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スレ3>>205-208 おうちにかえろう


太い爪、硬い毛に覆われた大きな肉球のてのひらの上で銀紙に包まれたアーモンドチョコレートを転がしてみる。

二時間目の休み時間、教室に顔を出したら入り口の横の席で少女たちがチョコを頬張っていたのだ。
もちろん学校にお菓子を持ってきてはいけない決まりだ。とは言え、
学校への坂道のふもとにコンビニが有れば生徒達はお菓子ぐらい買うだろうなと思う。私だって買う。

気付かないフリをしてやろうと思ったのだが一瞬早くその中のひとりが「先生!食べる?」と、チョコを差し出してきた。
チョコを受け取りながら「うん有り難う。美味しそうだね」と笑いかける。
そうだね、これで共犯だ、って事なんだね、でも一応言っとくよ、先生だからね。

「でも、ね、お菓子は、駄目だよ」ころころと笑う娘たちを背に教室を後にした。
あれ?何の用で教室に行ったんだったかしら? 


そのチョコが今てのひらのうえで銀色に光っている。三個もくれたんだ、どうしよう。

ふと、『このチョコをあの切り株に腰掛けて食べたら美味しいかもしれない』と思い立ってしまった。
思い立ったらどうにも美味しそうに思えて止まらなくなってしまった。いや、きっと美味しい。

既に弱まっている初冬の午後の光を横目に、頭の中で残りの仕事を考える。今日はもう既に授業は終わっている。
週明けに使う資料は以前のものが使えるから特に何もない。指導するべき生徒達は帰った頃だ。よし。

机の上を片づけつつ、主任の英先生に挨拶をすませ、身支度をして教室を出る。
おっと、チョコを忘れてはいけない。急いでポケットに放り込む。

ロッカーにはいつものリュックが押し込んである。一晩ぐらいなら何も問題無いだろう。
こんなふうに飛び出すのはよく有ることだし、用意は怠り無しだ。
ブーツとパンツ、セーターにダウンを着込んでリュックを背負うとそのまま玄関を出る。

少しウォーミングアップをかねて速足で校門からの長い坂道を下る。
坂下のコンビニで水と少しの直ぐに食べられる物を見繕って買い、リュックに入れる。


路面電車の停留所で電車を待ちながら旦那に『今晩、山に行ってくる』と短いメールを入れる。
これで通じるのだ。良い夫だ。
いつも勝手にふらふらと、あまり安全ではないかもしれないところへと出かけてしまう私を、いつも自由にさせてくれ、
幼稚園に通う息子とともに待っていてくれる。私は幸せだなぁと思う。

既に暗くなりかける山道を登り始めるが、何せこの山は私が小さなころから何度も登っている山だ、
月明かりでも有れば楽々と進んでいける自信はある。とは言え過信しないように気を配りつつ進む。

山頂へ向かう道を途中で外れ、暫く進んだ所に突然現れる僅かばかりの空間。
松葉のような細い月が放つ僅かの光でも眩しく感じる。
その草原の真ん中に、何故か草に埋もれること無く残っている大きな切り株。
何時から有るのか判らないけれども、いつの間にか私のお気に入りの素敵な椅子だ。

以前使った石を積み直していつものように火を熾し、ケトルをかけると切り株に腰掛けて火を眺めながらお湯の沸くのを待つ。
火で目が幻惑されたのか、月が沈んだのか、辺りは急速に暗くなっていく。
ポケットからチョコを一粒取りだすとゆっくりと齧りながら暫く目をつむる。

瞼を上げると、そこには満天の星空。口の中で融けていくチョコとアーモンドの香を味わいつつ空を見上げる。

お湯の沸く音でケトルを見ると首が痛い、空を仰ぎ見続けたせいだ。
ケトルに茶葉と砂糖をたっぷり投げ込みカップに注ぐ。甘い茶で買ってきたサンドイッチを飲み込むと、
さっさと後片づけをしてリュックからシュラフを取りだす。火が消えないように気をつけながら、
シュラフに身体半分包まってまた暗い空の星々を眺める。いつもこの瞬間に何故だか楽しくなってくる。


自分の起こす音以外何も聞こえない、そんなゆっくりと過ぎていく時間と星座たち。
時たま思い出したころに残りのチョコを少し齧りお茶を飲む。

何時しか長い闇が誰にも気付かれない程度に青くなってくるころ、
火を消して荷物をリュックに詰め戻すと、私は来た道を引き返す。
これから山を下れば駅に着くころには始発の列車に乗れるだろう。

家に着くのは早起きの息子が週末で休みの夫を、寝かせておこうか起こそうかどうか悩んでいる頃だろう。
ヒト族の夫は宵っぱりで朝が弱い。息子は私に似て朝が早いのだ。何時しか足取りが少しだけ速くなる。

さぁ、家に帰ろう。早く二人に会いたい。列車の中で寝れば大丈夫、遅い朝食は何を作ろうか?

そうだ、月曜日には彼女達に「チョコ美味しかったよ」と言ってやろう。



関連:山野先生