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池上祐一のスランプ


「……詰まった」

ある日曜の昼下がり、仕事部屋である書斎で尻尾をだらりと下げた私は困った様にポツリと漏らした。
目の前の机の上には真っ白な原稿用紙。年季の入った愛用の万年筆も今は所在無さ気に机の上に転がっている。
創作活動を行う者であれば、必ず一回は訪れる意欲・モチベーションが湧かなくなる状態。その名はスランプ。
私、御堂 謙太郎はかれこれ三日前から、このスランプと言う名の悪魔に苦しめられていた。

「こまったな…」

『片耳のジョン』の新作の構想を練り始めた所までは良かった。
しかし、ある所まで行った所で行き詰まってしまい、それによってモチベーションが急落してしまった。
むろんの事、私はそれを解消すべく書斎の本でも読んだり、窓の外の景色を見るなど気分転換を図るもなしのつぶて。
結局、書き進めるべき筆はぴたりと止まり、そのまま三日も無駄な時間を過ごしてしまった。

いかん…これではいかん。このままでは次の作品を楽しみにしてくれている読者に大変な迷惑がかかってしまう。
もし、こんな事で発売が延期にでもなってしまったら、あの白いイヌの少年もさぞ尻尾を垂らして落胆してしまう事だろう。
私は編集部や印刷所には幾ら迷惑をかけても構わないが、作品を愛してくれる読者だけは大事にしたいと思っているのだ。
……と、こんな事が万が一、私の元担当である妻、利枝に知られでもしたら大変な事だ。余計な事は考えないに限る。

「どうした物か…」

気が付けばつい口からぽろぽろと漏れ出てしまう愚痴を塞ぐべく、
私は愛用のパイプをパイプポーチから取りだし、パイプの中へ刻んだ煙草の葉を丁寧に詰める。
そして詰めた煙草の表面全体を焦がす様にオイルライターで点火しつつ、パイプを咥えてぷかぷかと小刻みにニ、三服。
炭化しながら膨張し、盛り上がってきた煙草の葉をダンパー(煙草の葉を均す為の器具)で軽く均等に押さえて準備完了。
後は、マウスピースを噛み潰さぬ様に軽く牙で保持して、煙草の片燃えに注意しつつ心行くまで煙草の味を楽しむだけ。

このパイプ煙草は口に咥えて火を付けるだけの紙巻煙草に比べて、
準備から吸い終わった後の処理までの手順が非常に厄介かつ面倒ではあるが、
その面倒さこそが、煙草を吸う、と言う行為を実感させるのだと私は勝手に思っている。
それに、何より見た目が格好良いではないか。

それは兎も角、今はこのスランプに陥った状況を如何するか、煙草を味わいつつ考えるとしよう。
何時もならば、ここは毛皮も尻尾も無い血の繋がらぬ息子の行動観察と行きたい所だった。
息子は肉親である今は亡き親友の若い頃に似て結構やんちゃで、見ていて決して飽きさせない魅力がある。
私がモチベーション不足に陥った時は、何時もこの血の繋がらない息子の魅力に助けられたと言っても良いくらいだ。
だがしかし、私は昨日しがた、その息子本人から『俺の事を本に書かないでくれ!』と厳重注意を受けたばかり。
よって、息子の行動観察と言う案は没。モチベーション回復には結構効果的なのだが……至極残念である。

ならば、別のモチベーション回復法を探さねばならない訳だが……。
――と、そうだ! 何時もは卓が出掛けて居ない時に使っているあの方法を使うとするとしよう。
あの方法は息子の行動観察に比べ、少々金が掛かってしまうのが難点だが、今は背に腹は換えられない。

「行くか」

思い立った私はパイプの中の煙草が全部灰になる最後まで吸い切ると、
キチンと手入れした上でパイプポーチへと戻して鞄へ放りこみ、その鞄を手に書斎を出るのであった。

「あら? あなた、お出かけ?」

階段から居間を通る私に声を掛けるは、上機嫌に立てた黒い尻尾をゆらゆらと揺らす我が妻――利枝。
恐らく、妻は庭で取り入れた洗濯物を運んでいる最中なのだろう、その両手に衣服が詰まった籠を抱えていた。
取りあえず、私は妻の問い掛けに答える代わりに軽く尻尾を振って見せる。妻は笑顔一つ浮かべ、

「あなたの事だから多分、執筆作業が行き詰まったから何時もの場所へ、って所ね?」
「む、むぅ…」

流石は我が妻、私のやろうとしている事をズバリと言い当ててくれる。思わずマズルから漏れる感嘆の呻き。
私は人から良く考えが読めないと言われる、しかし妻は長年連れ添ってきたからだろうか、私の考えを簡単に言い当てる。
それも、私は何も態度に示していないにも関わらずだ。これぞ女のカン、と言う物なのだろうか?
これでは浮気なんとてもじゃないが出来やしない。……もっとも、する気も無いが。

「まあ、そう言う事をするのも良いけど。あなた、くれぐれも原稿を”落とさない”様にね?」
「……ぐ、心掛けておく」

去り際の妻から笑顔で釘を刺されてしまった。それも五寸釘サイズの釘をぶすりと。重さを増す我が尻尾。
ぬう……これでは何が何としてもモチベを回復せざるえないではないか……!

流石は私の妻、かつては作家の首を真綿で締める鬼担当として、同業者から悪鬼羅刹の如く恐れられてきただけはある。
普段、妻は何処までも優しい聖母の様なケモノなのだが、こと仕事の事となると一転、聖母の顔から般若の顔へと代わる。
特に、原稿の締めきりが間に合わない時となると、妻はそれこそ地獄の鬼すらも尻尾巻いて逃げ出す程の修羅となる。
……因みに、妻の言う『原稿を落とす』というのは、作家の原稿が締め切り日に間に合わない事を指す。
もし、これで締め切りに間に合わなかったら……その事を想像するだけで尻尾を股の間に引っ込めてしまいそうだ。

「あれ? 親父、どっか行くの?」

妻の尻尾を見送った後、少しげんなりとした物を感じつつ数歩歩いた所で。
居間のソファで寝転がってゲームをしている血の繋がらぬ息子――卓がこちらに気付き、声を掛ける。
むろんの事、私は妻の時と同様に、何も応えない代わりに尻尾を軽く揺らして見せる。
しかし、それだけでも卓にとっては充分な返答だったらしく、ゲームをしていた手を止めて意外そうな表情で問う。

「へぇ、出不精の親父が出かけるなんて珍しいな、どんな風の吹きまわしなんだ?」

息子よ……それはお前が自分の事を本に書くなと私へ注意したからだ。
だが、その言葉は声に出さず胸の内に止めて置き。只、何も言わず静かに息子の目を見詰めるだけにしておく。
私は余計な事を言って事を荒立てるのが嫌いなのだ。そう、良く言うであろう、口は災いの元と。

「……よ、良く分からないけど、俺、何か親父の気を悪くするような事言ったか?」

如何も見詰める私の目に不穏な物を感じたのか、困った様に苦笑いを浮べる息子。
しかし、私は何の一言も返す事も、そして尻尾を動かす事も無く、只じっと息子の目を見詰めるだけにしておく。
当然、そんな私の反応に息子は更に困惑するのは必至で、

「お、おい、親父…本当に何かあるなら言ってくれよ! 何も言わないってのが一番気になるじゃないか!」

しかし、私は必死に問いかける息子へぷいとそっぽを向いて、そのまま何も言わず、すたすたと玄関へと向かう事にする。
さぁ、我が息子よ、これから答えの無い問題で散々悩むといい。これは私の楽しみを取り上げた罰だ。

ぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶ………

頭を抱える息子を置いて意気揚揚と玄関を出た私は、
イヌ系種族用のゴーグルタイプのヘルメットをかぶり、愛車に跨って目的地に向けてひた走る。
愛車の名のベスパ(スズメバチ)の名の由来ともなった、2ストロークエンジンの甲高い排気音が耳に障るが、
何分、このバイクは友人から譲り受けたウン10年前の中古――いや、骨董品だから仕方が無い。
一応、そろそろこんな排ガス規制云々以前の品にとっとと見切りを付けて、新しいバイクに買い換えようとは思っているが、
元来から出不精な私に、その機会が訪れるのは今暫くは無さそうである。

「秋、か……」

走る道の先、空一杯に広がる鰯雲をみて、私はようやく今が秋だと言う事に気が付いた。
私は余程の事がない限り出掛ける事が無い上、一旦執筆作業に没頭すると時間の流れと言うものをすっかり忘れてしまう。
確か、以前に私が出かけたのは桜が花開く季節だった気がする。…あれから五ヶ月以上も出掛けていなかったのか、私は。
ううむ、次から原稿が出来た時はバイク便任せにせず、自らの足で出版社へ持っていくべきか?
―――いや、多分、無理だな。その時の私も面倒臭がってまたバイク便任せにする筈だ。

「……ついた」

そんな愚にも付かぬ事を考えつつ、息子よりも付き合いの長い中古バイクで走る事小1時間、
私が到着した場所は、中央大通りからやや外れた通りに面するビルとビルの間に挟まる様にして佇む一軒の喫茶店。
軒先に吊り下げられた木製の看板には、やや掠れたペンキの文字で『喫茶・フレンド』と書かれてあった。
その店横の駐輪場の柱へ愛車をチェーンで繋ぎ、私は脱いだヘルメットを片手に尻尾を揺らしていざ鎌倉。

「いらっしゃい…――と、おや、御堂の旦那さんじゃないか。こりゃ随分と久しぶりだねぇ」

カランコロンとベルを鳴らしつつドアを開けるや、カウンターで皿を磨いていたオヤジさんがこちらに気付き声を掛ける。
私はオヤジさんに向けて、ああ、とだけ応え、そのまま『フレンド』での何時ものお気に入りの場所へと足を向ける。
目指す場所は、店内で一番奥まった場所にある大通りに面した窓際、大通りを行くケモノや車を一望できる喫煙席である。

「ふむ」

良かった、どうやら先客はいない様だ。これで心置きなくモチベ回復が図れそうである。そう思うと心なしか尻尾も軽い。
ここは場所が良いのか、偶に私と同じ目的?の客が占有している時があり、下手すれば数時間は席が空く事が無い。
もし、そうなっていれば、私は耳を伏せて涙を飲んで、一つ隣の禁煙席に座らなければならなかった。
そう、私の様な愛煙者にとって、煙草を味わえない時間と言うのは苦痛に他ならないのだ。

……閑話休題。

今はタバコが吸える吸えない云々の事より、肝心要のモチベ回復が先である。
息子の行動観察に続く私のモチベ回復法、それはズバリ、この喫茶店の窓から見える通りを行く人々の観察である。
意外に理解されない事ではあるが、通り行く人々を観察するとその人、そのケモノそれぞれの人生が見えてくる。
あの毛並みをヨレヨレにして疲れた様に歩くクマのサラリーマンは、仕事や家庭で相当苦労しているのだろう、とか
あの尻尾を立てて軽やかにスキップするネコの少年は、これから彼女との待ち合わせ場所に向かっているのだろう、とか
道行く人々の様子から、その人が如何言うケモノで、そしてその人がこれから何をするのかを想像するのが楽しいのだ。
私が作家を志している大学生の頃は、何時もこの喫茶店でこうやってモチベ回復を図っていた事を思い出す。

それに、今行き詰まっている事を解消するにも、この人々の行動観察は実に都合が良い。
と言うのも、私の物語作りは中核となる登場人物の構想から始まると言っても過言ではない。
先ずは人物設定を作り、その次にその人物――彼らが登場する舞台を作り、その中で彼らが動く大まかな流れを作る。
そして、その後は彼らの事情や細かな舞台設定、犯人が行うトリックにその他諸々の肉付けをしていって、
最後に誤字や矛盾が無いか如何かを何度か読み返す事でしっかりと推敲し、問題が無ければ完成、となる。
しかし、それが最初の人物作りの時点で上手く行かないとなると……後は考えなくても分かるだろう。
今の私を悩ませているスランプのそもそもの原因こそ、この登場人物の構想の行き詰まりにあった。

何分、今まで22作も書き続けていた為か、自分の中にあるキャラ作りにおけるパターンもマンネリ気味になりつつある。
この前なんか、名前だけが違うだけでほぼ同一の人物を出しそうになった事もあった……無論、寸での所で書き直したが。
そんなマンネリ気味な人物作りのパターンを打破する為にも、この人々の行動観察は必要不可欠なのだ。
しかし、息子の行動観察に比べると……いや、今は出来無い事を望んだって仕方が無い。

「……」

それにしても、何時もながら思うがこの喫茶店は雰囲気が良い。
鼻に感じるは、忙しなく時間が流れる外界から切り離された、独特のゆったりとした空気。

そして、何時来ても変わらぬ、そう、まるで流れ行く時代の川から三日月湖の如くぽつんと取り残された店内の光景。
あの古い型の留守番電話は確か、私が作家デビューした頃にオヤジさんの奥さんが購入した物。まだあったとは…。
気配りの効くオヤジさんのエアコンの操作で空調も程よく効いて、残暑の厳しい盛りでも舌を出す事無く快適に過ごせる。
偶に、余り素行の宜しくなさそうな学生達も訪れる事があるが、それもこの雰囲気のスパイスと思えばさして気にならない。
まあ、なんだかんだと言いながらも、私はこの店が気に入っている事は間違い無いだろう。

さて、くだらない話はさて置いて、これから楽しい時間だ。そう考えると自然と尻尾を振ってしまう。
はてさて、これから如何言う人物が私の前を通り掛かり、如何言うケモノ模様を見せてくれる事やら、非常に楽しみである。

「……マスター、コーヒーのブラック」
「あいよ、御堂の旦那さん」

そして、心の中でこれからの事に想いを馳せつつ
早速、通り掛ったオヤジさんへ注文を行うと、私はパイプ煙草を吸う準備を始めるのであった。

それから時間も過ぎて、時計の針がLの字を示す頃、
5杯目のコーヒーをお代わりした私は、数分程前に頼んだホットケーキの到着を待ちつつ順調にモチベ回復を進めていた。
この店の窓から見える通りは狭さの割りに人通りがそれなりにあるので、人々を観察するのに事欠く事は無い。
今も、私の目の前には多くの人が通る。クマの親子連れ、杖をついた人間の老人、携帯片手の虎の女子高生、
そして暇そうに周囲を見回す何処か見覚えのある白いイヌの初老男性…――目が合った。

「……拙い」

私が痛恨の呟きを漏らすとほぼ同時、
白いイヌの初老男性――”奴”は嬉しそうに尻尾を振ると、早速、店の入り口へと向かったらしく、私の視界から姿を消す。
多分、今の私の尻尾はだらりと垂れ下がっている事だろう。もう今直ぐにも会計をすませてこの店を後にしたくなった。
だが、今更逃げ出そうとしたとしても、恐らくは会計しているうちに店に入ってきた”奴”と出くわす可能性は高い。
よって、私に出来る事は唯一つ――これから起きる事を受け入れる。それだけだった。

「……」

取りあえず、せめて気を落ち着かせようと、私は咥えていたパイプを置いて、コーヒーを一口啜る。
しかし、何時もならば香り高く美味しい筈のコーヒーは、この時は泥水のような味にしか感じなかった。

「やや! こんな所でコーヒーを飲んでいる方は池上先生!」

そして、私にとって永遠にも等しい十秒が経った所で、
何処か軽薄さの混じった聞き覚えのあるわざとらしいくらいの大声が、ぺたりと伏せている私の耳を容赦無く震わせる。
思わず、私をペンネームで呼ぶな! と”奴”へ吠え掛かりたくなったが、ここは静かな喫茶店の店内。我慢するしか他が無い。
せめて他人のフリをしようと窓の外を見ている私の努力も虚しく、”奴”の匂いと足音がずかずかとこちらへ迫ってくる。

「いやー、まさかこんな所で池上先生に出会えるなんて、本当に奇遇だなぁ!」
「……」

そして、私のテーブルの向かい側へ無遠慮に座った”奴”が、ばたばたと尻尾を振りながら嬉しそうに言った。
それに対し、私はと言うと、折角回復し掛けたモチべがスカイダイビングの如く奈落の底へ急降下して行くのを感じていた。
嗚呼、私のやる気が、モチベーションが、”奴”の所為で塵と消えて行く……。

―ーここで、私、御堂 謙太郎と”奴”との関係を説明するとしよう。
……本当は”奴”の事を説明なんぞしたくは無いが。分からない人もいるから今回は特別だ。
”奴”の名は犬上 裕。”奴”は詩集作家とジャンルこそ異なっているが、私と同じ出版社に所属する作家をやっている。
そして、”奴”は私の大学生時代の同期であり、それと同時に”奴”は私の事を親友といって憚らない。
無論、私にとっては”奴”は親友ではなく腐れ縁でしかないのだが……。

大学生の頃、私は元来から一匹狼な気質だった為か、一人で行動する事を好み、常に一人でいる事を望んだ。
そんな私と行動を共にした他の同期達は決まって『狼らしくない』『協調性が無い』と文句を言い、
挙句に幼馴染の親友からは『お前は相変わらずだな』と苦笑されたが、私はさして気にしなかった。
そうして数ヶ月も経つ頃には同期達も私の性質を理解したらしく、敢えて私へ関わろうとする者は次第に少なくなって行った。

だがしかし、”奴”――犬上 裕だけは違った。
”奴”は私の何処に興味を持ったのか、私の行く先々に尻尾を振りながら付いて周り、私の心の平穏を乱し続けた。
当然、一人でいる事を望む私は幾度となく”奴”を拒絶するのだが、
幾ら無視されようとも、幾ら邪険に扱われようとも、時には尻に蹴りを加えられようとも、
”奴”は微塵も気にする事なく、それ所か私の事を親友とまで言い出す始末。本当に手におえない奴だった。
それでも私には希望はあった。そう、大学さえ卒業出来れば”奴”との縁は自然と切れる筈! と当時の私は考えていた。

しかし無情にも、運命は私の味方とはならず、それ所か私へ反旗を翻した。

大学を卒業後、作家デビューを果した私を待ち受けていたもの、
それは同じく作家デビューを果し、尻尾を大回転させて私へ挨拶する”奴”の姿だった。
この時ほど私は、運命の女神とやらが現実に存在するのなら、その喉元へ食付いてやろうかと考えた事はなかっただろう。
以来、この腐れ縁はカーボンナノチューブの如きしぶとさで頑丈に切れる事無く、何時までも繋がり続けている。
……無論、私の意思を蔑ろにして。

「ホットケーキセットをお待ちのお客様、お待たせしました~」

どうやら物思いに耽っている内に、頼んでいたホットケーキが出来あがったようだ。
やれやれ、”奴”さえ来なければもう少し落ちついて食べれていたのだろうが……。

「おお、池上先生も中々気が効きますな? わたし、ちょうど甘い物を食べたい所だったんですよ」

イヌのウェイトレスがホットケーキを置くなり、”奴”は其処へ間髪いれずフォークを伸ばす。
――って、ちょっと待て、それはお前の為に注文した物ではないぞ!? それにペンネームで呼ぶな!!

「をや? 如何したのだい? 池g…ゴホン、謙太郎君」
「……」

やっと気付いたか、と言わんばかりにばかりに、私はホットケーキの一枚を切り分けている”奴”を睨む。
しかし、”奴”は私の睨みを変に解釈したらしく、ホットケーキを食べつつパタパタと手を振って抜かす。

「あーあー、気にしなくても良いよ。残す事無く全部食べてあげるから」

そう言う意味じゃない!! 人の物を勝手に食うなと良いたいんだ!!
――っと、落ちつけ、落ちつけ、御堂 謙太郎。怒るな、怒るな、御堂 謙太郎。
私はこんなくだらない事で直ぐに毛を逆立てて牙をむくようなケモノじゃあない筈だ。冷静になれ、私!
そうだ、ホットケーキくらい”奴”に食われたとしてももう一度注文すれば済む事じゃないか。
そう思った私は早速、ホットケーキをもう一セット頼む事にする。

「ホットケーキ一つ」
「あ……それが本当に申し訳ありませんが、お客さま。
ホットケーキは先ほどので材料を切らしてしまって、マスターが買いに行っている所でして……。
その為、ご注文から出来あがるまで只今から約30分ほど掛かりますが……それでも宜しいでしょうか?」
「……いや、もう良い」

しかし、犬のウェイトレスから申し訳無さ気に帰ってきた答えは、私を落胆に追い込むには充分過ぎる物であった。
なんでこう言う時に限って材料が切れるのだろうか? どうやら、今日の私は幸運の女神から見放されている様である。
いや、たまたま出掛けた喫茶店で会いたくない”奴”と出くわした時点で、私の運は地の底に落ちてしまったのだろう。
なんだか無性に腹立たしくなってきたので、”奴”がホットケーキの最後の一枚に手をつける前に皿ごと奪取しておく。

「あれ?、君も本当は食いたかったのかい? いや、済まんね」

済まんねって……そもそもこのホットケーキは私が頼んでいた物だぞ? それを取り返すのは当然の事だ。
と、”奴”へ突っ込むのも虚しいので、私は何も言わずホットケーキを切り分けて口にするだけにしておく。
だがしかし、”奴”は何する訳でもなく、ただニコニコ顔でホットケーキを黙々と食べる私の様子を眺めていたりする。
”奴”は私の仏頂面何ぞ眺めて何が面白いのだろうか? 時折、”奴”の精神構造が分からなくなる事がある。
そんな私の考えを知ってか知らずか、”奴”はニコニコ顔のままで言う、

「そう言えば、君がホットケーキを食べている姿を見て思い出したけど、
この前……と言ってももう何ヶ月か前の話だけど、わたしの息子が君に世話になったそうじゃないか」
「……?」

……なんだその脈絡の無い話の振り方は。
いや、それ以前に、私の家にお前の息子が遊びに来た事とホットケーキに何の関連があるのだ?
そんな私の疑念が尻尾に見えていたらしく、”奴”は付け加える様に

「いや、息子から聞いた話だと、君の家でホットケーキをたらふくご馳走になったらしくてね。
それで、君がホットケーキを食べているのを見て、ふとそれを思い出した次第でね」

なんだ、そう言う事か。だったらそうだと早く言って欲しい物だ。これだからこいつと話していると疲れる。
確かに妻の利枝は客に手作りのケーキを振舞うのだがその量が半端ではない。とにかく多過ぎるのだ。
聞いた話では、妻がケーキ作りを習った先生はあるスィーツショップの店主だとか言っていたが…まさか、その先生の影響か?

そう、私が物思いにふけっているとはつゆ知らず、”奴”は少し声を潜めて問いかけてくる。

「所で健太郎君、その時……息子は君に失礼な事とかしなかったかね?
息子はああ見えて結構気難しい所があってね、ひょっとしたら君に何か失礼な事を言ってなかったか心配なんだよ」
「…………」

”奴”の息子――以前、卓が私の大ファンの子だと言って連れてきた犬の少年。確か、名はヒカルといったか。
彼は文学に対して何処までも純粋で、本と言う存在の全てを愛していた私の若い頃を彷彿とさせる少年だった。
その彼の白い毛並みと犬上、という姓で、何となく尻尾にピンと来ていたが、本当に”奴”の息子だったのだな。
なんというか……如何してこんな”奴”の遺伝子からあんな良い子が出来たのか正直、遺伝子の不思議を感じてしまう。
そう考えると自然と漏れ出る溜息、すると”奴”はそれを不穏な物と受け取ったのか血相を変えて

「え? ちょ……まさか、本当にヒカルが君へ何かしたって言うのかい……?」
「……違う」
「へ? 違う? でも、なら何故溜息を?」
「…………」

”奴”の疑問に私は何も答えず、ただ、思いっきり憐憫を込めた眼差しを送ってやる。
暫くの間、”奴”は私の眼差しの意味を考えていたようだが、どうやら考えるのを止めたらしく、
「まあ良いか」と漏らした後、何事も無かったかの様に話題を別の物へ切り替えてきた。

「そう言えば、息子の話で思い出したけど、2ヶ月ほど前にエッセイ本を出してね、これが結構売れてるんだよ。
特にわたしと同じ年代の男性の間で好評らしくてね、何でも聞く所によると、妻帯者の苦労話に共感を覚える、とかね」
「……そうか」

ああ、そう言えば、確かそんな本を妻が持って帰ってきていたな……?
だが、どうせこいつの事だから、くだらない事しか書いていないだろうと思ってまだ読んではいなかったが。
後で暇が出来たら1、2ページほど目を通してみるとしよう。

「まあそれで、その好評に付きって所でエッセイの2作目を書く事になったんだけどねぇ……。
それが途中まで書いたのは良いんだけど、ちょっとした事で行き詰まっちゃってね。いやぁ困った困った」
「…………」

……そうは言うが、私の目には全然困っている様に見えないのは気の所為だろうか?
同じく執筆に行き詰まっている私にしてみれば、この状況で尻尾を振れるこいつの能天気さが少しだけ羨ましく感じる。

「ま、そう言う訳で、家でぼさぁっとしているのもなんだし、
何かエッセイに書ける良いネタが無いかと、そこら辺をぶらぶらと歩いてたんだけどね。
まさかこの場所で君に会えるとは夢にも思って無かったよ。いやぁ、偶然と言うのも恐ろしいもんだねぇ」

ああ、その事に関しては私も同感だ。
まさか会いたくも無い”奴”と殆ど同じ考え同じ事情同じ理由で、ここで出くわす事になるとは夢にも思って無かったよ。
つくづく偶然とやらが恨めしく感じる。本当に偶然の女神がいたなら、その喉を思いっきり食い破りたい気分だよ。

「そうだ! これから書くわたしのエッセイの2作目に君も出してやろう。どうだ、嬉しいだろ!」
「…………」
「んんぅ~? なんだか嬉しくなさそうだね? そうか、分かったぞ! 出演料が欲しかったんだね。
まあ、君も金を稼がなくては奥さんに怒られるからね。よぉし、ここは大盤振る舞いとして100円あげよう! 
どうだ、嬉しいだろう? 謙太郎君」

さっきから私は何も言っていないのに、こいつは勝手に話を進め始めている……ここは昔と殆ど変わってはいないな。
そう言えば私が大学生の頃も、この場所で”奴”とこう言う”噛み合わない”やり取りをやっていたのを思い出す。
大学生の私が黙ってメロンソーダを啜っている向かいの席で、同じく大学生の”奴”が勝手に話を進めて勝手に決定する。
それがあの頃の大学の帰りの喫茶『フレンド』にて、毎日の様に繰り広げられた光景だった。
ああ、なんだか思い出していると急にメロンソーダが飲みたくなったな……。

「百円はいらない」
「……へ?」
「代わりにメロンソーダ」
「ま、まあ、それで君が良いって言うなら私が注文しておくけど……おねーさーん、メロンソーダ一つ!」

私の急な心変わりに”奴”は少しだけ戸惑ったのだろう。注文する”奴”の尻尾が少しだけ逆立っていた。
材料切れだったホットケーキと違って、メロンソーダは材料が有り余っているらしく、
”奴”の注文から程無くして、私の目の前のテーブルによく冷えた『出演料』が鎮座した。
早速、ストローを啜るとメロンの香りと共に口腔へ冷たさと爽やかな刺激が広がる、相変わらずここのメロンソーダは美味い。
無論、これも既製品なのは分かっているのだが、ここの雰囲気が一味プラスさせているのだろう。

「君のことだから、てっきり断ってくる物だと思ってたんだけどね……意外だなぁ」
「…………」

黙って『出演料』をストローで啜る私へ、”奴”は酷く意外そうに漏らす。
しかし私は何も言う事無く、ちらりと”奴”を一瞥してフンと鼻を鳴らすだけ。”奴”への返答はこれで充分。
端から見れば冷たい様にも見えるが、これも大学生の頃の私と”奴”の間ではおきまりのやり取りだ。
むしろ、大学生の頃の方が冷たくあしらっていたと言えるだろう。


「父さん…こんな所で何やってるのさ」

ぼんやりと過去を振り返っていた所で、何処か呆れを入り混じらせた声が私と”奴”の耳を揺らす。
ゆっくりと声の方向に視線を向けると、其処には”奴”と同じ白い毛並み、同じふさふさの尻尾を持つイヌの少年の姿。
それに気付いた”奴”はわざとらしいくらいに大げさに驚くリアクションを取って

「おぉ、我が息子よ! 何故こんな所に?」
「それを聞きたいのはぼくの方だよ。何で父さんが池が…ゲホン、卓君のお父さんと一緒に居るのさ」

”奴”へジト目を向けて問う彼は”奴”の息子の犬上 ヒカルだった。
恐らくこの『フレンド』の二件隣にある『尻尾堂』で本を買っていたのだろう、
彼は店の名前が印刷された紙袋を大事そうに脇に抱えていた。
しかし、こう目の前にしてみると、姿形はともかくとして性格は”奴”と殆ど正反対だと感じてしまう。
ひょっとすると、彼は”奴”を反面教師にして育ったのかもしれないな?

「いやぁ、実は言うと彼は私の大学時代の親友でね。
次のエッセイ本に書くネタを探していたら、たまたまこの場所で彼と会ってね。
せっかく懐かしい場所であったならばと思って、彼とこうやって旧交を深めている所だったんだよ」
「……父さん、それは本当?」
「本当だって。…私は大学の頃からの親友だよな。なぁ、謙太郎君?」
「…………」

こらこら、確かにお前とは大学の頃は同期だったが、私は今でもお前の事は親友とは思っていないのだぞ? 
唯一、私が親友と認めている人物は後にも先にも卓の実の父親である彼一人だけだ。こいつには其処を分かって欲しい。
ついでにいえば、息子のヒカルから疑いの眼差しを向けられているのに気付いてもらいたい物だ。

「全く、父さんはもう……ごめんなさい、卓君のお父さん」
「謙太郎で良い」
「え…? あ、なら謙太郎さん。その、ぼくの父がご迷惑をかけませんでしたか?」

私の指摘にヒカルは一瞬戸惑ったものの、直ぐに言い直して私へ心配げに問いかける。
その様子に私が、彼は本当に良い子だな。と感心した所で、空気の読めない”奴”が横から口を挟んできた、

「迷惑かけるとはご挨拶だね、ヒカル。私は彼と……」
「父さんは黙ってて」
「(´・ω・`)」

しかし、言い切る間も無く息子に一喝されて、”奴”は親に叱られた子イヌの様に耳と尻尾をしょぼくれさせる。
その父子のやり取りを眺め、私はメロンソーダをひと啜り。氷が溶けたのだろうか、ソーダの味が少し薄まっていた。

「とにかく、その、ぼくの父が謙太郎さんに迷惑掛けたなら父に代わってぼくが謝ります、だから……」
「構わん」
「……へ? それって?」

おずおずと謝り始めた所での私の一言に、一瞬だけきょとんとした表情を浮かべるヒカル。
確かに”奴”はかなりうざったらしい事に代わりは無いが、しかし、息子には罪は無い。
しかし、ヒカルが次のリアクションに移る前に、またも空気の読めない”奴”がヒカルの背をぽんと叩いて、

「おぉ、よかったじゃないか、ヒカル。謙太郎君は許すと言ってくれているぞ」
「ああ、良かったぁ…って、許してもらうのは父さんの方でしょ!」
「あれ? そうだったけな?」

”奴”の言葉に一瞬、安堵しかけて即座にツッコミを入れるヒカル。後頭掻きながらおどけた調子で笑う”奴”。
なんだかんだ言いながらも、二人とも同じように尻尾を緩やかに振っているその姿は紛れも無い父子の姿であった。

……をや? この父子の様子を見ていたら何だか急に創作意欲が……。
ふぅむ、そう言えば今まで書いてきた作品に出てきた登場人物には無かったな、”このタイプ”の人物は。
ひょっとすると、今までマンネリの渦中にあった『片耳のジョン』に新風を巻き起こすかもしれん。
そう考えると急に気分が乗ってきた。何となく尻尾も軽く感じる。これは少しばかり礼をせねばなるまい。

「チョコパフェ二つ」
「あれ? 珍しいね、君がそんなのを注文するなんて」
「ちょ、父さん!」
「…………」

私の突然の注文の意向を掴めなかったのか、
”奴”は息子の制止も構わず珍しい物を見るように目を丸めて首を傾げて見せる。
しかし私は何も答える事も反応する事も無く、静かに注文された品が出来あがるまで待つ事にする。
そして、それから程無くして、イヌのウェイトレスの営業スマイルと共に運ばれてきたパフェを父子へ差し出して言う。

「出演料だ、食え」
『……??』

いよいよ私の意向が理解出来なくなったのか、父子共々テーブルに置かれたパフェを前に目を白黒させていた。
”奴”には私から奢って来る事が余程信じられなかったのだろう、パフェに鼻を近づけてスンスンと匂いを嗅いでいたりする。
”奴”がこうなってしまうのも無理も無い、何せ大学生の頃から今まで、私から”奴”へ奢った事なんてそれこそ皆無だったのだ。
それがいきなり私がパフェを奢ってくるとなれば、流石の”奴”でも少しは考えたり疑ったりしてしまうであろう。

「ん、ん~と、何だかよく分からないけどパフェ頂くよ? 本当に良いんだね?」
「え、えっと…あの、その、謙太郎さん、パフェ頂きます……?」
「ああ、構わん」

頭一杯に疑問符を浮かべた父子に私は一言だけ答えると、
食事の代金をメロンソーダの分だけ抜いてテーブルへ置き、さっさと尻尾を揺らして席を後にする。
もう少しこの父子の観察を続けていたい所ではあったが、こうやっている間にも創作意欲は湯水の如く湧き出し続けている。
もうとにかく時間が惜しい、早く家に帰って執筆作業に移りたい。嗚呼、白い原稿用紙が私を待っている。

「……変な謙太郎君」

立ち去る間際、きょとんとした顔をしている”奴”が漏らした言葉が妙に耳に残った。

その後、逸る気持ちを抑えながら家に帰宅した私は早速自室に篭り、執筆作業を再開。
今までの鬱屈が嘘だったかの様に溢れ出す創作意欲は留まる事を知らず、瞬く間に原稿用紙は文章で埋め尽くされてゆく。
時間を忘れ、毛繕いを忘れ、風呂に入る事も忘れ、食事する事すらも忘れ、私はただ、ひたすらに執筆に没頭し続けた。

そして、それから三日後、いいかげん心配し始めた卓が自室のドアをたたき始めた頃。
私の前には、『片耳のジョン』最新作の原稿が完成した状態で鎮座していた。
ただ、その頃の私はと言うと、空腹と疲労の波状攻撃によって完全に気を失っていたのだが。


この本の試し刷りが出来あがった時、犬上父子は知る事になるだろう。……あの時、私の言った『出演料』の意味を。
そして、それと同時に私は卓から『こう言うのも無しだ!』と厳重注意される事にもなるだろう。

何せ、シリーズ23作目となる作品のタイトルは、ずばり『探偵と白イヌの父子』なのだから。

さて、これを見た時、”奴”はどう言う表情を浮かべる事か。それが楽しみで仕方が無い。
”奴”も私をエッセイのネタに使うと言っていたのだ、だからこう言う意向返しをしてやっても良いだろう。

そう、”奴”は親友ではなくとも、一応は友達ではあるのだから。

―――――――――――――――――――――了―――――――――――――――――――――