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スレ6>>206-212 泊瀬谷先生とかるかん

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silvervine222

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泊瀬谷先生とかるかん


「何もお休みの日まで会議をしなくたっていいのに」
日曜日の夕方、いつもより重く感じるトートバッグを肩に泊瀬谷スズナは自宅に帰ってきた。
いつもは口にしない愚痴がポロポロこぼれ、できることなら童心に返って柱に爪を立ててやりたい気分である。
しかし、理性あるオトナはもう爪を柱で研ぐことはない。玄関の扉を閉めると、湿った木の音だけがあたりに残った。
朝方降っていた雨も止んで、水無月の街にひとときの安らぎが訪れる。

トン!トン!トン!
玄関のマットにしゃがみこみ、雨の日のために出したブーツを脱ぐと泊瀬谷が奏でる尻尾の音が響く。
「あーあ。疲れたな…」
話し相手の居ない部屋の中では幾ら愚痴をこぼしても変化はない。待っているのは家財道具と、白いイヌのクッションだけ。
諦めがついたように泊瀬谷は、玄関から立ち上がり六畳の居間に歩き出すと、
尻尾が床を叩く音は消えていた。むしろ、尻尾が宙を切る感覚だけが泊瀬谷を笑っていた。

夕飯の準備をしなきゃと冷蔵庫を開くと、ささやかながら幾つかの食品が目に入った。少々の野菜、魚、調味料、そして缶ビール。
つい先日、実家に戻ったとき母親から「ウチで余っているから持っていきなさい」と持たされたもの。
「わたし、滅多に飲まないから」と断ったものの、父親が「折角、母さんが言うんだから持ってきなさい」と
帰りのお土産として、やって来た数本の缶ビール。それ以来泊瀬谷家の冷蔵庫内の一員を担う彼の存在を泊瀬谷はすっかり忘れていた。
「ちょっとぐらい…いいかな?いいよね?」
泊瀬谷の肉球が冷え切った缶ビールを包み込むと、思わず爪を指からぬっと伸ばしてしまう。
普段着に着替えた泊瀬谷は何かおつまみでもと、スナック菓子を溜め込んだ籠に手を伸ばした。
これじゃあ、太ってしまうかな。猪田先生の苦労がなんだかひしひしと分る気がしてきたとき、泊瀬谷の携帯が鳴る。
発電主は実家で暮らす、弟・ハルキであった。

「姉ちゃん?おれ、おれ!」
「お金なら、母さんから無心しなさい」
左手で携帯、右手でお菓子の袋を持って、小さな部屋を歩き回る泊瀬谷は弟から電話が架かってくるということは
何か下らないことわざわざ時間を割いているのだろう、と薄っすらと疑いながら返事を返す。
「べ、別に用はないんだけどさ。ほら、父さんが姉ちゃんに電話しろってうるさくって」
「また?父さんが架ければいいのに」
「しないよ、あの人多分。でさあ、姉ちゃん一人で寂しくしてないかって」
疲れきったこの体には弟の言葉が厳しく聞こえる。
父親からならまだしも、弟からそんなことを言われるとは。白いイヌのクッションにぴょんとしゃがみ込んだ泊瀬谷は
弟を「憎たらしいヤツだ」と顔の見えない電話だということをいいことに、ふさーっと毛を逆立てた。尻尾の音が再び響く。

「寂しさ余って飲んだくれないようにね。だって姉ちゃんさ、酒癖悪いし」
「なによ、ハルキ。わたしは飲んだくれじゃありません!」
「この間実家に帰ったときだって、父さんから『たまにはちょっと付き合いなさい』ってマタタビ酒飲んだときさ、
おれの部屋に入り込んできて『ハルキ?たまにゃ女の子でも連れてこんかぁ!?』ってからみ出したじゃん」

以前、サン先生の持ち込んだマタタビのお陰で泊瀬谷をはじめ、帆崎先生、獅子宮先生一同ネコ族が大トラへ変身したときのこと。
ヨハン先生の髪の毛を引っ張り回す、という二度と思い出したくもない騒ぎと重なって泊瀬谷の脳裏にこの間の帰省の事件が蘇ってきた。
「おれのセーター引っ張るわ、イスを蹴飛ばすわ…あのときは姉ちゃん寝かせつけるので大変だったんだから」
「はいはい!ハルキの記憶力は今度誉めてあげるから!もう、用がないなら切るよ」
「はーい」
お菓子の袋を持ったまま、携帯の通話ボタンを切るとスナック菓子を開けずに、籠に返してしまった。
同じように、缶ビールも冷蔵庫の所定位置に戻ることになってしまったのだ。

「ハルキのバカー」
叩きつけるように閉ざされた冷蔵庫が物悲しい。おなかの音だけがマイペースに響く。
ご飯作るの面倒くさいな、と考えつつ、このすきっ腹をどうにかしたい泊瀬谷はご近所用のつっかけに履き替えて表に出た。

かるーく喫茶店でコーヒーでも…と考えながら人通りのない住宅街を歩くと、一軒の鯛焼き屋を発見した。
近所のことなのに、知らなかった。つい最近出来たばかりであろうこの店はお客もいなく、ひっそりと駅前で主人を待つ忠犬のように
来るべき人を待ち続けていた。泊瀬谷はまるで自分が初めて見つけた宝物のように、この店を独り占めしたくなった。
皮の焼ける香りに誘われ、引き寄せられた泊瀬谷はついついカウンターのお兄さんに一言。
「ふた…いや!ひとつ下さい!」
本当はふたつ食べたかった。ふたつ食べたいのだった。でも…乙女心は食欲に勝る。乙女心と猫の目は変わりやすいと、
昔からよく言うではないか。古人の残した言葉が泊瀬谷の味方をしてくれたことに感謝。
しかし、目の前で焼きあがる鯛焼きを見つめながら「ふたつにしとけばよかった」とすこし後悔する。
猪田先生のシェイプアップ作戦の苦労を考えれば、やはり一つでよかったのかな。
天秤に鯛焼きと体重計がかけられ、ゆらゆらと目盛りが往復している間に鯛焼きが出来上がる。

「へい、お待ち」
白い包み紙からは湯気の立った小麦色の魚が顔を見せていた。
お店の人が「あつあつが美味しいよ」と言うので、猫舌なのだがちょっとこの場でいただきます。
鯛焼きを大胆に真ん中から割ると、ぎゅうぎゅうに詰まったあんこが見るからに甘く輝き泊瀬谷の口に早く入れるようにと
文字通り『甘い誘い』があふれ出ている。どちらから食べようかと迷いつつ、頭の方を口にする。
買ってよかった。じわりと広がるあんこの甘さは、まことに品がよい。着物の似合う女学生のような甘さかと。
もっとも、泊瀬谷の場合は書生姿の白いイヌの学生さんに一目惚れした甘さに、似ているのかもしれない。
一日の疲れを吹き飛ばすあんこの甘みが、泊瀬谷の顔を緩ませていると、ふと、泊瀬谷は気付いた。

「確か、あの子って」
短刀のごとく尖った耳、けっして優しいと言えない目つき。その名はルイカ・セトクレアセア。人呼んで『かるかん』。
この春、泊瀬谷の勤める佳望学園高等部に編入してきた、カルカラの少年である。
その少年は遠くから電柱に隠れ泊瀬谷と鯛焼き屋を見つめている。が、泊瀬谷と目が合ったと思いきや脱兎の如く走り去ってしまった。
「待って!ルイカくん!!」
と、言ったつもりで鯛焼きを口に咥えたまま泊瀬谷は追い駆ける。時刻は日曜六時半、夜は近い。
置いてきぼりの泊瀬谷を残して、ダッシュで逃げたルイカは闇に消えて行った。

―――からっと晴れた翌日。梅雨の季節も空は飽きてきたのだろうか。それとも雲の気まぐれか。ネコの目以上に変わりやすい夏の空。
わさわさとざわつく授業前、職員室では職員一同で鯛焼きを囲んでいた。どうやら、サン先生が自宅で作ってきたらしい。
サン先生曰く「分量さえ間違えなければ、楽勝さ」と。しかし、どう見てもプロ並のクオリティではないか。
そんな言葉はさておき、昨日今日と鯛焼きの日々である泊瀬谷。自分の周りを鯛焼きが囲んでくるくる泳いでいる、と錯覚する。
輪になって泳ぐ鯛焼きたちは、泊瀬谷をまたもや食欲の渦へと引きずり込もうとしていた。
「せんせ、せんせ。おいしいよ」
「ぼくたち鯛焼きおいしいよ」
そんな呑気な歌声が、泊瀬谷のネコミミだけに繰り返されていた。
(ここで一口…でも、甘いものは)
「ほら、泊瀬谷先生もどうぞ」
サン先生の少年のような瞳はサン先生を知る者なら、この後どうなるかは簡単に予想がつく。
折角のご好意だからと、戸惑いながらもどれにしようかと迷い、ぷっくり膨らんだ一つを摘もうとした矢先のこと。
泊瀬谷を英先生が回りで泳ぐ鯛焼きを蹴散らす。泊瀬谷の足元に泊瀬谷だけに見えた鯛焼きたちがぽろぽろ墜落して、床で跳ねていた。
「泊瀬谷さん、もうすぐホームルームですよ。お仕事でしょ」
「ごめんなさい!はい!ただいま」
出席簿を両手で抱え込み、英先生に続いて職員室を後にすると教頭先生が入れ違いで職員室にやってくる。
泊瀬谷と英先生は教頭にお辞儀をすると、それぞれの教室に向かった。
職員室から響き渡る、今まで聞いたことも無い教頭の断末魔を聞きながら。

何でもない午前を過ごした学園のお昼休み、購買部ではちょっとした奇妙な光景が繰り広げられていた。
未だ制服の届かぬルイカがパン売り場にて、購買部の主・タヌキのおばちゃんと言い争いをしているのだ。
「だからねえ、あんた。ここにゃ、鯛焼きはないんだよ。聞き分けのない子だねえ」
「なんでもあるのが唯一の自慢だろ?葉っぱで化かすぐらいして揃えとけ、悪徳購買部」
「こちとら遊びで商いやってるんじゃないよ、クレーマー糞野郎。買わないんだったら帰りやがれ」
騒ぎを聞きつけたのか、メガネのウサギ娘・因幡が間を割り、メタルのフレームを指で突き上げながら、ルイカを諌める。

「おばちゃんが困っているでしょ?放課後好きなだけ鯛焼きを買えばいいじゃない。それに、おばちゃんも客商売なんだから」
「おい。どうせ点数稼ぎでやって来たんだろ、メガネのいい子ちゃんウサギ。穴掘って巣にでも篭っとけ」
「因幡さんも買わないなら、帰った帰った!書き入れ時なんだから、あんた商売の邪魔だよ」
かえって火に油を注ぐ結果となってしまったのは、まわりの者も当然の結果だと思っているだろう。

周りがあきれ返る中ただ、一人ほくそえむ黒い影が一羽。
「これは、美味しいネタが出来そうやおまへんか?ルイカはんから目がはなせられへんわあ」
音も立てずに、ふわりと上方へ消え去った一羽のカラス。鳥類独特の首をかしげる姿は愛くるしいが、
腹の内は彼女の羽根のように漆黒である新聞部・烏丸京子。誰にも気付かれることなく彼女は、校舎の外へ舞って行った。
「金があっても、なんで欲しいものが手に入らないんだよ!ちくしょう!バカ!」
騒然とする購買部をルイカは、人だかりの収まらない購買部を後にした。

空腹のルイカは中庭の池のほとりにたたずんでいた。タスク、ナガレ、アキラと、ちらほら生徒たちも見受けられる。
それぞれ自由なときをすごし、つかの間の休息を楽しむがルイカだけはすこしわけが違う。
誰もが楽しく過ごしているときほど、ルイカは腹の底からの黒い泥が湧き立つのである。
泡を立てて沸騰しきった黒い泥は、のどを過ぎて遂にルイカの脳天にまで届く。
じっと池のみなもに自分の姿を映し、まじまじと見つめる。ゆらゆらと歪む姿はルイカの心情を描いているのか。
「くそっ!」
ポケットから十円玉を取り出すと、みなもに映える自分の姿目掛けて、力の限り投げつけた。
あかがねが跳ねる水音に周りは一瞬息を飲むが、さほどことも広がらずに落ち着きを取り戻す。
十円玉はみなもに描かれる若者を容赦なく歪め、ルイカはまるで自分の腹の内のようだと奥歯をかみ締める。
一度、歪みきった池のルイカは再び何事もなかったように、元の姿を映し出し静かな昼休みが続く。
「金なんかで何にもならねえじゃねえか。ちくしょう」

―――幼い頃、母に連れられ街に買い物に出かけたことがあった。
資産家ゆえ、高貴な家ゆえ、世間さまの目を気にすることは当然のように考えられていた。
「お母さん、アレ食べたい」
母親に手を引かれたルイカは遠くにて、鯛焼きを頬張る見た目同い年ぐらいの子供を指差した。
しかし、暖かい鯛焼きとは相反して、母親は冷たく一言でルイカを突き放す。
「あれは庶民の食べ物よ」
「しょみん?ぼくはしょみんじゃないの?」
「そうよ。セトクレアセア家の者はあんなものは口にしないの。庶民の食べ物は庶民が食べるんだからね。
それに、ルイカにはちゃんと美味しいお菓子を買ってあげるから。マカロンがいいかしら?」
幼きルイカは母の言葉を無条件に納得するしかなかった。無論、疑う余地もない。
鯛焼きの姿は幼いルイカからだんだんと遠ざかる。母の爪がルイカの手に優しく突き刺さる。
ルイカと母親とのすれ違いざま、世間に揉まれ金の喜びを感じ始めた若者が、ぼそっと呟いた。
「鯛焼き、食いたいな…。でも、100円足りねえ」
自慢の鼻はひくひくと鳴るのに、尻尾だけはだらりとしな垂れている若者。
アイツと違って、セトクレアセア家には金はある。
なのに、鯛焼きを口に出来ないのは何故か。ルイカは幼心に既に小さくなった鯛焼き屋を見つめていた。
そう、あの日曜の夕方の時のように…。
「たいやき食べたいよう」
「また今度ね」

母の顔が池のみなもに浮かび出される。しかし、母はもう側にはいない。
「くそっ!鯛焼きなんかいるか」
ルイカはもう、子どもの頃と違って金の使い方も自由なはずである。血の教え故に意固地なのは誰のせいでもない。
庶民の食べ物。近いようで、何気に遠い。池の向こう側では、本を読んでいたヒカルが泊瀬谷と何かを話していた。

その日の夕方も泊瀬谷は、自分が見つけた鯛焼き屋で何匹か買い込んでほくそえんでいた。
一度食べたら辞められぬ、それほどの魅力を持つこの甘さ。きょうは余計に多く買いすぎてしまったことを
買った後に泊瀬谷は後悔している。一人暮らしじゃ食べきれない。だって食べたいんだもん、
って理由は理由になりますか。そうだ、理由は食べた後でつけてしまえ。それじゃあ、こうなったら食べるしかないね。
そうやって泊瀬谷は自分を弁護していた。あしたに残して今度食べるときにチンするかな、と考えていたとき。
見覚えのある尖った耳が、ちらと泊瀬谷の目に入った。
「ルイカくん?」
「……」
電柱の影から覗くルイカが、泊瀬谷をじっと見つめていた。

ぱたぱたとルイカの方へ駆けつける泊瀬谷は、抱えている鯛焼きを一つすすめてみた。
どうせ多く買いすぎたんだから、かわいい生徒に還元しなきゃいけないよね、と顔を赤らめる。
しかし、ルイカは泊瀬谷の気持ちなんか知るよしもない。それどころか、かわいいはずの生徒から毒の塗られた牙を向けられた。
「犬上にやれば?オレなんかよりさあ」
「…え?だって、どうして…いきなり、ヒカ…犬上くんのことを言い出すの?」
「オレを喜ばすより、白いワン公の尻尾を振らせる方がいいんじゃね?」
「そんなことありません!!」
理性より感情を先に出してしまうのは、泊瀬谷の悪い癖だ。
こんなことで声を荒らげるなんて、まるで自分が白いワン公の尻尾を振らせることが楽しみのように見えてしまうじゃないか。
覆水盆に帰らずという言葉を何度も頭の中で繰り返しながら、暖かい鯛焼きの入った袋を握り締める。

ルイカが踵を返す。跳ねるようにその場を立ち去る。遠くで何かを言っているようだが、聞こえない。いや、聞きたくもない。
泊瀬谷はルイカをけっして追い駆けようとはしなかった。遠くを見つめる泊瀬谷の目の前が、いきなり真っ暗になる。
比喩ではない。漆黒の羽根がふわりと舞い降りる。まるで命の灯の終わりを告げる死神のよう。
その名は、烏丸京子。
「いやあ、泊瀬谷せんせ。おもろい記事が書けそうですわあ」
「烏丸さん!」
「ほら、このデジカメにきちんと写ってるさかい、今度の学園新聞を楽しみにしてはってなあ。
見出しは『悩む泊瀬谷先生、かるかんと白い尻尾の狭間で…』とか、いかがですか?特ダネやね。あざーっす」
「烏丸さん!!もしかして…?」
「泊瀬谷せんせ、その特ダネ隠さへんでも、ええんやない?バレバレですわあ」
意味深な言葉を残し、やれやれと頭を押さえて会釈する烏丸。夕方の弱い光に反射したデジカメのレンズが、怪しげに泊瀬谷の目に映った。
泊瀬谷が烏丸に何か話しかけようとした瞬間、烏丸の羽根が広がると同時に、泊瀬谷の髪を揺らす。
気がつくと、烏丸は赤い夕日に向かって風を切っていた。心もとない証拠に泊瀬谷の尻尾は地面を叩いていた。

わたしも烏丸京子のように羽根があれば、嫌なことなんか吹き飛ばすことができるんだろう。
どうしてネコに羽根を与えてくれなかったのだろう。それは、ネコは嫌なことをすぐに忘れられるからだ。
でも、そんな昔話は嘘っぱち。ネコにだってずっと悩みごとはあるんだぞ。神さまのバカー!って、言ってもバチを与えないで下さいね。
だって、ネコに与えられたものといえば…手に隠された小さな爪だけですから。許してくださいね。
素直すぎる自分の尻尾が恨めしい。泊瀬谷は、尻尾を揺らしながら冷めかけた鯛焼きを抱え、アパートに向かう。
誰も居ない、六畳の部屋。テーブルには数冊の読みかけの文庫本。天井からは蛍光灯の紐が垂れ下がる。
白いイヌのクッションにどっかと飛び込むと、愛用のトートバッグから携帯が転げ落ちる。よくよく見ると、着信履歴が残っているではないか。
「ハルキ?また…。ったく、あいつったら」
履歴の時間からして、丁度ルイカに激昂していた頃に架かってきたらしい。全く気付かなかった泊瀬谷は、兎に角弟に電話を返す。

「何よ!ハルキ。用事は何?」
「何よとは、何だよ。姉ちゃんさ、今度は母さんが荷物を送ったから電話しろって言うんだよ」
「…それだけ?それだけで架けてきたの?電話代返しなさいよ」
「返すもんか!ケチ」
口げんかと鯛焼きほど中身がないと空しいものはない。泊瀬谷は知らず知らずのうちに蛍光灯の紐を軽くネコパンチを食らわせていた。
ゆらゆら揺れる紐は、まるで泊瀬谷とルイカのよう。お近づきになろうと手を伸ばしてもぶつかって遠くに逃げてしまう。
やがて、戻ってきたかと思っても自の手に絡み付く。絡み付いてしまうと、解くのに骨を折る。
絡まった紐を片手で外そうと四苦八苦しているうちに、急に弱気になり弟に相談を持ちかける。
「あのさ…ハルキ、ちょっといいかな。女の子としての質問」
「はあ。あんた、センセイでしょ」
「わたし、男の子のことが分からなくなってきたの…」
弟の呆れた返事を無視して泊瀬谷は続ける。
「男の子って、あんまり女の子の方から仲良くなろうってするの…嫌なのかな」
「基本的には嬉しいけど、しつこい子は嫌い」
「……」
もしかして、ヒカルも同じことを考えているのだろうか。
たった、あのとき自転車の後ろに乗せてもらっただけで、自分は勘違いをしてしまったのだろうか。
それなら、ヒカルに悪いことをしてしまったんじゃないのか。自分の思い込みだけで、白い尻尾を捕まえようだなんて、
鯛焼きを欲しくもない生徒に鯛焼きを勧めるようじゃないのか。そんな勘違いなネコは鯛焼きに食われてしまえ。。
「姉ちゃん、聞いてる?」
「…切るよ」
「姉ちゃ…」

弟が何か言おうとしているのにも関わらず、電話を切ってしまう泊瀬谷は口をつぐむ。
外の窓は、烏丸京子の羽根のように真っ黒に塗りつぶされている。さっきまで絡み付いていた蛍光灯の紐を引くと、やけに明るく部屋が見える。
今夜はどうしても一人になりたい。買ったばかりの鯛焼きを机の上にほっぽりだして、よそ行きの服のまま畳の上で丸くなる。
見上げると、天井に向かって伸びる木の柱。傷一本も入っていない柱は、いつもならどうってこともないのに、
このときだけは傷が入っていないことが、妙に気に食わない。泊瀬谷は大人になって初めて柱で爪を研いだ。
今まで無傷でいた柱に、泊瀬谷の爪あとが残る。どうして、お前はどんなことがあっても傷付けずにいられるのか。
そんなことを言っても仕方がないのは、百も承知。でも、子ネコの頃のように柱に傷をつけてしまったことは、今なら許されると思った。
柱がぼやけて瞳に映る。尻尾はいつの間にか白いイヌのクッションを叩きつけていた。

―――翌日、いつもより重く感じる自転車を漕ぎながら泊瀬谷は登校する。仕事だけはしなければ、という教師の使命感と、
まだまだ若い一人のネコという狭間に挟まれながら。兎に角午前中は『仕事だけ』に集中することにした。

昼休み、午前を無事に過ごした泊瀬谷は学園内の掲示板に人だかりが出来ているのを発見した。学園新聞が発行されたのだ。
新聞は無料配布されるのはもちろんのこと、同じものが掲示板に張り出されるのだ。
そして、それに人だかりが出来ることは、佳望学園の者なら誰で知っていること。
(もしや、烏丸さんが昨日言ってたことを?)
夢中で生徒たちの波を掻き分けて、張り出されたばかりの新聞を見る。

「…あれ?」
トップ項目は『大空部、天秤町学園との練習試合に圧勝』。その他、『英先生、カラオケで「空と君のあいだに」を熱唱』、『サン先生、台車でコケる』と、
何でもない記事のオンパレードである。そして、最後に一つ『美味しい鯛焼き屋さん、オープン』の記事。文責は、烏丸京子。
「美味しそうだね」「帰り道に寄っていこうよ。『クーポンを切り取ってお店に持っていくと100円引き!』だって!」と、
鯛焼きに恋するモエとハルカの声を聞きながら、泊瀬谷はその場を後にした。

「…載ってなかった」
『白い尻尾』の『し』の字も載っていない。『泊瀬谷』の『は』の字も見うけられない。
でも、次の発行で載せられるんじゃないかと、思いつつ職員室に向かう前に新聞部部室に泊瀬谷は入った。
部室では、一人でPCに向かい早くも次号の準備の為に、慌しくキーボードを叩く烏丸京子の姿があった。
「おや、泊瀬谷せんせが遊びに来るなんて、お珍しいわあ。お茶でもどーぞ」
執筆中の記事を見られぬようにモニタに布を被せ、くるりと泊瀬谷の方に抜きを変える烏丸。泊瀬谷はすぐ帰るからと、お茶を断って話を切り出す。
「烏丸さん、あの…新聞のことで」
「せんせ、うちはなあ、せんようにしとることがあるんや。裏の取れへん情報で記事を書くことと、捏造や。
それにうちの言っとった特ダネは……、泊瀬谷せんせならもうお分かりやろ」
「……そうね。ごめんなさい」
「そこまでして、せんせにいけずしてもビタ一文も儲からんしな。さっきな、ひとっ飛びして買うてきたんやけど。ま、せんせもお一つ」
ほかほかの鯛焼きを烏丸に勧められて一口。この間食べたときよりも、何故か甘く感じる。
そろそろネタ探しにいかんとなと、烏丸はPCをシャットダウンさせながら取材道具を抱えて部室を後にする準備を始めた。
「あ、せんせ。一つ余らすのもなんやから、鯛焼きも一つどうぞ」
紙袋のまま、烏丸京子は泊瀬谷に人肌に冷めた鯛焼きを差し出した。

泊瀬谷はその後、中庭の池の側で食べようと外に出ると、いつものようにヒカルが本を読んでいるのを見つけた。
池の向こう側には、ルイカが相変わらず人と群れることなくたたずんでいた。
「ヒカルくん!」
顔を上げたヒカルは鯛焼きの入った紙袋を見て、くんくんと鼻を動かす。
「……」
「鯛焼き、食べる?」
否定も肯定もしないヒカルは再び本の続きを読もうとしている。それでも、気を引かせようと
泊瀬谷が紙袋から一匹の鯛焼きを差し出そうとしたときのこと、弟・ハルキの言葉を思い出した。
「基本的には嬉しいけど、しつこい子は嫌い」

ぱくっ!!

「へへ。ヒカルくん、食べちゃった。ごめんね」
口から尻尾をはみ出しながら、泊瀬谷はニシシと照れ隠しをしていた。
揺れるヒカルの尻尾が中庭の池のみなもを叩く。泊瀬谷はその光景を見ながら嬉しそうに耳を回す。
いたずらっ子のように駆け出す泊瀬谷。しかし、側を歩いていたルイカと出会い頭にぶつかりお互い転んでしまった。
「!!!」
「大丈夫?ごめんなさい!」
「気をつけろよ!トロネコ」
一切れの紙がふわりと舞う。風に載せられ、ゆらゆらと中庭の池に吸い込まれてゆく。その紙切れが池の中央に流される。
よくよく見ると、本日発行されたばかりの学園新聞に載っていた『100円引き』の鯛焼きクーポン券だ。
残念そうに見つめるルイカは、クーポン券が印刷された部分が雑に切り取られた学園新聞をぎゅっと握っていた。


おしまい。

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