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佐倉家の換毛期


「おぉーにぃーちゃーん!」
 半ば突っ伏すように勉強机へと向かい、やたら重く感じるペンを動かして宿題と奮闘していると、下の階から舞の声が響く。
 用があるならば部屋までくればいいものを、誰に似たのか不精な所の有る舞は、俺を呼ぶときはいつもこうして一階から叫ぶのだ。
 半分も済んでいない宿題と、舞の声が響く廊下を交互に見つめながら、俺はしばしの間考え込む。
 俺を呼ぶ舞の声は、「は~や~くぅ~っ!」とか「ねーえっ!」とか、少しずつ不機嫌そうな声色になり始めた。
 呼ばれたからって、はいそうですかと即応できる訳でもないんだから、そんなせっかちな態度でいられても困る。
 だが、可愛い妹のお呼びだ。宿題なら、明日の朝雅人に見せてもらえば事足りるだろう。
 俺は椅子を引いて、背伸びをしながら立ち上がると、宿題の参考書を閉じて鞄に投げ入れた。。
「いーまーいーくー!」
「お兄ちゃん、おっそーい!」
 階段を駆け下りていくと、風呂上りの湿った毛皮から湯気を立てる舞が、俺を待ち構えていた。
 手にはブラシが握られ、期待するように俺を見つめながら、尻尾をパタパタと振っている。
 少し離れたソファでは、父さんと母さんが、目の前に置いたベビーベッドを、ゆっくりと揺らしているところだ。
 母さんはともかく、前の奥さんが家事を全くしてくれない人だったようで、父さんの方は夫婦で子育てと言うのはこれが初体験だと言っていた。そのせいか、家にいるときは夫婦で赤ちゃんにべったりである。
 何だか微笑ましくて、何となく笑ってしまい、舞がけげんな表情を浮かべた。何となく照れくさくて、俺は舞の意識を逸らそうと、思い出したような口調で尋ねる。
「あれ、そう言えば姉さんは?」
「お姉ちゃんね、今日美容院でブラッシングしてもらうって。
雑誌に載ってたお店なんだって。『いいでしょー?』って自慢するんだよ。
いーもん。私なんて毎年お兄ちゃんにブラッシングしてもらってるもん」
 舞は少し悔しそうに答えた。そう言えば、姉さんが雑誌を片手に『一段と綺麗になってくるから、康太も楽しみにしてて』と笑っていたのを覚えている。
 換毛期のブラッシングは手間も掛かるし、全身をブラッシングするなら同性でないと、と言う問題もあるので、結構割高だ。
 姉さんはバイトもしているし、雑誌に載るような美容院で頼めるのだろう。
 中学生の舞にはそんなお金もなく、かといって自分でやるには不器用で、中学生にもなって親にブラッシングしてもらうのも何だか気恥ずかしいらしい。
 そこで、我が家の雑用係である俺へと出番が回ってくるわけだ。とは言っても、俺の役目は最後の仕上げ。
 不器用な舞でも、大方は入浴時に自分で済ませてくれる。舞から手渡しでブラシを受け取り、そのブラシで軽く頭を撫でてやると、舞は気持ち良さそうに目を細めた。
「やっぱお兄ちゃんはブラッシング上手いよね」
「舞と姉さんが来てから毎年やってるからなぁ。最初の頃は雑誌とか読んで勉強したし。
舞は女の子なんだし、母さんが父さんにやるみたいに、適当にワシャワシャって済ませる訳にも行かないし」
「あはは、確かにお母さんはブラシ下手だよね。
毛が絡まっても気にしないでやっちゃうから、ブラッシングの時お父さん悲鳴上げてるもん」
 父さんが灰色の毛皮に包まれた狼の顔を縦に振り、舞の言葉に対して「まったくだ」と相槌を打った。
 あーあ、そんな事言ったら、と俺が注意する前に、母さんが立ち上がり、父さんの首根っこを引っ掴んで風呂場へと連行していく。
 父さんも換毛期のブラッシングをまだ済ませていなかったし、家族全員今日済ませる事になりそうだ。
 舞と一緒に、売られていく子羊の目をした父さんへと、笑顔を向けて手を振り、談笑しながらリビングへと向かう。
 俺と舞の部屋はカーペットになっているので、ブラッシングして毛を飛ばそうものなら、大変な事になってしまうが、リビングはフローリングだから、ブラッシングしてもまとめてモップでもかければ問題ない。
 舞は早速、ひんやりしたフローリングの上に胡坐をかいて座り、俺へと背を向ける。俺はその後ろでしゃがんで、舞のTシャツの背中側をたくし上げた。
(相変わらず雑だなぁ……)
 ノーブラだなぁ、とか、薄っすら湿ってて背筋のラインが色っぽいなぁ、とか思うよりも、まずそんな思考が頭をよぎる。
 抜けかけの体毛がボサボサになっていて、自分でやった手入れの雑さが伝わってくる。
 まあ、背中は自分じゃやり難いし、当然と言えば当然かもしれないんだけど。
 背中の真ん中辺りにブラシを沿えて、湿った毛皮を解すように、スッとブラシをかけていく。
「あーっ、さいこー……」
「俺には分かんないなぁ」
 最初のうちは、背中全体を掃くように軽い力で表面についた抜け毛を取り去っていく。
 それが終われば、今度は少しだけ力を込めて、絡み合った体毛を梳かしていく。
 舞は気持ち良さそうに息を吐き、顔を紅潮させている。毛皮を持った獣人の種族は、こういう風に毛皮を撫でられたり梳かされるのが好きな人が多い。
 猫の人なんかは、撫でられる内に不可抗力の眠気に教われる者までいるそうだ。
 毛皮の無い俺には、それがどんな気持ちかよく分からないが、こんな風に満足してもらえるようなら、気分もいい。
「結構取れたなー。舞、首やるから寝転がって」
「はーい」
 俺が床に座ると、舞は俺の太股に頭を乗せて、仰向けに寝転がる。所謂膝枕だ。イヌ科の長い顎から喉までをブラシで梳かしていく。
 舞は気持ち良さそうに目を細めながら、うつらうつらとし始める。舞の鼻先を人差し指で突っついて起こし、引っくり返るように支持した。
 今度は俺の太股に顎を乗せてうつ伏せに寝転がる。額から首の裏側へとブラシを動かす。
 ふさふさの尻尾はゆっくりと左右に振れて、とても心地良さそうだ。手入れが終わる頃には、舞は俺の脚に顎を乗せたまま寝息を立てていた。
「寝顔は姉さんみたいにお淑やかなのになー……」
 いつも活発で元気に溢れていて、悪く言えば落ち着きの無い舞だが、寝顔だけは静かで素直に綺麗だ。
 この寝顔を見ていたら、いつだったか言っていた、『滑り止め発言』も、まんざらではなく思えてくるから困る。
 真顔でそんな思考をしてしまうほど、舞の寝顔は可愛らしかった。Tシャツと女物のトランクス一枚と言うのもあって、歳不相応な色気を感じさせてくれる。
「はぁ……」
 思わず魅入りそうになってしまうが、俺は溜め息をひとつ吐くと、舞の頭に手を乗せて、ワシャワシャと頭を撫でてやる。
 乱暴な手つきに、舞が大きな欠伸をしながら目を覚ました。
「終わったぞ」
「ん……気持ち良くて寝ちゃった。じゃ、どんな仕上がりか鏡でチェックしてこよっかな」
「無償奉仕にあんま期待すんなよー」
 舞は狼のくせに猫みたいな背伸びをして立ち上がると、ブラッシングでいくらか小さく見えるようになった尻尾を振りながら、洗面所の方へと向かっていく。
 その後姿を見送ると、さっきまで両親の座っていたソファへと向かい、ベビーベッドでスヤスヤと眠る、可愛い弟の顔を見つめながら座った。
 何をするでもなくボーッとしていると、しばらくしてから嬉しそうに笑う舞が戻ってきて、もうしばらくすると、気まずそうに苦笑する母さんと、頭の毛皮に一箇所だけ小さなハゲを作り、目を潤ませている父さんが、寝間着姿で風呂場から戻ってくる。
 そのまま4人で談笑しながらテレビを見ていると、玄関のチャイムが鳴った。俺が出迎えると、随分とさっぱりした様子の姉さんが、毛並みを自慢するようなしたり顔で、玄関にいた。
 ダイニングへ連れて行くと、俺だって気付かない振りをしていた、父さんの頭に出来たハゲを見つけて大爆笑を始め、舞まで飛び火する。
 実の娘達から浴びせられる容赦の無い嘲りに、父さんは再度瞳を潤ませて、寝室へと姿を消した。原因を作った張本人である母さんも、困ったような顔をしながらそれに続く。
 あの人一倍傷つき易い父さんが、こんな癖の強い娘達を、十年以上もの間男手ひとつで育てていたと言うのだから凄い。
 30分もすると、ハゲを隠すようにナイトキャップを被った父さんが戻ってきて、姉さんがまたそれを笑って、父さんを寝室へと逆戻りさせた。
 笑っちゃダメだと分かっているのに、俺も雰囲気に乗せられて笑ってしまい、父さんのガラスの心にまた一つ傷を刻み付けてしまったようだった。
 父さんがまた寝室へと消えると、母さんも呆れ顔でそれを追い、俺と姉さんと舞はクスクスと笑いあった。
 新しい家族が出来てからというもの、毎日がこんな調子の、慌しくも楽しい毎日だ。