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小さな旅館で


ぱたり、ぱたり。尻尾が揺れる。
ガラガラと、木製の引き戸はゆっくりと開かれて…
ぱたん。
尻尾は力なく地に垂れた。

凍える風が柔らかな毛並みも強張らせる、そんな季節。
佳望学園の教師達は、とある旅館に慰安旅行にやってきていた。
日々苦労をかけている教師達のために校長自ら企画した、一泊二日の慰安旅行。
実は校長、趣味の盆栽コンテストのどこぞの大会で優勝したらしい。絶好調な校長が、あれよあれよという間に企画した突発旅行だ。
基本的な仕事はほとんど、しっかりものの八木教頭がこなしてくれる。故に彼はこういう行動は早いのだ。
個人の負担は格安。旅費の大部分はその賞金から出ているという話だ。実際の賞金がどの程度だったかは定かではないのだが…
細かいことはいいのだ。なんにせよ、校長は非常に上機嫌だった。

校長の知り合いが勤めているというそこは、旧世代の面影を色濃く残す昔ながらの小さな温泉旅館だった。
佳望学園教師一同が宿泊すれば、残る部屋は片手で数えられる程度。別の宿泊客もいるらしいが、半ば貸切のようなものである。
特に企画はない。ただ、忙しい日々を忘れ、美味しい料理に舌鼓を打つ。慰安旅行としては申し分ないものだった。

この旅館の目玉は、高地からの絶景と広い星空を望む露天風呂。
目玉というだけに敷地は広くとってあり、男湯女湯に区別されていない。
ただし男女平等に味わってもらうために、時間で区切って男湯女湯が切り替わる配慮がなされていた。

時は深夜。静かな廊下を尻尾を揺らして歩く影がひとつ。

「うーん…不覚だ。ぼくとしたことが…」

小さな影の主、サンはポツリとひとりごちた。

佳望学園の名物教師、サンはいつだって元気はつらつに見える。
しかし最近の彼は、彼自身が思っていた以上に疲労が溜まっていたらしい。
部屋に着いて少し休むつもりが気が付いたら眠っていて、露天風呂に入れる時間を逃した。
それは仕方ないと黙って体を休めておけばいいのだが、彼の信念として旅館の基本中の基本、温泉卓球に参加しないわけにはいかず。
夕食後にも時間があったのだが、一体どこからか、記憶が抜けている。そちらも完全に寝過ごしてしまったらしい。
彼にとって、あの場所は非常に居心地が良かった。

思えば、誰かの膝枕で寝ていたような…

…いや、無い無い。

サンの脳裏にある人物の顔が浮かんだが、彼は小さく首を振ってそれを否定した。

風呂場もやはり誰もいない。男湯で軽く体を洗って、夕方に一度浸かった浴槽は素通り。目的の露天風呂に直行する。
タイミング逃した結果のこの時間だが、いいこともある。この深夜、露天風呂には男女の指定がない。つまり混浴なのだ。
この時間、同僚の教師が入ってくることはまずないだろう。まあ、彼に邪な考えなど毛頭無い。毛頭無いが、彼とて健全な男性である。
別に宿泊しているらしい、若い女性客とか。昼間に見た美人の仲居さんとか。もし入ってたら嬉しいな、なんて、彼は密かに期待していた。


「…そりゃ、そうだよね」

お湯の流れる音だけが響くガラリとした露天風呂で、サンはひとり、小さな溜息をついた。

少し熱い湯に浸かり岩に腰かけて、大きく息を吐いた。見渡せばなるほど、目玉と言うだけのことはある。
電燈の淡い光が、自然石を多く使用した浴槽を幻想的に照らし出す。
一方に見上げる山には、どこまでも続く雄大な自然。反対側に見下ろす山々の、遥か遠くにぽつぽつと見える町の明かり。
自然と人工の見事な調和。男湯女湯に分かれていては、この壮大な風景は見られないだろう。
真上にぽっかりと浮かんだ満月の光が、その全てを包み込んでいた。

ただただ、見惚れるばかりのその光景。
来てよかった。純粋に、そう思った。


突然。

パッと電気が消えたかのように、視界が黒に染まる。

「だーれだ」

すぐ背後から、誰かの声がした。

普段の彼なら、誰が来ようと即座に相手を言い当てただろう。
だが今の彼にとっては、この事態は完全に想像の外。晴天の霹靂だった。
彼お得意のよくある悪戯なのに、今回は状況の理解にすら時間がかかった。
やがて状況は理解したが、相手がわからない。今、自分の目を塞いでいるのは柔らかい肉球のある手なのだが。
はて、一体誰の声だったか。同僚の教師のその誰とも違う気がした。もう一度聞けばわかるかもしれないが…

「うーん…ごめん、降参」

わからないものは仕方ないと、早々に降参して答えを求めると、程なくして視界は解放された。
サンが振り向いたそこには、白い毛並みに、揺れる金髪。悪戯にはにかむ意外な人物の顔。

「えへへ、わたしでしたー」
「え!? ミナ!?」

そう、そこにいたのは同僚の教師ではなく、彼の友人の白ネコ、杉本ミナだった。

「どうしてミナがここ…に……っっ!!!!?」

バシャン!と、慌ててサンはミナに背を向けた。垂れた耳が遠心力でひゅんと浮き上がる。

この温泉は透明度が高い。そして湯にタオルを浸けるようなマナー違反は無く、
タオルの下は水着でしたー、なんてよくあるがっかりサプライズも無かったわけで……

「ちょっ!! なんてカッコしてんのさーっ!」

そう叫びながらバシャバシャと移動して、浴槽内にあった大岩の向こうへ。

「なんてって言われても…温泉だし」

ミナは反対側に来ているのだろう。声は近いがサンから姿は見えなくなった。

「もう! なんでミナがこんなとこにいるのさ!」

背中あわせで大岩越しの会話。
動揺を隠そうとして怒ったような調子になるサンに、ミナはからかうように答える。

「偶然だよ、ぐーぜん」
「偶然って…ええぇ…」
「父さんが福引きで当てたの、この旅館のペアチケット。久々の家族旅行だって張り切っちゃって。
 母さんと行けばいいのにわたしの分までチケット買っちゃってさ。行かないわけにはいかないでしょ?」
「でもなんでこんな時間なのさ」
「こんなときに限って急な仕事入っちゃって。でも二泊三日だよ」
「ならこんな夜中に来ないでも明日でいいじゃん」
「やーよ。だってさ……」

「こーんなに綺麗なお月さま。もったいないじゃない。今夜は満月だしね」

言葉につられてサンは天頂の月を見上げる。岩の向こうのミナも同じようにこの月を見ているのだろう。

「…ふぅ。まったく、ミナも困ったもんだね」

口ではそう言いながらも、ミナの行動にサンも一応は納得していた。
しばし黙って、ふたりは美しい満月を見上げていた。

「こんな夜は相棒と思いっきり走りたいなーなんて」
「ミナはバイクばっかりだねー」
「いーじゃん、仕事なんだからさ」
「そんなことばっかり言ってると行き遅れちゃうぞ」
「…なっ!!」

深い意味はない。ただ、昼の卓球で異様な強さを見せた同僚を思い出して、
同じ白ネコの友人にほんの軽い気持ちで言ってみただけ。消毒液の臭いが一瞬鼻をついたのは気のせいだろう。

「何言ってんのよもうっ!! 失礼だなあっ!」

そんな軽い一言だったが、相手はかなり驚いたようで。
ミナの反応が面白くなって、いつもの悪戯心がむくむくと湧き出してくる。

「エストレヤと結婚するわけにはいかないもんね。あははは」
「平気だもん! バイク好きなやつがいるもんね!」
「お、なるほどー。そっちからいくわけかー」

おおよそ想定していた反論にニヤリとサンの口元がゆるみ、用意していた言葉を放つ。

「浅川君バイク好きだよね」
「ちょっ!!」

くっくっと、サンは必死で笑いをこらえていた。
大岩の向こうで慌てるミナの顔が目に浮かぶようではないか。

「何言ってんのよっ!! 浅川君はっ!!」
「お似合いだと思うんだけどなぁ、バイク好きの旅人で写真家ってさ。かっこいいじゃん」
「浅川君はそういうんじゃないの!!」
「それにミナの好きな年下タイプで」
「そもそもっ!!」

強制的に打ち切られてしまった。まあ、さすがに少しからかいすぎたか。
次の言葉は黙って聞こうとサンは耳を傾けた。

「他に…好きなひと…いるし」
「…お?」

予想外の言葉。付き合いは長いが、ミナの口からそんなことを聞いたのは初めてだ。
そもそもミナはそういうことを言う、女の子ってタイプではない。

もっとも、これはあくまでサンから見れば、の話。実際のミナはサンの認識よりずっと女の子らしいのだが。

「へー! 意外だなー。ミナもそういう女の子らしいこと言うんだ!」
「意外言うな! 男勝りとか言うな!」
「誰誰、ぼくの知ってるひと? バイク好きっていうとえーっと…」
「変なこと考えるなーっ!」

岩の向こうからバシャンとお湯が飛んできたが、狙いの定まらないそれはサンの耳を少し濡らすだけだった。

「誰か教えてくれたらぼくが恋のキューピッドになってあげるのにー」
「やだよっ。大きなお世話だね」
「はっ!? もしかしてぼくの生徒っ!? それはさすがにマズいよミナ!」
「違うっ!!」
「でも年下でしょ」
「年上っ! ……一応」
「あれ? そうなんだ、そりゃまた意外な」
「もー、やめようよこの話」

ミナの疲れたような声に、少し悪いことをしたな、とサンは小さく反省する。
問答は十分。友人の意外な一面も見れた。これ以上追及するの野暮だろう。
温泉に浸かって疲れるなんて本末転倒だ。サンとしても望まないところ。
話の締めのつもりで、友人を気遣う言葉を言ってみる。

「まあ、ミナが誰が好きでも自由だし、ぼくも追及しないよ。でも相談には乗るからさ」
「…お? う、うん、ありがと」
「いつまでも若くないんだからさ、行き遅れないように気をつけなよ。あははは!」
「相談ってどんなのでも?」
「どんなさ」
「もし行き遅れたら…サンが貰ってくれる?」
「ははは、変な冗談言うなよ」
「…ふふ、そうだね」

お互いの笑い声に混じって、ミナが何か呟いた

「………かな」
「ん、何か言った?」
「んーん、別に」

ように聞こえたが、気のせいだったようだ。

新たな話題はミナが出した。

「サンたちは慰安旅行なんだってね。ばったり英先生と会ってびっくりしちゃった」

サンは少し驚いたように言葉を返す。

「へー、英先生に会ったんだ」
「サンも疲れてるんだねぇ」
「へ? 何のこと?」
「ふふ。なんでもないよ」

思わせぶりなミナの言葉に少し疑問を感じたが、特に聞き返すことはしなかった。

「サンは疲れてても態度に出さないんだからさ。こういう休めるときにはしっかり休まなきゃダメだよ」
「自分の体調管理くらい自分でできるってば。ミナに言われるまでもないね」
「フリスビーキャッチの特訓してた時」
「え?」
「元気なフリして人知れずぶっ倒れてたのをおぶって帰ったのは、さて、一体誰だったでしょうかー」
「ちょっ!? なんでそんなの覚えてんのさっ!!」

ハハハと楽しげに笑うミナの声。さっきまでの反撃といったところか。
ここがプールならばその顔に思いきり水をかけてやりたいところだ。
そんな思考パターンは承知しているミナが、岩の向こうからサンを挑発する。

「ほらほらサン、反撃しにこないのー?」
「行かないってば、もー」

それができない今回は仕方ない。反撃は甘んじて受けておこう。

「ふーん…そっか…」

一息ついて、ポツリと呟くミナの声が耳に届く。

「…ねえ、サン」
「なにさ」
「そっち…行っていいかな?」
「……へ!?」

意外な質問に、まず驚いた。
そう言うなら…と一瞬思いかけて、いやいや馬鹿な、とサンは首を振る。

「何言ってんだよ。そんなのダメに決まってんじゃん」
「そっか…」

おかしい。今日のミナは何か変だ。
そもそも混浴に普通に入ってきてる時点で…いや、そんな機会は過去にはなかったけれど。
それにしたって、ミナの行動には問題があると思う。

「ぼくが言うのもなんだけどさ」

サンはなだめるような声でミナに語りかける。こんなの自分のガラではないな、なんて思いつつ。

「ミナはもっと慎みってものを持たなきゃダメだよ。ミナだって一応女の子なんだからさ」
「一応って何よ、一応って」
「混浴なんてどんなのが入ってくるかわかったもんじゃないんだよ?」
「それはそうだけどさ…いいじゃん夜中だし、結局誰も入ってこないわけだし」
「……ぼくが入ってたわけだけど」
「平気だよ、だってサンだもん」

額に手を当てて大きな溜息をひとつ。少々声が大きくなる。

「あのねえ、ぼくを子供扱いしないでくれよ。これでもれっきとした教師なんだぞ。年だってミナより上だし…」
「…知ってるよ、そんなの」

……!!? 声が…近い!? 
異変に気づくと同時に、視界の左右から白い手が伸びる。
つい振り返りそうになる顔を無理矢理止める、その少しの硬直の間に、二つの手は首の前でしっかり組まれてしまった。
湯から出た両肩に、白い両腕が乗る。

「えへへ。来ちゃった」

さすがのサンも鼓動が高まる。今までよりずっと近くで響く声。
今触れているのは肩だけだが、尻尾を振れば当たる位置にいるミナは…一糸纏わぬ姿なわけで。

「ちょちょっとミナ!? あのちょっとこれマズイって!?」
「知ってる」

下手に動けず慌てるサンと対称的に、ミナは静かに声を出す。

「サンは大人だよ。子供扱いなんかしてない」
「うんだからマズイってば」
「わたしは平気。サンだから」
「ちょ…ミナってばぁ……」

ミナは動く気配がない。下手に動けないサンは困り果てた声を出すしかなかった。

ミナが黙って、少し時間がたった。
動けない状況は変わらないが、サンはだいぶ落ち着いて考える。
やはり今日のミナは変だ。これは何かあったと見るべきか。

「あのさ…ミナ。もしかして何かあった? ぼくでよければ相談には乗るよ?」
「ふふ、サンは優しいね。大丈夫だよ。わたしは…何もないから」
「じゃあ何でこんな」
「ただ…サンと同じ場所でこの風景を見たかったんだ」

ミナの言葉を受けて、見るのをすっかり忘れていた風景に視線を移す。最初と寸分変わらず美しい光景。
背後のミナの動きを感じて、同じく見上げるは、天頂から少し傾いた満月。


「君といると…月が綺麗だね」


それは、どんな意味で言った言葉だったのか。


ミナが感嘆の言葉を漏らすのもわかる。確かに今夜の月は見事だ。しかし…

「そうだけど…ぼくは関係なくない?」

少しの沈黙の後、ふぅ、とミナが小さく息を吐いたのがわかった。

「…うん…そうだね」
「あれ…もしかしてミナ酔ってる?」

鋭い嗅覚を持つも温泉の匂いで今まで気付かなかった酒気を、近くで吐かれた息に感じたのだ。
また少しの沈黙の後でミナがポツリと言う。

「…そうかも」

なるほど、と、サンは内心で納得する。
これで合点がいった。バイク好きで普段はあまりお酒を飲まないミナが、
たまの家族旅行でオヤジさんの晩酌に付き合った、といったところか。
様子が変なのは慣れないアルコールの影響だろう。

「ごめんね。困らせちゃって」

考えていると、腕が引いてサンの体は解放された。
ミナのほうを見ないようにそそくさと岩の反対側にまわる。

「なんかのぼせてきちゃったし、ぼくはそろそろ出るよ」
「…うん、またね」
「ミナもあんまり長湯はしないほうがいいよ。酔っ払いのお風呂は危ないから」
「…わかった。ありがと」

最後に注意喚起をすると、振り返らずにサンは室内浴室へ戻っていく。
木製の引き戸は閉ざされ、再び露天風呂は、お湯の流れる音だけが響く静かな空間へ。

「…ばか」

それは誰に向けたものだったのか。
ポツリと響いたミナの言葉は、寒い寒い冬の夜空へと消えていった。


<おわり>