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昔話 ~小さな体の深い歴史~


「小さい生徒が真似をして怪我でもしたらどうするおつもりですか!
 生徒の安全を守ってこその教師でしょうに。あなたは教師としての自覚が足りません!」
「はい…はい…まったくもってその通りでございます…」

夜の職員室に、英語教師、英のよく透る声が響き渡る。声を一身に浴びているのは正座で俯く数学教師、サン
いつもの陽気はどこへやら、今の彼は雨にうたれる子犬のよう。
よくある光景ではあるけれど、今日は特に長引いているようだ。
もう職員室に残っているのはその二人と、資料整理に追われる泊瀬谷教師だけだった。

「聞いているんですか!ですからあなたは!」
「はい…身につまされるお話でございます…」
「お…お先に失礼しまぁす…」

さすがにいたたまれなくなったのか、片付けもそこそこに泊瀬谷教師が逃げるように職員室から出ていった。
残ったのは二人だけ。それからも説教はしばらく続いていた。

「わかりましたね!?」
「はい、それはもう身に染みて…」
「では…ここまでとします」
「…はい」

カツ、カツ、と自分のデスクへ戻っていく彼女を見て、サン教師は安堵の溜息をついた。

帰り支度をしていて、サン教師の様子がおかしいことに気づいた。
先程と同じ姿勢のまま、難しそうな顔で悩んでいる。

「どうしましたサン先生。もう結構ですよ?」
「はは、いやあ、それがですね…やはり正座というものは私の脚には向かないようで。
 お恥ずかしながら、ひどく痺れてしまって。脚の感覚が無いんです。
 動かせず、かと言ってこのままでは何も変わらずどうしたものかな、と」

「動かせずって…全くですか?」
「はい、さっぱりです」

まったくどうしてこうあなたは…
まるでいい大人には見えないサン教師に対して、内心説教を続けながらも
英教師は自分にも責任があることを感じていた。
次からは座布団の一枚くらいは許可してあげようと思う。いや次があっても困るのだけれど。


「…ふぅ。仕方ありませんね。サン先生、ちょっと持ち上げますよ」
「いやあ、助かります。そちらの椅子に座らせてもらうと嬉しいです」
「はいはい、わかりましたよ」

屈みこんで、脇から手を入れて。女性の英教師でもそれほど負荷なく持ち上がった。
成獣男性とは思えない程軽い。本当に少年のようだ。
近くにあった椅子にトンと座らせ、自分も向かいの椅子に座って一息ついた。

「ありがとうございます。英先生、意外に力がありますね」
「あなたが軽いんですよ。しっかり食事とってますか?」
「ははは、ただの個人差ですよ。ぼくはよく運動もしてますからね」
「運動は良いことですけど、生徒が真似するような危険なことはしないでくださいよ」
「ええそれはまあ…勿論…」
「………」

サン教師のいまひとつ歯切れの悪い返事に若干の諦めを感じながら、英教師は黙って席を立つ。
職員室の一角に常備してある茶道具一式から、テキパキとお茶を入れて席に戻った。
急須から熱い緑茶が二つの茶碗に注がれる。

「どうぞ。少し経てば痺れも治まるでしょう」
「いやいや、これはどうも、何から何までお世話になってしまって」
「大したことじゃありませんよ」

両手でちょこんと茶碗を持ち、眼鏡を白く曇らせながら、ふぅふぅと息を吹きかけるサン教師。
そんな姿を見て、英教師がふと問いかけた。
そう深い意味などなかった。少し聞きたくなった、それだけだ。

「ひとつ、お聞きしてよろしいですか?」
「はい?何でしょう」
「あなたはどうしてそう……若々しくあるんでしょうか」
「…ふふ。子供っぽい、と、そう言ってくれて結構ですよ。自覚はありますから」
「いえそんなつもりは…まあ…そうですね」
「あちゃー、言われちゃいました! 面と向かって言う人なんてまずいないんですけどね」

あなたから言ったことですよ!?と、慌てて答える英教師を見て、サン教師はさも楽しそうに笑った。


「ははは。まあ、性格のことを聞かれてもねえ。どう答えたものか…どうしてそんなことを?」
「私は…そうですね…。
 私はどうやら、生徒に苦手とされることが多いんです。サン先生は生徒から人気ですよね」

「ええまあ、そうかもしれませんね」
「人気ですよ。生徒に好かれるのも教師として大切なことです。
 私も若い頃に比べて、考えが固くなってしまっていることは自覚しているんです。
 これからもそうなっていくと思います」

「そうなんですかね」
「ですからサン先生ほどではないにしても、若い心を保つ何かがあるのなら、それを知りたいんです」
「はー。なるほど…」

サン教師は腕を組んで上を向き、少し考える素振りを見せた。
そして、ポツリと出たのは意外な言葉だった。

「子供の頃のぼくは、どちらかというと内向的で無口だったんですけどね」

それはどういうことか、問いかける英教師を静止して、サン教師はもう一度考える。
やがて何かを決心したように、うん、と呟いて前を向いた。

「少し、昔話をしましょうか」

サン教師の意図を察して、英教師は黙って頷いた。


「フリードリヒは…大人しい少年でした」


静まり返った夜の職員室で、サン教師は静かに語り始めた。


フリードリヒは大人しい少年だった。

ドイツのとある名門家のひとり息子である父と、平民の身分であった母との間に生まれたのが彼、フリードリヒだった。
身分違いの恋のこと、障害はあまりにも多く、世間の風は厳しく、両親の心と体を蝕み続けた。
彼が物心ついたときにはもう、彼の両親は存在しなかった。

親に代わり彼を育てたのは、乳母だった。少年時代、ずっとそばにいたのが彼女だった。
彼女は清廉で愛情深かったが、規律を重んじる性格で、子供に対しても厳しくなることが多かった。

「厳しく躾けられたことで内向的に?」
「いえ、確かに乳母の影響ではありますが…それとはちょっと違うんです」
「…?」
「フリードリヒは元々、それほど問題児ってわけじゃないですからね」

彼は、彼女の笑顔が好きだった。彼女はいつも彼を優しく見守っていた。
彼が規律を守っている限り、彼女はいつも優しい笑顔を見せてくれた。

しかし、フリードリヒはまだ子供。規律を破ってしまうこともある。
彼を厳しく叱咤する彼女はあまり見たくなかった。

そしてある夜、より厳しい祖父が彼女を叱咤している場面を目撃する。
彼女は、全て自分が悪いと、フリードリヒを庇っていた。
悪いのは自分なのに、彼女が責められる。そんな理不尽があってはいけないと思った。
しかし幼い彼に、大きな行動はできなかった。
せめて規律を守る良い子でいようと、彼はそう思った。

「活発でやんちゃ盛りな子供時代に、そんなことを考えてたんです。内向的で無口って感じにもなります」
「なんだか…ずいぶんと大人びていたんですね」
「そうですね。フリードリヒはそういう少年だった。ま、そんな話です」

少しぬるくなったお茶を飲み干して、トンと茶碗を置くサン教師。
英教師は慌てて急須からお茶を注ぎなおした。ここで話が終わってしまいそうな雰囲気だったからだ。
そんなことお見通しと言わんばかりに、サン教師がニヤリと笑う。

「おやぁ、どうしました?」
「…いえ、続けてください」
「心配しなくていいですよ。ここまで話したからには最後までお話しします」
「そう…ですか」

英教師はホッと息を吐き、自分の茶碗にもお茶を注ぎなおす。
視界が曇ること嫌ってか、サン教師は眼鏡を外してお茶をすすっていた。


「フリードリヒは…本当に彼女のことが好きだったんですね」
「ええ、そうですね」
「本当の母親のように慕っていた」
「……母親…いや…」
「…? どうしました?」
「それもまた…ちょっと違いますね」
「違うとは?」
「彼女は…」

彼女は亡き両親ののことを、特に母親のことをよく語ってくれた。
本来、彼女が母親を知る理由はないのだが、どんな偶然か、彼女と母親は交友関係にあったらしい。
結果的に、幼いフリードリヒを親友に託した、という形になる。

だから、フリードリヒは見たこともない両親のことをよく知っていた。
彼女の話の中の両親は、誇れる父であり、母であった。

彼女は母ではない。母とは別の存在だった。

「そして当時の彼にとって、誰よりも大切な存在で」

そう言って、ふっと遠くを見る彼の横顔は

「あの人の笑顔が好きだった」
「あの人が悲しむ顔は見たくなかった」
「あの人と、ずっと一緒にいたかった」


「あれは、恋だったんだ」


普段の彼とは違う、もう一人の彼の顔だった。


静寂の音が聞こえる。そんな静寂を破ったのは彼だった。

「驚きました? まあ、子供の初恋の話です」
「…それで…あなたはどうしたんですか?」
「どうもしませんよ。子供の頃の話です。それに…あの人はもういない」
「えっ? 彼女は」
「話を続けましょう」

数年後、フリードリヒは祖父の意向でギムナジウムの寄宿舎に入れられることになった。
当然、彼女と離れたくない彼は強く反抗した。しかし、祖父の下した決定が覆ることはなかった。

何よりも、彼女がそれを望んでいた。

彼女は、フリードリヒが自分に依存していることを懸念していた。もう自分の存在は、彼の成長の邪魔にしかならない。
彼が自分から離れて、たくさんの人と出会い、広い世界を知ることを望んでいた。

彼女もまた、フリードリヒと離れたくはなかっただろう。
それでも、彼女は彼の将来を思い、いつも通りの優しい笑顔で彼を送り出した。

ねえフリード。寂しがることはありませんよ。
これからあなたは、たくさんの出会いがある。何でも知ることができる。
あなただけの、たった一度の人生なのだから。悲しむよりも楽しみなさい。
私はいつだってここにいる。辛くなったらいつでも帰ってきていいんだから。
さあ、いってらっしゃい。

「別れる直前の、あの人の言葉です。僕はずっと覚えてる」
「彼女とは、それが…」
「ええ、それが最後でした。あの人はもういない」

「僕も気付いてた。もう会えないんだって。
 僕の成長に、自分は邪魔にしかならない。あの人はそう考えたんだ」
「悲しいですね……」
「……」

でも、あの時代もまた、僕にとってかけがえの無い時代だったんですよ。
そう言って、小さく笑う。

僕は恵まれていた。友人に。教師に。

ギムナジウムで出会った友。一生に一人と言っても過言ではない、そんな親友。

孤独な僕に手を差し伸べてくれた。僕の世界を変えてくれた。
彼に倣って彼のように陽気に振る舞った。最初こそ、寂しさを紛らわすための手段だったのかもしれない。
でも彼と長く過ごすうちに、そうあることが自然となり。やがてそれは僕自身になった。

数学を担当した教官。あらゆる場面で気にかけてくれた恩師。

広い教養を持っていた。僕に数学の楽しさ、奥深さを教えてくれた。
それだけではなく、世間知らずだった僕にあらゆる知識を授けてくれた。
広い世界。社会。人の心。教師としては誉められないようなことまで、彼は教えてくれた。
祖父の反対を押し切って、数学を専攻し大学へと進めたのも、彼の力が大きかった。

「遅れてやってきた少年期、とでも言いますかね。サン・スーシは、あの時代に生まれたんだ」


本来、卒業後は家に戻る約束だった。
でも、あの人がいない家に戻って、一生を過ごす。そんなこと考えられなくて。
結局僕は家に戻らなかった。家のことは、親友が引き受けてくれた。

ここではない、どこか遠くへ。しかし行くあてのない僕を、教官が助けてくれた。
彼の紹介でやってきたのが、この国。この学園だった。

親友と教官にはお世話になりっぱなしですよ。
そう言って、彼は微かに笑う。

「逃げるようにやってきた。結局のところ、偶然。今ここにいる僕だけど…」

「この学園で、帆崎先生や白先生、猪田先生や泊瀬谷先生。
 いろんな個性のある、気の合う仲間たちと出会えた」

「中には困った子もいるけど、たくさんのかわいい生徒達と出会えた」

「それに……」

言いかけて、顔を向ける彼の視線と、英教師の視線が重なった。
普段の彼からは考えられないような視線に、トクンと心臓が鳴る。

「…いや」

少し考えて、彼は目を伏せた。そこで考えた何かは、言わないことに決めた。

「僕の話はここまでです」

「そう…ですか。ありがとうございました」

少し残念に思ったものの、それを聞き返すようなことはしなかった。


「でも…よかったんですか? 人に聞かれて、おいそれと話すような話ではなかったのでは」
「そうですね。この国に来てから、ここまで人に話すのは初めてです」
「…!? ならなおさら私に話すようなことでは」
「いえ、英先生」

少し見上げる彼の瞳が、まっすぐに英教師を見据える。

「あなたには話していい…いや、あなたには知っておいてほしいと。僕はそう思ったんだ」

「え…それは…どういう…」


長い沈黙。

彼の横顔からは、その心を探ることはできない。


「フリードリヒ…あなたは…」

「…いや」

彼が、外していた眼鏡をかけなおす。

「ぼくはサン・スーシ。陽気な数学教師ですよ」

眼鏡の奥の瞳は、いつも通りの陽気なサン教師のそれだった。


痺れていた脚の具合を確認し、椅子からトンと飛び降りる。

「やあ、ずいぶん遅くなっちゃいましたね」
「え、ええ、そうですね」
「お茶、おいしかったです、ありがとうございました。遅くまで付きあわせてしまって申し訳ない」
「いえ、こちらが聞いたことですので。こちらこそありがとうございました」
「では英先生、ぼくはお先に失礼します」

帰り支度の済んでいたカバンをひょいと持ったところで、サン教師は動きを止めた。

「そうそう、英先生」
「なんでしょうか」
「今日の話、みんなには内緒ですよ」

口に指を当てて合図するサン教師は、本当に少年のようにしか見えなかった。


離れていく小さな背中。やがてその背中が扉の奥へ消えて、彼女はポツリとつぶやいた。


「サン先生。フリードリヒ」


「本当のあなたは…どっちなんですか…?」


虚空への問いかけに、答えるのは静寂だけだった。


<おわり>