勝海舟の書 ―永谷学校― (上永谷)



 今から百三十年ぐらい前のお話です。
 江戸幕府と言って、武士が政治を行っていた頃は、今の学校にあたるものは寺子屋でした。子どもたちが通い、「読み」、「書き」、「そろばん」を習いました。
 しかし、女の子や貧しい家の子は、なかなか行かれなかったようです。
 江戸幕府の政治は、新しい世の中についていけずたおれました。
 新しく生まれた明治政府は、新しい政治を次々と行いました。新しい学校制度により、寺子屋にかわる『永谷学校』ができ、その『永谷学校』という学校名を、勝海舟というとても偉い方が書いてくれました。
 この「書」が、いまも横浜市立永野小学校の宝物として、たいせつに残されています。
 この勝海舟という人は、「黒船」がわが国に貿易を求めてやって来たころ、西洋の学問や海軍のことを学んでいました。
 幕府の役人軍艦奉行になり、咸臨丸という幕府の軍艦の艦長として、日本人による太平洋を横断した最初の人です。
 幕府が倒される時は、新政府軍の西郷隆盛と話し合い、江戸城を明け渡し、攻撃を中止させて、江戸の町民や江戸城を戦火の緋那から守りました。
 また、新しい明治政府では、海軍卿など大事な任務につき、江戸から明治にわたる、二つの時代にまたがる大政治家でした。
 こんな大政治家が、こんな小さな『永谷学校』の校名を書いてくれたいきさつには、次のような平野玉城と永谷学校にかかわる出来事がありました。

 玉城は、江戸に生まれ代々江戸幕府の家来でした。慶応四年(1868)の夕がたごろ、下永谷の村長福本さん宅へあわただしく、
「たのもう」
 と、飛び込んで来た者があります。
「私は江戸幕府の役人で勝海舟の家来、平野玉城と申す者。幕府を倒すために江戸城へ進撃中の新政府軍西郷隆盛の動きをさぐるためにきたところ、敵方に見つかってしまい、この永谷へのがれてきました。ぜひ私をかくまってくだされ。お願い申す」
「よろしい!」
 福本さんは立派そうなこの武士を、醤油蔵にかくまってやりました。
 しばらくすると、政府軍の兵数名が来ました。
「確かにこの家へ幕府方の武士がやって来たようだが、すなおに居場所を申せ!」
「おおせのとおり、今しがたこの玄関へやって来て、ためらっていましたが、何も言わず、すぐに右手の竹やぶの方へ消えて行きました」
「さようか!?」
 強そうな二人が残って、他の者は竹やぶへ飛んで行きました。
 母屋、物置、蔵と屋敷中を探しましたが見あたりません。
「さては、取り逃したか」
 一同は引き上げて行きました。
「ああ助かった!」
 玉城は命拾いをしたのでした。
 5年後、玉城は命の恩人、福本さん宅をお礼に訪れました。そして、村人たちとも当時のことを話し、懐かしみました。
 この方に永谷の寺子屋の師匠をお願いし、子どもたちの手習を頼みますと、こころよく引き受けてくれました。
 翌、明治6年、玉城師匠は村人のすすめで永谷学校の先生になりました。
 先生が就任すると、入学者が急にふえました。
 建物が狭くなり、父母たちは見るにみかねて、明治12年、永谷村に永谷学校の校舎を村人の手で作りました。
 玉城先生は、その落成記念式にあたって、むかしつかえた師匠勝海舟に、永谷学校の校名の書をお願いしました。
 喜んでお受けくださり、さっそく送られてきました。
 日本の夜明けの一大政治家勝海舟も、玉城の恩人ともいえる村長福本さんのことをよくわかってくれていたのでしょう。
 やがて明治22年、永谷、下野庭、上野庭の三村が合わさって、「永」と「野」の二字をとって永野村が生まれました。
 それにともなって校名も、『永谷学校』は『永野学校』とかえられましたが、今もこうして、『永谷学校』の伝統の書が残っているわけですね。