※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

ラブスクエアⅡ


俺はあんまり夢を見ない方だ。そもそも、伊織さんのトレーニングで毎日くたくたになっている俺に、
夢を見れるほど浅い眠りが訪れる事など、滅多に無い。
だから、小さな体で幼稚園の中を駆けずり回りながら、それが夢だと理解するのには少々の時間を要した。

幼い頃の記憶を頼りにした夢だからか、色々と場面が飛び飛びで、
周りの園児や先生の顔も、靄が掛かっているようでよく見えない。
鬼ごっこしたり、お遊戯で歌を歌ったり、かくれんぼをしたり、色々と場面が飛んで行き、
俺が最後に辿り着いた場所は、遊具のトンネルの下だった。

色々と記憶が曖昧になっている幼稚園時代だが、『秘密基地』と称して、
一番の友達と二人で遊んだその場所は、今もよく覚えていた。
気付けば、白い色をした虎の女の子が、目の前で笑っている。

『ねぇこうたぁ……』

子供らしい舌足らずな口調で何かを話す女の子を見ながら、この子がいつも一緒に居た子だったなぁ、と何となく思い出す。
会わなくなったのはいつ頃からだっけ。両親が離婚して引っ越してからだったろうか。
色々考えているうちに、女の子が俺の方に擦り寄ってくる。毛皮の感触が妙にリアルだ。

『ねぇこうたぁ……』

また話しかけられる。名前はなんだっけ。
女の子は幼稚園から持ち出したクレヨンで、いつも持ち歩いていたスケッチブックに何か文字を書いている。
覗き込むと、少し照れた様子で俺に寄りかかりながらそれを渡してきた。

『けっこン せー約しょ』

幼稚園生じゃ珍しくも無い若気の至りの結晶が、俺の目に映った。女の子の名前だけ擦れていて読めない。
彼女をなんと呼んでいたかは分かる。他の園児も、彼女の母親も、
みんなが『なっちゃん』などというありふれたあだ名で彼女を呼んでいたはずだ。
なっちゃんは俺へとその結婚誓約書を押し付けてくる。

幼少時の俺は何を思ったか、その名前の隣に自分の名前を書き入れる。
ぐにゃぐにゃヘロヘロの子供っぽい文字で『康太』。
あの頃の俺は、年中組で唯一自分の名前を漢字で書けるのと、ピーマンを食べられる事が自慢だったと思う。
俺の一連の動作を見ていた女の子は、嬉しそうに髭を揺らして微笑むと、頬擦りをしてくる。

だが、何かがおかしい。俺はズルズルと押し出されている。トンネルの外へ締め出されそうだ。
出口へと近づきながら、俺は何が起こったのだと、軽く混乱をし始める。
いや、この訳の分からなさが夢の夢たる所以だろうか。
まあ、ともかく俺は白虎の女の子に頬擦りをされながら、どんどん押し出されているわけだ。いつの間にか高校生に戻っている。

トンネルから落とされる間際、女の子の姿も大きくなった気がした。
ちらりと確認できた。わぁ、結構美人に成長してる。

そんな邪念が頭を掠めた間際――ドテッ!! と激しい音が鳴って、頭がジンジンと痛み始める。
夢の事などあっと言う間に頭から締め出され、急速に覚醒を始めた意識が現状認識を開始する。
フローリングの床に体を投げ出し、足はまだベッドの上。
布団は俺と一緒に床の上。ああ、ベッドから落ちたのか。


ようやく何が起こったか理解し終えた俺は、ベッドに戻って二度寝をしようと立ち上がる。
布団を抱えて持ち上げ、ベッドにそれを投げ出し、さて寝るぞと再度寝転がり、
ついでに時間も確認しておこうかと、舞の勉強机に置かれた目覚まし時計へと目を向ける。
時刻は8時過ぎをまわっていた。液晶の左上を見ると、アラームをセットしている際に点灯する筈のランプは消えている。

「やべえええええええええ!!」

×××


「ああああ、やばいやばいやばい!」

パジャマ姿のまま、慌しく階段を駆け下りながら、俺が再度叫ぶ。
足をもつれさせて階段から転げ落ちそうになりながらも、なんとか体勢を立て直して、リビングへとダッシュした。
いつも起こしてくれる舞は、昨日から学校の友達数人で他所へお泊り会。
姉さんは月曜日は講義が午後からなので、少なくとも10時までは布団から出ようとしない。

俺が頼み込んだお陰で月曜の朝練は勘弁して貰っているので、伊織さんは先に学校へ行ってしまっている。
土日の部活動で体力を使い果たした俺が、二度寝の欲求に逆らえる筈もなく、登校時間を大幅、起床を迎えたわけだ。
朝のショートホームルームが始まるのが、大体8時半ごろ。自転車で向かえば、何とか間に合わなくは無い。
だが、その自転車が現在パンク中なのだ。いや、一ヶ月ぐらい前からずっと。
登下校はほとんどジョギングだし、休日も出来る限り室内で過ごすことにしている俺は、自転車をあまり使わない。
わざわざ直しに行くのも面倒だからと、後回しにしていた結果が、今日の不運の日だ。

俺はダッシュで顔を洗い終えると、トースターでパンを焼きつつ、制服へと着替え始める。
片手間にテレビをつけると、丁度占いがやっていて、
しかも俺の星座が一位を取っている場面にピンポイントなのが、非常にいやみったらしい。

『止まっていた事が動き出すかも』だなんてキャスターが言っているけど、
こっちは時間ギリギリまでベッドの上から動き出す事が出来ないでいたんだぞ。
焼けあがったトーストに流れるような動きでバターを塗りたくると、食器をほっぽり出してトーストを咥えたまま玄関へと向かう。
そしてドアノブに手をかけ、今まさに出発しようとしたところで、慌てるあまり鞄をリビングに置き去りにしている事に気付いた。

「あぁもう、ほへのばふぁっ」

トーストを咥えたままアホみたいな声を出すと、リビングへ戻って鞄を抱えて玄関まで戻ってくる。
ドアを開けて玄関を出て、鍵を閉めると、鬼コーチ伊織さんに鍛えられた、陸上部の脚を活かして、学校へと走り始める。
いつもは伊織さんに禁じられているような近道を使い、最短距離で学校へと疾走した。
咥えたトーストを半分ほど食い終える頃には、俺と同じく遅刻しかけている生徒たちが、
全力で自転車を扱ぐ姿をちらほら確認できるようになった。
こうなれば、学校までそう遠くは無い。少し先の方に見える角を曲がれば、後は学校まで一直線だった筈だ。


俺はスパートをかけ、近づいてきた曲がり角を鋭角的な動きで突き抜けようとする。……のだが

「おごっ」
「きゃっ」

角を曲がった瞬間、白い縞々模様の毛皮が視界に入り、
避ける暇もなく、気がついたときにはその相手と正面衝突していた。
俺より一回り背の高い虎の女の子のマズルが、丁度俺の額にぶつかり、
一瞬だが、おでこにキスのようなロマンチックな構図になった。

だが、次の瞬間には互いに尻餅つき、俺は額を彼女は鼻面を手で押さえ、「あいたた……」と声をハモらせる。
額を擦りながら再度相手を見ると、思ったとおり虎の女の子が、痛そうに鼻面を擦っていた。

毛並みは艶やかで、けれどもネコ科の猛獣特有の勝気な印象と同時に、
制服だろう紺色のセーラー服のお陰で、清楚なイメージも何処となく受ける。
制服を着ていて、俺と同年代に見えるし、多分高校生なんだろう。
俺の学校の制服はブレザーだから、何処か別の学校だろうか。
俺は素早く立ち上がると、鞄からポケットティッシュを取り出して、彼女へと差し出した。

「ごめん。急いでたんだ。鼻は大丈夫だよな。血ぃ出てたら使ってくれ」
「あ、大丈夫よ。私頑丈だから。……こっちこそぶつかってごめん」

彼女が鼻面から手をどけると、言った通り血は出ていないようだった。
俺の差し出したポケットティッシュではなく、差し出した手首を掴むと、
ゆっくりと立ち上がり、俺へ向かって軽く会釈をして微笑んだ。

最初の印象とは違って、随分と礼儀正しい性格のようだ。俺は微笑み返しながら、彼女の顔をじっと見つめる。
何となくだが、どうにも既視感を感じる顔立ちだ。
地面に落ちた鞄を拾うと、彼女に「じゃあ俺、遅刻寸前だから」と声をかけて走り出した。
いくら可愛い子が居ても、のんびり話しこんでいる余裕は無い。

「ねぇ、何処かで会った事……!」
「ごめん! 俺の担任厳しい人なの!」

走りつつポケットから携帯を取り出して、液晶画面に浮かぶ時間を確認すると、ホームルームまで10分を切ってる。
陸上部の顧問であり俺のクラスの担任である牛沢先生は、うちの学校じゃ結構厳しい部類に入る先生だ。遅刻したくは無い。
大丈夫。まだ間に合う。全力疾走すれば行ける! 俺は額の汗を拭うと、残った体力全てを走ることに向けた。
後ろでさっきの女の子から呼び止められた気もしたが、今はそれどころじゃなかったんだ。

×××

「うおおお!」

叫びながら学校の玄関に走りこむと、その勢いを殺さずに靴箱まで滑るように移動する。
俺の出席番号が貼られた場所から上靴を取り、地面に投げ捨てると、足だけでそれを履きながら、靴を投げ込む。
走り出しながら肩にかけた鞄を背負い直し、階段の方へとダッシュする。

一年の教室は残念な事に4階だ。俺は2段飛ばしで階段を駆け上がる。
4階まで到達すると、D組の教室へと再ダッシュ。A・B・Cの教室を通り過ぎ、
D組の教室のドアに差し掛かる手前で急ブレーキをかけ、
ガタン! と音を立ててドアを開け、ジャンプするように教室へ飛び込む。


「ギリギリセー……!!」
「アウトー」

高らかとセーフ宣言をしながら教室の敷居を跨いだ瞬間、
アウト宣言の無常な声と共に、額へと振り下ろされる竹刀。
ほとんど力を込めていない筈なのに、バシィッ! と派手な音が教室の中へと響いた。
本当は大して痛くはないのに、思わず叫んでしまう。

「いったい! 超痛い!」

瞬間、クラスの一同からどっと笑いが起こる。みんなは“明日は我が身”という諺を知らないんだろうか。

「どうした。お前が遅刻なんて珍しいぞ」

微妙に赤くなっている額を右手で押さえながら、こちらを見下ろしながら話しかける牛沢先生を見上げた。
ジャージ姿に竹刀を持ったいつもの格好に、大柄な体躯もあって結構威圧的……。
とても目覚ましをセットし忘れたとか、妹が友達の家でお泊り会だったから、起こしてもらえなかったとか、
そんな事を言える気持ちにはならない。

「あの、弟が丁度夜泣きの酷い時期なんですよ。ほら、両親が再婚してから出来た子なんでまだ1歳にもなってないんですよ」
「そうか。まあ、そういう事なら……、さっきの一撃くらいで勘弁してやるか
 だけど、次からはちゃんと両親に育児させろよ」

俺は「どうも」と言いながら牛沢先生に会釈し、窓際前から2番目の俺の席へと向かう。

未だに俺を見ながらクスクス笑いしている奴が何人かいる。
なんだよ。人が牛沢先生からの制裁を受けるのがそんなに楽しいのか。人の不幸でメシウマか。
周りから見ても不機嫌に見えるだろう仕草で、少し乱暴に椅子を引き、腰を下ろす。

「あはは。佐倉君が遅刻なんて本当に珍しいよね」
「正直お前まで笑うとは思わなかったよ」

俺が気だるく振り返ると、茶色い毛玉もとい肉団子もとい、
気の良さそうな熊、中学以来からの友人である雅人が口元を抑えて笑っている。
何がおかしいのか分からん。特にこいつは結構出来た性格だから、
笑わずにいてくれると思ったのに。俺は赤くなった額を再度擦った。

「大丈夫? 結構赤くなってるけど」
「音だけで大した事ないよ。さすが牛沢先生だな。

剣道部より竹刀の使い方が上手いんじゃないのか」

「なんせ牛沢先生だからねぇ」

熊の巨体に似合わない子供っぽい口調で話しながら、雅人はまたクスクスと笑った。
笑うたびに大柄な体が小さく振るえ、細かい動きも全身に纏った脂肪と細かいラインのせいで随分と目立つ。
俺はやってられないとジェスチャーして見せながら、牛沢先生の方を向く。何やら黒板に書き込んでいるところだ。

人の名前だ。“立花 夏樹”と書いてある。女の子のようだ。横に下っ手くそな虎の絵が描いてある。
虎の女の子か。そう言えば、今朝ぶつかった女の子も虎だ。
白い虎。彼女の姿を思い浮かべながら、“夏樹”と言う名前が頭の中を駆け巡る。
牛沢先生は片手で黒板を叩きながら、高らかと宣言した。

「喜べ男子。今日は女子の転校生が来るぞ。道に迷って遅刻しそうだって電話があったが、まぁ一時間目の前には着くだろう」

クラスの男子たちが歓声を上げる。何故このクラスのみんなはここまでノリが良いのか。


静かにしてるのは、元々大声を上げているところすら見たことのない雅人と、
先生のド下手な絵を見ながら物思いにふける俺ぐらいだ。
穴の開くほどその絵を睨みつけてみるが、頭の片隅に引っかかっているはずの記憶は引きずり出せない。
思い出せそうで思い出せない、なんともむず痒い感覚だ。
まあ、あんな下手な絵を見て何かを思い出そうと言う方が無理だ。

俺は諦めて携帯を取り出すと、一時間目が始まるまでの猶予をRPGを使って潰し始める。
月額315円で旧ハードの名作を楽しめるのは中々お得な気がするし、近頃よくやってる。
旧作ゆえのヒント不足で謎解きに困ったりしても、帆崎先生に聞けば一発だ。
近頃のぬるゲーに染まった俺でもストレスを感じずにプレイできる。

俺の後ろでは、雅人が鞄から何か小説を取り出して読み始めていた。
こいつはクラスの図書委員もやってるし、結構な読書家らしい。
以前なんとかという推理小説を大層薦められた記憶がある。漫画と教科書ぐらいしか本を読まない俺は、
挿絵が一ページもない活字だらけの小説なんて読む気がしなかったんで、丁重にお断りしたわけだが。

ピコピコとゲームをやっているうちに、時間はジリジリと過ぎていき、
結局転校生は姿を現さないまま、一時間目が開始されてしまう。
転校初日から道に迷って遅刻とは、結構な方向音痴だな。

チャイムが鳴るのと同時に、いのりんが日本史の教科書を抱えて、
「おはようございます」と丁寧な挨拶をしながら教室へと入ってくる。
みんなが「おはよー!」と返すと、いのりんは笑って頷き、開いたままの扉から、廊下のほうへと手招きをした。
誰だろうかと考える暇もなく、今朝俺と正面衝突した白虎の女の子が、会釈をしながら入室する。
いのりんは彼女を教壇まで連れて行くと、クラス一同を見回しながら説明した。

「彼女が転校生の立花さんだ。さっき丁度職員室に着いたところでね。せっかくだから僕がD組まで案内したんだ」

いのりんの横で、彼女は「立花夏樹です。これからよろしくお願いします」
と当たり障りのない自己紹介をして、クラス一同へとお辞儀をした。

「さてと、じゃあ立花さんにはどの席に座ってもらおうか……」

自己紹介を終えた立花さんに、いのりんが思案顔で話しかける。
立花さんは、足元で尻尾をゆらゆらさせながら、ゆっくりと教室の中を見回した。
その様子を眺めていると、不意に彼女と視線が合わさった。

「……っ」

彼女は少し驚いたように息を呑むと、俺の方へと歩いてくる。
空いてる席は、俺の前と教壇の正面ど真ん中と、廊下側の最後尾。どうやら立花さんは窓際を選んだようだ。

他の空いてる席の隣に座ってる男ども、俺をそんな恨みがましい目つきで見るなよ。
誰だよ「また康太かよ」って呟いて舌打ちした奴。
彼女は俺の前までやってくると、俺へと微笑みかけながら、さもおかしそうに話す。

「同じクラスだったんだ。今日からよろしくね」
「制服違うから別の学校の子かと思ってたよ。今朝はホントごめんね」

話しながら、気を利かせて目の前の椅子を引くと、立花さんは「気にしないでいいよ」と言いながら座った。
雅人が後ろから「知り合い?」と不思議そうに訪ねてくるんで、
今朝曲がり角でぶつかったと答えると、雅人は心底納得した様子で「康太らしいなぁ」と感心していた。


そんな偶然の出来事の何処が俺らしいのか。少しむかついたんで、雅人を無視して視線を立花さんの方へと向ける。
ホワイトタイガー、結構珍しい種族だったと記憶している。俺の知り合いには誰もいなかったと思う。
いや、いたかもしれない。どっちだろうか。

鞄を机のフックにかけている、立花さんの横顔を見ながら考え込む。やはり、その顔に強烈な既視感を覚えた。
何処で見たのだろうか。今朝、起きる前だと気がついたのは、数秒後の事だった。夢の内容は思い出せない。
だが、大きくなった幼稚園のクラスメイトだけは、頭の中に鮮明にフラッシュバックした。
今、目の前にいる立花さんと寸分違わぬ姿が。

「なっちゃん……?」

ぼそりと、それこそ呟くように漏らしていた。この呼びかけに覚えがなければ、
立花さんだって自分への呼びかけとは気付かずに、スルーするだろう。
何年も前の友達を急に思い出した朝、いきなり同じ学校に転向してくるだなんて、
どうせあり得ないような話だし、返事も何も期待した呼びかけではなかった。

だけど俺の見立てはどうやら正解していたらしい。
立花さんの猫科にしては丸っこい耳が、ピクりと震え、驚いている様子も、すぐに表情へと現われた。
立花さんは確認するように、俺の目や鼻や、顔立ちをマジマジと見つめる。
よせやい、恥ずかしいぞ、と言ってしまいたかったが、予想外彼女の表情は真剣で、おどける隙はなかった。

「うそ、康太……?」

仕上げに確認するように問いかけてくる。俺は黙って一つ頷いた。まさか、こんな偶然があるとは思ってもみなかった。
俺が頷いた瞬間、立花さんが勢いよく立ち上がり、椅子が机とぶつかってガタッと激しい音が発せられる。
そのまま振り返って俺の机に両手を置き、詰め寄るような姿勢となる。心なしか目つきも険しくなった気がした。
事実、立花さんの口調は明らかに怒気を含んだものだった。

「康太、何で挨拶も無しに勝手に行っちゃうのよ!あの時私がどれだけ勇気を振り絞って約束したって思ってんの!?
 次の日から幼稚園来なくなって、私のせいかもって、あの後しばらく悩み続けたのよ!!」

な、何の話だ。生憎と俺は幼稚園時代の記憶など、それこそおぼろげにしか思い出すことは出来ない。
それに周囲の目も痛かった。『いきなり何をやらかしたんだ?』と、
好奇の視線が俺と立花さんに突き刺さる。もっとも彼女は気にしていないようだったが。

俺が「あーっと…」とか「えーと……」とか、適当なことを呟き、
何か具体的な事を思い出すまでの時間稼ぎをしていると、立花さんはさらに語気を荒げ、問い詰めてくる。

「あの後康太が家の都合で引っ越しちゃったって聞いたけど、手紙の一つもくれないし、何でよもう!
 康太に嫌われたんじゃないかって、本当に悩んでたんだから!」

幼稚園の時、確かに急に引っ越した記憶はある。だが、もう久しくその時のことは思い出していない。
と言うか、今考えると自分からそのときの記憶から目を逸らしていたんだろうかと、思い至った。
その頃って確か、俺の父親が死んでしまった頃ではないだろうか。
確かローンが払えなくなって新築の家を売り払い、母の実家へと移り住んでいた。


肉親の死去に塞ぎ込み、そういえば誰にも別れの挨拶をしていなかったっけ。
今じゃ全然覚えていないし、今さら思い出しても悲しくなんてならないが、、あの当時はショックだったはずだ。

「ほら、立花さん、落ち着いて落ち着いて。
 佐倉君だって何か理由があるよ。彼の話もほんの少しで良いから聞いてあげてよ」

真相を話すタイミングを捉えあぐねていると、雅人が後ろから立花さんへ言い聞かせるように援護射撃してくれた。
困っている時は、必ず助けてくれるのがこいつのいいところだ。
それに、おっとりしてて体も大きい雅人と話すと、熱くなっている時もいくらか落ち着きを取り戻せる。

人前でこんな話をしなきゃならないのも辛いが、今を逃したら、ずっと立花さんの機嫌を損ねたままになりそうだ。
いのりんが困った顔で、こちらを向いているのも、あえて無視し、彼女へと話しかける。

「仲の良い友達だったのに、何も言わないで引っ越しちゃったのは謝るよ。
 あの時さ、父親が事故で死んじゃったんだよ。俺まだ子供だったしさ、塞ぎ込んじゃったらしくて。
 その、ごめんな。立花さんに嫌な思いさせちゃったよな」

どうにも面と向かって謝罪と言うのは気恥ずかしい。ギャラリーつきでは尚更だ。
ちらりといのりんの方を見やると、雅人がなにやら説明してくれている。
親族の死とか話の内容の重さもあって、どうやら説得には成功したらしく、
いのりんは黙って教壇へ戻り、授業を開始してくれた。

立花さんは、何か言おうとしたが言葉が見つからなかったらしく、黙って席に戻り、普通に授業を受けていた。
どうにも気まずい雰囲気だ。結局、午前の授業が全部終わっても、一言も言葉を交わすことが出来なかった。

目の前に座っているのに、見えない壁に阻まれているようで、酷く居心地が悪い。
休み時間になっても俺の方など見向きもせず、午前中最後の授業が終わり、
昼休みに突入したところで、ようやく俺に声をかけてくれた。
こちらを向いて、まだ表情は硬いまま、とにかく何か会話をしようとしている様子だった。

「ねぇ、康太。私今日弁当持ってきてないからさ、購買部まで案内してくれない?」
「だったら俺と雅人の分けるよ? 今から行ってもコッペパンぐらいしか残ってないだろうし」

一年の教室から購買へ走ったところで、人気の商品は売り切れている。
俺はそう言って弁当箱を取り出し、雅人へアイコンタクトを送った。
弁当を分け合ったり手料理を振舞ったり、気まずい状態を解決するにはこれに限る。
だが、雅人は『分かってないねぇ』とでも言いた気に、巨体を小さく動かして、溜め息をすると、俺の背中を押した。

「僕が席取っとくよ。ゆっくり案内したしてあげなって」
「あ、おう。分かったけど、悪いな雅人」
「決まりね。行きましょ」

立花さんがそう言いながら立ち上がり、俺の手首を掴んで引っ張る。
姉さんに舞に伊織さんに、立花さんまで、どうも俺の周りの女性は、俺を振り回したり引っ張りまわすのが好きだ。
立花さんに連れられて教室を出ると、生徒でごった返す廊下を並んで歩き、購買部へと向かう。

彼女の頼みで、道中遠回りしながら、校舎内を軽く案内していった。
流石に理科室ぐらいまで行くと、昼休みに利用する人も少ないようで、
さっきまで絶えず聞こえていた、ワイワイガヤガヤという雑踏もなくなった。


理科準備室から怪しげな笑い声が聞こえるが、ここは突っ込んではいけないところだった筈だ。

「ん、ねぇ康太」
「どうしたの?」

理科室を過ぎて、いざ購買部へ続く廊下へと出ようとしたところで、不意に立花さんが足を止め、俺を呼び止める。

「さっきはごめんね。康太のお父さんが死んでるなんて知らなかった。
 塞ぎこんで当然だよね。それに苗字も変わってるし、やっぱり色々あったんだ」

「気にしなくてもいいさ。俺だってもう父親ほとんど覚えてないんだし。
 トラウマはずっと昔に克服済み! 6人家族を満喫してるよ」

そう言いながら立花さんに向けて右手の親指を立てて見せると、彼女は楽しそうに笑ってくれた。
10年ぶりに再会した幼馴染との気まずい状態も、ようやく解消されたようだ。
立ち止まって思い出話をしながら、しばらくの時間を過ごした。
雅人を待たせっぱなしで悪いなと思った頃、立花さんが白い毛皮を微かに朱に染めながら尋ねてくる。

「ねぇ、康太はさ……」
「ん?」
「康太は私との約束、覚えてる?」
「へ?」

自分で言うのもなんだが、この一言で場の空気が凍った気がした。
仕方ないだろう? なんせ10年も前の事だし、あの頃は色々大変だったんだ。子供同士の約束なんて覚えていられない。
立花さんが右手を振り上げるのを、俺はぽかんと眺めていた。

――バチンッ!

手の肉球が、ぷにっと頬に当てられることなんてのはなく、派手な音を立てて激しいビンタを食らわせられる。

「もう! 康太のぉ……バカぁぁぁぁあ!!」

バランスを崩して仰向けに倒れる俺をよそに、
立花さんは怒りを表しているかのように尻尾を立てながら、歩き去っていった。
俺は頬を擦りながらゆっくり起き上がる。伊織さんほどじゃないが、
強烈なビンタだ。何か運動部に入っていたのだろうか。

後姿を追おうとも思ったが、明らかに怒っている様子で、鼻息荒く帰っていく立花さんに、声をかけることは出来なかった。
その場で棒立ちになり、深く溜め息を吐いた。女心は分からない。

×××

「今日勉強したところはテストにも出ますからね。
 家に帰った後にも予習をして、しっかりと理解してください」

授業の終了を告げるチャイムが鳴り響くと、英先生は教科書を閉じ、黒板に書かれた内容を示しながら話す。
どうやって立花さんの機嫌を元に戻すか、考えあぐねた結果、気付けば今日最後の授業も終わっていた。
結局、一日中立花さんは口を利いてくれなかった。最後の授業が終わっても、フンッ、と鼻を鳴らして帰っていく。


謝ろうにも、今日は取り付く島も与えてくれなかった。
立花さんの後姿を見送りながら、今日何度目か分からない溜め息を吐く。
がっくりと落とされた俺の肩を、後ろからポン、と叩かれる。雅人だ。

「珍しいね。佐倉君が女の子の機嫌損ねちゃうのって」
「そうかぁ? 女の子って何考えて生きてるのか丸っきり分からない」

俺が机に突っ伏し、「うー」とか「あー」とか唸りながら、頭を掻くと、雅人が楽しそうにクスクスと笑った。
こっちにとっちゃ笑い事じゃない。目の前に座る相手と仲が最悪では、
気が散って授業も頭に入らないし、幼馴染と喧嘩別れなんて、普通に考えて修繕すべき事態だろう。

「だからってなぁ、どうするか……」
「佐倉君なら、普通に話していればその内どうにかなりそうな気もするけど。
 まあ、何はともあれ、まずはこれをお願い」

話しながら雅人の差し出してきたものは、分厚い本だ。
何となく見覚えがあるなと思っていたら、近頃映画化したと、テレビで引き合いに出されていた推理小説だった。
それを読めと言うのか。

「まぁ、所々でおどろおどろしくい雰囲気が滲み出してて、まるでホラーのような作風も、
 予想の全くつかないトリックも良かったし、語り手の適度に無知で人間味溢れる性格描写も好きだったし、
 種明かしの時のカタルシスって奴はもう、凄く面白かったのは確かだけどね。
 でも挿絵が一枚も無い小説なんて、佐倉君は好きじゃないでしょ。
 次のバス乗らないと塾に送れちゃうからさ、代わりに図書室に返しといて欲しいんだよ」

両手を額の前で合わせて「お願い」と頭を下げてくる。
時計を見ると、部活の開始時間までには、まだしばらくある。
図書館で時間を潰しても、伊織さんに怒られはしない筈だ。
今朝は雅人に取り繕ってもらった恩もある。俺は本を受け取って、ゆっくりと立ち上がった。

「次からは自分で返せよー」
「ありがとう佐倉君。じゃ、またね」

雅人が鞄を掴んで席を立つ。俺も一緒に立ち上がって歩き出した。
廊下に出たところで逆方向へと歩き出し、雅人に向けて小さく手を振り、図書室へと向かった。

思えば、場所は知っていても、利用した事は一度も無いかもしれない。
何せ、普段は読書と言えば漫画ぐらいしか読まないし、勉強のために図書館を利用するほど、俺は真面目でもない。
今から帰ろうという生徒たちとすれ違いながら、図書室まで向かった。

扉を開いて、図書室へと入ってから思うが、どうにも静か過ぎて落ち着かない。
こういう物静かな場所も嫌いじゃないが、何処を見ても、放課後まで図書室で勉強したり読書したりしている、
真面目で大人しそうな人たちばかりいる空間は、なんとも俺が場違いに感じられた。

だが、図書室をじっくり見物する機会も、これが初めてだ。今さらだが、少し物珍しくも感じられた。
他の学校の図書館を知らないので、なんとも言えないが、うちの学校の図書館は結構広い。
ライトノベル、参考書、日本文学、海外文学、歴史、サイエンス、様々にジャンル訳された棚を、
何をするでもなく眺めながら、ぐるりと図書館の中を散策する。

分厚い辞典がギッシリと並べられたコーナーへとやって来たところで、ふと小さな女の子が目についた。
茶色い毛皮に、長く垂れた耳。可愛らしいロップイヤーウサギだ。
見たところ中等部、下手すれば初等部の生徒に見えるのだが、
その歳であんなに難しそうな辞典ばかりのコーナーにいるとは、大した子だと言いたくなる。


彼女は高いところにある辞典を取りたいようだが、壊れているのかぐらつく脚立を前に、
困り顔で右往左往していた。舞よりも一回り小さな身長では、図書室は大変だろう。
学校の先輩の役目として、ここはお手伝いしてあげた方が良いかな。
女の子の近くまで行って、出来るだけ優しく声をかける。

「脚立がぐらついて困ってるんだろ? 俺が代わりにとろうか?」
「……あっ…」

女の子は、垂れた耳をピクッと小さく動かしながら、俺の方を見つめ返す。
口下手なのか、俺を見ながら、口をパクパクと動かし、前歯をちらちら覗かせている。
少しの間、そうやって口を動かした後、
胸に抱え込むように持った鞄を握り締め、とても緊張した声でで返事をしてくれた。

「あ、…あの、…っ、ありがとうございます……」
「どういたしましいて。で、どれをとればいいかな?」

俺が本棚を指差して言うと、彼女は小さな手で本棚の一番上の所を指差した。
『類語辞典』と書かれた、ひときわ分厚い辞典が、そこに立てかけられている。

「あの…、脚立を支えてくれれば……。いつもは、一人でとってますし」
「それだけでいいの?」
「は、はい…。その、困り果ててる所だったんです。……あ、ありがとうございます」

俺が脚立に登ってとるよと言っても、そこまでしてもらうのは悪いと、恐縮した様子で首を振る。
初等部でこれほど出来た性格になるとは思い難い。やはり、中等部らしかった。
俺は小さく頷いて、ぐらつく脚立を両手で支え、彼女がその脚立に登って、本棚の一番上の段へと手を伸ばす。

脚立に登っているのに、それでも精一杯背伸びしなくては、届かないようだった。
本の角に指を引っ掛けて、斜めに引き出し、そのまま掴んで引っ張る。
重い辞典が、ずずっと動き、彼女の手の中に納まった。

だが、小さな体ではその慣性を殺しきれなかったのか、彼女の体が大きくぐらつく。
類語辞典を頭上に掲げながら、ふらふらと狭い足場の上で、
酔っ払ったバレリーナのような動きでバランスを取ろうとしていた

「ひゃっ、ど、どうしよ……、ぉ…!?」

そしてついにバランスを崩し、脚立から落下する間際、初めて彼女が人並みの大きさの声を出した。
それに感心するのも束の間、彼女を受止めようと走り出す。
こういう事故の時は、全てがスローモーションに見えると言うが、間違ってはいなかった。
彼女の持った類語辞典が、まるでコマ送りのように、俺へとまっすぐ落ちてくる。

避ければ、彼女が怪我をするかもしれない、だが、避けなければ俺が痛い思いをする。
男なら、迷わず彼女を受止めるべきなのだろうが、
一瞬迷ってしまった俺には、中途半端に体勢を整えるしか出来ない。

――ガツンッ

額への強烈な一撃。そのまま体勢を崩し、今度は後ろの本棚で頭をぶつけ、
胸の上にあの子を乗せたまま、ズルズルと尻餅をついた。
視界がぼやける。目を開けても、あの子の顔がよく見えない。

「あ、ご、ごめ……ごめん、なさい……、私……!」

慌てふためく声をぼんやりと聞いたが、最後まで聞き終える前に、すうっと意識を失ってしまった。

×××

目を開けると、カーテンで区切られた保健室のベッドで横になっていた。
未だに鈍痛のする額を右手で擦ると、大きな絆創膏が貼ってある。
どうやら角をぶつけられたらしい。絆創膏の上からむにっと押してみると、酷く痛かった。
ベッドの横のハンガーには、俺のブレザーがかけられている。
ブレザーのポケットに手を突っ込んで携帯を取り出し、時間を見ると、もう部活の始まっている時間だ。

「やばっ……」

思わず口に出して呟く。それに答える声が、カーテンの向こうから聞こえた。

「心配ないよ。牛沢先生には、佐倉は今日部活を休むと伝えておいた。
 まあ、心配ないだろうが、今日一日運動は避けておけ」」

カーテンが、ざっと音を立てて開く。白先生が俺の目の前に立っている。
それに、あの図書館の女の子が、「生まれてきてごめんなさい」とでも言いたげな表情で、ちょこんと椅子に座っていた。
白先生が、そのこの方へ振り向きながら話した。

「な? 佐々野。おまえは心配してたけど、軽い脳震盪だよ。
 マイナス思考も大概にしておけ。さっきまで、それこそこの世の終わりみたいな顔をしてたぞ」

「……すみません。でも、佐倉さんが無事で、本当に良かったです……」

彼女は、幾分か安堵した様子で、表情も少しだけ柔らかくなった。
だが、まだその表情に陰りが残っていることに変わりは無い。
白先生の言うとおり、元々マイナス思考の強い子なのだろう。
俺は右手の親指を立てて、彼女へと向けて見せながら、にっこりと笑ってみせる。

「本当にもう平気だよ。心配してくれてありがとうな。嬉しいよ」

彼女は少しだけ照れた様子で、カァーッと頬の毛皮を朱に染めて俯いた。胸には、俺の額を強打した辞典を、未だに抱えている。

「あの、本当にすみませんでした……、私……」
「いいって、いいって。俺の方こそ、手伝うつもりで、返って手間かけさせちゃってごめん。
 妹と同じくらいに見えたからさ、ちょっと頼もしいところ見せたくなっちゃってな」

俺が苦笑しながら頭を掻いて言うと、話を聞いていた白先生が、
もう我慢できないと言った様子で、クスクスと笑い出す。

一体どうしたのか、俺がそちらへ視線を送ると、口元を片手で押さえながら、「すまん、つい…ククッ…」と、返す。
何がそんなにおかしいのか。首を傾げていると、白先生が使われる、その理由を教えてくれた。

「なあ佐倉、先輩相手に、その態度はないんじゃないのか?」
「せ、先輩……?」

まさか、俺と同じ年代のウサギの女の子だって、もっと大人びた姿の筈なのだが。
俺があのこの方を向くと、彼女は恥ずかしそうに頷いて、自己紹介をしてくれた。

「あ、私、高等部3-Cの、佐々山静香っていいます……」
「あちゃぁ、すみません。何だか年下相手にするみたいな話し方しちゃって」
「そんな、あの、私……、敬語なんて使ってもらえるようなのじゃ、その……、ないですし……
 で、出来れば…、さっきまでみたいに……、話してください……」

「そうか。じゃあ、今日はごめんな。佐々野さん」

俺が笑顔で返事をすると佐々野さんは、また恥ずかしそうに頷いた。
白先生が、そんな彼女の頭に手を置いて、わしゃわしゃと撫で付けながら話す。


「まあ、見ての通り内気な奴で、こんな引っ込み思案だからな。友達も少ないんだよ。
 こいつ文芸部の部室か図書館に篭ってばかりだから、たまに話し相手になってやれ」

「せ、先生……!」
「フフッ、悪い悪い。これでも、おまえが友達一つ作らず卒業してしまうのが嫌なんだよ。
 まあ引っ込み思案で根暗な所もあるけど、優しくて良い奴なんだ。
 佐倉、これも何かの縁だと思って、友達になってやってくれ」

佐々山先輩は、これ以上ないほど身を縮こまらせて、垂れた耳をプルプル震わせている。
白先生にも、その姿はとても可愛らしく映るようだ。本当に、年上とは思えない。舞と話しているような気分だ。
俺は、ベッドから降りて、ハンガーにかけられたブレザーを羽織ると、
白先生に会釈して、佐々山先輩の所まで歩いていく。
目の前で中腰に屈みながら、右手を差し出した。

「じゃあ、よろしく佐々山先輩」
「よ、よろしく……。佐倉君……」

佐々山さんが、恥ずかしそうに返事をしながら、俺の手を握り返してくれた。とても小さい手だ。
彼女の方を見ると、口をもごもご動かして、何かを口篭りながら、手を引いた。
そして椅子から立ち上がり、白先生と俺へ、丁寧にお辞儀をする。

「じゃ……あの、私……部室行かなきゃ……」
「何か部活してんの?」
「あ、その……文芸部に…。さ、佐倉君も、気が向いたら……遊びに来て……」
「文芸部かぁ。読書好きな友達いるし、そいつ連れて遊びに行くよ」

佐々山さんは、「失礼しました」と、扉を閉めるときも丁寧にお辞儀をし、保健室から去っていった。
俺も、今日は早めに帰って、少し手の込んだ晩御飯でも作ろうか。
事故とは言え部活も休んでしまったし、部活帰りの伊織さんへの差し入れもおいた方がいいかもしれない。
そう思うと、俺だってあまりゆっくりしている時間は無い。
だけど、佐々山さんの事を少し聞いていく時間ぐらいはある。

「白先生、佐々山さんと仲が良いんですか? 随分親しげでしたよね」
「まぁ、何だ。佐々山は去年まで、ほとんど不登校でな。
 何とか保健室登校まで扱ぎ付けて、最近やっと授業にも出てくれるようになった。
 よくあいつの相談に乗ったりしてたが、そのお陰かな。私の事をとても尊敬して、慕ってくれてるんだ。
 そりゃ、愛着も湧くさ。……それに、可愛かっただろう?」

白先生が、意味ありげにそう尋ねてくる。
それは、当然佐々山さんは可愛いが、何でそれをわざわざ尋ねるのか。
書類の詰まれたデスクの上にある、冷めたコーヒーを啜ると、白先生はまた話し出す。

「だけど、あいつには友達もいないし、私だっていつも、いつまでも、助けてやる事は出来ない。
 正直、今日のは本当に何かの縁じゃないかって思う。おまえなら人当たりも良いし、良い友達になってやれる。
 おまえを通じて交友の輪が広がれば御の字だ」

「何だか、計算高いんですね……」
「生徒のためを思えばの、合理的な考えだよ。
 これでも保険医なんだ。悩みを抱える生徒は山ほど見てる」

白先生は何か憂うような、何処か寂しそうな表情を浮かべた後、取り繕うようにに笑った。
俺も笑い返す。他の反応がどうにも思い浮かばなかった。

「あまり白先生と話したことありませんでしたけど、やっぱりこの学校の先生は、良い人たちばかりです」
「迂闊に褒めるなよ。いくら良い先生でも、図に乗る奴も結構いるからな」

サン先生の顔が頭に浮かび、俺は思わず苦笑した。

「そうします。じゃあ、お疲れ様」
「ああ、お大事にな」

俺は会釈をして保健室を後にする。今日は色々な事があった。少し疲れたな。晩飯はスタミナ系にするか。


続く?