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第3部 電撃戦編 第2話 「西方研究」 StudiumWesten


2006年10月12日 放送

解説
1次大戦における浸透戦術が電撃戦へと実際に移行していく過程を解説。
グデーリアンによって為された電撃戦の事実。
バイスバイラーの目標、シュトゥッツ・トルッペの進化系の最終目的である機械化歩兵。
その前身たる部隊として装甲猟兵部隊は作られたこと。
マキの私的の作戦と知りながらも、ホラーバッハ、ラウトともにマキについて行くことを示す一幕。
そしてポーランド戦がはじまる。

ブリッツクリークという言葉

ブリッツ(Blitz)は、ドイツ語で雷撃・電撃を意味する言葉。クリークは戦争。
現在では危険性も大きいが見返りも大きいギャンブル性の高い戦術、作戦を指すようになった。
ドイツ的なるものとはこのギャンブル性を指してのことか?

グデーリアン

ハインツ・グデーリアン
ドイツの軍人。
第二次世界大戦の緒戦の大勝利を飾った電撃作戦の生みの親であり、またそれを実践した最高級の野戦軍指揮官。
戦車部隊の集中運用により、第二次世界大戦でドイツに大勝利をもたらした。
最終階級は上級大将。
フランス戦時には侵攻の主力となったA軍集団クライスト装甲集団麾下の第19装甲軍団を指揮してアルデンヌ突破の先鋒を務め、ドイツ軍の大勝利の立役者となった。

モルトケ

ヘルムート・カール・ベルンハルト・グラフ・フォン・モルトケ
プロイセン王国の軍人。陸軍参謀総長として天才的な手腕を見せ、対デンマーク戦争(1864年)、対オーストリア戦争(1866年)、対フランス戦争(1870-1871年)に勝利してドイツ統一に多大な貢献をした。
その極めて高い知性と控えめで繊細な性格から「七ヶ国語で沈黙する男」との異名をとった。

ゼークト

ハンス・フォン・ゼークト少将
第一次世界大戦後厳しいヴェルサイユ条約の下でドイツ陸軍を再建した中興の祖である。
装備・火力・交通を重視し、一正面の防御作戦の実施に耐え得る軍の創設に努力した。
ワイマール共和国下では兵務局局長(兵務局は連合国より設立を禁止されていた参謀本部の偽装名)、陸軍総司令官を歴任。
退任後は蒋介石の軍事顧問となり、日本と戦っていた中華民国軍の作戦指導を行っている。


2正面作戦を余儀なくされる

実際にドイツは東部戦線と西部戦線の2つを同時に進めていた


シュリーフェンプラン

この作戦においてはドイツ軍の侵攻兵力は北方のベルギー、オランダとの国境地帯に配置された右翼と、独仏が直接国境を接するアルザス・ロレーヌ地方に配置された左翼に分けられた。
侵攻主力である右翼は作戦開始と同時に南北に並んだ部隊がオランダ、ベルギーを通過して南を回転軸に反時計回りに大旋回しつつパリに向かって進撃し、右翼北端はパリを巻き込むような形でこれを包囲、軍勢はさらに南方に向かって旋回を続ける。
左翼は伝統的な侵攻ルートであるアルザスに集結したフランス軍主力に索制攻撃を行った後後退して国境地帯に誘い込み、敵を引きつけ続けて北方への移動を阻むことが主任務となる。
最終的にはパリ南方で旋回を終了した右翼が背後から敵主力を襲い、これに呼応して国境から前進した左翼と共にこれを包囲し殲滅する。
敵が左翼に圧力をかけるほど右翼の進撃が容易になることから、シュリーフェンはこれを「回転ドアの兵理」と呼んでいた。
敵の裏をかくという意味では優れた作戦ではあったが、いくつかの重大な問題がこの作戦には存在した。

1)対仏戦には本来無関係なベルギー、オランダに侵攻することでおきる国際的な対独感情の悪化を無視している。
2)長大な距離を進軍する右翼の歩兵・軍馬の疲労や補給線の長大化を、これもまた無視している。
3)作戦の性格上ドイツ全戦力のほとんどを投入する必要があり、東部戦線におけるロシアの動員の遅れを当てにしなければならない。
などである。
これらの欠陥は第一次大戦において露呈し、ドイツ軍は泥沼の消耗戦へと陥ることとなる。
しかし大戦後もシュリーフェン・プランは金科玉条として扱われ、第二次大戦においてもマンシュタインによるアルデンヌ突破というアイディアが生まれるまで、ドイツ軍の対仏侵攻作戦はシュリーフェンの焼き直しのままであった。
一方のフランス側はアルザス地方に長大なマジノ線要塞群を建設して策制攻撃に備え、ドイツの侵攻時にはベルギーに進出した軍主力による防衛線を形成してこれを迎え撃とうとしたが、フランス戦ではこの二つの防衛線の間隙をついたマンシュタイン・プランによって完全に裏をかかれることとなった。


シュトゥッツ・トルッペ

ドイツ突撃歩兵。
第一次対戦中に、イギリス軍の戦車による塹壕突破に対し、ドイツ軍が塹壕を突破するべく訓練された部隊。
浸透戦術を行う部隊である。浸透戦術は電撃戦の前身とも言える戦術である。
シュトゥッツ・トルッペというのは誤りで、正しくはシュト-ス・トルッペン(Stosstruppen)もしくはシュトルム・トルッペン(Sturmtruppen)。
なお塹壕に侵入して白兵戦を行う突撃歩兵は機関銃や先を研いだスコップ、手榴弾などで武装していたが、身を守る為鉄製の仮面やガスマスク、鉄板を加工した鎧状の胴着を着用することもあり、その姿はプロテクトギアを思わせるものがある。

フライコール

第一次大戦後にドイツ軍の退役軍人によって組織された義勇軍団。
1919年11月の休戦と帝政の廃止後、旧ドイツ軍は暫定国軍として大幅に縮小され、多くの将校・兵士が退役を余儀なくされた。
一方ドイツ国内と革命によってロシアの支配から離れたフィンランドやバルト諸国などではドイツ社会主義革命を目指す左翼勢力による暴動や政権奪取の試みが相次ぎ、内乱状態となった。
これを憂慮した軍部及び資本家達は退役軍人達に密かに武器・資金を供与してフライコールを組織、この兵力を以ってドイツ国内外において暴力的に左翼勢力の弾圧を行った。
その行状は過酷なもので、裁判を経ない銃殺や虐殺行為も頻発した。
フライコールの多くはその後解散したが、その人員の中にはナチスの突撃隊(SA)に流れ込んだ者も多く、シュタールヘルムのように政治団体として1930年代まで活動を続けたものも存在する。

カポレット

1915年、連合軍側に立って参戦したイタリアとオーストリアの北イタリアにおける戦いは数次にわたる会戦によっても勝負はつかず、戦線はイタリア国境にわずかに入ったところで膠着していた。
しかし1917年に入って攻勢に出たイタリア軍は戦線をわずかだが押し戻し、オーストリア軍は劣勢となった。
事態を重く見たドイツは12個師団からなる軍を派遣、1917年10月末にカポレットにおいて浸透戦術による突破作戦を開始した。
この結果ドイツ・オーストリア両軍は半月で100km近い前進に成功、イタリア軍に60万近い兵員の損失をもたらす大勝利を収めた。
この後援軍として派遣された英仏軍により戦線の崩壊は食い止められ、以後休戦まで再び戦況は膠着状態となるが、カポレット戦は会戦劈頭のタンネンベルクの戦いと並ぶ巧みな用兵により完璧に近い勝利をもたらした戦いとして戦史に名を残すこととなる。

エルヴィン・ロンメル

第二次世界大戦中最も有名なドイツ軍人の一人。
北アフリカ戦線において巧みな戦闘指揮で戦力的に優勢なイギリス軍をしばしば打ち破り、英首相チャーチルよりナポレオン以来の戦術家と評される。
砂漠の狐と仇名されるほど。
捕虜を非情に丁寧に扱い、ヒトラーに捕虜殺害を命じられても、国際法の遵守を最後まで通し抜いた。
東側戦線がメインとなるこの作品では影が薄い。
フランス戦ではベルギー攻略を担当したB軍集団麾下の第7装甲師団を指揮し、上層部ですら所在をしばしば見失うほどの急速な進撃を行いフランス軍に混乱と敗走をもたらした。
これにちなみ、第7装甲師団には「幽霊師団」という異名が付けられている。

J.F.C.フラー

英国の軍人で戦車戦の理論家。
かれが先鞭をつけた戦車による電撃進攻作戦は英軍では受け入れらず、ドイツ陸軍に採用された。

計画一九一九

フラーが1918年に立案した対独攻勢計画。
ドイツ軍の浸透戦術の有効性を評価したフラーは、高速で移動可能な戦車が航空機の支援を受けて速やかに戦線を突破して後方の司令部を殲滅、指揮系統を混乱させることでドイツ軍の戦線を崩壊に導こうという構想を立てた。
この構想実現のために必要な高速戦車開発のめどをつけたフラーは計画書を作成し本国に提出し、これが最終的に「計画一九一九」として知られることとなる。
フラーの構想は翌年にドイツが休戦したことで実現を見ず、戦後は陸軍の戦車に対する無理解もあって本国ではこの構想を「拡大奔流戦略」へと広げたリデル=ハートなど極少数の賛同者の他は顧みられることはなかった。
しかし皮肉なことに、かつての敵国ドイツにおいてグデーリアンがこの構想に着目し、やがて電撃戦構想として結実することとなる。

リデルハート

バジル・ヘンリー・リデル=ハート
英国の戦史研究家もしくは戦略家。あるいは、日本で言うところの軍事評論家。
機甲部隊の有効性を唱えた最初期の理論家。その正しさは第二次世界大戦で実証された。
なおリデルはファーストネームではなく、リデル=ハートで一つの姓である。

プラタイアイの戦い

ペルシャ戦争(BC500~448)においてアケメネス朝ペルシャ帝国軍とアテネ・スパルタ連合軍の間で戦われた戦闘。
この戦闘でギリシャ側は鎧兜を付け盾と槍で武装した重装歩兵の密集陣(ファランクス)でペルシャ軍の弓兵と騎兵の攻撃をはねのけ、勝利を得た。
この後重装歩兵の突進による敵陣の破砕は古典世界における戦闘のスタンダードとなった。

パヴィアの戦い

西暦774年シャルルマーニュが率いるフランク王国がランゴバルド王国の軍勢を撃破し、同国を併合して欧州におけるフランク王国の覇権を確立した戦い。
この戦いにおいてフランクの甲冑と長槍で武装した重装騎兵は、守りを固めていたランゴバルドの陣営が予期していなかった側面からの急襲を行い、彼らを壊走させた。
以後中世の騎士物語に見られるように重装騎兵は戦場の花形となる。
しかし皮肉なことにこの8世紀後の1525年に戦われた同名の戦いで、フランス軍の重装騎兵の突進はスペイン軍の火縄銃の集中射撃の前に敗れてその役割を終えることとなった。

レオ・フライヘーア・ガイル・フォン・シュヴェッペンブルク中将

プロイセン生まれのユンカーで、フライへーア(男爵)の爵位を持つドイツ軍人。
代々の騎兵将校で元々は戦車に好感を抱いていなかったが、イギリスに武官として派遣されていた時にフラーら英軍戦車将校との知遇を得、彼らとの交流を通して戦車戦の支持者となった。
しかしフランス戦では先任であった彼の頭ごなしにグデーリアンが装甲軍団の指揮官に任命され、シュヴェッペンブルクはC軍集団麾下の第24軍団を率いてマジノ線への策制攻撃を行うこととなった。
この事はグデーリアンと彼の指揮下に置かれた装甲師団の師団長たちとの間に緊張をもたらした。
さらに常に前線にいたグデーリアンがしばしば指揮系統を飛ばして直接現場の部隊に指示したことで、一時グデーリアンと師団長たちの関係は険悪なものとなっている。
シュヴェッペンブルクは史実ではその後フランスに配備された装甲師団を統括する西方装甲集団の司令官となったが、部隊の配置を廻ってノルマンディ地区の防衛を担当したB軍集団司令官ロンメルと対立。
ノルマンディ戦後に予備役に編入となり終戦まで現役に復帰することはなかった。


「チェコスロバキアで獲得されたそれ」

スコダLT-35、LT-38、等の戦車のこと、またその他の車両も含まれると思う。

MG34

1934年に制式化され製造されたドイツの機関銃である。
空冷式で、7.92mmモーゼル弾を使用
高い発射速度や過熱しても簡単に銃身交換が可能なメカニズムを持ち、三脚を取り付ければ長距離射撃可能な重機関銃、そのままなら歩兵が携行して移動可能な軽機関銃としても用いられる世界最初の汎用機関銃として、戦後の機関銃開発に大きな影響を与えた。
歩兵用の主要機関銃としてだけでなく戦車用の機銃や、航空機の防御用兵器として終戦まで使われ続けた。
しかしMG34は高価であり、常に拡大し続けていたドイツ軍の各戦線への各種要望に応えることができなかった。
さらに、汚れに過敏な傾向にあり、ジャミングを起こすことが多かった。
史実では構造を簡略化したMG42が戦争中盤より配備されている。