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内助の功


「はぁ……」
昼休み、職員室のデスクの上に、普段よりも小ぶりの弁当箱を置きながら、いのりんは珍しく大きな溜め息を吐いた。
普段は生徒を指導する身として、無闇に人前で弱気になったりはしないのだが、
今回だけは、落ち込んでいる様子を隠さない。

弁当箱の蓋を開けると、中に敷き詰められているのは、肉類を一切省いた、山菜などの低カロリー食品だ。
妻の心遣いは素直に嬉しかったが、この内容の弁当では、テンションが下がるのも当然だった。
箸を進める気にもならずに、ぼんやりとその弁当を眺めていると、職員室の扉がガラリと音を立てながら開く。

ヨハン先生に泊瀬谷先生に帆崎先生、昼前の授業を終わらせて、食事をしに職員室まで来たようだ。

「へぇ、ヨハン先生が昼休みこちらに来るなんて珍しいですね。いつも女生徒たちと昼食を食べてるでしょう」
「たまには教師同士の付き合いもまともにしろと、煩いのが一人いましてね」

不思議そうに問いかけるいのりんに、ヨハンはにこやかな笑顔を浮かべながら答え、帆崎を指差した。

「俺は正論を言ったつもりなんだけどな」
「分かってないな。生徒たちと至福の時間を共有する事が、教師としての本分ではないのかね」
「お前に正論言った俺が馬鹿だった」

帆崎は『やっていられない』とばかりに、気だるそうに首を左右に振り、ヨハンへの問答を終わりにする。
昼休みは長くはないのだ。時間を無駄にするのは良くない。
二人の意見を真剣に考え込んで、少し悩んでいる様子の泊瀬谷先生を尻目に、いのりんの机へと向かう。

「い~のりん、今日もちょっとばかし……」
誰かにお願いする時の、文字通り猫撫で声で帆崎が言う。視線は机の上に乗せられた、弁当箱へと向けられている。
いのりんはいつも重箱いっぱいの、大量の弁当を持ってくる。
しかも専業主婦の作る家庭の味は、間違いなくそこらの総菜屋で売ってる物より上等だ。

そして重要なのは、いのりんの性格だ。別に工夫をする必要はない。
昼食中のいのりんに向かって、「今日も美味しそうですね」「それなんですか?」。
それだけで分け前は確実にもらえる。
一人が言えば、周囲の3,4人まで恩恵に預かれる。自前の弁当にもう少し彩を加えたい時、
何となく物足りない時、一部の生徒や教師から、いのりんは密かに頼りにされていた。

だが、今回はいつもと反応が違う。いのりんは少し申し訳なさそうに笑うと、
「今日は無理なんですよ。ごめんね」と言った。
「えー、いのりんの奥さんが作るから揚げ、俺好きなんだけどなー」
「分けてあげたいのも山々なんだけど、肝心の弁当がね」

そう言いながら、いのりんは三人からよく見えるように弁当を持ち上げる。
いつも持ってきていた重箱山盛り弁当とは、似ても似つかない質素な弁当だ。

これは確かに人に分けてやれる余裕もなければ、進んで分けてもらいたいと思うほど、目を引く料理も入っていない。
低カロリー高タンパクを徹底した、味気ない料理が詰め込まれている。
確かに健康には良さそうだ、よさそうなのだが……。


「あの、猪田先生、何かあったんですか……? つい先週まで重箱だったじゃないですか」

明らかに落ち込んでいたいのりんの声色もあって、泊瀬谷が心配そうに訪ねる。
ヨハンと帆崎も、気になっている様子で聞き耳を立てた。
いのりんは小さく頷くと、ぽつりぽつりと語りだす。

「先週の日曜日、子供に予防接種を受けさせるために病院へ行ったんだ。
そのときに、ついでのつもりで夫婦で健康診断も受けたんだよ。
家内の方は、何も問題はなかったんだ。問題は僕の方にあってね。
高カロリーの食品は控えた方が良い、野菜を増やした方が良い、
これ以上揚げ物を食いすぎると、冗談抜きに血管が詰まるって……」

一同の視線が、ワイシャツのボタンを千切ろうかと言うほど出っ張った、いのりんの腹に向かう。
確かに、もう若くもないし、この体系で毎日毎日高カロリーの弁当を大量に食べていれば、
医者にそう言われても仕方があるまい。

「それでね、あの、家内のスイッチが入っちゃったらしくて、ヘルシー料理の本とか買ってきて。
子供たちにはいつも通りの美味しい弁当を作ってるのに、僕だけ特別に低カロリーに徹した薄味の料理を……」
あぁ……、同情すれば良いのか。「素敵な奥さんですね」と羨ましがれば良いのか、反応に悩むところだ。

だが、幸いな事にその場にはヨハンが居た。女性関連の話ならば、周りが黙ろうがいくらでも喋ってくれる人だ。
泊瀬谷と帆崎がいのりんのフォローに回る必要はなかった。

「いい奥さんじゃないですか。夫の体を気遣って新しいレシピ本まで買って頑張って料理なんて。
何回かお会いしましたが、二人も子供が居る割りに見かけも若くて素敵な方でしたし」

学園祭の時、いのりんが忘れ物をした時、忘年会の帰りに泥酔したいのりんを迎えに来たとき、
会った回数は多くないが、他の先生への挨拶もしっかりしていたし、記憶に残っている。

「うん。そこは僕も感謝してますし、そう言ってもらえると嬉しいですよ。
……ヨハン先生に言われると、どことなく不安な気がしますけど」
「心配しなくたって、こいつにも人として最低限の倫理観ぐらいありますよ」
「失礼な。仮にも教師である僕が、並以下の倫理観しか持ち合わせていないようじゃないか」
「違ったのかよ、おい」

いのりんが苦笑いを浮かべながら言うと、帆崎が面白そうに返した。ヨハン自身の言うとおり、仮にも教職なのだ。
帆崎も彼が本当に最低限ながら倫理観を持ち合わせているのを否定はしない。

「へぇ。ヨハン先生って、女性なら誰にでも声をかけるってイメージがあったんですけど、意外な一面ですね」
「はは。僕もさっきまでそう思ってました」
「泊瀬谷先生に猪田先生まで……。僕の愛は人を傷つけるような事はしないというのに」
「こんだけ説得力なくて白々しい言葉もそう聞かねーよな」

帆崎がそう呟くと、ヨハン以外の3人でクスクス笑いが始まってしまう。
ヨハンは困ったように笑いながら、小さく溜め息を吐いた。
教師陣が相手だと、どうにも場の雰囲気を作ったり、自分のペースを維持したりが出来ない。

珍しく弱気な態度のヨハンを見て、帆崎もしてやったりと言った表情を浮かべている。
その後4人でひとしきり談笑をすると、弁当のおかずを交換しながら、和気藹々と昼食を済ませた。
職員室の中は、いつもどおり明るく笑い声に溢れている。