十里木と政所 (野庭)



 野庭高校の北から西へ向かう川に沿った道は、鎌倉下の道と呼ばれる昔からの道です。この道の周辺には、このあたりの歴史を感じさせてくれる言い伝えが、いろいろ残っています。

 まずはお城。そのむかし-鎌倉時代より前のこと、この道をはさんで反対側の丘の上に、飯島城というお城があったと伝えられています。
 そのころのお城は、城といっても砦やのろし台のようなもので、遠くから押し寄せる敵をいち早く見つけられるよう、見晴らしのいい高台に建てられていました。飯島城は、この眺めが今一つだったので、鎌倉時代になると、今の野庭中央公園のあたりに移されたといわれています。
 この付近の地名を「政所」といいます。「政所」とは、平安時代には、皇族や貴族の領地である荘園の事務所のことを、政所といいました。鎌倉時代や室町時代、幕府の政治をとりおこなった重要な役所のこと。この「政所」は、当然、鎌倉や京都にもありました。また、貴族や武将の妻を「北政所」-源頼朝の妻・北条政子もこう呼ばれていました-と呼んだりもしましたから、あるいは、そういう人の領地があったのかもしれません。
 それなのに、どうして野庭の地名として残っているのでしょう。
 さらに「前田町」「深田町」など「町」がつく地名が、この付近には9つもあります。当時、山深かったと思われるこの地に、どうしてこんな地名がつけられたのでしょう。
 残念ながら、お城にしても、地名の由来についても、証明するものは何も残っていません。幻のお城、謎の地名です。けれとも、これらの言い伝えから想像すると、平安時代から鎌倉時代にかけて、野庭町のあたりは、何か重要な場所であったのかもしれません。

 また、「十里木」という地名もあります。こちらは江戸時代のお話。お江戸日本橋からちょうど十里なので、こう呼ばれたと言われています。目印の木があったのかもしれません。地図で測ってみるとたしかに40キロメートルほど。一里が4キロメートルなので、まさに10里です。
 こういう地名がつくということは、この道が、江戸時代にも盛んに利用されていたことを示してくれますね。