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スレ2>>253-261 音楽会


わたしが住み込みで働く小さなレストラン『三毛猫軒』に、ショウがやって来た。
彼は片手に楽器を抱え、オーナーでもあるわたしのご主人さまとなにやら交渉しているが、岡目八目に見ても前途遼遠なご様子。
「ぼくの歌には自信があるんですっ!だからお願いします!!このお店を貸してください。歌わせてください!」
「うーん、結局はこのお店を貸切りみたいにしちゃうわけでしょ?その分、お店は出来ないよね。それなりの御代は頂くよ」
「……お代ですか。はあ」
「タダで店は使えないねえ。うん」
尻尾をだらりと元気なく垂らせて、しょんぼりとしているショウはイヌ族の少年。彼とはわたしが料理人の修行へと
この街にやって来てからの知り合い。わたしよりちょっと年下で、からかいがいのある純朴な子なのだが、
こんなにしょげている姿を見るといつも彼の困りっぷりを笑っているわたしでも、やはり少し彼のことが心配だ。

わざとこのことを無視して横で皿を洗いながら、その光景を見ていたわたしにショウが縋り付く。
わたしのエプロンを弱弱しく引っ張るショウの姿は種族が違っても、実の弟のようにも見える。
「ねえ、ミッケ。なんとかならないかなあ」
「ご主人さまがああ言ってるんじゃ、無理だね。あきらめる?」
「…今度の曲は自信があるんだよ。だからたくさんの人にじっくり聴いて欲しいんだ。
だから、こういう小さなレストランでお客さんを集めて、小さな音楽会でもしてみたかったのに」
「小さくて悪るうござんしたね」
皿を洗う手を止めてわたしのメガネ越しにショウを睨みつけると、彼は尻尾をくるりと巻いた。
ネコ族のわたしはしがないここの見習い料理人、人間であるご主人さまの言うことは絶対。寂しそうなショウの背中が物悲しい。
わたしだって、ショウのことを何とかしてやりたいんだよ。でも、世間様って意外と頑固者。

ご主人さまが断った理由なんか分かりきっている。それは、ショウが小さな地味な子イヌだからだ。
あやつが、例えば立派なレトリバーなんかだったら、華もあるしお店の看板にもなるから大歓迎だろう。
しかし、ショウは言っちゃ悪いが『華がない』。いや、けっしてショウの悪口を言っているわけじゃあない。
ヤツのことをよく知っているからこそこんなことを言っているのだが、ヤツの歌は上手いと思うんだ。
でも、いまいち見てくれがぱっとしない。わたしの住む小さな街でも、ケモノの歌い人たちが自慢の腕前を披露しにやって来る。
旅をしながら名を上げようって寸法だ。しかし、人気があるのはコリーやらアメリカンショートヘヤーっていう
見た目に『スター』のオーラが放たれているヤツら。ヤツらが街で歌えば、わたしと同い年位の女の子がきゃあきゃあ取り巻いてくる。
なんだい、下手糞のくせに見てくれがカッコいいから持ち上げられて、いい気になりやがって。山高きが故に尊からず。


雑種のイヌ族であるショウは人前で歌うには、少しヤツラには見劣りしちゃうのも当然なのだ。
それに、牧場でのんびり育ったショウは純粋すぎるのかもしれない。世間様の波なんぞこれっぽちも知らないショウ。
芸の道で食っていくには、仔犬の瞳と仔猫の愛嬌、そしてオオカミの牙がいるんだぞ。

「ごめんなさい。ご迷惑をかけました」
そう一言残して、ショウは意地悪な秋風で少し冷えてきた外へ出て行った。バタムと扉が閉まるのを確認すると、
わたしはご主人さまにそっと話を持ち出す。もちろん、話の内容はあのこと。ご主人さまは優しくわたしの話を聞いてくれた。
「ご主人さま、あの…さっきの件なんですけど。要はここを満席にすりゃあいいんでしょ?」
「う、うん。まあ、お客さんに帰られなければね」
「じゃあ、わたしにお任せを。きっと満席にしてみせます!」
わたしのメガネがきらりと光る。それがご主人さまに伝わったのか、なんとか承諾をしてくれたのだ。
言っておくけど、けっしてショウのことが好きでやってるんじゃない。あんな…ヤツ。

ショウはけっして目を合わせて話をすることがない程、気の弱い仔犬だ。「楽器がぼくの友達なんだ」って言ってるけど、
裏を返せばあんたにゃケモノや人間の友達が居ないってことだよね。わたしがショウの住むヒルック牧場に
買出しに行って以来のショウとの付き合いだが、お得意先であったことをショウは後生大事にするんだな。
のんびりと牛に囲まれて育った彼、そして単身家出同然で田舎から飛び出したわたし。
この街はショウを南の大洋のように広い心で包み込み、そしてわたしには北の海の荒波のように厳しく冷たい。
同じ街に住むケモノなのに、こんなにも街は見せる顔が違うのか。

日中の仕事を終えると、既に外は闇に包まれおやすみなさいのご挨拶。もう、日が落ちるのが早くなっている。
そして、月明かりだけが田舎町の石畳を照らす。ちらほらと街の灯が輝き出し、夕餉の香りが微かに漂う。
もう、こんな時間に出歩いてるヤツなんかいない。わたしの足音がペタペタと響く。街はずれへの道へとひたすら歩く
料理人の服を脱いだわたし、そりゃもともとネコ族なので夜道は得意なのよ。何の為に歩いているのか。
わたしの目的地は星空輝く丘にあるヒルック牧場。もちろん門は閉ざされ、家畜たちは小屋に帰っている。


母屋も早い明日の為に、お休みの準備をしているらしい。わたしの勘ではこの辺でこの時間、軽やかな弦の音が流れてくるはず。
周りは暗く涼しく、わたしのネコ毛でさえもその冷たい空気を凌ぐのがやっとにも感じてくる。
だが、この闇の中の草原に誰かが居ることは確かなのだ。勘が当れば…。
すると…。
牧歌的な静かな歌声が、虫の音だけが独り占めしている闇夜に申し訳なさ気に、お邪魔して楽しげに走り回るのが聞こえてきた。
当った、勘は当った。ここの一人息子、ショウが牧場の柵に腰掛けて、一人で楽器を鳴らしている。
その音のする方へわたしは駆け出し、楽器の主に声をかける。
楽器の主は己の手を止め、やや挙動不審にわたしを見つめていた。

「おーい。ショウ」
「……ミッケ!どうしたの?」
夜中、一人で演奏をしていたショウは弦を触る手を止めた。唖然としているショウの横にわたしは並んで柵に腰掛ける。
女の子慣れをしていないショウ、わざとわたしとくっつかないように横にわたしが気付かないように移動し、
俯き加減で肩をすぼめている。おいおい、わたしだぞ。けっしてあんたに気があるんじゃないからね。
「それ、新曲?たくさんの人の前で歌えたらいいのにね」
「無理だよ…うん」
「でも、わたしがなんとかしてあげよっか?だって、こんないい曲埋もれさせるのって、
厨房に残った最高のヒレ肉をゴミ箱に捨てちゃうようなもんだからね」
「でも……」
「わたしのメガネを信じて!」

うんと小さく頷くショウはイヌミミを寂しそうに垂らしていた。しばらくするとショウは再びポロンとウクレレを奏でて、
その心地よい音色で牛たちのいない牧場をちいさく包み込んだ。星空の下、観客がたった一人の音楽会なんて寂しすぎる。
せめて、瞬く遥かな星たちでもいいので精一杯の拍手を送ってくれ。


翌日、お店はお休み。わたしも今まで縮こまっていた羽をうーんと伸ばしたいわけだが、ショウのことで頭が一杯。
わたしは朝から街を駆け巡り街と戦う。そう、わたしはこの街の者たちに勝負を挑む。今に見てみなさい、世間様なんてバカヤロウ。
わたしの知ってる限りのケモノ、人間たちにショウの音楽会のことを宣伝しまくった。
徹夜で作ったガリ版のチラシも街中の人やケモノたちに配った。

「あの…すいません、わたし『三毛猫軒』のミッケと申します」
「ん、なんだい」
「今度の日曜日、ウチでちょっとした音楽会を開きます。このビラを見てください」
「…ばってん、誰か有名な歌い人でもくるとですか?」
「まだまだこれからの歌い人ですが…けっして損はありません!!」
「ふーん、ヒマがあったら覗いてみるばい」
そして、『あることを忘れずにして』街中を走り回ったのだ。そう、あることを…。
ライバルの料理屋、道具屋、市場とどれだけ走り回ったか。人の多いところを選んで、ショウの名を広めてやる。ふう、疲れるな。

すると、街の往来でどこかから来たのかチワワが横笛を吹いていた。しかし、そんなに上手とはいえない音色、むしろショウの方が上手いぞ。
だが、チワワの周りには人だかり、ケモノだかりが出来てゆく。しかも街のメスばっかり。
そいつらは黄色い声をチワワに惜しむことなく投げかける。
「きゃー!かわいい!!」
「この子、タイプ!!ファンになっちゃうかも」
なにが『かわいい』だ、『タイプ』だ。ヘタクソって誰か言ってやれ。だから街の女どもはころっと騙されるのだよ。
ショウの代わりにわたしが「このヘタクソ、やめちまえ」って叫んでやった。但し、誰にも聞こえないくらいの小声で。

ショウよ、これだけわたしが骨を折っているんだから、ちゃんと自信を持ちなさいよ。
でも、わたしが骨を折るなんてそうそうないんだから、その価値をキチンと自分で理解しなさい。ちいさな仔犬ちゃん。
さて、最終段階。この街では知らない者はいない名家、東の丘のお屋敷・ハルクイン家に向かう。
なんでもハルクイン家はこのあたりの大変な地主で、ショウの家の牧場の土地もハルクイン家から借りているらしい。
その屋敷にはわたしのいちばんの理解者が住み込みで働いている。理解者は持ち上げすぎか、そうだな『便利屋さん』かな、ヤツは。
とにかく、東の丘を目指して走る。走る。走る…。わたしの本気を見やがれ。


「おーい、リツ」
その便利屋さんは丁度、庭で落ち葉を拾っていた。リツはお屋敷のお嬢さまに仕えているショウと同じイヌ族の男の子。
三毛猫軒のお得意さまでもある。目をクリクリしながらわたしを見ているリツはマヌケだ。
「ミッケ…ヒマなの?」
「ヒマじゃないよ。それより、お願い!」

リツにわたしからのお願い事をしてみた。ちなみにお願い事とは『音楽会においでね』なんて簡単なことではない。
リツ、空気読んでOKしなさいよ。あんたの答えようで仔犬の望みが叶うのかどうかが掛かっているんだからね。
「ミッケのお願いじゃあ、しょうがないよ。わかったよ」
「…話は決まったね!じゃあ、今度の土曜日の午後。『忘れずに』来なさいね!」
「ミッケには負けるよ…」
「じゃあ、お嬢さまにはよろしくねっ」
「んじゃ、マリカさまに言っておくよ。大丈夫だと思うけど」
「大丈夫だよね!!」
「う、うん」

リツに手を振ってハルクイン家を後にし、そのままの足でショウのいるヒルック牧場へ。
ショウのせいでわたしはどれだけ走り回っているのか分かるか?ショウ。わかんないだろうなあ。
思ったとおり、呑気なショウは切り株に腰掛けてお茶を飲んでいた。まあ、無理もないか、わたしが勝手に始めたことだ。
「ショウ!日取りが決まったよ!あんたの音楽会、来週の日曜日の夕方!きまり!」
「ええ?な、なに?」
小さなイヌは武者震いなのか、それとも怯えているのか持っていたカップのお茶を波立たせていた。
遠くではそんなことに気を揉むことのない牛たちがモオオと鳴いている。


―――約束の日の午後。ショウはびくびくしながら三毛猫軒の裏口にやって来た。
自慢のウクレレを片手に、この店で戦いを挑みにやって来た、といっても過言じゃない。
彼の人生でいちばんの賭けかもしれない。気の弱いショウは震えながらわたしに縋る。
「大丈夫かな…」
「あんたはね、最っ高の歌い人よ。わたしはウソをつかない」
今はショウの両肩をポンと叩いて、彼の不安を払いのけてやることしかわたしは出来ない。

さあ、開演は夕方、それまではいつもの様に料理店として三毛猫軒は働く。二階にあるわたしの部屋で、
自分の出番を縮こまりながら待つショウ。ショウが持つわたしが差し入れたお茶のカップは、小刻みに波立っていた。
茜色に空が染まる頃、お店も一旦おしまいになり、この後はショウの一人舞台だ。任せたぞ、ショウ。わたしがやれることはやった。
ここでコケたらあんたのせいだかんね。でも、あんたは大丈夫、きっと。

時計は開演の時間を指差す。バカ正直な時計はわたしにショウを呼べと急かし立て、わたしは言われるがまま階段を昇る。
ノックをしてショウのいるわたしの部屋に入ると、彼はウクレレを抱えたまま部屋の隅にうずくまっていた。
呪いのようにショウは同じ言葉を繰り返している。
「だい…じょうぶかな」
「うん。あんたは大丈夫」
「お客さん…いるかな…。帰ったりしないかな…」
これ以上話しかけても、ショウにプレッシャーを与えるだけ。だんまりを通しながらゆっくりショウの手を引いて階段を降りる。
いつもなら気にしない階段の軋む音が大きく聞こえる。階段を降りきると店内への扉。
自ら扉を開けるように促すと、ショウはゆっくり扉を開いた。さあ、あんたの出番を待ってる人たちが居る。

いちばん驚いていたのはショウとご主人さまだった。
乳牛二頭が入ればぎゅうぎゅうになるぐらいの店内。そこにはイヌ、ネコ、ケモノそして人間のお客さんでいっぱい。
こんなに大勢のお客で詰まった三毛猫軒を見るのはわたしもご主人さまも初めて。
テーブルからの小さな拍手はやがてだんだん増えてゆき、何時しか店内全ての者が手を打ってショウの演奏を待つ。
「みなさん、お待たせいたしました。ほんっと名前も無いし、だーれも知らないかもしれませんが、歌はピカイチだと思うんです。
なので、わたしの働くこの三毛猫軒だけでちいさな音楽会を開いてみました。今宵の主役はイヌのショウくんです。さあ、どうぞ」
わたしの仕切りで、音楽会は幕開く。さあ、いつもの調子だぞ。あんたはぜったいそんじょそこらのヤツラよりか歌は上手い。
ただ、周りはその才能を見抜けなかったり、あんたが一人で暗闇に潜っているから気が付かないだけなんだぞ。
そうだ。アイツらに見せ付けろ。お前のことは誰も心配なんぞしていない。


薄暗い店内に、ショウとお客さんが向かい合わせ。しばらくの静けさが包み込む。
「あ…あの、聴いてくれますか」
ゆっくりした口調でショウが口を開く。ただ、それだけの言葉を残して、ポロンとウクレレを鳴らし始める。
お客さん、わたし、そしてオーナーは静かにショウだけを見つめる。
ショウの優しいウクレレの調べは店内を包み込み、お客さんたちの酒の入ったカップの手を止める。
ほかに聞こえる音といえば、ご主人さまが調理をする音ぐらいか。そんな音に気を取られる事なく、ショウは弾き続ける。

ウクレレの音色って、どうしてこんなに優しいんだろう。
ウクレレの音色って、どうして人々を引き付けるんだろう。
ウクレレの音色って、どうしてこんなにやさぐれたわたしを何でも許してあげる『聖女』にすることができるんだろう。

そんなウクレレを己の言葉のように操るショウ。あんたはけっして口は上手くない。ヒツジとオオカミで言ったら、
あんたは確実にヒツジだ。オオカミから牙を向けられても、メエエ!って悲鳴を上げて、緑の大地に埋もれるだけの弱いヒツジだ。
でも、あんたがウクレレを持った時にゃ、王様から授かった剣を持った勇者のように、怖いものなんか何もないように振舞えるんだよ。
その剣で冷たい血のオオカミたちをばっさり斬りつけることが出来る、ヒツジたちの勇者になれるんだ。
でも、あんたさ…気付いてないだろ。今、あんたは美しい光の剣を持っているということを。
そう怒鳴ってやりたいわたしはウクレレのン音色でショウを許してあげることができる。

―――2時間後、音楽会は終幕。そのあと、三毛猫軒はちょっとした飲み屋に様変わり。ショウの歌のこと、わたしのこと、酒の肴はいろいろと。
ここからはご主人さま一人で大丈夫、明日に備えてもうお休みとご主人さまから優しく声をかけられ、
わたしとショウはわたしの部屋に引っ込む。ショウにミルクを勧めながら労をねぎらう。

「よかったよ」
「ウチの牧場のミルクだね」
「うん、あんたのところの牛乳、最高。なんでも東の丘に住んでるお嬢さまも、飲んでるんだって」
「すごいね」
「すごいよ」
「でも、どうしてタダで今日はここで歌えたの?」
「そんなことは考えないで。あんたはただ歌のことだけ考えてりゃいいの」
「そう……。でも、ありがとう」
裏口からショウを見送る。送ってあげようかと言うと、帰りの夜道は女の子一人じゃ危ないとやんわりショウは断る。
その足取りは軽やかに、宵の街にショウの後姿は消えていった。


スズメがさえずり始め、わたしが起き出す頃、下の階から『サクラ』だった客がパラパラと帰っていく。
わたしが彼らに渡したコインはどのくらいだろうか。彼らにはタダで飲み食いさせるって約束で音楽会に来てもらったのだ。
そう。わたしがやった『あること』とは、お客さんに金を握らせること。そして、ご主人さまにナイショでそのコインを
三毛猫軒で落としてもらうという計算なのだ。サクラの割合はほぼ全員。お客さんたちは身銭を切ることはない。
ただ、勢い余って大幅に金を落としてくれた御仁もいらっしゃるようだが、それはそれでよし。

そして、ご主人さまへ前もって支払った店の貸しきり賃、それはわたしが出しておいた。わたしと言うより、
丘の上のお嬢さまが住むお屋敷で働くイヌ族の使用人・リツに芝居を打ってもらい、
お嬢さまがこの音楽会の為に資金を『出した』という名目にしておいたのだ。
「あの…マリカさまが音楽会を開きたいって言うのです…。だから…」
そう言って、リツはご主人さまにコインが詰まった麻袋を持ってきた、と言うか持ってこさせた。故に、実の出資者はわたしだ。
あの『ハルクイン家のお願い』って言われちゃあ、さすがのご主人さまも断れないだろう。
お陰で、わたしが将来一人立ちをするときに使う資金がごっそり減ってしまった。でも、人間さまや、
勘違い歌い人の鼻をあかすことも出来たことだし、誰も損はしていないはずだ。
だって、わたしが店を開くことより、ショウが歌い人になって有名になる方の見込みがあるんだから…。
おっと、今までの件はご主人さまとショウには内緒ですぞ。
それに、わたしはウソを吐くことしか出来ない、ひねくれたネコですから。


数日後、暇を持て余した三毛猫軒に老犬が現れた。しょぼくれた姿は人生に疲れたように見える。
そのおいぼれの姿を見るや否や、ご主人さまは少し震えていたのは何故だ。しかし、答えはすぐに出る。
「この間の少年の歌、聴かせて頂きました。実はわたくし、とある劇場の支配人でして…彼にぜひ出ていただきたいんです」
ご主人さま曰く、この老いたイヌはかつてこの街で名を馳せた舞台俳優だという。
昔、誰も知らないうちにデビューし、主役を張れるほどではないが妙に印象に残る演技で、カルト的な人気をかっさらい、
そして何時しか彼は表舞台から消えていったという、知る人ぞ知るいわゆる『怪優』。
ご主人さまは昨夜、この店に来ていたことなんぞ全く気付かなかったらしい。

「身の気配を消すのも芸のうち」
と、のほほんとのたまう老犬は懐から少額の札を出して、なにやら万年筆でサインをしている。こっそり覗いてみると、
『興味がおありなら、わたしの事務所へお越しください。連絡先は…』
との意味の文が書かれてある。
「少年によろしく」
と言葉を残して、老犬は姿を消した。いや、気が付くと居なくなっていた。これも芸のうちなのか。

わたしとご主人さまは老犬を見送り、しげしげとサインが書かれた札を見ていた。
「ご主人さま、ご存知?」
「…ああ、わたしも昔はよく彼が出ている舞台を見に行っていたものだが、まさか彼がここに来ていたなんて」
もしかして、わたしが街中を歩き回った日にその老犬に会っていたかもしれない。
でも、そんなこと気付いていない。それも『姿を消していた』からか。しかし、どうでもいい、こんなこと。
ショウが人様から一目置かれるなんて、これを逃したら一生ショウは小さな仔犬で終わっちゃうかもしれないぞ。
余計なお世話と思いながらも、どうしても世話を焼いてしまうわたし。ご主人さまから札を引ったくり、
「ご主人さま!ちょっと牛乳を買いに!」
そんなウソを吐いて、サイン入りの札を握り締めたわたしはヒルック牧場へ走る。


おしまい。