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たたらの火とヤマトタケル   日野   」(2008/11/02 (日) 17:04:36) の最新版変更点

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**たたらの火とヤマトタケル (日野) 皆さんは、武相国境の話を聞いたことがありますか。武蔵の国と相模の国の境が、この港南区のまんなかを通っていたのですって。  横浜全区の中でも、国境が区の中にあったのは、港南区だけとのこと、びっくりしますね。  そして、この国境の道は、「たたら師」(鉄を作る人)の通った道でもあるといわれています。この道すじには、金の字のつく地名、鍛冶屋という屋号をもつ家、先祖が金物師だという家がとても多いのです。  その理由を、むかしむかしにタイムスリップして考えてみましょう。  むかし、西の方の大和という国にいた王族が、東の国を征服しようとくわだてて、その中の一人ヤマトタケルが、大ぜいの兵士をひきつれて、東へ東へとむかってきました。  この軍が通る道すじを治めるために、兵士以外にも、武器をつくる人や、食べ物を用意する人をつれてきました。  ちょうどいまの港南あたりに、ヤマトタケルがさしかかった時、急に天気が悪くなり、まっ黒な雲と稲妻、そしてゴロゴロと雷が鳴り、いくつもの雷が落ちました。  ヤマトタケルは、そうしたことで、この辺の地層がわかったのです。  どうわかったかというと、港南区、特にいまの港南区役所の近くには、「雷」という地名があったくらい雷が落ちやすいのです。そうした場所には厚い砂鉄の層があり、日野川にも砂鉄が、赤く川底に沈んでいたといわれています。そして、この砂鉄を使って、仕事をする人も住んでいました。  ヤマトタケルは、こうした鉄の文化を伝える役割もはたしていたのでした。  武相国境をはさんで、この辺には、金井、大たら、栄区側の鍛冶ケ谷、戸塚区の金井、金沢区の釜利谷、かねくそ沢、等にも金のつく地名が残されています。  ヤマトタケルの軍団は、三浦半島に出て、舟にのって、房総の金谷へ渡ったとされていますが、港南の昔の人たちは、日野を通って、三浦へぬけたと考えています。  武相国境には、たくさんの横穴墓があり、人骨や、さびた刀剣が掘り出されているのも、こうしたことを、裏づけるものといえます。またヤマトタケルをまつった神社もあります。日野川の下流から円海山のあたりに、夜、「たたらの火」が、あかあかと、あちらこちらで燃えていたなんて、歴史のロマンを感じますね。 ----

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