塚の古址(野庭)


戦国時代,野庭は,小田原の北条氏によって支配されていました。
小田原北条氏は,大船の玉縄にも城を築き越後の上杉や,甲斐の武田とも戦いましたが決して,城が落ちることはありませんでした。
しかし,天正十八年(1590),豊臣秀吉のあの石垣山の一夜城でも有名な小田原城攻めで,百日余りの抵抗も空しく落城し,北条氏政はついに降伏し,切腹して果てました。

その小田原城落城の時に,「小田原評定」といって対応について意見がいろいろ出ました。
この時,豊臣秀吉の軍に降伏することを潔しとせず,一人混乱から抜け出して,再起を図ろうとする武士がおりました。名前を吉本氏と言います。
その吉本氏は,「落ち武者狩り」の目を逃れて東に向かい,ようやく命からがら,鎌倉道の通る相模の国の一番はずれの,野庭の里に身を隠すことができました。
山また山に囲まれた,一寒村の野庭に住みつき,安住の地と定め,農民となった吉本氏は,やがて「臼居」と名前を変えました。

しかし,愛する人たちのいる小田原を懐かしく思う気持は,日々つのり,朝夕,小高い山に登って,西の方をながめて,北条氏の再興を祈っていました。
しかし,北条氏再興の願いはむなしく消え,上野庭の里で,その一生を終わりました。
その最後の遺言により,柩が,いつも臼居氏が登っていた小高い山の頂上に,西に向けて,埋葬したと伝えられています。
そのころ,晴れた日には,小田原の海が見えたそうです。
昭和二十七年(1952)子孫である上野庭の臼居氏は,先祖を葬ったとされる野庭と金井の境にある武相国境の丘に,祖先への祈りと願いをこめて,碑を建てました。

それが「塚の古址」と呼ばれるものです。そのあたりが野庭では,最も高い所だったとされていたからです。
その碑は,現在,日野南五丁目の野庭三谷町公園のわきの見晴らしのよい小高い丘に移され,主君の北条氏政や小田原城を見つめて,人知れずひっそり建っております。
この碑を目のあたりに見て,過ぎにし,戦国の世を偲んでみるとよいでしょう。