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願い。


 気が付くと窓から地球がぼくを覗いていた。それにしても体が軽い。少しでも体を動かすとあらぬ方向へと進んでゆく。

 「旅のお供になって頂いて、わたし嬉しいわ」
 初めて聞く声、初めて見る顔。異国の血筋を漂わせるイヌの少女がぼくといっしょに体を浮かせていた。
慣れたような動きでぼくのほうへと一歩足を差し出して、両手でバランスを取っている。上手い。
 無機質な室内は言うならば、快適さを取り払ったジェット機の機内のようだ。座るための椅子も、見栄を張るためのテレビもない。
外からぼくらを守るためだけに存在する丸い空間だった。彼女は自慢するように宙返りをぼくに見せると、幼いスカートが翻る。

 「亜細亜州日本国・認識番号19465-0567。犬上ヒカルくんだよね」
 「……そうだけど」
 「ようこそ。もうすぐ月の側を通過するよ。窓辺に行こっ」
 ぼくと彼女がまるでめぐり合わせることを知っていたかのような口調。自慢の巻き毛を指でつまんでいる姿は
どこから見ても、ぼくらよりか世界をまだ知らない少女にしか見えないのに、彼女は見た印象よりも聡明にぼくの目に映っていた。
 静けさで耳が痛い。

 「そういえば、きょうってヒカルくんの国々では」
 「え?」
 「ヒカルくんたちの住んでいる国の地域のこと」
 星屑が宇宙船の窓を飛ぶ。音もなく飛び去っては、また飛び去ることを繰り返す。
 真っ白な船内を賑わせているのは、夜空に浮かぶ星座たちだけ。大きな白い鳥が川の水面で翼をかする。

 名前の知らない女の子は丸い窓にくっついて、はるか遠くに輝く星と星を指でつないでぼくに見せた。
 「こと座アルファ星、わし座アルファ星。知ってるよね」
 「……」
 「太陽暦7月7日、二つの星が再会する誓い。恥じらいながらも河原を挟んで向かい合い、たった一日そのときを待つ姿。
  たとえ二人が星になろうともわたしたちが愛する地上に住む人々は、けっしてその日や二人のことを忘れないんだよね」
 水と大気に包まれた青い星が気がつくと遥か遠くに小さく見えている。その手前にゆっくりと割り込んできたのは月。
毎晩のように見慣れた月がこんなに冷たく乾いて見えたのは初めてであった。窓から飛び出せば、着地できそうなぐらいの距離を掠める。

 「彼方なる空に於いて永遠の命を与えられたとき、地上に住むものにとっては忘れることの出来ない存在になる」
 「永遠の命」
 「現世の命と引き換えに永遠の命。その証として天に一つの星を刻む」
 「星……」
 「わたしは遥か前にそれを授かったのね。わたしたちの星に二度と戻ることが出来なかくなったのは正直寂しかったけれど、
  こうしてわたしのことを忘れずにいてくれる人たちがいるんだから、それはそれで感謝しなきゃね」

 大人のような冷静さのまま、無邪気な子供のようなことを言い出す彼女には、何もかもを知った言葉は正直似合わない。
それでも不思議と素直に彼女の気持ちを受け入れられたのは「ヒカルくんは好きな子とか居るの」という、乙女な問いかけをされたから。
 すっと言葉が出てこないことに、ぼく自身が悔しい。地上を覆う夏の雲にそれは似ている。
 「ネコの……人なんだ」
 「そうなんだ。ネコね」
 星に戻ってその人と再び教室で目を合わせ、短い学校での日々を過ごすことが出来るかどうかだけが不安だった。

 「ほら、見て。ヒカルくんの国が見えたっ」
 「え?」「二人とも『お星さま』になって授けられた永久のとき。二人ともずっと。たとえ地球が消える日が来ても」
 「……」
 「以上、任務完了!って、ずいぶん昔に終わってたんだけどね。これから『オリヒメ』と『ヒコボシ』を冷やかしに行って参ります!」
 もしかして、ぼくらが乗る宇宙船は帰り道を知らないのかもしれない。怖いものを知らず、誰かの願いためにただひたすら。
窓にしがみつく彼女の横顔は、重い鋼の首輪から開放されたかのような自由に満ちた顔だった。ただ、自由を彼女が本当に求めていたのか
どうかはぼくには分からない。彼女のことをもしかして知っているかもしれないという僅かな自信がぼくを迷わせた。 

 「ひとつ聞いてもいい?」
 「ええ」
 ビー玉のように光り、地球のように丸い彼女の瞳に吸い込まれていく。
 宇宙に飛び立った地球のイヌのお話。ぼくらが生まれるずっと前のお話。一人のイヌが空から故郷を見ながら、
小さな星へとなったという。彼女にその話をすることはもしかして彼女を悲しませるかもしれない。

 「きみの名前……『クドリャフカ』?」
 いや、彼女が宇宙に旅立ったのは風が冷たくなり始め、紅葉が彩る季節だ。季節が違いすぎる。
 「わたしは、ずっとずっと地球の周りを回り続ける。だって、もう、一度この世から居なくなってるんだもんね」
 「つまり?」
 「わたしは『オリヒメ』と『ヒコボシ』と同じよ」
 月がいつのまにかに遠ざかり、再び青い星だけが目に入る。大きな大陸を見つめながらイヌの少女は呟いた。
 「クドリャフカは家に帰りません」

    #

 霞んだ視界に入ってきたのは、七夕飾りのシルエットと白く浮かぶ天の川だった。
 見慣れた街の景色が夜のカーテンに隠されて、天を仰げば星屑の暗幕。天然もののプラネタリウムに溶け込んでいると、
自分はネコのくせにとろとろっとまどろみにかどわかされてしまった。学校の屋上は夏だというのにすこし冷たいが背中は温かい。
ほうき星のような白い尻尾がわたしの太ももとに付くか離れるかの位置で垂れているのが見えた。襟首に若いイヌの毛並みが触れる。
 「先生、見えた見えた」と、遠くからは生徒たちの声。タヌキの天文部の顧問が元気よく生徒以上にはしゃいでいた。
 今夜は七夕。生徒たちに誘われて、わたしはヒカルたちといっしょに二つの星を眺めていた。わたしはみんなからちょっと離れて
屋上よりもひとつ高いコンクリの屋根で座っていたのに、ヒカルはわたしに付いて来た。「ここが落ち着くから」と、背中を合わせて
夏の思い出を紡ぐことにしたのだった。誰にも見つからない、学校でいちばん空に近い場所だった。そのうち……。

 教え子から借りた本を抱えていたら、夢うつつに本の書かれたイヌの娘が出てきた。
 昼間の仕事に疲れてうとうととしていたら、夢うつつに教え子になりきっていた。
 「泊瀬谷先生」と、後ろからヒカルが声をかけられて我に返る。地に足が着く。

 「願い事とかしましたか」
 「ううん。もう、願い事は叶ったからいいや」と、答えたことにちょっと恥ずかしくなった。


  おしまい。