榎戸の水”問答”(港南台)



日野や港南台が、武蔵国とよばれていたころのお話です。

武蔵と相模の国境線は、国や村の境であると同時に、水を分ける大切な境でもありました。このころのくらしの大部分は、農業によって支えられていました。そして、その農業とは「お米を作ること」でしたから、人々にとって水は、いのちを守ることと同じくらい大切なものでした。

武蔵と相模の境にある円海山は、武蔵にとっても、相模にとっても、大切な山でした。それほど高くない山なのですが、海に近いために、雨がよくふり、しかも、その雨をためる水ガメのような役目を持っていて、多くの川の水源地になっています。

むかしは、どこの海に流れ込むかということでその水はどこの水かということをきめていました。ですから、今は港南区になっていますが、野庭や永谷の村はもともと、相模国の村だったのです。なぜなら、野庭から流れる野庭川や馬洗川は、柏尾川に合流して、相模湾に流れ込んでいるからです。

港南台の榎戸に、”問答”という所がありました。その地名は、日野川の水源をめぐつて、武蔵や相模の村人が集まって、水の利用の仕方や順番について、話し合った場所だというふうに伝えられています。

また、水の神様である「弁天様」をまつる「巳待講」という集まりを作りました。これは巳(へびのこと)の日に集まってするおまつりの会のことで、弁天様のお使いが蛇であったこと、また、水源地は湿地でもあり、蛇、マムシが多いことなどから、水源地を守っているとされた、蛇を信仰の対象としたのです。
日野の金井村と小菅ヶ谷との境にあった水源地には、その「巳待供養塔」が建てられていて、道しるべの役目をも持っていました。

日でりや洪水になれば、その年のお米はできません。特に日でりが続き、雨の全くふらない年には、わずかな小川の水が、貴重な「いのちの水」になって、はげしい争いがおきます。ですから、そういうことにならないように、村人たちがしっかりと話し合い、きちんとしたきまりを作っておく必要があったのです。








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