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 彼は駆け上がった。延々と続く、階段の上を。
 砂埃を吸い込み、風を感じることもなく、一心に駆け上がった。ただ、目を見開いて。
 血走った目は、遙か遠く、空を見据えていた



 まただ、ティンクが呟いた。その視線の先は、右腕に現れた紅い文字にあった。
<Roomlock Nowhere>と、書かれている。
 ルームロック・ノーウェー。誰かの名前だ。
「また、出てきたのか。」
 全身をススだらけにした男が言った。オースだ。
「オース、やっぱり、この人は変人なのかな?」
「さあねえ。〈ハード〉の奴が悲しむことは、そう無いから、……そうなのかもしれんな。」
「……そうですか」
 この世界には、二つの階層が存在する。まず、絶対的な幸福を祝福された<ハード>
 <ハード>に一生分の幸福を与え奪われた者が落とされる<ホーム>。この二つの世界は、繋がっている。と、落下神父のムシクはいう。
 落下神父というのは<ハード>から落ちてくる子供を見守り、受け止める人たちのことだ。<ハード>では、落下神父になるか、鉱山夫になるかだけ。大半の人は鉱山夫として、山を削っている。
 怒りはない。ここの人たちは、心が麻痺してしまっている、と、ティンクは思う。うまれる前からきめてあったこの理不尽きわまりない制度、と言うよりもこんなことが大前提としてある世界を、ティンクはイヤだ、と思った。
 しかも、〈ハード〉の人たちは、働かないらしい。何故?豊かだから? なぜ豊かなんだろうか、働く。なぜ? その疑問は、自分にも向けられた。
 なぜ、僕はここで働いて居るんだろうか。逃げたい。無理だ。こんな感情も、いつかは踏みつぶされてしまうんだ。いつか、精神が麻痺し、魂をすり減らし、肉体を失っても、ただ、家畜のように……
 心が先に腐ってしまう。ティンクはそう思って、目の前の岩肌に意識を向けた。

 黄銅の鐘がなる。
 一日の終わりを、それは叫んでいた。
 一瞬だった。僕も、オースも、また、他の人たちも、汗を流し終え、やっと終わった、と安堵していた。
 一瞬だった。
 油断していた。
 安らかに、
 ただ、油断していた。
 轟音が鳴り響いて、目の前が白く煙る。何かが崩れる音と、熱。奥の方で、熱と、光を持つ何かがうまれたのが分かった。
 火事だ。人々が一目散にもう一つの光……出口へと走って居る。
「ティンク!」
 いきなり、腕を鷲掴みにされた。半分引きずられるようにしてズルズル、ズルズルと出口へ向かう。
 外に出た瞬間の光が、とてつもなく眩しかった。
 もう外には、沢山の人と、そして落下神父であるムシクの率いる医者達が、そこには居た。
 そして、見覚えのある女性が、一人。
「大丈夫だったかい? ティンク」
 ノックが言った。
 イースター・ノック。褐色の肌は、まだ汗で濡れていた。
「ええ、まあ。」
 ティンクは、彼女が嫌いだった。
 ねっとり、べっとり、舐めるような視線。その視線は、嫉妬と、怒りに満ちていた。その理由は、分からない。いつもこうなのだから。
 誰にでもそういう視線を送るのか、と思っていたが、それも違うようだ、と最近気が付いた。
 少なくとも、そういう目で見ているのは、ティンクだけだった。
「……気色悪い奴だ。」
 誰にもきこえないように呟いた、その瞬間、山が、さらに爆発した。
「ティンク、お前はもう、帰って良いぞ。ノック、お前が送ってやれ。」
 オースがそういうと、ノックは頷いて、了承した。
「さあ、いこう」
「一人で、帰れるよ」
 そういって、ティンクは一人、早足でその場を立ち去った。
 赤い酸化鉄の荒野の上を歩いている。乾いた風は、ティンクの肌を叩きつけている。痛いが、そんなこと、ティンクの頭の中にはなかった。
 ただ、死ぬまでに、この世界から出たかった。
 ティンクが家に着くと、すぐ、横になった。
 回るようにして、ティンクは落ちていく。
 黒い、闇の中へ


 ティンクが目覚めると、その瞬間、ドアがノックされた。
 ティンクがふらふらしながら、ドアを開けると、そこには喪服を着て、悲しげな顔をしたオースが立っていた。その瞬間、ティンクは、すべてを悟った。
 誰か、死んだ。
 昨日まで居た人が、ふっ、と、居なくなる。
 煙のように。
 ランプの明かりを吹き消すように。
 人の、暖かさのように、それは、ふっ、と、消えた。
 風に乗った煙がもどらないように。
 暗闇の中で、ランプの明かりをつけられないように。
 誰かを、失望させてしまった時のように……それは、もどってこないのだ。
 酸化鉄の荒野の上を、オースと共に、何も言わず、歩いた。オースの顔には、疲労が浮かんでいる。青白く、暗く、目にはうっすらと、光がこもっているだけで、虚ろだった。
 その理由はすぐに分かった。
「……顔を、見てやってくれ」
 ノックの父親が、死んだ。ノックに導かれるがまま、棺桶の中の顔を見た。
 原型など、残っているはずもなかった。
「……ッ」
 喉が詰まる。息ができない。
「……」
 ノックは無言のまま、棺桶を閉じた。
 その瞬間、体の中でざわり、ざわり、と揺れる炎のような物を感じた。自然と手を強く握りしめる。
 大声を上げたい。
「……」
 それを必死に我慢した。
 ノックが呟いた
「〈ハード〉の奴らには、こんな苦しみは、無いんだろうな」

 家にもどり殺風景な家の中を見渡した。
 箱が部屋の隅に横たわっていて、その中の絵本を取り、初めて、本を読んだ。字は、オースから習っていたから、大丈夫だった。
『今後一週間は、仕事はないだろうな』 
 オースの言葉を思い出した。
 そのことに、怒りを感じ、本を読み進めた。
  「そこは楽園だった。
   彼はそこにやって来た。
   人々は、彼を一瞥すると、地面に放り捨てた
   烏がやってきて、ささやいた。
   『お前の光る、宝物をくれ』
   狼がやってきて、うなった。
   『お前の赤い、熱い心臓をよこせ』
   彼は聞きませんでした。
   聞こえていませんでした。
   『俺の心は、今も、あそこにある。誰にも奪えるものか』
   と、言って空高くを指差した。
   『誰にも触れない。奪えない』」
 そこで、絵本は終わっていた。
 その瞬間、ティンクの意識は空を飛び、空高くを昇っていき、空が終わり、別の地面に立っていた。
 目の前には一人の少女が居て、悲しそうに微笑んだ。
「待ってる。」 
 その瞬間、ティンクの意識は戻った。
 ……行かないと。
 どこに?
 行かないと
 だから、どこに?
 行こう……!
(だからまてって!)
 ティンクの頭の中に芽生えた意識に向かって、そう、叫んだ。
 ……新しい、朝が来るぞ
(……?)
 ……アナザーモーニングが……
(畜生!)
 気が付けば、外に出ていた。
 その瞬間、家が炎に包まれ、爆発した。黒い塊になっている。……自分の家が。
「……」
(一体、誰が?)
 そう思ったが、身体は一直線に走っていた。
 岩石地帯を抜け、一直線に走り、森を抜け、谷を駆け下り、河を飛び越え、脚に違和感を憶えた。
 血が出ている。一点から、集中して、血が出ている。
「畜生」
 そういいながら、ノックが姿を現した。
「ノースイーストの森まで抜けるなんて予想外だぞ。」
 彼女の手には、それまで見たことのない何かがあった。
「お前は〈ハード〉征服に重要な駒なんだ。」
 ノックがじりじりと近寄ってくる
「わたしは父の意志を継ぎ……この世界を革命する! 我々の力を、思い知らせてやる! わたしが、世界を変えるのだ!」
 ティンクは、それに心のどこかで頷いていた。そのお通りだ、もっともだ、と。
 それでも、ティンクは立ち上がった。
 そして、走り出す。
「ッまてッ!」
 ノックの声は最早、聞こえていなかった
 一陣の風が、彼を運んだ。
 思考は要らない。
 痛みなど、忘れてやろう
「……」
「だから、言っただろう」
 ノックの後から、オースが現れた
「彼は、向こうの世界から、愛されているのだ。……今に、見ていろ。ノック。あいつは、高く、雄々しく、〈ハード〉に走り去るぞ。」

 薄汚れた螺旋階段があった。見たこともない、今にも消えてしまいそうな螺旋階段は、事実、消えようとしていた。
 その螺旋階段をティンクは何も考えず、昇っていく
 思考は要らない
 砂埃を吸い込み、風を感じながら、一心に駆け上がった。ただ、目を見開いて。
 血走った目は、遙か遠く、空を見据えていた。