暗殺に関して「中岡慎太郎と意見が割れ、近江屋で切り合ったのではないか?」という異説を見たことがあります。
  この2人の意見は武力的倒幕と反武力的倒幕と意見が違っていたし、龍馬が銃を撃つ暇もなく、
  また中岡慎太郎は2、3日生きていたというところからあながち全否定も出来ないのでは?と素人ながら思ってしまいます。
  そこでですが、そもそも、坂本龍馬と中岡慎太郎は暗殺される前どういう関係だったのでしょうか? [投稿者:LION]

A:中岡慎太郎こん人は、幼少のときから秀才タイプ。
  その辺は泣き虫だった龍馬とは違うところ、
  私見ですが、幕末維新の功績はむしろ中岡慎太郎のが大きかったじゃないかと思う、
  中岡慎太郎が狙いで、巻き添えが坂本龍馬だったのではという説があるくらいですな。
  薩長の和解にうごいたのも、中岡が先であり、大政奉還を説いたのも龍馬より先、
  龍馬はどう見ていたか、手紙では、自分んと同様の人だと、言われております。
  ただ、富国強兵、戦のい一字など、武力討伐を推進したために、武闘派のイメージが強い。その点で対立したとか、
  龍馬は天才肌、その点中岡は秀才であり、嫉妬したという説がありますな。
  余談ですが、この類で面白い説は 千葉さな子がお龍に嫉妬して、やったなどいう奇説もありますな。 [投稿者:izou]


Q:亀山社中はなんで海援隊になったのか? [投稿者:izou]

A:日本最古の商社「亀山社中」は慶応元年(1865)、薩摩藩や長崎の豪商小曽根家の援助をうけて(株式会社)、坂本龍馬らが長崎の亀山に作りました。
  亀山⇒長崎の地名
  社中⇒人の集まり

  当初、運輸業や武器購入の斡旋などの活動を行っており、長州・薩摩へ武器、米を売ることで莫大な利益を上げています。
  また、龍馬を含むメンバーは薩摩藩から給与を支給されていました。

  が、薩摩藩・小松帯刀の尽力で購入された「ワイルウェフ号」が蝦夷地行きを前に沈没等々、徐々に経営に行き詰まっていきます。
  結果、坂本龍馬が脱藩の罪を許されたことも相成り、慶応3年4月に亀山社中は土佐管轄となり藩の遊軍として隊長を坂本龍馬とした「海援隊」へと姿を変えました。
  またこの際、中岡慎太郎率いる「陸援隊」も結成されています。 [投稿者:LIONさん]


Q:後藤象二郎を中心とした土佐藩はなぜ龍馬の提案した大政奉還という案に飛びついたのでしょうか? [投稿者:LION]

A:土佐藩は実質的藩主だった山内容堂が、心情的に幕府を敬っていました。
  そのため「徳川慶喜や会津藩の松平容保を殺して、戦争によって幕府や東北諸藩を潰す」という薩摩、長州の武力討幕には断固反対だったんです。
  そんな折、龍馬がタイミングよく大政奉還案を出しました。土佐藩は、「この案なら慶喜公を救える!」と飛びついたのでしょうね。
  慶喜が政権を朝廷に返上すれば、武力討幕派が戦争を仕掛ける口実がなくなる、と考えたのだと思います。
  しかし実際には、武力討幕派は鳥羽伏見の戦いを起こして、江戸も焼き払おうとし(勝海舟たちの交渉で回避されましたが)、戊辰戦争の悲劇が起きました。
  薩長に影響力が大きかった龍馬が生きていれば、大政奉還案に続いていろいろなアイデアを出して、戊辰戦争ではない違った歴史になっていたかもしれませんね。 [投稿者:森の水]


Q:龍馬とは反対に、武力討幕派だった主な人物(や藩)は誰(どこ)でしょうか? [投稿者:森の水]

A:どの藩が討幕派なのかというと、そのときの情勢に応じてかなり変動しているようです。
  例えば討幕派の中でも有名な薩摩藩や長州藩も、ペリー来航当時は討幕という考えはあまりなかったようです。

  もとはと言うと、討幕というのは、外国からの圧力にどう対応していくかということを模索していった延長上に出てきた考え方でした。
  すなわち、 『海外は尋常でないほど強い』 ということに対して、

  薩摩藩は「開国論」・・・開国して海外を受け入れ、同時に自分たちも出て行くことで平和を実現する
  長州藩は「攘夷論」・・・海外勢を攻撃して追い払い、平和を維持する

  という点で真っ向から対立していました。

  しかし海外に対する様々な事件が発生するに従い、 『幕府はふがいなさ過ぎる。改革しなければ海外には抵抗できない』 というように考えが変化していきます。
  開国するにせよ、攘夷するにせよ、幕府をどげんかせんとどうしようもない、という点で薩摩と長州は意見が一致したわけです。

  さて、討幕で意見を一致を見ましたが、それぞれの思惑については人によって差異がありました(ここからが本題ですね)。
  長州では武力討幕の意欲が強いといわれていますが、薩摩や土佐では一部の過激派が武力討幕を主張するという状態だったようです。
  薩摩でいうと、西郷隆盛や大久保利通、小松帯刀は過激派、藩主である島津忠義をはじめとする大部分は保守派(島津は武力とかそういうのは関係なく討幕そのものに反対)だったようです。
  土佐の場合でいうと、坂本竜馬や後藤象二郎は穏健派で、板垣退助や中岡慎太郎は過激派といえると思います。
  あと一応佐賀(肥前)も討幕派でした。江藤新平と大隈重信くらいが過激派(でも武力討幕派というほどでもない)で、残りの藩全体というか、藩の体質そのものが保守的という感じだと思います。

  基本的には、薩摩、長州、土佐、佐賀の西方組が討幕派(結果的にどの藩も武力討幕を容認しましたね)で、東北が幕府派といえるでしょう。
  でも内部では人によって討幕への思いは違っていた、という感じです。

  こう考えると、坂本竜馬、中岡慎太郎、西郷隆盛、桂小五郎、大隈重信など主だった面々は、いっしょくたにされることも多いですが、決して一枚岩ではなかったわけですね。

  こんな感じで答えになったでしょうか。 [投稿者:あじのひらき]


Q:坂本竜馬などは当時頻繁に手紙のやりとりをしていますが、彼らはしょっちゅうあっちやこっちに行っていました。
  コンピュータのある現代でさえ頻繁に移動する人への配送は難しいのに、幕末ではどうやって本人の居場所を特定していたのでしょうか? [投稿者:あじのひらき]

A:この質問、以前から色々と調べてみてたんですが、結局よく分からないです。。
  ですが、なんとなく「こうなのかな?」という自論があるのでそれを書かせていただきます。

  まず、連絡手段ですがこれは主は「飛脚」の運んだ手紙ですよね。
  皆各々の身分により公儀は継飛脚、諸藩は大名飛脚、町人は町飛脚などを利用しました。

  ここは恐らくですが、通常の人はもちろん脱藩した人でさえ、ある程度「暗黙の拠点」となっている住処がありそこへ手紙が運ばれる。
  その際、長期外出などの置き連絡があれば、そこへ置手紙、もしくは別の飛脚が外出先へ運んだのではないでしょうか?

  龍馬が寺田屋で襲撃された際、寺田屋が拠点になっていましたし、また岡田以蔵が土佐勤王党から姿を消し京に潜伏した際は、
  坂本龍馬は以蔵を見つけることが出来ませんでしたので、ある種連絡は「人から人」ではなく「人から場所」だったんだと思います。

  あまり大したこと書けなくてすいません。フォローお願いします。 [投稿者:LION]


Q:脱藩するとは、つまりどういうことなのでしょうか?
  龍馬は北辰一刀流剣術を学ぶために土佐から江戸へ赴いていた時期もありますから藩外に足を運ぶことは罪ではないですよね?
  そこであえて「脱藩」という道を選んだメリットはなんでしょうか? [投稿者:LION]

A:藩ごとにそれぞれ独立した自治権を持つ、国家に近い自治体だったと考えるとしっくりきますよ。
  一応徳川幕府が統一政府だったけど、各藩ごとに法律も全然違っていたし。

  藩外に出るには基本的にその藩の政府の許可が必要で、坂本龍馬も剣術修行の時はその許可をもらって江戸に出てますが、
  そもそもこの許可を取るのがかなり難しかったみたいです。
  坂本家は金持ちで家老に金を貸したりしてたので、若い頃は特別な配慮をもらってたのかもしれない。

  脱藩は藩主の許可なく藩外に出ることなので、現在の亡命や国外逃亡に近いイメージ。重罪。殺されても文句はいえなかった。
  坂本龍馬も脱藩しちゃったので、土佐藩から見れば大罪人ですが、後に勝海舟が働きかけて許されてます。
  その後、もう一度脱藩するけど、その頃は土佐藩も志士を制御できなくなってて、曖昧なまま許されたんじゃなかったかな? [投稿者:ダニー]


Q:坂本龍馬の北辰一刀流、薩摩の示現流、新選組の天然理心流。この他に、有名な幕末の剣術流派とその代表的な人物、諸隊といえば? [投稿者:ダニー]

A:鏡心明智流ですかね!
  主に土佐勤王党党首の武市瑞山をはじめ、人斬り岡田以蔵、中岡慎太郎など土佐の有名郷士達も門弟でした。
  同流儀では気品と礼儀を重んじた、がそれとは別に剣を政論の手段に利用し、岡田以蔵という暗殺者をも生みだしている。
  これも幕末という時代の象徴でしょうか・・。 [投稿者:LION]


Q:もし新撰組で組手総当り戦をした場合、誰が一番強かったと思われますか? [投稿者:LION]

A1:新撰組で誰が一番強いかというのは、人それぞれどこに基準を置くかで違うと思うので、結論は出ないと思います。
  僕自身も司馬遼太郎からの印象を強く受けているため、正確な判断ができるかどうかと言われると疑問符を付けざるを得ません。

  そこでできるだけ客観的に見られるように、新撰組の主だった面々におけるそれぞれの流派と階級を調べてみました。
  基準は新撰組結成当時(1863年)です。

  芹沢鴨 神道無念流:免許皆伝師範役 36歳
  近藤勇 天然理心流宗家4代目:師範役 29歳
  新見錦 神道無念流:免許皆伝 27歳
  土方歳三 天然理心流:目録 28歳
  山南敬助 北辰一刀流:大目録免許皆伝 30歳
  伊東甲子太郎 北辰一刀流:道場跡取り 28歳
  沖田総司 天然理心流:免許皆伝 21歳
  永倉新八 神道無念流:免許皆伝 24歳
  斎藤一 天然理心流? 19歳
  松原忠司 関口流柔術師範役? 28歳
  武田観柳斎 北辰一刀流?
  井上源三郎 天然理心流:免許皆伝 34歳
  谷三十郎 種田流:師範役 神明流:指南役
  藤堂平助 北辰一刀流:目録 19歳
  鈴木三樹三郎 神道無念流 26歳
  原田左之助 宝蔵院流:免許皆伝 23歳

  いずれも猛者揃いですが、その中でも道場で教える側(師範役)は強いだろうという仮定のもと、

  芹沢鴨 神道無念流:免許皆伝師範役 36歳
  近藤勇 天然理心流宗家4代目:師範役 29歳
  伊東甲子太郎 北辰一刀流:道場跡取り 28歳
  松原忠司 関口流柔術師範役? 28歳
  谷三十郎 種田流:師範役 神明流:指南役?

  以上の五人は飛び抜けたものを持っていると思います。この中から、調べきれなかった松原と谷を除外します
  (本来なら加えるべきでしょうが、曖昧だと判断がブレると思うため除外しました)

  芹沢鴨 神道無念流:免許皆伝師範役 36歳
  近藤勇 天然理心流宗家4代目:師範役 29歳
  伊東甲子太郎 北辰一刀流:道場跡取り 28歳

  次に、当時言われていた名文句
  「位は桃井、技は千葉、力は斎藤」に従い、それ以外を除外すると……。

  芹沢鴨 神道無念流:免許皆伝師範役 36歳
  伊東甲子太郎 北辰一刀流:道場跡取り 28歳

  の二人が残ります。
  この二人については甲乙付け難いものがありますが、最後に年齢で見たところ、
  体力的に一番充実していたであろう20代のほうがキレがあるだろうという仮定で、

  伊東甲子太郎が新撰組の中で一番強いと思います。
  かなり強引ですが、こんな感じです。

  ほかの人も、誰が一番強いと思っているのか是非聞いてみたいですね。 [投稿者:あじのひらき]


A2:鬼の副長土方歳三。怖くてだれも立ち向かえんだろう。歯向かう奴は腹切りじゃ! [投稿者:ワイジロー]


Q:幕末時代では、現代以上に方言によるなまりは強かったと思います(小説でも、なまり方で出身地がわかるような記述が多く見られます)。
  それでは、たとえば九州の人が東北の人と会話しようと思ったとき、お互いに方言が理解できないという状況が想定されますが、
  当時の人々はこの問題をどのようにしてクリアしていたのでしょうか? [投稿者:あじのひらき]

A:話し言葉、書き言葉とあったのではないでしょうか。書けるということは、話すこともできた。
  つまり、必要な場面では標準語の様なもので会話がなされていたのではないでしょうか。 [投稿者:ワイジロー]


Q:幕末の志士たちはどのように女性を口説いていたのでしょうか。
  「拙者とお茶をしばきませんか?」とアプローチしたのかあるいは
  「団子屋の 軒先に咲く 一輪の花」とか短歌を詠んでアプローチしたのかでしょうか。
  はたまた・・・ [投稿者:ワイジロー]

A:これは恐らく恋文(詩)だと思います。
  短冊の中にあった高杉晋作の詩

  「三千世界の 烏を殺し、主と朝寝がしてみたい」

  これも、「何もかも忘れてあなたを抱きたい」といったニュアンスの女性宛の詩だったと思います。
  顔をみせずそっと恋文を手渡すことで、女性はその詩の内容から「きっと素敵な人だろう」と手紙の主に想いを寄せたのでしょうね。

  ちなみに坂本龍馬の初恋の人と言われる「平井加尾」は当時龍馬よりも上の身分であり、龍馬が簡単に手を出せる人ではありませんでした。
  しかし、2人はそんな障害をものともせず、愛を育んだそうです。(一説ですが)
  龍馬の「誰もが自由で平等な世界を作りたい!」という根底の思想はここから生まれたのかも?と考えるとちょっと楽しくなってきます。

  ちなみに、「団子屋の 軒先に咲く 一輪の花」ってググってみましたがでてきませんでした。もしや自作?w
  もしそうならとても卑猥とは縁の無い感じがしますが・・・w [投稿者:LION]


リクエストがあった様な気がするのでもう一句
  「朝焼けの 天見上げるは 亀若く 月陰しとき またしのびなく」 [投稿者:ワイジロー]


Q:幕末時代の坂本龍馬は誰もが驚き理解できないような大きな視野をもっていました。
  もし、坂本龍馬が今の現代を生きた時、どのような破天荒な考え方をもった人物となったでしょうか? [投稿者:LION]

A:薩長、薩土と結び付けてきた龍馬のことだからEUの様な連合を世界規模で作ろうと奔走したかも? [投稿者:ワイジロー]


Q:黒船来航時の政府、民衆双方の驚きを表現するとどんな感じだったのでしょうか。 [投稿者:ワイジロー]

A:回答お待ちしております。




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最終更新:2009年07月01日 22:13
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