野田憲太郎ピアノリサイタル - 晩学者の音楽(ドイツ編)


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野田憲太郎ピアノリサイタル - 晩学者の音楽(ドイツ編) 野々村 禎彦
http://www.web-cri.com/review/0404_noda-creole_v01.htm

 1976年生まれの野田憲太郎は、京都市立芸大、ワイオミング大、ノースフロリダ大でピアノと作曲を学び、現在はピアニストとしては主に関西圏で活動している。心情を素直に吐露すれば良い曲になるという日本の伝統的な作曲観にも、大家の後追いとエキゾティシズムが評価されてしまうヨーロッパ「前衛」の現実にも馴染めなかった彼は、先入観を排して同時代の譜面を徹底的に収集しながら作曲を進めている。この姿勢は演奏活動にも反映されており、2003年8月と10月に西宮・甲東ホールで行った2回の演奏会は、かたやファーニホウのピアノ独奏曲全曲、かたや西澤健一のピアノ独奏曲全曲をメインにしていた。彼の知識はネット上でも撒き散らされ、彼を良くも悪くも有名にしている。2ちゃんねるクラシック板における日本語では最初のヴァンデルヴァイザー楽派の包括的な紹介と、Wikipedia日本語版におけるポーランド楽派の項の執筆を代表例として挙げておきたい。

 この日の会場となったクレオールは、神戸・北野ハンター坂に佇む音楽喫茶。ステージから客席までの壁面をコンクリートブロックで覆い、残響を極力抑えた内装は、ピアノ中心のジャズや現代音楽がスケジュールの中核を占めていることに対応している(旧・代官山クラシックスを思わせる)。野田はこの会場でのリサイタルでは、ホールでの演奏会以上に、彼が現在紹介すべきだと考える曲目を並べている。昨年12月の第1回リサイタルではイギリスの中堅作曲家エムズレイの《ピアノのために1-12》(企画時点での全曲)を取り上げ、今回は日本ではまだ知名度の低いドイツの作曲家3人の大曲をひとつずつ弾いた(全曲日本初演)。「晩学者の音楽」というタイトルで30歳代以降に知られるようになった作曲家をまとめる、という体裁は便宜的なもののようだが、古典的修練以前に音楽外の体験を積んだ作曲家の方がユニークな発想が可能になっている、という一般的傾向を示唆する企画ではある。各曲50分、60分、40分という重いプログラムにもかかわらず、休憩時間には聴衆の質問を受け、彼が現在調べているという、ロシアの同世代の作曲家たちの面白さを滔々とまくし立てていた。

 プログラムの最初は、エヴァ=マリア・ホウベン《ピアノ》(2003)。1955年に生まれ、オルガニスト兼音楽学者として活動していた彼女は、90年代末にヴァンデルヴァイザー楽派の音楽に接して作曲に目覚め、2000年からその一員として作曲活動を始めた、この日のテーマを体現した作曲家である。全曲にわたってダンパーペダルを踏み続け、積み重なっていく音どうしの干渉を聴く作品。前半は、最低音域と高音域の強奏と中高音域の弱奏が、1音おきに交代する展開が続く。ほぼ固定された低音域と、数音ごとに変化する高音域の打鍵が響きの基底を作り、それと中高音域にぽつぽつと置かれる音の余韻がさまざまな干渉を起こす。直接音では両端音域が主役だが、余韻ではむしろ中高音域が主役になるのは、倍音構造を計算して音を選んでいることの証拠だろう。余韻を響かせる音が両端音域の中間よりは高音側に寄っている点も、ピアノの倍音成分に即している。等拍の音符が淡々と並ぶ素っ気無い譜面だが、野田は作曲意図を汲み、余韻のうなりの周期に次の打鍵のタイミングを合わせて弾き進める。

 問題は後半。前半の低音域の打鍵だけを抜き出したような左手の同音反復が延々と続く。時々音程を変えた時にうなりが生じ、テンポの変化も前半よりは大きいので、単に音を減らしただけではないことはわかるが、これでは前半と同程度の時間は支えられない。ヴァンデルヴァイザー楽派的な沈黙の探求を意図しているにしては、これではまだ音が多すぎる。数十秒だけ取り出せば「普通の」左手のためのピアノ曲の一部にも聴こえてしまう。野田自身も「43分(注:譜面の指定)を有する必然性があるかどうかは意見が分かれよう」とプログラムノートに記しており、果たしてプログラムに入れる必然性があったのかどうか。メイン2曲の前に何か弾くとしたらヴァンデルヴァイザー楽派の新人を、という程度の意図だったのだろうか。

 休憩を挟んで、ヴァルター・ツィンマーマン《初心》(1975)。作品の発想は、ヒッピー運動の時代にサンフランシスコで曹洞宗を広めた鈴木俊隆の、世界的ロングセラーとなった禅の入門書 "Zen Mind, Beginner's Mind" に依っている。Ian Paceによる録音(Metier, MSV CD92057) も既に存在するが、作品の概略を述べておこう。まず「フランツ・シューベルトの人生の5つの瞬間」と題された5曲の長いプロローグから始まる。禅の修業を始める以前の精神状態の象徴だというが、フェルドマンや民俗音楽といった、当時の彼の関心が直截に描かれている。そこに続くのは、修行中の精神の変遷だという、「古きを捨てよ」「心を清めよ」「意識を変えよ」の3部分。各々10曲の小曲からなり、第1部ではプロローグの要素が単純化され、第2部では新しい単純な旋律断片が導入され、第3部では第2部の断片が第1部の素材を用いて技巧的に彩られる。そして第4部「新しきに備えよ」は、鈴木の<初心の歌>による弾き語りで締め括られ、第2部の旋律断片はこの歌の一部だったことが明かされる。この日演奏されたのは、第4部の10曲から<初心の歌>以外の9曲を省略した、ツィンマーマン自身による演奏会版である。

 作品の全体的な印象は、ドイツ版《「不屈の民」変奏曲》といったところか。もちろん、ピアニスティックな装飾的変奏のさまざまなパターンがグループ化され、複雑化の果てに即興演奏に至り、最後に主題が回帰してドラマティックに終わる《「不屈の民」変奏曲》と、曲が進むほどに旋律から音を抜く簡素化が行われ、これといったドラマもなく禅問答のように終わる本作は対照的でもあるが、それは前衛の時代にピアニストとして鳴らしたジェフスキと、当時はピアノ書法に慣れていなかったツィンマーマンの違いと捉えるべきだろう。危なっかしいパッセージが綱渡り的に続くのに説得力のあるジェフスキの自作自演(hat hut, hat ART CD 6066) は、《「不屈の民」変奏曲》の複雑さは手癖の譜面化に他ならないことを物語っている。振り返って本作は、確かに簡素な書法による部分が多いものの、プロローグの断片を両端音域の連打で裁断する第1部第5曲<まわりの物を壊せ>や、プロローグと第4部の2系統の要素に反復音型と声が加わって加速していく第3部は技術的にも難しく、単に「反技術主義」で括られる音楽でもない。むしろ本作の特徴は、歌や唸り声や口笛や呼吸音など、声の全面的な使用にある。

 Paceの録音は、ダイナミクスも発声も控え目な、禅の一般的イメージに沿った侘び寂び系の音楽である。他方、この日の野田の演奏は、ダイナミクスの幅を上限近くまで取り、アクションも大きくて声も生々しい、随分と生臭い音楽になっていた。だが、これは恣意的な解釈とは言えない。そもそも曲の構成自体が、繊細なプロローグに無骨な五音音階の歌が侵入して取って代わり、その過程では暴力的な衝突もしばしば起こるような音楽なのだから。極端なダイナミクスと派手なアクションで凄そうに見せる演奏態度は、現代音楽の悪しき伝統のひとつだが、この日の野田の演奏はそれには当たらない。訥々としたフレーズを、ピアノ初心者よろしく一本指で探るように弾いて「初心」らしい雰囲気を出す細やかさこそが、この日の解釈の真髄だった。

 再び休憩を挟んで、最後はフォルカー・ハイン《203...》(1996)。作品自体は、この日のプログラムの中でも特に興味深いものだった。前衛的な断片が脈絡なく堆積され、曲が進むほど破壊性を増していく。高音域の残響を増幅する指定は、作曲者の承認の上で無視したとのことだが、ちんまりした筆跡の譜面とは不釣合いなほど激しいこの日の野田の演奏ならば、増幅する必要はなかったように感じられた。ダイナミクスの幅やノイズ(蓋への打撃や内部奏法に加え、ペダルを踏み込む音など)の多用はラッヘンマン的で、野田もプログラムノートで《Serynade》(1997/98)との類似性を指摘している。ハインの知名度が低い理由として、野田は外的な要因をいくつか挙げていたが、この作品やその他いくつかの音源から推察されるのはより内的な要因、すなわち古典的構成感の欠如だと筆者は考えている。音素材のレベルではパラレルと言ってよい、ラッヘンマン、ヘスポス、ハインの知名度や評価がこの順になっているのは、古典音楽との類似性が高いほど現代音楽界では評価されることの反映だろう。だが、器楽ノイズを楽音と同様に構成する姿勢は、創作初期には大きな成果を生む反面、一度手法として確立されてしまうと楽音と同様の停滞が待っている。ノイズをノイズとして愛でる姿勢の方が息の長い創作が可能になることを、ハイン作品は教えてくれた。

 演奏は、孤立した音が中心になっている前半の鋭いタッチは印象的だったが、後半になって音数が増えてくると、音色が単調になって衝撃力は今ひとつ。《初心》では決まっていた同音連打も刃こぼれが目立った。問題は技術よりも疲労の蓄積だろう。この曲が最後に来るのがプログラムとしてはベストなのは確かだが、楽屋のない店内で休憩時間もナチュラルハイで喋り続けていたのでは、途中でガソリンが切れてしまう。その可能性を見越して、技術的には平易な部分が多く、多少集中力が切れてもストーリーに乗っていけば格好が付く《初心》を最後に持ってくるのが、この3曲の並びでは現実的だったと思う。

 野田のピアノ演奏は、作曲家であることが前提になったものだと感じた。楽音自体の鮮烈さや美しさで聴衆を惹きつけ、作品への関心を喚起するというよりは、眼目はあくまで選曲にあり、演奏は作品を解き明かす手段と位置付けられる。常に表現のパレット全体を使う結果、作品固有のトーンが見えづらい解釈も、作品分析の解像度を最大にするための手段だと思えば一応納得できる。個人的に弾きたい曲よりも、現在の日本で弾かれるべき曲を優先している、という趣旨の発言も彼のスタンスに適っている。だが、それならばなおさら、その「見識」をプレゼンテーションする工夫が必要なのではないだろうか。選曲が眼目ならば、その価値を共有できる聴衆が多そうな地域で弾くのが常道だろう。演奏会の宣伝も会場のウェブサイトでの告知程度で、「関西圏の現代音楽ファン」という最小限の母集団にすら情報は行き渡っていなかったようだ。履歴に「世界初演」「日本初演」と書ければ客入りは関係ない、と割り切っているとしたらもはや何も言うことはないが、一聴衆としてはそれではあまりに寂しい。この日聴かせたのは、履歴を飾るためのやっつけ仕事とは次元の違う、入念な譜読みに基づいた入魂の演奏だったのだから。

(2004年4月29日 神戸・クレオール)
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