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スレ2>>109-115 ラブスクエア

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lycaon

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ラブスクエア


――ジリリリリリリリリリ!!
「うぅ……」

 目覚まし時計の鐘の音が部屋の中に響く。俺は重たいまぶたを開けて、音の方を見た。
 二段ベッドの下の段に寝ている俺の目線から、少し上に位置する、妹の勉強机の上にそれは置いてあった。
 枕元に置かないのは、朝の弱い兄貴に対して、「近くに置いていると消してから二度にしちゃう」と言う妹の配慮である。
 しかし、甘いぞ妹よ。こっちはただでさえ中間テストを終えたばかりだと言うのに、連日繰り返される部活動により、疲れはピークだ。
 ベッドから気だるそうに起きると、机の上の目覚まし時計をリセットし、またベッドに横になり頭から毛布を被る。
 今はまだ6時になったばかり、土曜日の朝くらいは昼まで朝寝坊させてくれ。
 俺は目をつぶると、また目眩(めくるめ)く惰眠の世界へ向かっていく。
 この眠りかけてるけど、まだ完全には眠っていないときの、妙にふわふわした感覚は好きだ。
 この感覚を楽しんでいると、いつの間にか眠っている。
 おそらく次に起きるのは昼ごろだろう。起きたら何をしようか。やはりテレビゲームかな。
 このまえ雅人に借りたゲームがまだやり掛け――ッ!?

「ぐへっ……!」

 胸の上に着地する衝撃、突如舞い降りたそれに混乱しながら、俺は重いまぶたを開いてその相手を見つめる。
 俺を見下ろすくりくりした瞳、楽しそうにパタパタ揺れる尻尾、昨日の朝も同じ衝撃を受けた覚えがある。

「お兄ちゃん、私が二度寝なんてさせないからね!
「うっ、……舞……?」

 ほとんど眠りかけていた頭も体も、無理矢理に覚醒させられた。
 目から星が出るかと思うような衝撃に、錯乱した俺の瞳を、胸の上に乗っかった我が妹が覗き込んでいる。
 女の子らしいお洒落なパジャマを着て、くりくりした目と、灰と白の混ざった滑らかな毛皮、それにピンと立った耳。
 狼と言うと粗暴なイメージもあるが、まだ14歳の女の子なんだから可愛らしい外見だ。
 兄の贔屓目かも知れないが、大きくなればかなりの美人へ成長するだろう。

「つぅ~……。不意打ちで飛び乗るのはやめてくれって言ってるだろ?」
「お兄ちゃんが寝坊をやめたら、私もしないって約束したよ。
もうお姉ちゃんが朝ごはん作り始めてるし、起きようよ
「はぁ……。分かったからどいてくれよ。起きれないから」

 やってられない、と首を振ってジェスチャーしつつ溜息を吐くと、俺は舞に言った。
 血の繋がらない妹が胸の上に乗っかって、朝起こしてくれるというのも、連日に渡って体験するとそんなに良いものじゃない。
 一部の人間ならお金払ってでもやりたいシチュエーションだろうが、こっちはほとんど毎日こうやって起こされているのだから、堪らないよ。
 舞は少し名残惜しそうにしながらも、俺の上からどいてベッドの脇にどいてくれた。
 ようやく上半身を起こすと、頬に毛皮の引っ付けられる感触が走る。
 慌てて隣を見ると、舞がしたり顔でこちらを見ながら言った。

「フフ、寝ぼすけさんにおはようのキスだよ」
「舞、もう14なんだから少しくらいは慎みとかさ、……いつも言ってるだろ?」


 舞は満面の笑みを浮かべて言った。「お兄ちゃんだからいいの。さ、早く行こう」さすがにこれは耳が熱くなる。誰がこんなませガキに育てたのか。
 まあ、娘二人と夫を捨てて蒸発した、舞の血縁上の母親が悪いのだろう。
 貴女のせいで後の義兄である、俺が苦労していますよ。舞の兄であることは嬉しいけど、貴女の蒸発がもう少し遅ければ、ここまで恥じらいの無い娘に育たなかった筈ですよ。
 とまあ、顔を知りもしない相手に脳内で文句をたれてみる訳だが、もっと現実的な問題に目を向けにゃならん。
 俺は軽く咳払いをすると、照れを誤魔化すため、眠気を覚まそうとしている振りをして、自分の両頬をビンタした。
 こっちは舞のように、兄妹だからと簡単に割り切れる頭を持っていない。ナイーブで繊細なガラスの少年なんだよ。
 親の再婚で一緒に住むようになってから、すでに3年経ち、お兄ちゃんと呼ばれるのにも慣れたが、親密すぎるスキンシップは未だに慣れていないのだ。
 シャイな俺に出来る最大限の愛情表現、キスのお返しに頭を撫でてやると、舞は嬉しそうにまた尻尾を振った。
 彼女に手を引かれるままベッドから抜け出し、部屋のドアを開けて廊下へ出る。
 振り返ると、広くも無い部屋に置かれた二つの勉強机と、古びた二段ベッドが見える。俺と舞は一つの部屋を共用していた。
 この家に住む未成年で、自分の部屋を持っているのは、姉の美希奈ともう一人、五ヶ月になる弟の満だけだ。
 だが、満の部屋は両親がはしゃいで買ったベビー用品に埋め尽くされて、実質は使われていない。
 姉はと言うと、現在19歳の大学生で、「一人部屋がないとやってられない」と親に直訴して、今の部屋を手に入れた。
 俺だって同じことはしたさ。だが、舞が俺と一緒の部屋がいいなんて言い出すもんだから、全てが台無しに終わった。
 懐かれるのは一向に構わないが、健全な男子高校生に一人部屋を与えないとは、安心してアダルトサイトにアクセスすることすら出来ない。
 なんという生殺し状態だろうか。
 他にも三つの部屋があるのだが、両親の寝室と義父の書斎で使用され、残った一つの部屋に俺と舞がいる訳だ。
 家族になる前に姉さんと舞で使っていたと言う二段ベッドも、今は俺と舞のものになっている。
 これから先、なんとか自室を得る方法は無いかと夢想しながら、何となく舞に視線を向ける。
 おでこの毛皮についた寝癖を、必死で撫で付けているところだ。
 ロリ属性を持っているつもりは無いが、仮にも妹でなければ、一緒の部屋で眠るなんて緊張してしまうな。

「舞、今朝の朝ごはんはなんだった?」
「えと……、お姉ちゃんが目玉焼きを作ってたと思うよ」

 階段を下りて一階のダイニングへ向かいながら問いかけると、舞は可愛らしく首をかしげて考え込み、答える。
 鼻を鳴らして匂いを嗅いでみると、確かにそれっぽい匂いがあたりに漂っていた。
 料理は一日交代で俺と姉さんがこなし、今日は姉さんが当番の日だ。また、洗い物や掃除は舞も入れてのローテーション。
 俺らの両親は、長らく一人で家を支えていたため、家事を子供に任せっきりで働いていた。
 そのせいで、再婚し金銭的にも精神的にもゆとりが出来た今でも、それ以前から続く悪癖が抜けきらないのだ。
 多分今頃も満と一緒に眠っているのだろう。俺は大きな欠伸をしながら、そんなことを考えた。
 舞に手を引かれるうちにリビングへ到着し、テーブルについてテレビの電源を入れる。
 朝のニュース番組の音だけを聞きながら、キッチンで料理をしている途中の姉へ振り向いて声をかけた。

「おはよう、姉さん」
「ああ、おはよ。もう少しでトースト焼けるから、顔洗ってきて」

 オーブントースターの前に立って、中の様子を覗いていた姉さんだが、こちらから話しかけるとすぐに振り向いて返す。
 舞と同じく父の連れ子で、雪のように真っ白な毛皮の狼だ。
 標準以上に出るところも出てるし、姉御肌で面倒見のいい性格も好感の持てる、自慢の姉だ。
 ……これは断じて、弟としての贔屓目などではなく、客観的な意見のつもりだ。

「うん。今行ってくる」


 返事をしながら、姉さんの投げてよこしたタオルを右手でキャッチし、洗面所へと向かう。
 舞はさっさとテーブルについており、朝のニュース番組で星座占いコーナーを見ているところだった。
 後で俺の順位を教えてくれるように頼んでおく。
 昨日見たときは俺が12位で、舞が6位で姉さんが3位。別に占いを信じている訳じゃないが、結果は何となく気になる。
 朝っぱらが「今日はあなたが一位です」ってとこから始まったら、気分がいいじゃないか。
 納得のいかない結果ならば「占いなんて誰が信じるの?」でスルーすればいい。
 所詮、『当たるも八卦、当たらぬも八卦』だ。都合の良い結果だけ信じることにしている。
 洗面所に着くと、タオルを首にかけ、水道の蛇口をひねってお湯を出す。
 そろそろ水で顔を洗うのはきつくなってきた。
 まず手を洗ったあと、泡立てた石鹸で顔を洗い、お湯を何度も被って洗い流す。

「ふぅー。スッキリしたな……」

 さっきまでの眠気も、今ので粗方はとれた。
 鏡に写る自分の顔をまじまじと見ると、顔を洗う前の気だるそうな表情と違い、爽やかな表情が浮かんでいる。
 タオルで顔を丹念に拭くと、洗濯機の中にそれを投げ込んで再度ダイニングへ向かった。
 着いてみると、丁度朝ごはんが出来たところのようで、舞と姉さんが二人で食器を並べているところだった。

「僕も何か手伝おうか?」

 甲斐甲斐しく動いている二人を見て、自分だけ何もしないのも気分が悪く、そう聞いてみたが、二人は首を横に振った。
 晩御飯を俺一人で用意してくれ、と言う魂胆を、相手の目の前にも関わらず笑いながら話している。
 女性と言うのは妙なところで強かなものだ。犠牲となる男性のことを、少しでいいから気にしてくれないものか。
 軽く溜息をつきながら、自分がいつも座っている席に腰掛けた。
 今朝のメニューは、一人トースト2枚とハムエッグが一個ずつ。いつも通りの献立だ。

「舞、ついでにマヨネーズと醤油とってくれる?」
「うん。ちょっと待ってて」

 冷蔵庫の中から牛乳を取り出していた舞に、その二つを持ってくるように頼む。
 世の中には目玉焼きを塩コショウで食べたり、ただの醤油で食べたり、そのまま食べたりする人たちがいる。
 現に舞はただの醤油派だし、姉さんに至ってはケチャップだ。目玉焼きにケチャップって、一体なんだよ。
 どれここれも、俺に言わせればそれら全てが邪道だ。
 目玉焼きと最も合う調味料、それは醤油マヨネーズに他ならない。
 醤油とマヨネーズの織り成す絶妙なハーモニーは、目玉焼きのみならず、餃子、焼肉、スルメなど、様々な食材へ応用も利く。
 炒め物の時だって、醤油マヨネーズは美味しい料理を作るために欠かせない。
 三人全員がテーブルに着いたことを確認すると、「いただきます」と手を合わせて言い、早速舞から受け取った二つの調味料を使用した。
 目玉焼きの黄身の部分にマヨネーズをかけ、その上に醤油を垂らし、それをフォークで黄身ごとかき混ぜ、白身の上に塗りたくるようにする。

「あんたよくそんな食べ方するわよねぇ……」
「気にしなくてもいいよ。これが俺の食べ方なんだから」
「お兄ちゃん、そんな事より私にもお醤油ちょーだい」


 姉に引かれた挙句、妹に「そんな事」呼ばわりされる食べ方だが、俺にとってはこれ以外考えられない。
 醤油を舞に渡すと、バターを縫ったトーストの上に目玉焼きを乗せ、もう一方のトーストにはジャムを塗りたくる。
 目玉焼きをトーストに乗せると言う食べ方にまで反論する相手は、さすがにいないだろう。
 もっとも、パン派かごはん派かと言うので、もめる可能性も残されているが。
 そんな不毛な空想にふけりつつ、トーストを口へ運んでいると、ふと妹の食事姿が目に映る。
 やんちゃ盛りな舞らしく、アグレッシブかつワイルドな食べ方だ。……早い話が、がっついている。
 まあ、いっつも見ている光景なんだけど。
 イヌ科の口と言うのは、食べ溢しが結構多くなりやすくて、今も舞がパン屑を落としている。
 姉さんや父さんは同じ口の形で上品に食事をするが、舞はそこら辺に無頓着だ。

「舞ー。そんな食べ方してると毛皮が汚れるぞ。服と違って取替えが聞かないんだから気をつけろよ」
「ホントね。舞、ガサツなままだと行き遅れるるわよ?」

 おわっ、そこで姉さんがに合いの手を入れるのか。これは予想外だ。でもって舞の性格では逆効果なの分かって言ってるだろ。
 案の定、二人がかりで注意された舞は、腕を組んでぷいっとそっぽを向いた。
 姉妹で外見は似ているところもあるが、姉さんと舞とでは中身がちっとも似ていない。
 いや、少し頑固で自分の非を認めたがらないなど、根っこの部分では似ているところもあるが。
 舞は姉さんへの反論を考えているようで、食事を中断してうんうんと唸っている。

「いーもん。いざとなったらお兄ちゃんが滑り止めだから」
「滑り止めって……」

 手に持っていたトーストを思わず落としそうになる。
 反論する部分はそこかとか、兄を滑り止め呼ばわりするなとか、そもそも戸籍上は兄弟だとか、突っ込みどころ満載だ。
 どうせ冗談なんだろうけど、おいそれとそういうことを言われては困る。
 抗議の視線を舞へ向けるが持ち前の天然な明るさをフル活用し、俺の視線には気づかないまま、ジャムトーストを美味しそうに頬張っていた。
 困ったような顔をしながら姉さんに目配せすると、こちらは何か分かってくれたようで、コクりと頷くと、舞に話しかける。

「悪いけど、康太は私が行き遅れた時の滑り止めにしようと思ってるから、いざって時に役に立たないかも知れないわよ」
「そんな事ないよー。お兄ちゃんだって三十路ぐらいになれば、年下の体の方が魅力的に移るだろうし」
「いつまでも20代の体形を維持する自信のある私には、関係の無い話ね」
「そんなの自信だけじゃんかー」

 さて、こうして姉妹の不毛な言い争いが勃発したわけなんだけど、姉さんは何が分かって俺に頷いたのだろうか、俺の視線にラブコールが混ざっていたつもりは無いよ。
 え、もしかして話をこじらせて俺を困らせたかったとか? 勘弁してください。
 そもそも俺にだって自由に恋愛する権利があるでしょうに。滑り止めだなんて物言い、本気で傷ついちゃうよ俺。
 この手のことは関わらないのが一番と、体験で知っている俺は、女同士の陰湿な言い合いをBGMに、黙々と朝食を平らげる作業へ移る。
 周りを見ないようにして食事に集中すると、随分と早く終わるものだ。うん。やっぱり目玉焼きは醤油マヨネーズ以外考えられない。
 食事を終えると、自分の食器を持って立ち上がり、流しへと運び、シャワーを浴びるために風呂場へと歩き出した。

「姉さん。俺のジャージ洗濯終わってる?」
「ええ。お風呂場のタンスの上から2段目に入ってるわ」


 歩き去っていく俺の背中に、「私が畳んだんだよー」という舞の言葉が投げかけられる。
 畳んでもらってすぐ広げちゃうのも悪いけど、それはほぼ毎日容赦なく行われる部活動のせいだよ。
 言われたとおりに風呂場のすぐ近くにあるタンスから、タオルとジャージを取り出し、服を脱ぐとシャワーを浴びに入っていく。
 そろそろシャワーだけでは寒い季節だ。部活から帰ったら、熱いお風呂にゆっくりと浸かろう。
 そう心に誓いながら、手早くシャワーを終えて、出口のすぐ横に置いていた着替えを手に取る。
 下着のほか、学校指定の体操服とジャージだ。シャワーの熱が体から逃げないうちに、大急ぎで着替えた。
 着替えを終えた俺は、湿った髪にドライヤーをかける時間も惜しく、まだダイニングへと足早に向かう。
 そこでは、姉さんが俺の出納にお茶を注いでくれているところだった。

「ありがと、姉さん」
「気にしないでいいわよ。それよりお昼は家で食べる?」
「んー。今日は伊織さんとラーメン屋行くことになってる。学割で安くなんの」

 舞は俺に向かって「それってデート? うわーラブラブー」などと言ってくるが、断じてそんなものじゃない。
 伊織さんに手を出そうとしたって、俺じゃ返り討ちにされて川に流されるのがオチだ。
 舞には「伊織さんに同じことは言わないで。俺が殺されるから」と返し、姉さんから出納を受け取る。
 テレビ画面の左上に表示された、現在の時刻を見ると、6時43分となっている。十分すぎるほどの余裕だ。今日はこちらから迎えに行ける程である。
 しかし、いつも迎えに来てもらってる手前、こちからから向かうのは何処か気恥ずかしく感じる。
 俺は受け取った出納と、着替え、タオル、サイフ、携帯電話などを学生鞄にしまい、椅子に腰掛けてニュース番組に意識を向けた。
 ここら辺の決断が、俺がヘタレたる所以だ。
 そのまま10分ほどニュースを見ていると、玄関のチャイムが鳴った。

「お兄ちゃん、伊織さんが来たよ」
「分かってるよ。じゃ、行って来ます」

 舞と姉さんに挨拶をしながら立ち上がると、鞄を持って玄関へ歩いていく。
 玄関に無造作に脱ぎ捨てられている、お気に入りのスニーカーを履き、ドアを開けた。
 そこには俺と同じジャージを着た、タカの女性が立っている。
 その女性は少しイライラした様子で俺の額にデコピンすると、開口一番にこう言った。

「遅い。たるんでるぞ康太」
「伊織さんがせっかち過ぎるんですよ」

 こっちだって準備をして待っていたんだから、理不尽な非難だ。これでも一応迅速に行動したつもりだというのに。
 しかし、伊織さんは俺の弁明など聞く気も無いらしく、「さっさと行くぞ」と俺を急かす。
 正直なところ、休日を返上してまで行われる部活などやめてしまいたいのだが、それを出来ない理由がこの伊織さんだ。
 彼女の鋭い目つきと荒っぽい言動にかかれば、ヘタレの俺など服従せざるを得ない。
 更にはお隣さんなので、毎日家まで俺を迎えに来て、ジョギング登校を強要することも容易いし、毎日顔を合わせる手前、退部などすれば『気まずいってレベルじゃねーぞ』というやつだ。
 伊織さんに続いて走り出しながら、彼女から見えないように溜息を吐く。
 俺は別に大会で成績を残したいとか、そんなことはこれっぽっちも思っていない。
 ただ伊織さんに勧められたという理由で、彼女と同じ陸上部に入った訳だが、それによって、彼女に燃える鬼コーチのスイッチが入ってしまったのは、まったく予想外のことだった。
 彼女にすれば俺をレギュラーにするのが、自分が試合で勝つことと同じくらい大切なことの様で、こうしてスパルタンぶりを発揮してくれている。


「康太、ペース上げるぞ」
「勘弁してくださいって」
「男ならしゃんとしろ。私に出来てお前に出来ないはずが無い」

 少しだけ走るスピードが上がる。そろそろ息切れをしてきた。しかし、このジョギングも苦しいことばかりではない。
 俺は伊織さんの左斜め後ろを走っているが、その俺の視線にある、二の腕の後ろに垣間見える彼女の胸は、走りに合わせてリズミカルに揺れていた。
 きっつい性格をした彼女だが、外見ならかなりのものを持っている。
 本人は運動の邪魔だと言って嫌がっている、豊かな両胸も、彼女の指示の下で厳しい運動を続ける俺にとっては、数少ない癒しなのだ。
 俺の部活に対する僅かな意欲の9割を占めるのが、この胸だと言っても過言ではない。
 美人の先輩の乳揺れを拝んで鼻の下を伸ばすのは、健全な高校男児の正しい姿ではないか。
 このリビドーの力があるからこそ、俺は伊織さんを追いかけて走ることができるのだ。
 男相手じゃこんなに根気良く走るなんて芸当、できるはずもない。伊織さんが女で心の底から良かった。
 しかし、そろそろ本気でヘタってきた。
 少し慣れてくると、伊織さんはすぐにペースを上げ、俺に余裕と言うものを実感させてくれない。
 荒い息で学校近くの坂道に辿り着き、その上り坂を見上げ項垂れている俺に、彼女が声をかける。

「踏ん張れ。昼飯のラーメンは私の奢りだ」
「ハァ…ハァ…、ど……、どーせ、一番安いやつなんでしょ……ッ」
「ご馳走してもらう側が文句を言うな」
「さーせん」

 そこから学校までは早かった。ぜぇぜぇ言いながら肩で息をしている俺とは対照的に、伊織さんは少し息が乱れている程度だ。
 やはり根っからの体育会系である彼女を相手に、運動なんて面倒臭いとのたまう今どきの若者が敵う筈が無かろう。
 そもそも、小学校時代は運動系のクラブ活動をした覚えが無いし、中学に至っては三年間帰宅部だった。
 そんな俺が高校に入学した途端、いきなり部活動に引きずり込まれてしまったのだから、期待するのが酷だろう。
 しかし伊織さんが言うには、まだ見込みはあるらしい。この調子で頑張れば、来年の県大会で記録が残せるかもしれないそうだ。
 まあ、来年は俺を部活に留めている唯一での理由である、伊織さんが卒業してしまうのだが。
 そうこう思考をめぐらせているうちに、俺達は校門をくぐり、学校の敷地内へ入っていく。
 グラウンドを横切って、東校舎にある部室へと走った。思ったとおり、今日も一番乗りは俺と伊織さんだ。
 鞄から携帯を取り出して時間を確かめると、まだ8時前だ。
 他の部員が登校してくるのは大体9時過ぎぐらいから。一時間近く部室で伊織さんと二人きりと言うわけだ。
 だが俺の期待するようなことはありえない。1時間みっちりと、面白味の無いほど健全かつ倒れそうなほど濃厚な部活動をするハメになるだけだ。
 溜息混じりに自分のロッカーを開け、鞄を押し込んでいると、それみたことか伊織さんに声を掛けられる。

「康太、少し休憩したらハードル走の準備を始めるぞ。倉庫の鍵を開けて来い」
「はいはい。今日も今日とてあなたにパシられてます」

 ここで嫌味を言ってしまう俺を責めないで欲しい。これも不本意な事象に対して俺が行う、ささやかな抵抗なのだ。
 所詮俺は何処にでもいる少し気弱な高校生。怖い先輩に逆らうなんて出来ないんだよ。
 しかし、俺が言葉を切ると同時に、背筋に冷やりとした感覚が走る。
 彼女を見据えていた訳ではないが、伊織さんの瞳が猛禽類特有のギラリとした光を放った気がした。
 そのまま数秒間が流れるのだから、背中に冷や汗が溜まってしまう。

「嫌なら別にいいんだ。私が行って来るからお前は休んでおけ」
「い、いえ。僕が行きますよ。先輩の頼みを断るはずないじゃないっすか」

 俺が答えるより先に、伊織さんが倉庫の鍵を投げてよこす。俺は部室を出て隣接する倉庫へと歩いていく。
 いつも思っているのだが、無言の圧力と言うのが上手い人だ。
 将来は学校の教師なんか向いていると思う。生徒が逆らえないから学級崩壊なんて起こりようが無いだろう?
 俺は体育倉庫へ走った。不良生徒に購買ダッシュさせられるいじめられっ子のように。

ひとまず終



関連: 美希奈 伊織先輩

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