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**お百姓さんの助っ人 (日野)  いま、日野と呼ばれているあたりはな、昔は武蔵国で、宮ヶ谷村、金井村、吉原村、宮下村の四つの村に分かれており、相模国の下野庭、上野庭との国境にあったそうな。  日野はなあ、近ごろ急に開けてきて、ひと昔前までの面影が残っている所は、わずかになってしもうたが、山あり、谷ありの丘陵地だったんじや。村の人たちは、この谷あいの村で、百姓をして暮らしておった。  お百姓さんが、一番いそがしい田植えや、稲刈りをするころを、農繁期といってな、戦後もしばらくの間は、学校を農繁休みにして、子どもたちも、家の手伝いをしていたこともあったんじやよ。  金井村にはなあ、いつの頃からか、農繁期になると、毎年、毎年決まって国境を越えてな、大ぜいの人たちがやってきたそうじや。  村の人たちは、その人たちをあてにして、農作業を始めることにしていたそうな。  その人たちはな、一番いそがしくて大変な時に、必ずやってきて、よく働いてくれるので、村の人たちは心から感謝しておった。 「本当によくやってくれたのう、少し余分にお金を入れておいたから、取っといておくれ」  と、一人一人に給金をはずんだそうな。  ところがな、お頭が、余分にもらつたお金を全部集めると、 「おつりです」  といって、必ず返してくれたそうじや。  その人たちの身なりはな、それほどよくなかったが、お金をめあてにしている様子でもなく、決まったお金だけもらうと、さっさと次の村に行ってしまう。  それになあ、そのふしぎな人たちは、一日の仕事が終わると、村人と一緒にご飯を食べながら、見たことや、聞いたことの、いろいろな話をしてくれて、その上、歌ったり、踊ったりもしてくれたそうじや。  このことはな、山深い村の人たちにとって、この上ない楽しみとなって、いつしかその日のくるのを、心待ちにするようになったとさ。  その人たちがな、いったい誰で、何のために大ぜいで歩いていたのか、謎でな。 「もしかして、鎌倉のお寺で、修行のために集まっていた、お坊さんたちではなかっただろうか」と、いう人もおったそうな。 ----

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