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ヒカルとチョコレート


「おい、因幡。調理実習なら、家庭科教室でやれ」
「ここは、はづきちのご慈悲で!だって、家庭科教室で一人寂しくチョコレート作ってたら、なんだか冷たい如月の荒波が立つ
凍てつく海に放り出されたみたいでハートが折れそうなんですよ!うおー!混ざれー!混ざりやがれー!」
料理と実験は似た者同士。そんな言い訳をして、ウサギの因幡リオはボールの中で融けたチョコレートをがむしゃらにかくはんする。
冷蔵庫に、水道、レンジ。とかく機材が揃っているからと、昼休みを使って化学準備室でリオは、
にんじんのプリントが施されたエプロンをぎゅっと締めて、女の子フルスロットル。ただ、リミッターを付け忘れたのか、少々騒がしい。
ロップイヤーのウサギの跳月先生は、リオにこの部屋を貸したことを少し後悔していた。

「犬上。うるさかったら、因幡に文句言ってもいいんだぞ」
「……」
「はづきち!犬上を味方にしようとしたでしょ?オトナは汚い!」
「……」
一方イヌの犬上ヒカルは、部屋の隅で、跳月先生のイスに腰掛けてリオのことなど気にせずに、手持ちの文庫本のページを捲る。
背もたれからはみ出した白い尻尾は、季節外れな収穫の季節を思い起こさせる。

「……」
エプロン姿のリオをちらりと目を向けたヒカルは、幼い頃に見た母の姿を重ねていた。

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ひとりあそびばかりしていた、ぼくの一日の終わりの楽しみは、かあさんの作る夕ごはんだった。
絵本をかかえて包丁の音がひびくお台所に行くと、かあさんが「もうすぐ出来るから待ってて」と答えた。
一つにしばった長くてゆるやかな白いかみの毛は、かあさんのとっておきのじまんなんだ。
なべをかきまぜると、かあさんのしっぽもいっしょにゆれる。ずっと見ていて、どうしてあきないんだろう。
ぼくもかあさんのしっぽといっしょにゆっくりとゆれると、ふしぎと楽しい気持ちになっちゃうんだよな。

「ごはんのあとで、この絵本をよんでよ。『チョコレートをたべたさかな』だよ」
「はいはい」
ぼくの一日の終わりの楽しみが、ひとつふえた。

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「『チョコレート 作ってみたけど 相手なし』って、あーん!弟にやるのも癪だよなあ!」
「少しは黙って料理できんのか、因幡」
「黙ってられますか!はづきちはリア充だから、わたしの気持ちなんか……あーん!!」
カチンとボールにゴムベラが当り、リオは大人しく口を閉じると、呆れた跳月先生はメガネをくいっと指で突き上げた。
まだまだ温かいチョコレートの湯気が、リオの冷たいメガネを曇らせている。

「いいの!いいの!バレンタインは参加することに意義があるのよ。お祭りなのに、悲しい気持ちになるのは何で?」
ヒカルがすっと立ち上がり、リオの目の前を通り過ぎる。「犬上は相変わらずだ」と言いつつチョコレートの融け具合を確認したリオは、
指先にちょこっと付けて一足先につまみ食い。奇跡が起きるのを信じていたが、神の手には程遠い。
チョコレートは上質のココアのように、淀みなくボールの中でゆっくりと波打つ。

「跳月先生、この本」
化学準備室の本棚は、カラフルだ。
高校生には難しい物理学や工学の専門書、サブカルチャーのムック、何処で手に入れたか分からないマンガ。
そして、ヒカルが手にしている本もこの本棚の一員だった。
「小さい頃、良くこの本を母に読んでもらってたんです」
「懐かしいだろ。同じ本でも、小さい頃に感じることと、大きくなって感じることが違うってことは、けっこう大事だよな」
「なに?なに?何の本?わたしも見たいっ」
チョコレートが入ったままのボールを抱えたリオは、上靴を鳴らしながらヒカルに近寄る。
机の角にわき腹をぶつけボールを不意に傾けると、滴り落ちたチョコレートがヒカルの白い尻尾に垂れてしまった。
反射的にも避けるも、雪原に投げ込まれたチョコレートははっきりと足跡を残していた。
ゆっくりと真下に垂れたヒカルの尻尾は、言葉を話すことは出来ない。

「ごめん!熱くなかった……?」
「大丈夫」
濡れたタオルで懸命にヒカルの尻尾に付いたチョコレートを拭い去るが、完全に白さは戻らなかった。
さっきまでのかしましさは何処に行ったのか、リオは口をつぐみ続けると、ヒカルは「どうせすぐ元に戻るから」と慰める。

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夕ごはんを終えたぼくは、ぼくが使ったお皿とおちゃわんを持って台所にはこんだ。
かあさんが「お仕事でかあさんがいなくても、きちんとお片づけできるように」と言っていたから、ぼくもきちんとする。
あぶら物は重ねちゃいけないって、何度も何度も言われてたんだけど、とうさんはついつい重ねてしまってる。いけないな。

「あ」
いけない。台所への段につまづいて、おちゃわんが空を飛んだ。床にすいこまれるようにおちゃわんはぼくの足元目掛けて、
どこかへ飛び立とうとしていた。だけど、いけないことだとおちゃわんは分かったのか、大きなさけび声を上げて
自分のからだを台無しにしてしまったんだ。なぜかその時間はゆっくりと過ぎていた。

「ヒカル、危ないから尻尾を向けちゃだめよ」
はへんを拾い、ぬれたぞうきんで床をふいているかあさんは、ぼくをしかりもしなかった。
はじめはとてもおこられるんじゃないかと思って、目がちょっと熱くなったけどかあさんは、ぼくの目を見てしかりはしなかった。
どうして、ぼくをしからなかったのだろう。かあさんの目はいつもと同じだった。

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床にこぼれたチョコレートを雑巾で拭きながら、リオは沈黙を続けているので、時計の音しか聞こえなかった。
手にしている絵本を一旦机に置いたヒカルは、洗面台で雑巾を洗ってリオと同じようにしゃがみこむ。
「いいよ、犬上。わたしがやったんだから。それに、尻尾のこと、ごめん」
「……チョコレート、作ってるんだろ」
微かに茶色くなったヒカルの尻尾の先は、リオのちらりと見せた乙女心と同じように揺れていた。
髪を掻き揚げてリオは、再びチョコレートを混ぜ始めたが、いやに大人しい。
「もう、いいや。弟にやろう……」
「因幡、静かだと因幡じゃないみたいだな」
「おお、犬上もそう思ったか」
「はづきち!犬上!うるさいよ!あななたちには、ぜったいあーげないっ」
いつもの調子を取り戻したリオの小言を聞きながら、ヒカルはお茶碗のことで叱らなかった母親の気持ちが、今何となく分かった気がした。


おしまい。