※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

 

 

 


 その名を、我々は知り得ない。




 潮の薫りが濃い。海鳥は曇り空を旋回しながら、忙しなく騒ぎ立てている。均整のとれた赤い屋根と屋根の間の急斜(この港町は崖沿いに連なっている)を、あたしは危なげない足取りで降りていった。
 砂色をした石灰岩の階段は不揃いで、角が欠けて丸くなっている。足の裏の土踏まずに上手く押し当てるのが好きで、そこに意識をとられているせいか変な歩き方になってしまうが気にしない。
 波止場に着く頃、漸く足場は平らになった。今日は曇っていたが、風はそよぐ程度で波も穏やかだ。
 海は、神様の領域なのだと父は言っていた。だから、時に荒ぶり多様な側面で人間を戒めるそこはその多様性から決して穢されることはないのだという。言い換えれば常に流動する水が自然の循環器の役割を果たして穢を漱ぎ続けているだけなのだけで、それなりの生活水準に在る人たちには分かり切っていることだ。けれど父はそうした、少し古い表現を好む人だった。そして特に海を指してそう言った。原理は川も湖も同じで、どちらも神様の領域である筈なのに父は殊更海を好んだ。
 あたしは曇り空と黒々とした海を背景に、防波堤に腰掛けて水平線を眺める背中を見つけた。父だ。潮風に傷む様子もない黒髪が、肩の辺りで揺れている。襟足と、前髪が大分伸びてきているのでそろそろ切ってやった方がいいかも知れない。
 防波堤に座り込んだ父は、下ろした足に飛沫が被ることを気にした風もなく白と黒とのコントラストが強い、空と海との境界辺りを眺めていた。傍らに立つと、落ち掛かったあたしの影に顔を上げる。赤茶けたブラウンの双眸があたしに向けられた。前髪がこぼれていく様に矢張り髪を切らなくては、と思った。
 歳は――若いと思う。根拠はあたしの心象と、歳の少し離れた兄妹によくよく間違われるという周囲の評価と両方だ。多分、三〇歳には届かない。あたしが今一〇歳なので、そうすると十代の頃には既に人の子の親だったという計算になる。生まれたときの記憶は流石にないが、少なくとも二歳ぐらいのことは覚えている。母親についての話題を上げることはあまりしないので(訊けば訊いたことは教えてくれる)、性悪女に騙されて入れ上げて血の繋がりなどろくに確認せず押し付けられてしまったのだと聞いても少しも驚かない気がする。
「ナオが呼んでるわよ。あたしも、お腹が空いたわ」
 太陽は見えないが、日差しを感じさせる曇り空が眩しいのか、父はあたしを見上げて目を細める。そんな父の横に腰を下ろすと、もうそんな時間か、と言って頭を撫でられた。
 父はあたしが物心をつくもうずっと前から、こうして世界中の色々なところを行き来していた。一〇年間、本当に色々な場所へ行った。初めて行った場所も在れば、数ヶ月単位で何度も訪れることのある場所も在った。
 父と、父の研究仲間らしい砂色の髪の男(ナオだ)と、あたしは物心ついたときから一緒に居た。二人が研究対象を同じくする、つまり、穢の研究の為に行動を共にしているのだという事実以外のことをあたしは知らない。あまり興味もない。父と男との間には確かに強い繋がりがあって、そこに他人の入り込む余地はない。勿論、あたしでさえもだ。けれど同時に父と男との繋がりは研究対象を同じくするという一点にのみ集約されている気がする。それはつまり、その一点、その接点を失えばたちどころに散り散りになってしまうという危うさを感じさせる。
 これまでも、これからも、口が裂けても言葉にすることは決してないだろうが、あたしは父も男も好きだった。三人で居るのが好きだった。この奇妙で不可解な関係を、とても好ましく大切なものであると感じていた。
 だから一ヶ所に落ち着けないせいで同年代の友人が出来ないことも、母親が居ないことも、苦にはならないわけではなかったが、耐えられた。
 だから、父が、男が、何かに取り憑かれたかのように研究をする穢の正体など、解らなければ良いと思う。彼らの求める答えに、永遠に手など届かなければ良いのだとすら、あたしは思うのだった。
 だが、きっとあたしの願いは叶わない。正体など暴かれずとも、答えに手が届かなくとも、何れは父も、男も、自身の抱える後ろめたさ、大仰な言い方をするのなら罪のようなものに折り合いをつける日が来るのだろう。だからあたしは、そんな日が訪れなければ良い、と思う。例え永遠の国など存在しなくても、例え楽園が約束を得た時点で楽園ではなくなってしまうのだとしても、あたしはたかだか一〇歳になったばかりの小娘で、それくらいの夢を見る自由は許されていたかった。
「あいつは研究所か?」
「そう。ヴィッキーに訊きたいことがあるとかで、あたしと一緒に家を出たわ。帰ったら父さんに話があるって」
 ヴィッキー――ヴィクトリア=ステイシーはこの孤島の研究所員だ。研究所勤めの所員は彼女を含めて五人居る、というのがあたしたち三人が事前に仕入れた情報だった。
 この島の周囲は海流が特殊で、七年に一度の周期でしか訪れることが出来ない。その上、島の上空は常に乱気流が渦巻いており強風で空からの侵入も儘ならないという、比の打ち所のない筋金入りの孤島だ。そして、この特異な環境に穢が関係しているのではないか、と考えた国が研究者たちを在中させるに至った。その情報を掴んで父や男が食い付かない筈がなく、こうしてあたしは絶海の孤島連続殺人事件といった三流ミステリー小説には二つとない恰好の舞台に訪れることになった。勿論、父も男も世間的に少しどころではない感覚の持ち主だったが、一応は年頃の娘をこんな辺鄙な上にどんな危険があるとも知れない、下手をしたら七年も足止めを食う可能性のある場所へ連れてくることを渋った。そんな大の大人二人を説き伏せて無理矢理同行したのはつい二日前だ。何処にそんな大金を持っていたのか、宿の女将にあたし共々それを押し付けようとしていた父の背中を蹴り飛ばし、男の頬を拳で殴り付けたのは三人で居ることに拘り続けるあたしの我儘でしかない。だが、あたしたちの期待を裏切り、島は静寂を守っている。街並みは打ち棄てられてから久しく、五人居た筈の研究者は一人になっていた。島も、女も沈黙したまま、ただ静かに波のたゆとう音が轟いている。あまりにも静かな、潮騒だけが支配するこの島の防波堤はこの世は父とあたしとだけを残して滅んでしまったかのような錯覚すら起こさせる。
「様子がおかしかった」
「……ナオ?」
 水平線に向き直った父が、目を細めて言った。そしてあたしの問いに、浅く頷いた。
「あの男がおかしいのはいつものことじゃない。主に頭の具合とかが、ね」
 軽口で応じながらも、あたしは声に出さず父の言葉を肯定した。
 男の様子は、おかしかった。言われてみればそうだ。思えば、昨夜から心が何処か遠くへ行ってしまっているようだった。
 この廃屋ばかりが立ち並ぶ島に着いて、殺人事件が起きるほどの人間が存在しないと判ったあたしたち、というより父と男は穢の調査のため先ずはヴィクトリアとの接触をはかった。けれど彼女は何かに怯えるばかりで何も情報は得られなかった。ただ一つ、彼女の他の研究者たちはどうしたのだ、という父の問いにだけは一瞬表情を強張らせたが、それだけだった。
 あたしたちにはあまり時間がない。島の海流が閉じてしまうまであと七日も残されていない。だから「何か」に怯える彼女との接触は男に任せ、父は概ね一人でこの島を散策している。勿論自身も研究者である男は与えられた役割に不満を溢したが、人種的な警戒心があるのかも知れない、という父の言い分を聞くと一応は納得したようだった。父はあたしや男と違い生粋の有色人種だ。目鼻立ちからしてこの地方の人間ではない自分や、幼い娘(あたしのことだ)よりも男をあてがう方が適当だという判断だ。
 そうして、一日目の夕食は大半を男の嫌味が占めた。父は慣れたもので聞き流していた。二日目は父と男が互いに成果――と、いうほどのものはお互いに上がらなかったようだが、それでも各々の仕入れた情報などを交換した。矢張り住人らしい住人は居ないらしいということ、ヴィクトリアから何も聞き出せなかったという愚痴、そんなところだ。三日目も実のない成果を報告した。父は打ち棄てられた廃屋が、時折不自然な朽ち方をしているのが気になる、と言った。故意的に、建物が崩壊している箇所が幾つかあったらしい。血の跡のようなものまでこびり付いている場所もあり、あたしたちのこの島に対する不信感はつのった。父の話を聞いて、男は穢者の手によるものではないか、と問うた。
 穢者とは父や男の故郷で穢に人が触れることで引き起こされる、後天性受容体異常症に罹患した人間の俗称だ。穢憑き、と呼ばれることもある。風土病なのか、父や男の故郷以外では殆んど症例がない。症状は個体差はあるものの、総じて身体能力、自然治癒能力の向上と判断力の低下や凶暴性の増加という共通点がある。そして、何より人を捕食するようになるのが最大の特徴だ。
 幸い、あたしはそんなお伽噺の中のモンスター染みた病人にお目にかかったことはなかったが、父は破壊されたその形状には確かに既視感を覚える、と一度は男の言葉を肯定した。しかしすぐに、肝心の穢者の姿がないという点を指摘した。穢者は飢餓の生き物だ。だが、あたしたちはこの島に着いて三日、何事もなく過ごしている。何もなさ過ぎて、却って不気味なほどだ。
 男は相変わらず口を閉ざし続けるヴィクトリアに、ダメ元で訊いてみる、と言った。三日目の夕食はそれで終わった。
 四日目は、男は帰らなかった。夜になって風避けに使っている根城に男から電話があった。一見廃屋のようなこの島に電気が通っていたことに驚いているあたしを余所に、父は男と二言三言、言葉を交して受話器を置いた。電気はヴィクトリアの研究所からで、今夜はそちらに泊まるらしい、と父から伝えられた。父と二人きりで囲んだ夕食の味は、あまりよく覚えていない。
 五日目の正午を過ぎた頃、男が帰った。父はまた島内の散策に出ており廃屋にはあたし一人だった。男は言葉少なに昨夜は寝ていないこと、詳しいことは夕食のときに話すということだけを告げて部屋に籠もってしまった。確かに、人種的なものを差し引いても男の顔は蒼白で、父が帰る少しの間でも眠った方が良いと思ったので特に引き留めることはしなかった。日が落ちる前に帰った父に男のことを伝えて、それからまた二人きりで食卓を囲んだ。気を使ってくれたのか、父は昔飼っていたという猫の話をしてくれた。けれど父が猫を飼っていたなどという話は初耳で、あまり興味もなかったあたしは話半分に聞き流した。それに、猫にはあまり良い思い出がなかった。
 父が起きても、あたしが起きても、男は部屋から出てこなかった。父は時間が惜しい、と言ってコートを羽織ってしまった。それから、あまり遠くには行かないので男が起きたら呼んでくれ、とあたしに言付けて父は出て行った。父が出て行ってから一刻ほどして、男は部屋から出てきた。顔は相変わらずの蒼白で、目元は色濃く隈に縁取られていた。これは一睡も出来ていないだろうな、と思いながらあたしは男に珈琲を飲むかどうか訊いた。男は断ろうとした言葉を半ばで飲み込み、それから首を振って「やっぱ貰うわ」、と言った。
 男と過ごす朝は静かだった。本当はすぐにでも父を呼びに行くべきだったのに、あたしはそれをしなかった。何故か、心の何処かで、もう少しだけ二人で居たいと望む自分が居た。父と二人きりで囲む食卓に感じたのは味気なさばかりだったのに、男と二人で居るとあたしは何処か浮ついた気恥ずかしさで胸がいっぱいになった。基本的に口数の少ない父と違い、口から先に生まれたような男がただ黙々と珈琲を啜る、その異質さに気付かない程度には、あたしはひどく浮かれていたのだった。
 父を呼びに行く、と言ったあたしと一緒に男も廃屋を出た。ヴィクトリアのところへ行くのだと言う。すぐに戻る、とそれだけを告げて男は砂色の髪を翻した。男の背中が曲がり角を折れて見えなくなるまで、あたしはそこに居た。
「戻るか」
 父は、そう言って立ち上がった。強く、冷たい風に剥がされそうになるマフラーを巻き直して、あたしを見下ろす。あたしは小さく頷いた。

 拠点にしている廃屋に戻っても、男は居なかった。割れて床に散らばった硝子片は、一日目の夜に三人がかりで片付けた。それに靴底もそれなりの厚みがあるが、それでもささくれて日に焼けた木目の床を注意深く歩く。
 男の帰りを待つ間、父は台所に籠もった。驚くべきことに、殆んど無人に近いこの島には水も電気も通っている。研究所では自家発電をし、水の浄水から何からを賄っているようだ、と二日目の夜、男が言っていたのを思い出した。
 台所からは父がヴィクトリアから分けてもらった保存食を温める匂いがしてくる。あたしも男も食べられれば良いというところがあるので、味気ない保存食を温めることで少しでも美味しく食べようとする父のマメなところには感心するのだが、それを言ったら何故か父は何処か困ったような顔をして、それから顔を反らしてしまった。
 食事の用意が済んでも、男は帰ってこなかった。父はあたしが箸を付けないのを見て、冷めない内に食べるようすすめた。父が間を置いて三度同じ言葉を繰り返す頃、あたしは漸く今日最初の食事を摂った。あたしが二口、三口、と缶詰めのスープを啜るのを見て、父もパンをちぎり始めた。温めた筈の食事は随分と冷めていて、いつも父が黙々と手間をかける理由が分かった。
 食事が終わると、父は出掛けた。男の話は夕食のときに訊くことにしたらしい。父はあたしに外に出ないよう言い含めて出ていったが、あたしは男を探しに出掛けた。
 あたしたちが来てから、島は晴れ間を見せたことがない。風は強く、女が啜り泣くような轟音と、潮騒とがこだましている。
 父と鉢合わせるのも事なので、極力島の中心部や研究所には近付かないようにすると、どうしても行動範囲は限られてしまう。結局、父を迎えに行った波止場を少し歩いただけで大した成果は得られなかった。
 一人海岸線を歩いていると、猫を見つけた。色の濃い、錆の子猫だった。猫にはあまり良い思い出がなかったが、それでもこの島に来て久しぶりの父や男、ヴィクトリア以外との接触に物珍しさを覚えて、あたしは思わず足を止めた。すると子猫は身軽な動作であたしの足元にまでやってきた。あたしがしゃがんで手を伸ばしても、子猫が逃げる様子はなかった。だからかどうかは分からないが、あたしは伸ばした手を途中で静止させると一拍の逡巡の後引き戻した。その動きを追う猫の視線が何処か残念そうに見えたのはあたしの錯覚だと思う。そうでなければ、願望だ。
「あんたさあ、ちょっと昔の男に似てるのよね。だから、パスだわ」
 あたしはそう言った後に無理矢理笑い声をあげると、立ち上がり歩き始めた。そんなあたしの後ろを、子猫は短い足で追い掛けてきた。追い縋るように必死な様子が、ひどくおかしかった。
 三年くらい前に、あたしは猫を飼っていた。この子猫と同じ、濃い錆の小さな猫で、左前脚の付け根だけが、円く薄い茶色をしていた。勿論、父や男には言っていない。本当は最初に見たそのときに、父に飼いたいと言ってみたのだが、一つ所に留まることのないあたしに猫を世話し続けることが出来る筈はない、と言われて黙るしかなかった。一時の人間の気紛れで温もりを覚えさせてしまうことほど残酷なことはない、とも付け加えて言った。
 父の言葉の正当性は、七つそこらの馬鹿な子供にも分かった。だが、言葉の上っ面だけを理解した気になっていた馬鹿な子供は、父や男の居ない間を見計らって子猫の世話をした。だから、飼うとは言っても雨風を避ける衝立てを用意してやったり、食事の残りをこっそり分け与えたりする程度のことしかしていなかった。
 結局そこには一週間も滞在せず、あたしは猫を置いて父と男に付いていった。恐らく、一つ所に留まらないあたしは友人と呼べるものもなく、またよしんば出来たとしてもすぐに別れなくてはならないという生活に寂しさを覚えていたのだと思う。そのくせ、ろくに自分の相手をする気のない父や男に置いて行かれるのも嫌だった。
 今の生活に不満があるのだと口にすれば、父や男はあたしを何処ぞの家にでも押し付けて去ってしまいそうな気がしていたから、あたしは何も言えた例しがなかった。そして、父や男があたしの為に一つ所に落ち着いてくれるとは、どうしても思えなかった。
 そんなあたしの我が儘な寂しさに付き合わされた猫は、中途半端な人間の温もりだけを教えられた。置き去りにされた猫は、あたしのことなど忘れて上手いことやっているのかも知れない。けれど、もしかしたらまだあたしを待っているのかも知れない。死んで、しまったのかも知れない。
 だから、猫を見ると嫌なことを思い出す。あたしが置き去りにした、選択の一つとして、可能性の一つとして、きっかけの一つとしてすら上げることを許さずに殺した未来を思い起こさせるからだ。あの猫はあたしだったかも知れない、と思うのが嫌だった。同じくらい、置き去りにした猫には本当に酷いことをしたと、思うのが辛かった。あたしは結局、あたしの寂しさを紛らわせる為に同じように寂しい生き物を増やしてしまった。
 あたしはあてもなく海岸線を歩き、突き当たったそこで漸く踵を返した。きっと、あたしは男が心配で居ても立ってもいられなかったわけでなく、ただ父と男とを待つ独りの時間を持て余していただけなのだということは、砂地に伸びた二つの違う生き物の足跡を辿る内に気が付いた。
 猫は何処までもついてきた。廃屋に戻る途中の、子猫には辛いだろう急斜のきつい階段も短い足で懸命に上り、ついてきた。その姿は微笑ましく可愛らしいものだったが、自分が置き去りにした猫もこんな風にあたしに追い縋っていたのだろうか、と思うと辛かった。擦れかけた記憶の中の猫と今あたしを追う猫とが、似ているような気さえしてくるものだから、どうしようもなくたまらない気持ちにさせられた。
 結局、猫はあたしたちの根城近く、かなり高いところにまで付いてきた。けれど角を曲がればもう着くというところで急に足を止めた。あたしはといえばそんな猫の様子を訝しみこそすれ、待っていてやる義理もまして連れ帰ってやる義理もないのだと、歩調を緩めることすらしなかった。あの猫と、あたしが置き去りにした猫とは違うのだ。
 そうして、猫が歩みを止めた理由は角を曲がりきったところですぐに知れた。
 ひび割れた廃屋の石壁、立て付けの悪く重いばかりの扉の、その脇のところに背を預けて父が立っていた。言い付けを守らず、外へ出ていたことは父が言及するまでもない。あたし自身、不意討ちに言い訳を取り繕う余裕もなかった。
「ほっんと……最悪」
「外へ出ていたのか」
 あたしの悪態にも父は淡々と言葉を返すだけだった。咎める様子もない。開き直りからか居直りからか、あたしは父の態度に苛立ちを覚えた。怒り、と言い換えても良い。
「そうよ、悪い?年頃の娘を廃屋に閉じ込めておく方がよっぽど不健全でしょう」
「あいつを探しに出掛けたのか」
 父はあたしの行動を断定した。考えるまでもない。昨日までは良い子でお留守番していた娘が、男の様子がおかしくなった翌日に言い付けを破り外へ出掛けていったのであれば、想像するに易い。
「そっちこそ、早かったじゃないのお父さん?……あたしの監視でもしてたのかしら。暇ね」
 父の問いには答えない。断定であるのなら問い掛けですらなく、答えすら必要はないと思ったからだ。だから、というわけではなかっただろうが父もまた、あたしの問いには答えなかった。
「アンタがナオを放っておくからでしょう。どうして居なくなる前に気に掛けてあげられなかったの?あたしのことなんかより、今はアッチでしょ」
 苛立ちとも怒りともつかない衝動に任せて、責める言葉を口にする。歯痒さに、奥歯を噛み締めた。
 口を閉ざした父の脇を擦り抜けて、あたしは廃屋へと戻った。すれ違うときも、父は何も言わなかった。あたしの方を見ようともしなかった。あたしも、父と視線を合わせようとは思わなかった。
 無言のまま、父はあたしの後に続いて後ろ手に扉を閉める。
 猫は、知らない。

 窓に縁取られた、相変わらず雲掛かった空は陽の光ばかりが透けて奇妙な陰影を描いていた。日が沈む緩やかな歩調に少し遅れて、少しずつ彩度を欠いていく空が濃い藍色に染まるまで、あたしはあてがわれた部屋の寝台に突っ伏していた。
 男は、帰らなかった。あたしも、恐らくは父にも、そこに落胆はなかった。薄情だ何だという以前にきっと、そもそもが大したことではないからなのだと思う。男が一人居なくなったところであたしの世界が劇的に変わるなどということはあり得ない。相変わらず、大泣きすれば疲れて眠くなるし、時間が経てば空腹を覚えもする、身体は何処もかしこも到って正常に機能している。男の不在など、全く関係ない。
 だからこそ、余計に滑稽になる。男の不在は、そしてきっと父の不在ですら、あたしという存在を何一つ損なうことは出来ない。なのに、あたしはあたしを求めるものの声を無視して、彼らがなければ生きてゆかれないという根拠のない不安ばかりを打ち消すことに躍起になった。
 何一つ違うことのない歯車が定時には空腹を促し、意地を張るのも馬鹿馬鹿しいあたしは扉を開けて階下へと向かった。
 廊下も階段も薄暗く、足場はあまり良くない。それでもリビングだったであろうと予測される、いつもならあたしたちの団欒する部屋から漏れ出る灯りを頼りに暗がりを歩く。リビングの灯りの主は父だったが、あたしは特に落胆はしなかった。食事の用意はなく、父は部屋に現れたあたしに声をかけようともしなかった。あたしはそんな父を横切って台所へと向かう。
 父があたしに声を掛けられないのは仕方がない。父は相槌を打つばかりだったが、その耳元と口元には受話器があてがわれていたからだ。
 水や電気はこの島の到るところに張り巡らされていたが、その実外界との通信は発電所を兼ねている研究所に限られていた。そして、この隔絶された島内で父が電話を掛ける相手は限られている。
 父のように食事に手間を掛けるでもなく、あたしは缶詰めを開けると冷えたスープを啜りながら台所を後にした。普段なら注意をするとまではいかなくても、顔をしかめるなりしただろう父は受話器を静かに置いただけであたしの不作法に何を言うこともなかった。
「今日は、ヴィクトリア=ステイシーのところへは行っていないらしい」
「そう。何処ほっつき歩いてんのかしらね、あの不良中年は」
 言葉を返さないでいるのも子供が意地を張っているだけのようで嫌だったので、あたしは軽い調子で言った。すると、娘であるあたしから見ても表情豊かとはとても言えない父が明らかに安堵したような様子を見せるものだから、逆に言葉に詰まってしまう。
 昼間のこともあって、気まずくなったあたしはアルミの味のするスープを急いで流し込んでしまうと、さっさと自分の部屋へと引き上げて行った。
 父だって、心配していない筈がなかったのだ。利害の一致、ただそれだけの関係なら一〇年近くも行動を共にし続けることなど、出来る筈がなかったのだ。そんなことは分かっている。でも、あたしは分かっていて、多分、嫉妬した。だからこそ、そんな対等な二人、父と男の関係に、嫉妬した。

 物音に、目が覚めた。時計はなかったが、東の空が薄らと明らんでいた、夜明けの少し前のことだ。
 物音は主張としては控えめで、けれど気遣う余裕がない切羽詰まった感じがした。
 あたしが上体を起こして毛布を脇へ追いやると同時に、廊下から蝶番の軋む音と扉を開閉する音とが聞こえた。隣の、父の部屋だ。そう理解するに思考が到った途端、期待に胸が高鳴った。
 寝台の下に脱ぎ散らかした靴を履く時間すら惜しいあたしは、踵を踏み付けよろめきながら扉へと向かう。ドアノブに手を置いて体重を預けながらもう片方の手で足を靴の中へとねじ込んだ。勢いよく扉を開けて夜明け前の暗い廊下へと飛び出すと、一気に階段を駈け降りた。
 階下の、扉の前に二人は居た。大分傷んでいるとはいえ、意外としっかりとした造りのこの家においてあの立て付けの悪い扉は唯一の出入口だ。その前に、一人は途方に呉れた風に立ち尽くしていた。一人は、力尽きたかのように蹲っていた。
 立ち尽くす父が、あたしに気付いた。けれど視線は、すぐに男の方へと引き戻される。あたしも、父につられるようにして男を見た。蹲り、俯く男の表情は窺い知れなかった。
「――……ナオ?」
 寝起きの、少し擦れた声で男の名を呼ぶ。男はあたしの呼び掛けにも少しも反応を示さず、ただ俯いたままでいた。父は何も言わなかった。あたしが男の方へおずおずと歩み寄るときですら、ただ静かに――観測するものの目で事の次第を見守っているだけだった。
 身体を傾けて、蹲る男へと手を伸ばす。振り払われるかも知れない、という不安はなかった。確信というより、振り払われても良いから男に触れて、その存在を確かめたかった。
 肩に、触れる。カーキ色のジャケットは、あまり男に似合ってはいなかった。その肩口が、小さく寄れて皺になる。あたしが触れても、男の褪せた砂色の髪は少しも揺れる様子がなかった。いっそ力一杯拒絶してくれれば良いのに、とあたしは悲しく思う。
「ナオ、どうしたの?何かあったの?」
 問うても、男は答えることをしなかった。けれど、手を置いた肩が小さく、本当に小さく震えていることに、あたしは気付いてしまった。男が、何かに酷く傷付き怯えているという事実に、あたしは理由も分からずただ心が痛んだ。
 それ以上、掛ける言葉が見つからず黙り込む。そんなあたしの背中越しから、労りも躊躇も全く感じさせることのない腕が唐突に伸びてきた。
「何を」いつもの、ただ平坦なだけの声とは違う、低く何事かを押し殺した、唸るような声で父は言った。「殺してきた、クセナオユキ……?」
 父は、蹲った男の腕を鷲掴みにするとそのまま力任せに引き上げた。拳一つ分は父より背が高い筈の男は、引き摺られるようにして立ち上がり、そこで漸くはっとしたような顔をした。けれどあたしはそんな男の表情の変化よりも、父の言葉と、そして暗がりの中にどす黒く浮かび上がる、男のジャケットに付いたシミに釘付けになった。血、のように、見えた。
 父は問いを投げ掛け、男を立ち上がらせてしまうとそれに満足したようにさっさと手を放してしまう。男は父の手を無くしてもその場に蹲ることはなかった。ただ、父に言われて、まるで初めて気付いた風に茫然と、シミに塗れたジャケットの袖口を凝視していた。
「ナ、オ……覚えてない、とか言わないわよね?」 
 動かなくなった男に不安を覚え、あたしはジャケットの裾を引く。男は、ゆっくりと袖口から視線をあたしの方へ向けて、それから父を見た。
「……人は、殺してない」
「なら、何を殺した」
「血じゃない。これは……」
「何の血だ?」
 誰の、と父は言わなかった。人を殺していない、と言った男の言葉を否定はしなかった。
 男は父の問いには答えなかった。ただ静かに、首を横に振った。
「上手く説明出来そうにない」
「ヴィクトリア=ステイシーのものではないんだな?」
「あんな美人、殺す理由がないだろ」
 決して父は冗談めいたことを訊いたわけではなかったが、男はほんの少し表情を和らげ軽い調子で言った。少しぎこちない風でもあったが、それでも男が見せた、恐らくは気遣いのようなものを父もあたしも黙って受け入れた。

 出掛けに酷い顔をしていた男は、その様を更に凄惨なものにして帰ってきた。指摘すれば「こんな色男捕まえてそりゃないだろ」、と軽口を叩ける程度には気持ちの方は浮上しているようだったが、色々と事情を訊きたそうにしていた父を追いやりあたしは男をバスルームへと押し込んだ。
 男がバスルームから出る頃には、既に日も完全に上っていた。あたしは少し早めの朝食にと、暖めなかったスープを暖め、固く冷たいばかりだった干し肉を焼いてチーズを乗せた。普段なら寧ろ率先してましな食事を提供しようとする父は、今日に限ってあたしのすることに手出しして来なかった。罅の入った窓ガラスの、窓枠に縁取られ歪んだ世界を睨むようにして凝視するばかりだった。けれどそんな父の様子など、あたしには関係ないし気にもならなかった。男が帰ってきたという事実と安堵とに、あたしは浮かれていたのだと思う。
 鴉の行水のような早さで、男は首にタオルを下げて現れた。髪は半乾き――どころでなく、外気に触れて冷たくなった湯が滴り落ちている。これにはあたしも父も呆れて閉口したが、父は溜め息を一つ吐くと男の首に引っ掛かったタオルに手を伸ばし、おもむろに拭き始めた。痛い、と言いながらも成すがままにされている男は少し嬉しそうに見えた。
 一通り男の髪を拭き終え水が滴らない程度に乾いてしまうと、父は満足したのか席についてあたしの暖めた朝食を口に運び始めた。あたしも男も父に倣って朝食に手を伸ばした。あたしは昨晩スープしか口にしていなかったし、男に到ってはいつから食事をしていないのかも分からない状態だったので、大して美味しくもない保存食にただひたすら無言でがっついた。そんなあたしたち――と、いうよりかは男に、父は空白の時間の詳細を催促する様子もなくさっさと自分の分の食事を終えてしまうと、「おかわりは?」と訊いた。
 父の言葉に甘えたというわけでもなかったが、その後あたしと男はオートミールを合成乳に浸して流し込み、魚の缶詰めの封をきった。あたしと男が食事を掻き込む間に、父は自分と男にはコーヒーを、あたしにはカフェオレを入れて戻ってきた。
 本能的な欲求に実に忠実に行動し、マグの縁に唇を押し当てる頃、漸くあたしは一息吐いた。それは男も同じだったようで、目が合うと悪戯っぽく笑い掛けられた。あたしはカフェオレを啜る手を止めず肩を竦めると男から視線を反らした。父は窓から外を見ることをやめ、何処かぼんやりとした様子でマグの中の黒い色を見つめていた。男から無理に言葉を引き出そうという気配は、もう感じられなかった。
 夜明け前に起こされたこともあって、あたしはこの穏やかな時間に眠気を感じ始めていた。半ば微睡み、昨日父に咎められたこと(と、あたしは思っている)も、男が半失踪状態であったことも、カフェオレ同様に白濁とした意識に飲まれかけていた。増して、過去に捨てた猫のこと、海で会い、この家近くにまで付いてきた猫のことなど、それらの更に下の下にまで押し遣られていた。
 だから、耳に届いた猫の鳴き声を理解するのに、あたしは数秒を要することとなる。だが、確かに聞こえた。耳に届いた。
 はっとなって、あたしは顔を上げる。真っ先に思い浮べたのは昨日会った猫のことだ。一晩中この家の近くに居たとは考えにくかったが、それでも扉一枚隔てたすぐ傍にまで来ているのなら、迎え入れなければならない。どうしても、猫という生き物はあたしをそういった気分にさせる。
 けれど、どれだけ耳をすませても猫の鳴き声が耳に届いたのはただその一度きりだけだった。代わり、というわけでもないのだろうが、顔を上げたあたしの行き場をなくした視線は隣でコーヒーを啜っていた筈の男の姿を捉えた。男は、あたしを見てはいなかった。視線は、外へと繋がる扉に注がれている。夜明け前に、血の臭いを纏って男の帰還した正にその場所を見つめていた。何かがおかしい、とあたしが思い至るとほぼ同時に父が口を開いた。
「どうした」
 男は父の問いには答えなかった。父も何も言わず、視線を男から外して扉の方へ向けた。あたしも、二人に倣う。
 風が、強い。かたかたと、窓が揺れる。潮騒に混じり、木々のざわめきが聞こえた。その、静かな騒音の合間に――聞こえた。
「これ……」
 声だ。猫の、鳴き声とは違う。
 人の声だ。高い、若い、女の声だ。
「誰……?」
 あたしの問いに、答える者は居ない。
 風の音に、潮騒に、ざわめきに、重なるようにして響く女の声は笑っているようにも、歌っているようにも聞こえた。いや、歌だ。遠くから響く旋律は、けれど確かに近付きつつある。だから知れた。
 朗らかに、軽やかに、春を歌う声は美しい。けれど、その正体があたしには分からない。父も、男も沈黙したままだ。研究所の女――ヴィクトリアに到っては、あの無機質な砦から出て来ようとすらしない。だからあたしには、歌う声の主が何であるのか見当もつかない。
 あたしは、完全に困惑していた。父は、怪異の把握にのみ全ての神経を集中させているようだった。そんな中、男だけが届く歌声に声を乗せた。途切れ途切れの、呟くようなか細い声だった。男は、徐々に距離を詰める旋律を辿っていた。
 そして、歌がやんだ。
 静けさが訪れる。歌は、丁度あたしたちの相対する扉の前で、やんだ。それは、明確な意志を持って扉の前で足を止めたに他ならない。明確な意志を持って、この棲み家を訪ねてきた何かが在ることに他ならない。
 歌はやみ、風は凪ぎ、潮騒は遠く、木々は沈黙した。まるでタイミングを見計らったかのように全てが一斉に口を噤んだ。
 そうして訪れた静寂の中、扉が叩かれる音がした――ノックだ。
 一度、二度、と叩かれ、そうしてまた沈黙した。あたしは、呼吸も瞬きも忘れて扉を凝視し続けることしか出来なかった。誰もが、思い思いに沈黙を守ることしか出来なかった。
 それら全てのものの沈黙を破り、今一度、声が響いた。
「――ナオユキさん」
 呼ばれた。鈴の鳴るような声、という形容が頭に浮かんだ。
 ナオユキ――クセナオユキというのは男の、名前だ。男を呼んだ女、もしかしたら少女かも知れないその声は扉の向こうでまた「ナオユキさん」と言った。男はさっきも、今も、口を開かなかった。あたしは、扉から視線を外して肩越しに男の表情を伺う。そして、碧色をした二つの目が絶望に見開かれているのを、見た。その目には存在の知れない「もの」への不安や恐怖ではなく、認識の伴う何かに対する絶望の色がありありと浮かんでいた。つまり、男は知っている、ということだ。扉の向こうの、何かの正体に心当たりがあるのだと、そういうことなのだ。
 男は、言葉を返さない。何度呼ばれても、応えない。扉の向こうからは男だけを呼ぶ、か細く、小さな声が響いてくる。
 次第に、声は何処か縋るような必死さを孕みはじめた。呼ぶ声の合間に、ノックが混ざる。女が繰り返す言葉の中にも、男の名前以外が混ざりだした。
「開けて。開けて、下さい……ナオユキさん、ナオユキさん……」
 憐れみを誘う悲痛な呼び掛けと、次第に間隔の短くなっていくノックの必死さに、あたしは確かに同情めいたものを感じていた。けれど、扉に手を伸ばそうとはどうしても思えなかった。理屈というより、それは純粋な忌避感からだ。
 男から扉へと移した視界の端で、男の唇が動く。声にならないその声は、短い韻を形取り閉じられた。名前、だったのかも知れない。
 問う言葉を掛けようか、と男の方へ向き直るより先に半乾きの猫っ毛が翻り廊下へと消える。引きつった、吐き出すことを忘れた、吸い込むだけのものの呼気を残して父とあたしを置き去りに、男は扉に背を向け逃げ去った。
「ナ――……」「呼ぶな!」
 男の動向もあたしの挙動も視界に入れず、ただ扉を睨み続けていた父が、低く鋭い調子で制止する声を上げた。
「目的はアレだ。呼ぶな。呼び込むな」
「でも、あいつ何か知って――」
 あたしの言葉は、最後まで紡ぐことがかなわなかった。扉が、叩かれたからだ。中の住人に来訪を告げ、開放を訴えることを目的としたのではない、その衝撃と音は、明確な破壊を意図したものだった。外に居る、女の声を持つ何かが侵入を果たすため障害を排除しようとしている音だった。
「ナオユキさん!ナオユキさん!居るんじゃないんですか?何処に居るんですか!」
 合金の、それなりに頑丈な筈の扉が、ひしゃげる。女の、呼び声というよりも悲鳴に程近い声音に混じり、壁の軋む音がする。要塞でも何でもない、こんな風化して傾き掛けた廃屋では、外の、得体の知れない何かを拒むことなど出来る筈がないのだとあたしが絶望に到り、父があたしを逃がそうと手を伸ばし掛けたそこで、音がやんだ。
「……父さん……あれ、なに?」
 父に問う、あたしの絞り出した声は何故か引き攣り震えていた。
 蝶番は、辛うじて壁と扉を繋いでいる。その、ひしゃげて歪な扉の中央辺りが紙でも破けた風に、穴を開けていた。そこに、手が覗いている。
 小さな、女の手だ。あたしより一回りか二回りくらいは大きいかも知れないけれど、それでも、本当に小さな小さな、女の手だった。水仕事や力仕事でマメの目立つ、節だったあたしの手と違い、桜貝のように形の良い爪の乗った、華奢で美しい手だった。その、美しい手は血に濡れて、肉が割れていた。破れた膚の下、熟れた柘榴のように瑞々しい血肉から真白い骨が慎ましやかな花のように覗いていた。力仕事などまるで知らない、水の冷たさに皮膚が裂けることも知らない、そんな風にきっと、大事に大事にされてきたのだろう白く華奢で美しいその手が、万力を以ってして扉をひしゃげて歪めてしまった。そこには、力に皮膚が裂けて骨が砕ける激痛も躊躇いも存在しないような、言い知れない何かだけが存在していた。
「父さん、あれ何!」
 今一度、あたしは同じ問いを繰り返した。父は問いに応えるように、あたしの方へと手を伸ばしてきた。時間にして、本当に瞬く間だったのだろう、と思う。それくらいに、父の判断と動きとは迅速だった。
 けれど、あたしは見てしまった。血に濡れて破れた膚もそのままに、てらてらと光る肉と骨とを覗かせた美しく可憐な手が、指先が、裂け目から差し込まれ、まるで紙でも散切るように扉を引き裂いていく。
 本当に、それは数秒の出来事だった。あたしは、言葉を失ってただ扉が引き裂かれて行く様を凝視していた。父の手はあたしには届かない、扉が破られるのが先だろう、と驚くほど冷静に考えていた。そのくせ足は根が張ったかのように動かずあたしは立ちすくむばかりだったのだから、本当は間抜けなくらいテンパっていたに違いない。
 破られる、もう終わりだ、と思ったのは、裂け目が拡がりもう片方の血濡れた手が覗いたときだった。
「退け」
 声がして、後ろに強く腕を引かれた。あたしと入れ替わるようにして、黒々とした銃身が突き出される。
 ゆっくりと世界が巡っていたのはそこまでだ。腕を引かれたあたしは突き飛ばされ、受けとめられた。翻る視界に、砂色の髪が揺れていた。
 音がする。合金を引き裂く金属音でもなく、愛しい者を呼ぶような女の声でもない。その音は、何もかもを塗り込める大きさで轟いた。散弾銃なのだという認識に到ったのは薬莢の落ちる音に顔を上げたときだった。
 あたしの耳は散弾銃が発射される音で馬鹿になっている。それでも、苦悶に喘ぐ声は確かに聞こえた。撃った。あの男は、自分を縋るように呼ぶ声の主を、撃った。男の顔には、上がる悲鳴に同調するような苦悶の色は浮かんでいたが、躊躇や容赦といったものは一切なかった。怒りとも、悲しみともつかない形相で扉の裂け目を睨み付けたまま、内ポケットへと手を差し込んだ。
 淀みのない動きで、男は弾を装填しながら前進する。革手袋に包まれた手が銃身を引き上げ、構える。止めをさすという明らかな意志の下、男は引き裂かれた上に蜂の巣になった扉へと距離を詰めた。苦悶の中に、縋るような響きで男の名前を呼ぶ声が混じる。男はその声に一瞬、本当に一瞬だけ引き金を引こうとした指の動きを緩めた。けれど緩めただけで止まらない指先は、外のものを殺すための引き金を引いた。

 父の行動は早かった。危険が取り払われたと判断するとあたしを開放し、崩れ落ちそうになる男の背を支えた。遅れて、あたしも二人に駆け寄る。父はあたしに男を預けると、扉を開けた。ひしゃげた扉は上手く開かず、辛うじて出来た隙間に身体を滑り込ませるようにして父は外へと出ていった。
 「あたしも行く」、という言葉を飲み込んだのは聞き分けの良さからではない。男の唇が、扉に背を向けて部屋から立ち去ったあのときと、同じ形を描いたからだ。
「ナオ?」
 男は、あたしの呼び掛けには応えなかった。夜明け前のあのときと同じに、頭を抱えて肩を震わせるばかりだった。だが、男の唇が形取るものは知れた。
「……サ…………めん。……ごめ……」
 名前と、謝罪だ。
 恐らく、今自分が殺した女の名前を呼びながら男は謝罪の言葉を繰り返した。
 こんな風に後悔して泣くのなら扉を開けてしまえば良かったのに、とあたしは思う。そうすれば、結果外に居る得体の知れない何かに殺されてしまうことがあっても、震える男の肩を抱き締めて途方に暮れるなんて事態にはなっていなかった筈だ。
「いい歳した大人が格好悪いのよ。……ねぇ、泣き止みなさいよ……」
 男は、矢張り応えなかった。名前を呼んでも、背中を撫でても、抱き締めても、駄目だった。なのにあたしは、不思議と不快さとは程遠かった。気まずさもない。外に行った父が早く帰ってこればいいとすら、思わなかった。何もなく、何も思わず、無心に、男の癖のある髪を宥めるようにしてただ梳いていた。
 そうして、数秒とも数分ともつかない時間、男を抱き締めていたあたしの視界は端に蠢くものを捉えた。警戒より先に顔がそちらに傾いていた。それに、父の気配が扉一枚隔てたすぐそこにあったので、あたしが警戒するようなことは何もなかった。
 父の擦り抜けた扉と壁の隙間にそれは居た。父のように無理矢理身体を滑り込ませるでなく、小さなその生き物は隙間をするりと抜けて座り込んだあたしの膝頭に身体を寄せてきた。
「取り込んでるんだから、空気読みなさいよね」
 言って、あたしは男の髪から指を外すと小さく暖かなその生き物にはじめて触れた。生き物は、耳を倒して目を細めながらあたしの手にされるがままになっていた。
 外から戻った父は座り込んだあたしと男とを一瞥すると、小さく頭を左右に振った。それから、肩越しに扉を見遣る。
「逃げられた……?」父は呟いた。「居なかった。何も」
 そうして、またあたしと男へと向き直り、足下の生き物――猫に、一瞬眉根を寄せてから、夜明け前のあのときそうしたように、男の腕を掴んで引き上げた。あたしの腕の中から、男が掬いあげられていく。
「……サ、コ。すまない、俺は…………ア、」
「いい。後で聞く」
 穏やかに父は言うと、そのまま男を連れて廊下へと姿を消した。
 残されたあたしは、辛うじて原形を留めるだけの扉に近付く。あと何日かここを拠点にするのなら、隙間をどうにかして埋めなくてはならない。その、無視出来ない大きさの穴から、ひょいと頭を外へ突き出す。父があたしを一人残していったのは、もうここに危険はないと判断した為だろう。だからあたしは、特に警戒をするでなしに気軽な気持ちで外を覗いたのだった。
 そうして、目を見張る。あたしは頭を引き戻すと今一度部屋の中を見渡した。
 銃は、そこにあった。撃ち尽くされて、もう弾は込められていない。傍らに転がった薬莢が窓から差し込む光を照り返して鈍く輝いていた。扉にも、確かに深く抉れるような弾痕が幾つも残されている。だが、その向こうには何もない。砂を被った真っ白な石灰岩の石畳があるだけだ。女の居た痕跡はおろか、血痕すら残されてはいなかった。
 足にまとわりつく感触に視線を落とすと、相変わらずあたしから離れようとはしない猫が居た。手を伸ばしても逃げようとする素振りすら見せない。
 小さな肢体を拾い上げて抱き込むと、あたしは改めて隙間に身体を滑らせて外へ出た。外には、やはり何もなかった。
 潮風になびく髪を押さえて少し先の階段へと向かう。眼下には連なる赤い屋根屋根が見え、その合間からは海が覗いていた。潮騒は聞こえるが、轟くというほどのものでない。
「アリカ」
 呼ばれて、振り返る。父だ。
「ナオは?」
「部屋に居る」
「……父さん、あれ」
 言い淀む。訊いたところで、明確な答えなど返る筈もないという確信がある問いを投げ掛けるのは、不毛だと思ったからだ。「あれは何?」、と異変に対峙したあのとき、馬鹿の一つ覚えのように繰り返すことしか出来なかった問いを、今また繰り返すという愚かしさに、あたしは口をつぐんだのだった。
「『アサコ』……」
「ナオが呼んでた……あれの、名前?」
 あの人、とは形容出来なかった。あたしの問いに、父は頭を振った。
「分からない。俺もあの男の全てを知っているわけではないからな」
 少し、意外だった。けれど同時に、当たり前過ぎて腑に落ちた。
 父に背を向けて、あたしは連なる石段に腰を下ろした。抱えていた猫を、膝の上に下ろす。
「そりゃそうよね。気持ち悪いもの。……でも、」付け加える。「だったら何で、二人は一緒に居るの」
 訊いてしまった。
 父は何も言わなかった。あたしの問いが届かなかったわけではなく、増して意味を分かりかねているのでもない。問い掛けに、誠実に答えようと逡巡する沈黙だった。
「抱えた欝屈が、似ているのかも知れない」
「何それ」
 結局、何処か曖昧になってしまった父の答えにあたしは笑った。不思議と怒りのようなものは浮かばなかった。
「あの男に根差すものが何なのか、そこまでは理解はしていない。だが、きっと俺と同じ罪のようなものを犯したのかも知れないと、そう思う」
「何それ」
 適当な言葉が見つからず、あたしは繰り返した。
「傷の舐め合いとか、そういうこと?不健全ね」
「どうだろうな。少なくとも、自責の念に駆られているよりは他に責める対象が存在するというのは案外健全なものなのだと、そういうことなんだろう」
 つまり父は、男も、自分を責めずにいる為に、似通った罪業を背負う相手を身近に置いているのだという。それはそれで不健全である気もしないでもなかったが、当人たちにしか知れない繋がりがあってこそなのかも知れないし、一見歪に見える共生関係も彼らにはこれが普通なのかも知れない。勿論、あたしは一人蚊帳の外に居るようで面白くはないのだが、こればかりは仕方がない。
「依存し合えばもっと楽なんじゃない?」
 それこそ傷の舐め合いになるけど、とは言わなかった。付け加えるより先に、あまり感情の起伏が表情に出ない父が眉根をきつく寄せたからだ。
「願い下げだな」
「ナオかわいそー」
 本当に嫌そうに父が言うものだから、それが可笑しくてあたしは笑った。けれど、父は笑わなかった。だが、と低く静かな声音で付け足した。
「それももう、終わりなのかも知れない」
 何が終わるというのか、父の言う終わりが何であるのか、あたしには理解出来ない。意味を噛み砕くのに時間を要し、次いで顔を上げるのに時間を要した。漸く上げた視線の先で、曇り空に黒くほつれた髪が揺れていた。鳶色の視線は交わらない。
「罰を受け続けるだけの生に繋ぎ止める術も言葉も、俺は持たない」遠く、黒くうねる海の水平線を睨むようにして父は言った。「救いはない。許しも、ない」
 何かを押し殺したかのような、静かな声色だった。悲壮さや諦観から来るのでなく、ただ事実を事実として受け止めて口にしている、そんな静けさだった。
「罪業こそ似通ってはいても、本質的には俺と奴とは違う。同じものを強要することは、出来ない」
 本質的、と口にしたとき何故か、父の表情に自嘲めいた笑みが浮かんだ。本当に一瞬のことで、あたしにはその笑みの理由は分からない。
「それ、ナオを見捨てるってこと?」
「違う。選ぶのは奴だ。捨てられるものがあるなら、それは俺の方、なのだろう」
 父は「俺たち」、とは形容しなかった。その真意は知れない。父の言葉にあたしは疎外感に苛まれても良い筈だった。けれどそれも感じはしなかった。
「そうやって諦めるのね」
 ただ、苛立ちはあった。そのまま、口に出す。あたしの言葉に、父は少し驚いたように目を見張った。そして、父は何事かを話そうと口を開きかけて、やめた。言葉が見つからなかったのでなく、明確な何かを敢えて飲み下した、そんな所作であるように見えた。
「な、によ……言いたいことがあるなら言いなさいよ」
 促しても、それきり父は口を開くことはなかった。
 思う。後になって、思う。とうとう聞くことのかなわなかった父の言葉と、その真意、その心理を、あたしは思う。父は男を見捨てたのだろうか、諦めてしまったのだろうか、そんな考えても仕方のないことばかりを、思う。
 父の諦観を責めながら、あたしは自分の諦念を棚に上げた。父の言葉は男に届くことをあたしは知っていたが、あたしの言葉は男には届かない。知っていた。だから諦めた。二人共、諦めてしまった。少なくとも、あたしはそう思っている。
 だから、思う。もし、父が、あたしが、諦めずにいたなら、違う未来もあったのかも知れないとそう、思う。

 壁と扉の間に出来た盛大な隙間に折り畳み式のテーブルを立て掛けて風の侵入を防ぐと、父はヴィクトリアに会うと言って出て行ってしまった。あたしはその背中に返事もしないで、欠けた皿に合成乳を注ぐことだけに意識を傾け続けた。父の気配が遠ざかるのを確かめて、足元の小さな生き物の前に皿を置く。
 立ち上がり様に壁と廊下に阻まれた男の部屋の方へと目を遣った。眠っているのか、物音も、息づく気配もしなかった。
 外から戻ってすぐ、男の部屋を訪ねた。けれど扉を叩こうと上げた筈の手は下ろされることなく、あたしは踵を返した。
「クソ親父のこと責められないわね……やんなっちゃう」
 呟いて、ふと足にまとわり付く感触に視線を落とす。想像通り、そこにはあたしの足首に身体を擦り寄せる子猫の姿が在った。一晩中あそこに居たとするとそれなりに空腹なのではないかと合成乳を与えたのに、そちらには口を付けた様子もない。
「あんたがあたしにぞっこんなのはよーく分かったわ。でも、今はこっち」
 子猫を掬うようにして抱き上げると、強制的に皿の前へ連れていく。それでも一向にミルクに興味を示そうとしない子猫に痺れをきらしたあたしは、指先を皿の中に付き入れてから、子猫の口元へ寄せた。すると子猫は漸く興味がそそられたのか薄紅色の小さな舌を伸ばしてあたしの指先に触れたが、それだけだった。
 いよいよ途方に暮れたあたしは、何か悪い病気なのではないか、と不安になる。そして、男に訊いてみようと思い立った。男には医療知識や薬学の心得があると以前聞いたことがあったからだ。猫は専門外だと言われるかも知れないが、人間だって動物なのだから気休めくらいの案は出るだろう。何より、あんなことがあった後の気分転換になれば良いという思いと、男の部屋を正面から訪ねる理由が出来たという打算とが、瞬時にあたしの頭を駆け巡った。
 なみなみと注がれたミルクを手に浸して遊び始めた子猫を抱き上げると、男の部屋をあたしは目指した。足取りは軽く、先程の逡巡が嘘のように軽快に、あたしは男の部屋の扉を叩く。
 返事はなかった。もう一度、あたしは二回扉を叩いた。返るのは沈黙ばかりだ。
「ナオ、寝てるの?……拾った猫の具合がおかしいかも知れないの。ねぇ、ナオ?」
 扉越しに話し掛けても、中から言葉が返ることはなかった。それどころか、物音一つしない。完全な沈黙だ。
「……ナオ?ナオ、開けるわよ!」
 語尾にドアノブを捻る音が被る。あたしは勢いよく扉を押し開け、愕然とした。愕然としたが、同時に思い描いたままの光景に落胆もした。
 部屋の中には、誰も居なかった。血の気が退く。あたしは覚束ない足取りで、部屋の中へと入って行った。
 男の居ない部屋を、ぐるりと見渡す。窓は閉じていたが、鍵は掛かっていなかった。男は、いつこの部屋を抜け出したのだろう、とあたしは思考を巡らせる。父とあたしとで話していたときだろうか、猫にミルクを与えようとしていたときだろうか、と考える。何処から外へ出たのか、窓からか、扉と壁の隙間からか、それとも裏口から出たのか、そんな考えても仕方のないことばかりが巡る。
 一人きりになどするべきではなかったと、後悔ばかりが過る。
 あたしは猫を下ろすと、たまらず部屋を出た。部屋を出て、テーブルをずらし、外へ飛び出した。
 一人に、するべきではなかった。言葉など届かなくても、手を握り抱き締めていれば良かった。なのに、あんなに怯えて震えていた男を一人きりにしてしまった。
 男が、寝台の脇にいつも立て掛けている散弾銃はなくなっていた。玄関に置き晒しにもされていなかった。男が持ち出したのだ。怯えていた男は、あの怪異に今度こそ止めをさそうと銃を持ち出したのに違いない。あんなに怯えていたのだから、その目で「死」を見届けなくては安心出来ないのだろう。それは分かる。分かるが、扉を素手で引き裂くような化け物の許へ一人で向かったという事実が、あたしをどうしようもなく不安にさせた。
 遠くで、音がする。潮騒とも、木々のせせらぎとも違う。タイヤがパンクしたときの音に、似ている。
 多分、初恋だった。父より幾らか歳上の、なのに落ち着きばかりが足りていない陽気なあの男が多分、あたしは好きだったのだと思う。恋、だったのだと、そう思う。子供じみた独占欲にすら気付かずに、ただ身勝手に疎外感ばかり感じていた。とても愛には届かない、けれどそれは確かに恋だった。
 何処となく、彩度を欠いた島でその色は異質なもののように映る。船から見た崖に添うように並んだ赤い屋根も情緒的で美しかったが、それとも違う。
 白砂が積もる、石畳の上を赤い色が流れていく。タイルとタイルの繋ぎ目に添い、流れていく赤は石畳の白色とのコントラストが美しかった。連なる赤い屋根のくすんだ情緒的な美しさとは違う。鮮やかで、何処か黒みの掛かった血の赤色から、あたしは目が離せない。
 頭が、割れていた。熟れ過ぎた無花果が落ちると、丁度こんな感じになる。ベタつく甘い果汁に塗れた種が、飛散した脳漿によく似ている。砕けた骨は血の色に溶け込んで目立たない。それでも所々に見える、石畳とは明らかに違う薄ら白さは――髪の色だ。
 白い砂の色に似た、色素の薄い髪は陽の光の下ではきらきらと耀くのを知っている。本人は白髪のようで嫌だと何度かぼやいていたが、あたしは好きだった。父だって、きっと気に入っていたに違いない。冬の湖のような透明度が高く、そのくせ底の知れない瞳の色によく合っていた。
 息も、脈も、確認する必要などなかった。石畳に拡がる血溜りと、頭の三分の一を吹き飛ばし脳漿を垂れ流すその様が「死」という事実だけをあたしに突き付けていた。
 悲鳴の一つも上げられず、泣いて死体に取り縋ることも出来ずに、あたしはただ茫然とその場に立ち尽くした。足元から猫の鳴き声がしても、視線も意識も血溜りの中心に向いたままだった。それでも、足首に生暖かい生き物の息遣いを感じると、あたしは眼下の肢体に近付き、おもむろに人工呼吸を始めた。ファーストキスだと浮かれても良かったのかも知れない、と後になって思ったが、そのときはただ必死だった。必死に、聞き流した筈の知識を掻き集めながら拙い人工呼吸を続けた。少し冷静な頭があれば無駄なことだとすぐに知れたのに、何故かあたしは頭の吹き飛んだ男に口付けることをやめようとはしなかった。胸を、叩き続ける手を止めることが出来なかった。