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コーヒーと保健室


ぼくが気付いたときには、保健室のベッドの中にいた。
そう言えば、「ヒカルくん!ヒカルくんがあ!!」って声が微かに聞こえた気がする。
お昼休みはとっくに終わっているのだろうか。
被さる布団を上げて起き上がろうとすると、シロ先生が無理するなとぼくを諌める。

「……ぼくは」
「ヒカル、聞いたぞ。風邪気味なのに無理してたなんて」

キャリアウーマンである母の出張が長引き、物書きをしている父と二人で家を守っている今。
人の良さだけがとりえの父は、ぽんぽんと安請け合いで仕事を引き受け、
椅子に根を生やしてしまったようにPCの前に座り続ける。
自分で自分のことを苛めているようにぼくには映る。しかし、父は笑いながら物書きに没頭する。

「ははは。わざわざ仕事を持ってきて頂いたのに、断っちゃ悪いよね…ヒカル」
それで、ぼくが家事を任されたのだが、このところの季節の変化についてゆけず、体調を崩してしまった。

父も心配をしていたのだが、学校だけは行っておきたいと父を振り切って、重たい身体を起こして家を出た。
しかし、そんな傷だらけの身体で無理して登校したぼくがバカだった。

「保健委員の…ほら、アイツが『ヒカルくんが図書室の前で倒れたッス!』って慌てていたぞ」
「…ぼく、ゴホン!!」
「無理するな。鼻も乾いているし、毛並みのつやが無いのを見れば、素人でもすぐ分かることだぞ」

シロ先生に言われてぼくの鼻を触ってみると、確かに濡れていない。ふと見た手の毛並みも酷いもんだ。
頭がくらくらして周りが見えていなかった。
それにかまけて、自分のことをずいぶんとなおざりにしていたのがよくわかる。

棚に置いてある魚の形をしたシロ先生の置時計は、
「お前は今、泊瀬谷先生の授業をすっぽかしているぞ」とぼくを責め立てる。


「そういえば…あの…」
シロ先生はコーヒーを入れながら、ぼくが聞こうとすることを答えてくれた。

ぼくの考えていることを見抜くシロ先生は、隙が無い。サイフォンの声だけ響く保健室にシロ先生の声が加わる。
先生曰く、ぼくが倒れたお昼休みに『保健委員のアイツ』が、
ぼくをここに連れてきたあと、ぼくのことを心配しながら
授業の為に教室に戻ったとのこと。そのときのことは、全く記憶が無い。非常に歯がゆい。

小さい体でここまで連れて来た『アイツ』に布団の中で感謝していると、「アイツは本気の目をしていた」と、
ぽたぽたと雫をたらすサイフォンを覗きながら、『アイツ』のことをシロ先生は振り返る。
もうすぐ、授業を終わらせる鐘が鳴る。

シロ先生は、先生の愛用する魚の絵のマグカップにコーヒーを注いでいると、ふと思い出したように呟いた。

「ヨハンのヤツ…、忘れてるんじゃなかろうか。
わたしの読んでいた詩集が読みたいって言うから持ってきたのに。一週間待ったぞ。
…ふう、ずいぶんとほったらかしにされたもんだな、わたしも。ヒカル、わたしは少し外に出るから」

用を思い出したのか、マグカップを置き、ぽんと机に置いてあった一冊の本を軽く叩き、
ガラリと保健室の扉を開けて表に出て行った。
シロ先生が外に出た隙に、ぼくは重い身体を起こし机の上の本に目を向けると、見覚えのある名前が飛び込む。

『いぬがみゆたか・詩集』
そう、いぬがみゆたか・犬上裕はぼくの父だ。
ヨハンは、知ってか知らずかぼくの父の本を読みたいと言っていた…か。

ヨハンのことだ。きっと尻尾を振って、出任せにシロ先生のご機嫌でも取ろうとしたんだろう。
そんな発想、ぼくにはない。
ただでさえ頭がぐらつくのに、ヨハンのだらしなさを思い出すと、余計に頭が痛くなってきた。
ヨハンも父の本のことなんか忘れているに違いない。ヤツはああいう男なんだ。


再び、扉の音が聞こえる。シロ先生か?いや、足音が違うことぐらいイヌ族なら直ぐに分かる。

「ははは!ヒカルくんも、医学の神・アスクレピオスも裸足で逃げ出すと言うシロ先生に診て頂いて果報者だな!」

あの能天気な声はヨハンだ。こんなところではち合うなんて、今日はとことんついてない。
やはり、ヤツの声を聞くと頭が痛い。いや、その上を行く『頭』の『頭痛』が『痛い』…か。
そんなくだらないことを考えながら、ヨハンに背を向けて布団を頭の上まで被る。
尻尾が寒い。ベッドからはぼくの尻尾だけがはみ出しているけど、面倒くさいので引っ込めない。

「ヒカルくんは、なかなか面白いね。白いイヌだけに…」

涙を誘うくだらな過ぎるヨハンの言葉を耳にしたので、急いで尻尾を引っ込める。
布団の隙間からヨハンの様子をこっそり見ているとヤツはコーヒーの香る保健室に入ってきて、
机の上の『いぬがみゆたか・詩集』を拾い上げ、ぱらぱらとページを捲っていた。
長い髪を揺らしながら、その本を心底嬉しそうに眺めるヨハンは、少女漫画に出てくるようなワンシーンに見えた。
もっとも、少女漫画のことはよく知らない。しかし、ヤツから放たれる何かは、そういう感じがするのだ。

「この作者の本はね、読んでいてとても豊かな気持ちになるんだよ。作者が『ゆたか』だけにね」
「……」

「いや、冗談で言っているわけじゃないよ。ぼくが好きなのは、作者の人柄のよさがよく現れているところだね。
言葉遣いが実に面白い。
そして、砕けすぎず固すぎず…ぼくは好きだな、この人の文は。作者は何かの縁できみと同じ苗字だ。
一度、きみも読んでおくことをオススメするね。女の子を誘うときのセリフの参考になるかもね」

……こんな本、家に何冊も山積みになっている。同じ本が何冊も部屋を埋め尽くしている。
きっと、ヨハンは知らないのだろう、『いぬがみゆたか』がぼくの父であることを。
しかし、父の『人の良さ』だけは完全に見抜いてしまったヨハンの嗅覚には感心。
言の葉だけでの書いた者のことを見抜くヨハンは、隙が無い。


「ヒカルくん!」

飛び込んできたのは、授業を終えた泊瀬谷先生。抱えている出席簿が息苦しそうでもある。
シロ先生曰く、ぼくが休み時間にぐっすりと寝込んでいるとき、一度保健室にやってきたらしい。
が、休み時間が終わってしまい、先生は保健委員の『アイツ』と一緒に、授業の為に教室へ。
そして、再びここに戻ってきたのだ。

泊瀬谷先生の柔らかな手のひらがぼくの額に触れる。しかし、泊瀬谷先生のことを心配
させるような感覚がする。
動揺してか隠れているはずである泊瀬谷先生の爪が、ぼくの額に突き当たっているのだ…。
ヨハンは見かねたのか、泊瀬谷先生の肩を叩きいつものように、歯がゆい言葉をかける。

「泊瀬谷先生、ご心配なく。ヒカルくんの毛並みは、みるみるうちに光りを取り戻しています。
先生もお疲れでしょう。ささ、先生の為にコーヒーを入れておきましたよ。冷めないうちにどうぞ」
まだ湯気の立てている、魚の絵のマグカップを泊瀬谷先生に差し出した刹那、再び保健室の扉が開き、声が響く。

「それは、わたしのコーヒーだ!!」


おしまい。