堕ちる世界


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世界は今日も静かだった。

小鳥の囀りも、太陽の眩しさも、生活の音すらも、何も変わらぬ日常がやってくる。

1人の年若い新婚の主婦は台所へと立ち、底の深い鍋の中を覗いていた。
中ではぐつぐつと煮込まれた具がスープと絡みとても良い香りを放つ。お玉でそのスープを少量味見すると若い妻は小さく頷いた。
今日は夫が隣の老人と一緒に少し先にある湖へ釣りに行く日である。
新婚である私達にとてもよくしてくれるその老人ともっと仲良くなりたいからという夫の計らいだ。
妻も妻で、その老人の奥方と一緒にお茶でもして色々な世間話に華を咲かせようと楽しみにしていた日でもある。

「あなたー?いい加減に起きても良いのではないかしら?お日様もすっかり顔を出していますよ」

フリルエプロンとショートヘアーのポニーテールを小刻みに揺らし二階で未だベッドから出てこない夫を起こす。

「あー。うん、そうだね」
「今日は隣のお爺ちゃんと釣りに行くってはりきっちゃって、仕掛けを夜更かしして作ってるからですよ?」
「だってあのお爺さん。すごい大きな魚が釣れるっていうんだ。そりゃあ楽しみじゃないか」

大きく背伸びをしてパジャマ姿の夫は満面の笑みで妻を見る。

「ポトフを作りましたから、お爺さん達も呼んで4人で食べましょ?あなた呼んで来てよ」
「お?良いね。分かった。」
「…気持ちの良い朝ね」

寝る時に開けていた窓から清々しい風がカーテンを靡かせている。
妻が夫の事を思ってまだカーテンはたたまれていなかったのだが、夫も起きた事だと思い、妻はカーテンを一気にたたむ。
そのカーテンの先には今日釣りに行く老人ののどかな雰囲気を持つ煙突付きのレンガ造りの平屋が見える。
いつもその庭でコーヒーを飲みながら新聞を読むのが老人の日課だった。
だからそこから声をかければ、良いのだと妻は考えた。…いつもの光景が窓の向こうに広がっている。…はずだった。

「…っ!」

妻はその広がってきた光景に絶句し、思わず口を手で覆った。その光景が未だに信じられなかった。

「…あ・あなた…」
「ん?どうした?まさか、もう老人夫妻は朝食を外でとってる光景でも見えたのか?」

夫は笑いながら妻が外の光景を見つめる窓へと歩み寄る。

「…ないの」
「無い?…何が?」

妻の声は震えていた。

「…どうして?」
「どうしたんだよ…無いって…何が?」

夫は動揺している妻を不思議に思って傍へとよる。

「大丈夫?」

夫が傍へと歩み寄ると同時に妻は窓の外に向かって指をさした。その指の先を夫は見つめる。

「!」

夫もその光景に言葉を失った。

「そんなバカな、地震も何も起きていないはずだろ。」

窓枠を掴むと外に向かって老人と老婆の名前を叫ぶ。…だがその声が2人に届くはずが無い。
窓の外に広がっていた老人達の家も、庭も、その向こうにあった草原も…彼らが知る光景はその窓からは見えなかった。
ずっと奥に聳える神聖大樹と呼ばれる立派な大樹だけが、そこから見えた。
一夜のうちに、地鳴りも何も起こさずに彼らの日常の景色が、その場所から堕ちていったのである。
彼らにとって、普通に存在するはずのその窓の向こうに広がっていた景色は無くなっていたのだ。

妻はすすり泣く、心に残る老婆の笑顔が涙を止めるのを拒む。
夫は頭を抱える、記憶に残る老人が今日、釣りに行くことを嬉しそうに話していた光景が蘇る。

世界は今も…堕ちている。












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