第7部 バグラチオン編 第1話「後手の先」

2007年3月1日

概要
第101装甲猟兵大隊は第6軍と共に辛くもスターリングラード脱出に成功するが、大損害を蒙り多くの兵士たちが死んでいった。
ハリコフの宣伝中隊本部を訪れたマキはシュタインブルンナー大佐よりマンシュタインがハリコフをいったん放棄し、その後反攻にでる作戦を立てているという情報を得る。
しかしそこに装甲猟兵たちの果たすべき任務は存在しなかった。
兵舎に戻ったマキにマイヤーは尋ねる。
なぜ自分たちの滅ぶ姿を撮影しなかったのかと。
そこへブッフバルトが現れ新しい命令が下ったことをマイヤーに伝える。
「現状の部隊を以って北方軍集団管区に転進、当該管区司令部に出頭せよ」
一方マンシュタインによる「後手からの一撃」は多大な戦果を挙げ、ドイツ軍は戦線の崩壊を免れることとなる。



オストロゴジスク=ロソッシュ作戦

1943年1月13日に開始された赤軍ヴォロネジ方面軍によるハンガリー第2軍およびイタリア第8軍に対する突破撃滅作戦。
この攻勢により両軍は壊滅し、A軍集団およびドン軍集団は中央軍集団との連絡を絶たれて孤立する危機に陥った。
なおイタリア軍が同じ東欧圏にあるルーマニアおよびハンガリー軍の間に配置されたのは、この両国がトランシルバニアの帰属を巡り対立関係にあったからである。

ロストフ

アゾフ海に注ぐドン川河口近くの都市でロシアおよびウクライナとカフカスを結ぶ交通の要衝。
正式名称は「ロストフ・ナ・ドヌー(ドン河畔のロストフ)」
ここを占領されればカフカス地方からの撤退作戦を行っていたA軍集団は退路を断たれることになる。
この後で出てくる「ロストフ回廊」とはこの地域のことをさす。

A軍集団

ブラウ作戦において油田地帯であるカフカス攻略の為に編成された軍集団。
この時点ではロストフを抜けてドン川西岸に撤退する為に戦線を後退させている。

第2親衛軍

赤軍南部方面軍麾下の部隊。
史実では後に満州に侵攻したザバイカル方面軍の司令官を勤めることとなるマリノフスキーが指揮を執っている。

2個親衛機械化軍団と1個親衛戦車軍団

実際には第2親衛軍がロストフ攻略に投入したのは第1親衛、第2親衛機械化、第3親衛戦車の3個軍団だが、史実では第51軍に配属されロストフ攻略に参加した第3親衛機械化軍団が第2親衛軍に配属されているようである。

第4装甲軍

この時点ではドン軍集団麾下にあり、作中で第6軍救出作戦に投入されたた第48・57装甲軍団を指揮していた。
増強された2個装甲師団とはおそらく第11装甲師団と第16機械化歩兵師団のこと。

第503重戦車大隊

ドイツ軍がティーガー戦車を運用する為に編成した重戦車大隊の一つ。
ティーガーは強力な戦車であったが高価で生産がはかどらなかった為、グロス・ドイチュラントなど一部の装甲師団に配備されたほかはそのほとんどが重戦車大隊として編成された。
史実では第501~509の9個大隊が編成され、主に軍や軍団直隷部隊として機動防御や戦線突破任務に投入されている。
また武装SSでは1943年秋にSS第101~103重戦車大隊が編成されている。
第503重戦車大隊は完全編成で14両×3個中隊+本部3両の計45両からなっていた。

スカチョーク(早駆け)作戦

1月29日に赤軍第6軍によって開始された反攻作戦。
ドン軍集団左翼およびB軍集団を駆逐し、ドンバスの解放とA・ドン軍集団の退路を断つことを目的としていた。
後述されるズヴェズダー(星)作戦の支援作戦として遂行された。

ドンバス

ロストフの東方でドン川に合流するドネツ川の流域地帯でドネツ盆地ともいう。
ドンバス炭田は当時ソ連最大の炭田地帯で、経済上の用地だった。

赤軍4個戦車軍団

スカチョーク作戦における機動戦力として編成されたポポフ機動集団のこと。
赤軍第6軍および第3戦車軍と共に最初西方に進撃し、次いで南方に進んでドン軍集団の後方に回り込もうとした。

ズヴェズダー(星)作戦

1943年2月2日にヴォロネジ方面軍が開始した反攻作戦。
ハリコフの奪回と、中央軍集団と南方戦域の軍集団群の分断を主目的としていた。

クラーメル軍団

ハリコフ防衛の為1943年1月初めに予備師団などによって臨時編成された軍団。
臨時編成であるため、通常の番号ではなく指揮官の姓で呼称されている
史実ではこの後ラウス軍団となり1943年4月に第11軍団に改称。

バグラチオン

史実では1944年6月22日に開始された赤軍の大反攻作戦の名称だが、ここでは1943年の冬~春に行われた一連の反攻作戦の総称となっている。
史実におけるバグラチオン作戦はドイツ中央軍集団に対して行われ、装甲兵力のほとんどを南方に引き抜かれていた中央軍集団は、
  • 戦死・行方不明・負傷・捕虜などの兵員の損失は約40万人。
  • 38個師団中28個師団が壊滅。
  • 軍団長もしくは師団長として戦線にいた将官47名中31名が戦死・自決・行方不明・捕虜となる。
という壊滅的な打撃を受けて事実上崩壊した。
この反攻の結果、中央軍集団の戦線は大きく西方に後退し、赤軍の一部がバルト海に到達した為、北方軍集団は孤立することとなった。
独ソ戦におけるドイツの敗北を決定付けた重要な作戦であるが、この名称をここで使ったということは史実におけるような44年の大反攻がおきないということになるのだろうか?
なお作戦名は19世紀のロシア帝国の将軍で、1812年のナポレオンのロシア遠征(祖国戦争)で戦ったピョートル・I・バグラチオン将軍からとられている。
またバグラチオンはスターリンの故郷グルジアの旧王家の末裔である。

「ハリコフ駐留の全部隊に撤退命令が」

史実ではハリコフを守備していたSS装甲軍団を指揮官のハウサーが独断で撤退させ、マンシュタインがそれを追認する形で行われた。
死守命令を出していたヒトラーはこの行為に激怒したが、後の反攻作戦によりハウサーとマンシュタインがハリコフ再奪回に成功した為処罰は行われなかった。

「南からもドニエプル川を目指して」

スカチョーク作戦で前進中の第6軍およびポポフ機動集団のことと思われる。

ドニエプロペトロフスクとサポロジェ

共にハリコフの南西、ドニエプル河畔の都市。
ドン軍集団と後方を結ぶ交通の要衝だった。
またサポロジエにはウクライナやドンバスに電力を供給する巨大なレーニン水力発電所があり、経済上の要地でもある。

「南方軍集団の退路を遮断して」

史実ではドン軍集団は1943年2月12日に南方軍集団に改称されているが、作中では2月20日の反撃開始の時点でも元の名称のままである。
作中では「南方軍集団」はA・B・ドン各軍集団の総称ともとれるが、どうも不明確である。
あるいはこれらの軍集団の上級司令部として南方軍集団が存在するのかもしれない。

後手からの一撃

マンシュタインが第3次ハリコフ戦でとった戦術の呼び名として使われる。
実際には「後手からの一撃」は英語の「Backhand Blow」(ハリコフ戦を扱ったゲームのタイトルにもなっている)の訳らしい。
また「後手の先」は本来は囲碁の用語である。
マンシュタイン自身はこの戦術をクラウゼヴィッツの著作から引用して、「報復のきらめく剣」と表現していたといわれている。

「27日付けで南方A軍集団からドン軍集団へ2個装甲軍団と1個歩兵軍団が移管された」

おそらくはA軍集団麾下にあった第1装甲軍の主力と思われる。
第1装甲軍はカフカスからの撤退のしんがりを勤め、1943年1月末までにロストフを通過してドン西岸に入っている。

兵科連合

歩兵・砲兵・戦車など異なる兵科の部隊を集めて部隊を編成すること。
ある程度まで独立して作戦を遂行できるので柔軟な運用が可能となる。

「戦争を教育してやる」

1944年6月13日にノルマンディ戦で起きた「ヴィレル・ボカージュの戦い」で、SS第101重戦車大隊のミヒャエル・ヴィットマンSS中尉が砲手のバルタザール・ヴォルと交わしたとされる会話のもじり。
この戦闘でヴィットマンは単独で英軍部隊に攻撃をかけ、多大な戦果を挙げた。
ドイツ軍マニアにとってはあまりにも有名な台詞である。

「フリングスも」

この後の台詞で第101装甲猟兵大隊の中隊指揮官は全員戦死したことがわかる。

定数の半分にも満たない2個中隊が

ドイツ軍の中隊の定員は140名なので、その半数以下が2個。
本部要員を入れてもおそらくは100名を多少越える程度にまで兵員が減っていることになる。
たしかにマンシュタインといえども、ここまで損耗した部隊を作戦に使用することはためらうだろう。

野戦任官

戦闘による損耗で士官が不足した場合、上級指揮官が下士官を臨時に士官として任命し指揮をとらせることをいう。
あくまで仮の階級であり軍の人事セクションが正式に発令したものではない。
よって通常は補充の士官が着任した段階で指揮を引き渡し元の階級に戻る。

「ギドか」

マイヤーの副官であるギド・ブッフバルト大尉のこと。

北方軍集団

東部戦線の北部戦域(レニングラード~ヴィテブスク)を担当していた軍集団。

ドン軍集団所属の2個装甲軍団

史実ではこの攻撃を行ったのは第48装甲軍団とSS装甲軍団だが、作中では武装SSは既に存在していないので別な部隊が行ったと思われる。
軍団名を明確にしないのはそのためだろう。

「第40装甲軍団が敵の戦車軍団を各個撃破し」

ここで撃破されたのは前述のポポフ機動集団。
ポポフ機動集団は反攻作戦開始後2個戦車軍団が増強されさらに戦力を増していたが、侵攻するにしたがって長大となった補給線の維持が困難となった。
ドイツ軍の反撃直前には指揮官のポポフが南西方面軍司令官ヴァトゥーティンに「すべての戦車、動かず!」と打電する状況となっていた。
このため、ドイツ軍の攻撃に対して有効な反撃を行うことができず、各個撃破によりポポフの部隊は壊滅することとなった。

クルスク突出部。

ここまでで語られているように赤軍はこの大反攻作戦によってクルスク、ハリコフの奪回のみならず、ドン川西岸を守っているドン軍集団とA軍集団の撃破をも狙っていた。
しかしマンシュタインの「後手からの一撃」によって攻勢の南翼は押し戻されることなり、北翼のクルスクのみが解放されることとなった。
しかしこの一連の戦闘の結果生じたクルスク突出部は日本の関東平野に匹敵する広大な地域であり、史実ではここをめぐって1943年夏に史上最大の戦車戦が起きることとなった。

第3次ハリコフ戦の戦闘概略図

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最終更新:2007年03月15日 14:02