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ドイツ軍・政治 関係者

50音順にドイツ軍・政治関連の登場人物を説明します。



アドルフ・ヒトラー

作中においての名前は判明していない。
伍長殿、彼、人種主義者、等ぼかして呼ばれる時は大抵この人。
公式サイトによるライヒスヴェアの説明の項では、政権をとっていないとあるが、作中では一度政権を取ったのち暗殺されたようである。

アドルフ・ホイジンガー

ドイツ陸軍中将(陸軍参謀本部作戦部長兼陸軍参謀本部諸部代理)
反ヒトラー派の一人だったがシュタウフェンベルクの暗殺計画には関与せず、その存在も知らなかった。
ドラマでは爆発に巻き込まれて死亡したようだが、史実では生き延びて戦後再建されたドイツ連邦軍の査察総監(統合参謀本部議長)やNATO軍軍事委員会議長などを務めている。


アルプレヒト・メルツ・フォン・クイルンハイム

ドイツ語ではクヴィルンハイムとも読む。
第二次大戦中のドイツ陸軍大佐。
ヒトラー暗殺計画を実行したシュタウフェンベルクから暗殺成功の連絡を受け、オルブリヒト将軍はクヴィルンハイムに「ワルキューレ作戦」発令のテレタイプ発信を命令する。
これを受けてパリでは予定通りに親衛隊幹部が拘束された。
しかし、ヒトラー暗殺計画は失敗し銃殺された。

ヴィルヘルム・ボードヴィン・ヨハン・グスタフ・カイテル

総統の個人的な参謀部に当たる国防軍最高司令部総長。
史実では戦後、ニュルンベルク裁判にて戦犯として裁かれ、1946年10月16日絞首刑に処された。

ヴァルター・シェレンベルク

親衛隊国家保安本部(RSHA)第6局局長で、親衛隊の対外諜報活動を指揮していた。
1939年に周到な罠によってイギリスとオランダの情報部員を誘拐したヴェンロー事件を指揮した功績で、29歳で親衛隊最年少の将官となっている。

ヴィリー・メッサーシュミット

ドイツの戦闘機Bf109シリーズの設計者にして、メッサーシュミット社の社長。

ヴェルナー・フォン・へフテン中尉

第二次大戦中のドイツ陸軍少尉。
1944年7月20日の計画として知られているヒトラー暗殺計画に共謀した。
史実ではシュタウフェンベルクの副官となったのは1943年。
実際には暗殺事件失敗後シュタウフェンベルクらとともに銃殺された。

ヴォルフガング・マイヤー大佐

第101装甲猟兵大隊指揮官
おそらくは武装親衛隊ヒトラーユーゲント装甲師団の指揮官だったクルト・マイヤーSS准将がモデル。
マイヤーはアドルフ・ヒトラー装甲師団の偵察大隊長として数々の激戦で先陣を切り、「パンツァー・マイヤー」という異名をとった。
その後新設のヒトラーユーゲント師団に転属し連隊長となった後、ノルマンディで前任者の戦死に伴い34歳でSS准将に昇進して師団長に就任、武装親衛隊でもっとも若い将官となっている親衛隊きっての武闘派として有名である。

ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン空軍上級大将

セヴァストポリの戦いでは第8航空軍団(作中では第8航空艦隊)を指揮してマンシュタインの第11軍の攻撃を支援した。
史実ではこの後空軍最年少の元帥となるが、終戦直後の1945年7月に脳腫瘍で病死した。
第一次世界大戦におけるドイツのエース・パイロット、レッドバロンことマンフレート・フォン・リヒトホーフェンの遠戚。

エヴァルト・ハインリッヒ・フォン・クライスト=シュメンツィン

父のエヴァルトと共にシュタウフェンベルクの反ヒトラー派に参加。
史実では父親は処刑されたが、彼は過酷な投獄生活を生き延び現在も生存している。
(実際には1922年生まれの彼がこの時点で中尉なのはおかしい。ここは数年早く生まれていると解釈すべきだろうか)
なおクライスト一族は500年近い歴史を持つ名家で、ドイツ各地に傍系が存在し多くの高名な軍人や知識人を輩出している。
19世紀初めの著名な劇作家ハインリッヒ・フォン・クライストやフランス戦でグデーリアンの上官となったエヴァルト・フォン・クライスト大将もこの一族の出身である。

エーリヒ・フェルギーベル大将

国防軍最高司令部(OKW)通信総監。
シュタウフェンベルクら反ナチグループの一人であり、暗殺事件時には総統大本営からの通信を遮断する役割を負っていた。
史実では他の反ナチグループ参加者と同じく逮捕後裁判により1944年処刑されている。

エーリッヒ・フォン・マンシュタイン

ドイツの第二次世界大戦中の陸軍元帥であり、最も有能な戦略家の一人。

エルヴィン・フォン・ウィッツレーベン

第二次大戦中のドイツ陸軍元帥。
ヒトラー非難し、退役させられた。
ヒトラー暗殺計画に関与した罪で処刑される。
作中ではヒトラー暗殺後に国軍最高司令官に就く。

エルンスト・レーム

ドイツの軍人・右翼活動家。第一次世界大戦後、ヴェルサイユ条約に反対してナチ党の突撃隊(SA)ほか多くの準軍事団体を組織したが、自身の突撃隊を正規軍とする事を望み、国防軍は次第にSAを脅威と感じるようになった。
国防軍との連携が必要なヒトラーによって粛清される。
粛清の理由は突撃隊による反乱の計画を捏造されてのもの。

カール・デーニッツ

ドイツ海軍の軍人。最終階級は元帥。
ヒトラー死後の大統領を務めた。
潜水艦作戦の第一人者で戦史研究家からは『海のロンメル』と評価された。
ドイツ海軍の潜水艦隊司令としてUボート作戦を指揮。
群狼作戦というUボートが協同して敵輸送船団を攻撃する通商破壊戦術にてイギリスを苦しめた。

カール・フィーリプ・ゴットリープ・フォン・クラウゼヴィッツ

プロイセン王国の軍事理論家で戦略・戦術に関する古典的名著「戦争論」の著者。

カール・リープクネフト

プロイセンの国会議員だが、第一次世界大戦が勃発した時にこれに反対。
党を離脱してローザ・ルクセンブルクとともにスパルタクス団を組織し、革命運動を指導した。
反戦デモの煽動者として投獄されたが、ドイツ革命で釈放。
ローザ・ルクセンブルグ同様、翌1919年に蜂起したさいに射殺される。

クルト・フォン・シュライヒャー

クルト・フォン・シュライヒャー
ドイツの軍人でワイマール共和国の最後の首相。
長いナイフの夜で粛清される。
なお、シュライヒャ-は自宅で執務中に訪問してきた親衛隊員により妻と共に射殺されたが、この暗殺には下記のアイケは関与していない。
おそらく押井氏はレームと取り違えているものと思われる。

グレゴール・シュトラッサー

「ナチス左派」と呼ばれる同党左派の流れを代表する人物
長いナイフの夜で粛清される。

テオドール・アイケ

その粗暴さをもって敵からもナチス体制内部からも恐れられた親衛隊幹部。
「長いナイフの夜」においては突撃隊隊長エルンスト・レームの処刑を執行するなど重要な役割を果たした。
その後はダッハウなど初期の強制収容所の警備責任者となり、収容された政治犯、ユダヤ人などの囚人に対する厳しい管理と弾圧を行った。
史実では開戦後は麾下の収容所警備部隊「トーテンコプ」から編成された第三SS装甲擲弾兵師団「トーテンコプ」(後に装甲師団に改編)師団長となり、ポーランド、フランス、ソ連で戦うが、1943年2月に前線視察中に搭乗した飛行機を撃墜されて戦死している。

ハインツ・グデーリアン

ドイツの軍人。
第二次世界大戦の緒戦の大勝利を飾った電撃作戦の生みの親であり、またそれを実践した最高級の野戦軍指揮官。
戦車部隊の集中運用により、第二次世界大戦でドイツに大勝利をもたらした。
最終階級は上級大将。

ハインリヒ・ヒムラー

ドイツの政治家。親衛隊全国指導者。
親衛隊とドイツ警察機関全てを統括し、1,100万人にも及ぶユダヤ人、ロマ、ポーランド人、カトリック聖職者、ロシア人捕虜の虐殺に責任を負う。
長いナイフの夜に、親衛隊で粛清を実行する。

パウル・バイスバイラー

究極の兵士を目指して、装甲猟兵の教育を行ったケルベロスの教官。
合理主義者で兵士を鍛えるために兵が死ぬことをいとわない。
架空の人物ではあるが、物語中で語られた経歴は武装親衛隊の軍人であるパウル・ハウサーを元にしている。

パウル・フォン・ハーゼ

少将でベルリン防衛軍司令官
反ナチグループの一人で暗殺事件成功後ベルリンの主要施設占拠とナチス要人の逮捕を行うことになっていた。
史実では他のメンバー同様死刑となっている。

パウル・ヨーゼフ・ゲッベルス

ドイツの政治家。ナチ党政権下のドイツでプロパガンダを任務とする国民啓蒙・宣伝大臣を務めた。
当時の宣伝中隊の元締め。
作中では1942年には既にいない様子。史実では戦後まで生きて自殺する。

パウル・ルートヴィヒ・フォン・ベネッケンドルフ・ウント・フォン・ヒンデンブルク

(1847-1934)元軍人、第2代ワイマール共和国大統領。
ヒトラーを嫌っていたが、ナチス勢力を抑えることはできず1933年ヒトラーを首相に指名する。
34年の病死によって、ヒトラーは大統領を兼任する。

ハンス・エーリヒ・フォス海軍少将

海軍総司令部を代表する連絡将校として会議に出席。
史実では爆破を生き延びて終戦まで総統の身辺にあり、ヒトラーと、友人であったゲッベルスとその一家の自殺に立ち会っている。

ハンス・フォン・ゼークト少将

第一次世界大戦後厳しいヴェルサイユ条約の下でドイツ陸軍を再建した中興の祖である。
装備・火力・交通を重視し、一正面の防御作戦の実施に耐え得る軍の創設に努力した。

フリードリヒ・ヴィルヘルム1世

(1688~1740年)プロイセン国王(在位1713~1740)
粗暴で無教養だったが財政・軍制の改革によってプロイセンの強大化に努め、兵隊王とあだ名された。
「ポツダム巨人軍」と呼ばれる近衛連隊を組織したことは有名。

フリードリヒ・ヴィルヘルム・エルンスト・フォン・パウルス

ドイツ陸軍元帥。
バルバロッサ当初は第6軍の参謀長で、1942年当時には第6軍司令官。
史実では第6軍の降伏直前に元帥に叙せられたが、その直後に赤軍の捕虜となった。
一時は陸軍参謀総長候補に挙げられるほどの秀才だったが、野戦指揮官としては優柔不断な性格だったといわれている

フリードリヒ・エーベルト

一次大戦敗戦後の臨時政府の指導者になる。
労働者の暴動を義勇軍を使って暴力的に抑制した。
のちのワイマール共和国の初代大統領。

フリードリヒ・オルブリヒト

国内予備軍副司令官
ヒトラー暗殺事件での中心的な実行者。
「ヴァルキューレ」の発動を上官の国内予備軍司令官フロム上級大将に強要するが、その後、ヒトラー存命が確認されたことにより失敗に終わり、逮捕されてその日のうちに銃殺される。

フリードリヒ・フロム

国内予備軍司令官兼陸軍補充局長。
ヒトラー暗殺事件に連動した、国内予備軍を使った新国家樹立のための軍事クーデター計画、暗号名「ヴァルキューレ」発動に際し、ヒトラーの死亡が確認できないとして、計画発動に同意しなかった。
史実では暗殺事件失敗後シュタウフェンベルクらを逮捕・銃殺するが、その後反ヒトラー陰謀への関与が露見し、逮捕後裁判にかけられ1945年処刑されている。

ベルトルト・フォン・シュタウフェンベルク

クラウス・シェンク・グラーフ・フォン・シュタウフェンベルクの兄
弟とともに反ヒトラー派に参加し、史実では暗殺事件失敗後に逮捕され1944年に処刑された。

ヘルムート・ジェームス・フォン・モルトケ

反ナチグループのひとつであるクライザウ派(クライザウはモルトケ家の所領名)の創設者の一人。
普仏戦争を指導した大モルトケの甥の孫で、母親が英国系の南アフリカ人だったのでジェームスという英語のミドルネームがついている。
母親の影響でクリスチャンサイエンスを信仰していたため、ヒトラーを暗殺することには反対していた。
史実では暗殺事件の前に逮捕され、その後反ヒトラー派裁判で死刑宣告を受け45年に処刑された。
またモルトケとシュタウフェンベルクはいとこ同士だった。

ヘルマン・ゲーリング

ドイツ空軍元帥。
史実ではナチ政権下のドイツにおいてヒトラーにつぐ権力の持ち主であったが、『ケルベロス・サーガ』の世界においては“伍長殿”失脚後にJu52でアルプスを越えようとしたが(イタリアに移動中か?)、墜落。その命を失った。
作中では「あのデブ」と呼ばれる

ラインハルト・トリスタン・オイゲン・ハイドリヒ

親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーに次ぐ親衛隊 No.2の実力者。
ユダヤ人問題の最終解決計画の実質的な推進者であった。
諜報機関である親衛隊情報部( SD )のトップとして親衛隊内でも恐れられ、風貌から金髪の野獣もしくは第三帝国の首切り役人と呼ばれた。
比較的年齢層の若いナチ党指導部の中でも最若年といっていい若さながら、冷酷な性格と突出した才能でみるみる出世を遂げた。
史実では後にSDやゲシュタポ他ドイツ国内の警察組織や強制収容所を統括管理する国家保安本部(RSHA)長官となり、ヒムラーに次ぐ親衛隊の実質的なナンバーツーとして君臨した。
また、ユダヤ人の「最終的解決」を決定したヴァンゼー会議の主催者でもあった。
その後1942年にボヘミア=モラビア保護領(チェコ)副総督として赴任したプラハで、イギリスの特殊工作部(SOE)の支援を受けたチェコ人レジスタンスにより暗殺された。
野心家でもあった性格や年齢的な面から、生存していればヒトラーの有力な後継者候補となっていたとも言われる。

ラインハルト・ゲーレン

プロイセンの中産階級出身の陸軍軍人。
参謀本部のソ連情報を担当する東方外国軍課長である。
ドイツ諜報活動の中心人物の一人である。
史実では、その情報分析能力から「ドイツの絶望的苦境」をヒトラーに報告し、解任される。
ドイツが降伏すると、ソ連軍事情報を手土産に有能な部下ともにアメリカ軍に投降する。
戦後、米軍情報機関に協力して生き残り、対ソ諜報組織であるゲーレン機関を設立した。

ルートヴィヒ・ベック

第二次大戦中のドイツ陸軍大将。
1938年まで陸軍参謀総長を勤めたが、ヒトラーの対外拡張政策に反対し辞任した。
史実では1944年7月20日のヒトラー暗殺計画の成功の暁には新生ドイツの国家元首に就任予定であった。
暗殺計画の失敗後、拳銃自殺を試みたが失敗し、最終的には監視兵に射殺された。
作中ではヒトラー暗殺直後に国家元首に就く。

ローザ・ルクセンブルグ

ポーランドに生まれドイツで活動したマルクス主義の政治理論家、哲学者、革命家。女性。
彼女はポーランド王国社会民主党の理論家であり、ドイツ社会民主党になどに関わった。
ベルリンでドイツ革命に続いて武装蜂起を指導するが、国防軍の残党やフライコールとの衝突の中で数百人の仲間とともに逮捕、虐殺される。
同じく虐殺された盟友のカール・リープクネヒトとともに革命の象徴的存在とされている。