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葉月のこと


一年の中でいちばん白い雲をウチの葉月が窓から眺めている。彼女は両腕を窓辺に置き、遠い目で流れる雲を琥珀色の瞳で追い駆けている。
わたしの住むアパート二階から西の空を眺めることを葉月はお気に入りらしい。飽きもせず、雲と風を見つめている毎日だ。
崩した脚が水色のワンピースからはだけている毛並みは色っぽく、ボブショートの髪は無邪気さをあらわす。
わたしの住む小さなアパートの窓さえも、高級な風景画の額縁になってしまうのはきっとこの葉月のせいかもしれない。
甘酸っぱいお年頃の葉月はふわりと尻尾を揺らしていた。頭に生えた大きな耳も光がまぶしいのか平たくなっていた。

一方、わたしは一人でちゃぶ台の前で、季節外れの雪原のように真っ白なケント紙に向かってGペンを滑らせながら
「きっと誰かが喜んで読んでくれるはず」と、ひたすらマンガを描き続ける。ぽたりと汗がケント紙に落ちて、意図もしない点を描く。
物描きの世界に踏み込んではや6年。鈴代ゆうかの名前が知れ渡るのは、何度この暑い日を過ごしてからなのだろうか。

「葉月、暑いね…」
「あつい?」
「人間のこと、ネコ少女にはわかんないかなあ」
「…ゆうか…」
「…うん。それにしても、扇風機欲しいね」
わたしは汗だくと言うのに、羽毛に包まれた葉月は汗をかくこともなく、冷たい畳にだらりと伸びることで体を冷やしていた。
ニッと微かに残された野性の象徴、彼女の牙を見せて、両腕を伸ばす葉月は自由気まま。理由は一つ、彼女は『ネコ』だから。
わたしの部屋の玄関先でうずくまっているところを発見して、一緒に彼女と暮らし出して半年が経つ。
しがないマンガ描きの鈴代ゆうかは、自分は空を飛べるんだとうぬぼれて、潮風に流され大洋に落っこちて、
さらに都会の波に溺れて打ち上げられたあげく、誰からも救って貰えずに砂浜に放り出されていた。
描いては東の出版社に送り、けなされては西の先輩のアシスタントをこなしながら、たくましく生き延びたつもりだ。
わたしの努力が報われないのか、収入自体は苦しいもののネコでも少女でも一緒に時間を共有できる存在がいることは、
わたしにとって収入以上の価値がある。もちろん、本物の現金も欲しいんですけどね。

「ゆうか!ごはん!!」
「はいはい、ねこまんまでいいかな。今月ピンチだから堪忍ね」
「ねこまんま!ねこまんま!」
両手を挙げて、部屋中走り回る葉月の姿を見ているだけで、一日の疲れも忘れてしまう。彼女の尻尾がピンと立ち上がる。
コンロの前で朝の残りのおみおつけを温めていると、走りつかれた葉月がわたしのTシャツの裾を引っ張りながら、頭を摺り寄せてきた。
部屋着のTシャツならネコの毛だらけになっても、わたしは大丈夫。

くすぐったい葉月の両腕。
シャンプーの香り漂う髪。
柔らかい少女の身体。
葉月の全て…。
一生、この時間のままならいいのに。でも、一生、夏なのは…ちょっといやかな。

おなかをすかせた葉月は「ゆうか、ごはん…」と小さく呟く。
わたしに抱きついた葉月はわたしのださださのTシャツをくんくんと嗅ぎながら、ささやかな昼食を取った。
暑い夏は始まったばかり。今度はちょっと奮発してそうめんにするからね。

さらに太陽も本気を出して、汗腺の労働量も増え出した最近。
太陽の本気に負けたのか葉月はいつものように窓を眺めず、部屋の隅っこに出来た日陰でねっころがっていた。
「ふにゃあ」
足がつりそうなぐらい背伸びをする葉月は、くんくんと畳のいぐさの香りで気を紛らわせる。
わたしはわたしで相変わらず、もっともらしいデタラメを白い紙の上で繰り広げさせていた。
貧乏暇なし、貧乏暇なし…。昔の人は非常に的確なことを言うので腹立たしい。発作的に何かを壊してしまう前に、そっと葉月を眺める。
「…今日も暑いね」
「あつい?」
「暑いね」
そもそも、葉月は『暑い』と言う言葉を理解しているのかどうかも分からない。わたしの名前さえも理解しているのかどうか怪しい。
わたしのことを『ごはん』と思っているかもしれない。ただ、口以上に尻尾がお喋りするので、だいたい彼女の思っていることは理解できる。
アパートを囲む生垣が、夏の風で鳴いているのが聞こえる。

突然、わたし携帯電話がけたたましく鳴り響く。驚いた葉月が部屋の角に転がる。
無理もない、一月ぶりに携帯が鳴ったのだから。発信元はお世話になっている出版社の某女史。
誰もいない都会の砂浜に打ちひしがれたわたしに、もう一度生を与えてくれた神さまのようなお方だ。
某女史との会話は面と向かってならよくあるのだが、面構えの見えない電話では、上手く話せるのかどうかと不安が募る。
恐る恐る電話を取って、耳を傾ける。無駄に汗が流れる。興味なさ気に葉月は大きな耳を掻いていた。
わたしの汗が一瞬止まる。そして、次の言葉が来る前にこれまでと違う汗が沸いてきた。
こんな汗をかくのは何時振りなんだろう。とにかく、某女史の声だけを聞き逃しまいとする。

「はい!はい!がんばりますっ」
「がんばる?ゆうか!」
「はい!ありがとうございます…」
心地よい言葉を聞いた。
人から認められる喜びが蘇る。
決定だ。連載決定したのだ。
こつこつ描いて、たびたびゲストで載せていただいた雑誌にこれから毎月描かせていただくことになった。
読者の評判がすこぶるよいのだという。思わず葉月に抱きつき、仕返しばかりにくんくんと彼女の髪の香りを嗅ぐ。
ぽんっぽんっ!と、葉月は尻尾を畳に叩きつけて不満を示していた。
「毎月、お金が入るんだよ!よかったねえ、葉月!」
「おかね?ゆうか、ごはん!」
するりと葉月はわたしの腕から抜け出しぴょんと片足立ちすると、ぺろぺろと自分の足を舌で舐めまわしていた。
わたしの両手に、葉月の匂いがした。

後日、打ち合わせのために喫茶店で某女史と会う。
葉月以外の人と話して心躍るのは何ヶ月ぶりなのだろう。もっとも葉月は人なのだろうか、ネコなのだろうか。そんなことはどうでもいい。
ネコのような毛並みをもち、人のように走り回り言葉を操る葉月。まだまだ世界には不思議なことがある。
今頃、葉月は一人でのんびり風に当たりながら外を見ているのだろうか。それとも、ちゃぶ台の下で丸まっているのだろうか。
「大人しく、お留守番ね」と、釘を刺しておいたのだが、保護者としてはやはり気にかかる。
冷房の効いた喫茶店は本当にわたしの住むアパートと同じ世界を過ごしているのだろうか、とふと疑問に思う。
ストローでちびちびとオレンジジュースを飲み姿は、他人からは子どものように見えているのだろう。
窓ガラスに白い雲が浮かんでいるのが映る。しばらくわたしも葉月と同じように、その雲を眺めていた。
涼しそうだ。一口ぐらい、食べてもいいかな。最近、甘いものを食べてないんです。
あんぐりと情けなく口を開くわたしに閉口しているのは、対面に座る某女史。
ドンと彼女は机を拳で叩くと、わたしのオレンジジュースが波打ちこぼれた。
「鈴代さん、聞いてる?ここ、大事なところよ!!」
「は、はい!ごめんなさいっ」
某女史の声が、上の空だったわたしを地上に突き落とす。地上は想像以上に痛かった。
わたしのため、読者のため、某女史のため。そして、葉月のために打ち合わせを続けた。
身のある時間を過ごしたわたしは、まだ蒸し暑い夕方の頃、葉月の待つアパートに戻る。

「連載かあ。すごいな、すごいぞ!」
取らぬタヌキの皮算用と言う言葉は、今は何処かへ放っておこう。
お金が入る!新しいワンピースが欲しい。おしゃれなパンプスも買える。ちょっと洒落てワインでも嗜んでみようかな。
オレンジジュースなんてお子さまの飲み物だよね…。わたしの頭の上ではぐるぐると淡い色の物欲が浮かんでいる。
これでやっと人から認められたんだ。欲しいものは何でも買ってやる。お金こそがこの世の正義だ。
正義にひれ伏す貧乏神よ、そろそろ荷物をまとめておいていた方がいいんじゃないのか?
だって、わたしと葉月はもうすぐ『おかねもち』になるんですからね。きょうこそ青い空を飛べそうな気がする。
しかし、いいニュースの後に来るのは、誰が言ったか悪いニュースが来るという世の常をすっかり忘れていた。

葉月がいない。
何処にもいない。
帰ったときには扉が少し開いていた。きっと、何処かに行ってしまったのだろう。
居間、台所、ちゃぶ台の下、トイレ、風呂…思い当たるところは全て探した。道に出てアパートのまわりをぐるっと見渡した。
しかし、見当たるものはわたしの噂話をする、道端の奥さまだけであった。
葉月の姿が見えないだけで、こんなにつらくなるなんて。
あれほど「大人しくしておいてね」と言っておいたのに。

『お金の引き換えとして、葉月を奪う』だなんてひどい。お金は果たして正義なのか、と自問自答を繰り返す。

くすぐったい葉月の両腕は絡まない。
シャンプーの香り漂う髪がなびかない。
柔らかい少女の身体は何処へ行った。
葉月の全てが消えてしまった…。

「わたし、浮かれすぎたのかな」
葉月のいないこの部屋で、連載なんか続けられるだろうか。
調子に乗るなと、きっと誰かが言っている。そんな声は聞こえることはないが、わたしの眼にしっかりと焼きつく。
畳は葉月の爪あとが残っていた。窓は開いていたままだった。
なんだかくやしくて、くやしくて、わたしは咎を受けるはずのないちゃぶ台を蹴る。
「こんなことしても、しょうがないのに…」
わたしの脚には痛みだけが残り、ぽっかりと湯豆腐にできたような空洞ができた気がした。
窓辺に座って、かつて葉月がやっていたように外を眺める。
白い雲が風に乗って流れる。
お日さまはわたしを照りつける。
都会の影がわたしをせせら笑う。

ため息をつきながら、わたしは力なくうな垂れると、アパートの庭で見覚えのある大きな耳が目に入った。ついでに尻尾も見えてきた。
「葉月?そこにいるの、葉月なの?」
「ふにゃあ」
木陰で涼を取る一人のネコ少女。彼女はアパートを囲む生垣に潜り込み、尻尾を丸めて昼寝をしていたのだった。
きっと窓から飛び出して、下の庭で涼を求めていたのだろう。その場所は、部屋の窓からも外からもちょうど死角になっている。
そういえば、この時間はちょうど西日が部屋いっぱいに差し込むとき。日影もほとんど出来ていない。
それを考えると、葉月が部屋から飛び出すのはもっともなことだった。しかし…、何だか疲れた。
夕飯を作るのが面倒だ。

「おーい。葉月、ご飯にするよ…。ねこまんまでいい?」
「ゆうか!!ねこまんま!ねこまんま!」
ひょっこり起き上がった葉月は、アパートの生垣を鳴らし、早めに上った月のように目を輝かせる。
尻尾をぴんと立ち上げる。葉月が何を言っているのか、わたしにははっきりと分かる。
わたしの「ご飯」の一言で、いつものように走り回る葉月を見て、わたしは少し安心した。
が、おそらく原稿料は扇風機に消えるのかな…と、覚悟を決めた八月の黄昏どきであった。


おしまい。