野庭の「関城」と周辺 (上大岡・野庭)



 山をくずして谷を埋め,田畑をつぶして宅地とし,街ができました。上大岡の東一丁目にある高台を大塚山といい,大きな塚があったそうです。
 この山は,または,「人見塚」といって,「鎌倉下の道」の餅井板や,上大岡駅前あたりの「かねさわ道」を通る人を見はる場所でもありました。
 それに,ここは蒔田城と野庭にあった関城をつなぐ「狼煙台」の役目もしていました。
 いまの野庭は,むかしは野場と書かれていました。ひろい草原で馬を飼育するのに適しているし,広大な大地は,鎌倉時代や後北条時代には,馬や武士を鍛練するのにたいへん良かったと思われます。

 かつて,鎌倉幕府の侍所の別当である和田義盛は,野庭団地一帯に関城というお城をつくったとされています。
 その本丸(お城の中心)は,野庭中央公園の高台付近にあったといわれています。
 この関城は,「台地構え」という備えをしていて,迎陽トンネルへの道は,空堀のあとともいわれています。
 そして,建保元年(1213)の和田合戦のとき,和田義盛に味方する武士たちが,この城にたてこもりました。
 当時六十六歳であった義盛は,その一族と共に,鎌倉で討ち死にしましたが,その後でも関城にこもる人びとは,攻め寄せる北条軍に抵抗し,二十日間も持ちこたえて,壮絶な最期をとげたとの,言い伝えが上野庭にはあります。

 その近く,上野庭の浄念寺にある「力石」は,「北条時宗の力石」とよばれています。
 バーベルを持ち上げる,重量上げをするように,関城では鎌倉武士が力石をつかって,力だめしをやったのだと思います。
 むかし,日野の若者が,この力石を持ち去ったことがありました。これを知った野庭の若者たちは,大さわぎをしで交渉に行き,もとの野庭にもどしたといわれています。

 そこで,このような問題が再び起きないように,この「北条時宗の力石」は,浄念寺の境内にがっちりと保存されるようになりました。