※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

第6部 スターリングラード編 第1話 「邂逅」

2007年1月11日

概要
ついにスターリングラードに到着したマキ達は、装甲猟兵をさがし戦時のスターリングラードを歩きまわった。
最前線に向かうマキ達に狙撃の銃声が響き渡る。

4号の最新型

四号戦車H型
四号戦車の派生型としては最多の生産数を誇る。
48口径75mm砲を搭載し、装甲の強化や新型変速機の採用など改良が加えられている。
また車台や砲塔の側面には薄い増加装甲板(シュルツェン)を備えている。
ただしH型が戦場に投入されたのは1943年春からなので、43口径75mm砲を搭載したG型にシュルツェンを装着したタイプかもしれない。

1942年9月

史実ではドイツ軍はスターリングラードを制圧中である。
10月まで戦車同士の激戦が続き、11月にはソ連のスターリングラード包囲戦が始まる。
そういった時期である。

赤軍の三個方面軍

北から南西戦線、ドン戦線、新設されたスターリングラード戦線の三つである。

パウルス

フリードリヒ・ヴィルヘルム・エルンスト・フォン・パウルス
ドイツ陸軍元帥。
バルバロッサ当初は第6軍の参謀長で、1942年当時には第6軍司令官。
史実では第6軍の降伏直前に元帥に叙せられたが、その直後に赤軍の捕虜となった。
一時は陸軍参謀総長候補に挙げられるほどの秀才だったが、野戦指揮官としては優柔不断な性格だったといわれている。

ジューコフ

ゲオルギー・ジューコフ
ソビエト連邦の軍人、政治家。
第二次世界大戦期を通じてソ連で最も活躍した軍人の一人
独ソ戦開戦時には赤軍参謀総長
1942年9月現在は赤軍最高司令官代理としてスターリングラード防衛の総指揮を担当していた。
なおジューコフは1939年のノモンハン事件(ハルハ川戦争)で赤軍の指揮をとり日本の関東軍に大損害を与えたが、この世界で同事件が発生したかどうかは不明。

ヴァシレフスキー

アレクサンドル・ヴァシレフスキー
ソ連軍司令官。ソ連邦元帥。
作中の時は参謀総長

ティモシエンコ攻勢

第二次ハリコフ攻防戦
ドイツ南方軍集団のブラウ作戦発動、進撃開始の前にソ連赤軍のハリコフ周辺への攻撃があった。
ドイツ軍を包囲しようとしたが、装備・熟練度とも前年の痛手から立ち直っていない赤軍は攻撃に失敗、逆にドイツ軍に包囲され、貴重な戦車戦力を多数失った。
作戦立案者のティモシェンコはこの時点では南西戦線司令官で、1942年9月現在は新設のスターリングラード戦線司令官

バルヴェンコヴォ突出部

バルヴェンコヴォはハリコフ南方にある小村で、1942年春にはここを中心に西に大きく飛び出した突出部が形成されていた。
赤軍はここを発起点として西方に向けて攻勢をかけ、ハリコフ東方の友軍と呼応してハリコフ奪回を図ろうとした。
これが上記の「ティモシエンコ攻勢」である。
一方ドイツ軍南方軍集団も同時期に突出部に対し南北から攻撃をかけ、ここに集中した赤軍部隊を包囲撃滅する作戦「フレデリクス」を計画していた。
戦闘は赤軍が機先を制する形で始まり当初ドイツ軍は苦境に立たされたが、突出部北部の部隊がハリコフ防衛に集中する間に南側の部隊が突出部の切断と赤軍の殲滅に成功。
ティモシエンコ攻勢は赤軍の敗北で終わることとなった。

クライスト

第1装甲軍司令官エヴァルト・フォン・クライスト上級大将。
ドイツの名門クライスト一族の一人で、第二次大戦を通して西部・東部両戦線で戦っている。
第二次ハリコフ戦では第1装甲軍を基幹として臨時編成されたクライスト集団軍を指揮し、バルヴェンコヴォ突出部の包囲作戦を行った。

三個狙撃軍と一個戦車軍

この時包囲殲滅されたのはソ連第6軍、第9、第57軍、ポプキン集団(戦車軍に相当)

ブラウ

ブラウ(青)作戦
独ソ戦を短期に終わらせることに失敗し、国内の石油事情が格段に悪くなったドイツ軍はソ連南部への攻勢を決定した。
南方軍集団により、長期戦に備えるためにとコーカサス油田地帯を確保を目的とした。
作戦内の補給線後方の防御拠点確保の為のスターリングラード制圧が、スターリングラード攻防戦へと繋がっていく。
ドン川を越えてバクーを目指す南翼のA軍集団(約100万人)と、A軍集団の側面を守りつつドン川沿いを制圧してスターリングラードを目指す北翼のB軍集団(約30万人)に分かれて、1942年6月28日一斉に進軍を開始した。
ただし作中では南方軍集団は存在しているので、この分割はなされなかった可能性がある。

デパート

スターリングラードの南部市街には百貨店(ウニヴェルマグ)が存在し、激しい争奪戦の舞台となった。
この百貨店は映画「スターリングラード」にも登場する。
史実では1942年9月末には南部市街の制圧はほぼ終了しているので、マキたちがスターリングラードに入ったのはそれ以降ということになる。

モスクワ攻略

1941年10月2日より行われたドイツ軍によるモスクワへの攻略戦。
例年よりも早く冬が到来しドイツ軍の進撃は完全に停止、ソ連軍が反撃に転ずる。
ドイツ軍の戦闘車両や火器は寒冷のため使用不能に陥った。
12月5日、モスクワ攻略の失敗が明白となり、作戦は失敗に終わった。

「リストの側面を」

ヴィルヘルム・リスト元帥の指揮していたのはA軍集団だが、作中では南方軍集団は分割されていないようである。
独立した編成単位である軍集団(Heeresgruppe)ではなく、南方軍集団の指揮下で臨時の編成である集団軍(Armeegruppe)として行動しているのかもしれない。

カフカス攻略

史実ではブラウ作戦においてA軍集団はカフカス山脈北方を占領して油田地帯を押さえ、その後山脈を越えてグルジアにまでいたる予定だった。
実際には赤軍の抵抗とスターリングラードでの事態の急変でカフカス越えは実現せず、一部の山岳兵部隊が最高峰のエリブルズ山に登頂するにとどまった。

ドン川を左側面にしておけば

アゾフ海に注ぐドン川はスターリングラード西方で大きくコの字型を描く形で屈曲し、カスピ海に注ぐヴォルガ川に接近していた。
両河川ともに橋を持たない大河であり、守る側にとっては自然の防壁として機能した。
マキがここで言っているのは第6軍はスターリングラード攻略に集中すべきではなく、この自然の防御線であるドン川に沿って展開させ、本来の目的であったカフカス攻略部隊の側面防御に専心させるべきであったということである。

グリエフ

カスピ海北岸の港湾都市。
現在はカザフスタン共和国に属している。

アストラハン急襲作戦

第4装甲軍が研究していた「青鷺(ヘロン)作戦」のこと。
計画では、スターリングラードを8月に早期占領後、2個装甲師団と1個自動車化歩兵師団からなる快速部隊でカスピ海沿岸の都市アストラハンに進出し、バクーへの陸上交通を断ち後方の安全を確保した上で、バクーを攻略する予定だった。

擲弾

小銃の先端に差込み専用の空包によって撃ち出される小型の榴弾。
威力は手榴弾程度だが、より遠くに飛ばすことができ射手が敵に身をさらさずにすむという利点がある。
カンプピストルという信号銃から発射するタイプもあった。

ソ連赤軍の編成について補足

赤軍の編成単位は上から戦線→軍→(軍団)→師団となる。
ドイツ軍に比べて赤軍の師団兵員数は一万人前後と小規模なため、ソ連軍の戦線はドイツの軍、軍は軍団に相当する。
そのためかソ連赤軍の編成では軍が直接師団を指揮し、軍団が置かれない場合が大部分だった。
戦線には担当する作戦地域名(スターリングラード、南西部など)がつけられている。
独ソ戦初期には戦車師団が存在したが、独ソ戦初期に拙劣な作戦で壊滅的な損害を出し、また通信機器の不足から運用に問題があったため解体されより小規模の戦車旅団(おおむねドイツ軍の装甲連隊に相当)に再編成された。
さらに戦車旅団と自動車化された狙撃兵旅団からなる戦車軍団が編成されたが、これはドイツ軍の装甲師団に相当する部隊で通常の「軍団」とは異なる。
また伝統的に火力を重視する赤軍は砲兵師団、独立砲兵旅団といった大規模な砲兵部隊を数多く編成し、強力な火力支援を行っている。
戦争後半には戦車部隊を中核とした戦車軍が編成された。
またソ連軍独自の編成単位として突撃軍と親衛軍がある。
突撃軍は通常の軍に装甲部隊などを配備したもので、攻勢時の先鋒を務め戦線の突破を主任務とする。
「親衛」は功績を挙げた部隊に与えられた名誉称号で、独立した組織であったドイツの親衛隊とは性格が異なる。
どちらも通常の部隊に比べて給与・糧食・武器弾薬の配給は優遇されており、攻勢時の主役となるエリート部隊とされていた。