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さよならの朝


 初めての夜を過ごした泊瀬谷は、頬を赤らめながら毛先を指で摘んだ。さっきまでの夜空が泊瀬谷に二度と訪れることは二度とない、
彼女の一夜の記憶。薄暗い中で満天の星が広がる。人肌恋しい季節はとおに過ぎたと言うのに、誰かに縋りたい気持ちだけは
変わらないなんて。でも許してくれた寛大さ。何となく花を散らせた道路脇に並んだ桜の樹の視線が後ろめたく感じる。
それは夜を馴れ親しんだ教室で大人だけの時間を過ごしたからか。オトナに馴染んだ泊瀬谷は、朝の光線の中でオトナを知らぬヒカルを
独り占めに。それが少年と青年の狭間のイヌを相手にしても、泊瀬谷にはかまわない。
 「誰かと過ごした夜って、ずっと思い出になるんだよ。ヒカルくん」
 「……」
 「教室ってだけで、どきどきする」
 泊瀬谷は肩に付いたケモノの毛を摘み取る。白く柔らかい、優しい毛。ネコの泊瀬谷にまとわりついて、未だ興奮冷めやらぬとは、
彼女のためにある言葉なのか。一方イヌであるヒカルは冷静に泊瀬谷の初恋顔に視線を落としていた。彼女が自分より年上だとしても、
ヒカルは落ち着き払って指先まで視界に入れる。ネコの泊瀬谷は高校の現国教師。イヌのヒカルはその教え子。教壇の上と下、
帰り道の路上では世間さまがこしらえた垣根なんか取っ払え、っていっても構わないはず。
 「いつもいる部屋なのにね」と、泊瀬谷の言葉は浮き足立つ。
 朝の日差しが面倒くさい。いっそ来ないで欲しいって、世界中の誰かが思っているはず。でも、ヤツの顔ぐらい立てればいいじゃないか。
早起きさんの勲章は、それをするだけでもらえるのだ。でも、泊瀬谷はそれを否定する。勲章はいらない。ずっと、ずっと。 
 「ずっとずっと、この夜が続きますように、って……大切な時間が……」
 「また、来ますよ。きっと」
 「うん。だと、いいな」
 爽やかな早朝の風が二人を晒す。街はまだ眠気まなこ。泊瀬谷とヒカルが二人っきりなのも見逃している。
 ヒカルの跨る自転車は坂道でじっと堪え、よく磨かれた金属が反射する。やさしい白い毛並みのヒカルは瞬きをしていた。
 「そういえばさ、あの席から先生のこと……ヒカルくんはいつも見てるんだよね。へへへ」
 「……うん」
 「初めて、ヒカルくんの椅子に座っちゃったんだよね。昨日の夜」
 悪ふざけのような言葉を呟いて、泊瀬谷はヒカルの自転車の荷台に腰掛けた。泊瀬谷の肩がヒカルの背に寄り添うように
足を揃えて座ると、ネコの尻尾がイヌの尻尾をいたずらするように撫でる。ヒカルの白いシャツからの淡い香りが泊瀬谷をくすぐる。
ヒカルの香りで安心したのか泊瀬谷は急に不安になった。いいオトナがなんだ。年上なのに、と泊瀬谷は自覚してもよぎる不安。
 「どうして、わたし……ヒカルくんの先生になっちゃったのかな」
 よく磨かれたパンプスのつま先をじっと泊瀬谷は見つめる。
 「先生ね、小さい頃からずっと『先生になるんだ』って思ってたの。何も疑問は感じなかった。つまんないって思うかもしれないけど
 その頃の先生は本気だったんだよ。ほかのお仕事が考えられなかったから。でも……これでよかったのかな?ヒカルくん」
 無意識に泊瀬谷がヒカルの尻尾に爪を立てると、ヒカルは小さく声を出した。それが可笑しくて、泊瀬谷はくすっとほほを緩める。
昨晩のことなんか早く忘れてしまえばいいのに。取り戻せないのを分かっているのに。それでも泊瀬谷は目を細める。 
 「なーんてね」
 「……」
 照れ隠しが痛々しい。分かっているけど、泊瀬谷はそんなセリフを言うしか出来ないのだから。後悔したときほど笑うしかない。
 「ごめんね」
 「先生」
 「なあに?」
 再び泊瀬谷は、ぎゅっとヒカルの尻尾を握る。爪なんか立てない。
 「行ってきます」
 「うん。さようなら……犬上ヒカルくん」

   # 

 ヒカルの学校は相変わらずだ。何があっても動じない。自転車を止めながらカバンを肩にかけると青い空がいやに澄んでいた。
街を走り抜ける市電もまだ走り始めたぐらいなので、誰かが来る気配さえないんだから遠慮することはない。気まぐれで来た朝いちばんだし。
 校門までの坂道での出来事をふと思い出しながら、下駄箱で上靴に履き替えてヒカルは誰もいない学園の廊下を歩く。

 気持ちがいい。
 気持ちがいい。
 気持ちがいい。
 当たり前の言葉を三度並べても、誰もが頷ける心地よさ。
 だから、またひとつ。気持ちがいい。

 朝が早いと周りが広く見える。一時限目の時間まではまだまだ。春と夏を行き交う制服の袖が、いやに涼しくなるのは
この季節だけに味わえる特権。いつもは賑やかな教室が静まり返るなか、ヒカルは上靴の音だけぎゅっと鳴らして自分のクラスへと歩く。 
 思った通り教室には人っこ一人いなくて、扉を開ける音だけが響く。生徒を迎える扉さえでしゃばることを憚ったのか、
ヒカルを通す程に開くと声を上げることをやめてしまった。木目がずらりと並ぶ、暖かいようで冷たい教室はヒカルには新しく思えた。
朝一番に教室に入ったヒカルは、たわわな尻尾をゆっくりとゆらして一歩足を入れるが、誰もいないのがむしろ心地よい。
 さっきまで泊瀬谷がいた教室だ。お日さまはいなくて当然な時間だが時間が経つと、まるで実りの季節の青空市場のようにどこかからとなく人が集う。
それまでの時間はヒカルだけに与えられた自由な時間。だと言っても、ヒカルはただ自分の好きな本をのんびりと捲って過ごすことだけ考えていた。

 くんくんとヒカルは鼻を利かす。ここに座っていた泊瀬谷の甘い香りがしたような気がした。
 お行儀悪いが机の上に腰掛けて、夏へと向かう窓の陽射しを受け止めて、朝のまどろむ時間をしばし過ごしていると、
何でもいいから本の一冊でもいいから読みたくなる気持ちだ。時間だって、まだまだクラスメイトがやって来るまでの余裕はある。
静かで優しい時間と空気はヒカルに何か期待でもしているのだろうか。

   #

 「教室で夜を過ごすって、初めて」
 洗い立ての泊瀬谷の髪の香りが甘く、そして自転車に跨るヒカルに届く。
 「窓から陽射しが差してきたとき……ちょっと嬉しかったし、寂しかった」
 人肌を確かめるかのように泊瀬谷はヒカルの尻尾の付け根を握る。ヒカルの白いイヌの毛並みが泊瀬谷の指に埋もれていた。
ヒカルはそれをしあわせに感じていた。泊瀬谷に尻尾を撫でてもらったこと、それだけでいいんだから。
 「一緒にいてくれてたこと……それだけで、いいんだ。ね、ヒカルくん……」
 「……」
 「しばらく、バイバイね」
 ピョンと泊瀬谷は自転車の荷台から跳ねると、ひとつ大きなあくびをした。少女のように両手で握りこぶしを作りながら、
石畳の坂道を歩く。パンプスの足音ぎこちなく、くるりとヒカルの方へと振り向く泊瀬谷。遠くで市電が走り抜ける音がしていた。
 「きょうはね、先生……お休みです。ネコだけの特別なお休みなの」
 「えっ」
 「昨日の晩は『ネコの夜会』でしたから!」

   #

 昨晩、ヒカルが通う学園で「ネコの夜会」が開かれたという。
月明かりの美しい夜に街のネコたちが集まって、とくに何かをすると言うことなくだらだらと星空を共有する「ネコの夜会」。
文明に操られたネコたちも、どこかできっと野生の香りを嗅ぎ付けて「ネコの夜会」を開きたかったんだろうか。
そんな集いが公園で夜な夜な開かれていた。だって、ネコだから。そう、ネコだから。集まるだけの簡単な会。老いも若きも、
ネコなら誰でも歓迎します。お代は一切要りません。気の向いたときにふらりと寄って、気の向いたときにふっと消えても構いません。
そんなネコの夜会が泊瀬谷が教壇に立ち、そしてヒカルが通う佳望学園で行われた。
 『夜中の学校って、いいよね』と、ネコの誰かが言い出した。そんな呼びかけが、街中のネコに伝わって佳望学園に白羽の矢が立った。
学園の許可は得た。告知も十分にした。あとはその夜が来るのを待つばかり。
 ほらさ、考えて見なさいよ。
 夜の教室。
 夜の廊下。
 夜の職員室。
 夜の体育館。
 夜の保健室。
 日差しに照らされたときとは違う匂いがするから。静かにネコだけの時間を過ごすにはお誂えの場所なんだから。
児童、学生たちにはおすそ分けでないオトナだけの時間をネコの集会に使ってしまおう、ってのがこの企画だったのだ。 
泊瀬谷がこの会を見逃すはずがなかった。教え子が来ない教室に興味を覚えない教師がいるだろうか。
 「ちょっと、わくわくするね」
 近所中のネコが集まった。ある者は教壇に立ち、ある者はベランダから夜空を眺め、ある者はお互いに作ってきたお弁当を見せあいっこ。
学校から離れたオトナたちが、学校を思い出す。誰だって学校にはお世話になったはずだ。でもさ、夜の学校なんて……知らないよね。
 その晩、ひっそりと泊瀬谷はやって来た。トートバッグを肩にかけて、通い慣れた坂道を登る。空には星、丘には校舎。いつものようでいつもでない。
教師と言う身分を忘れて、指定された教室へ足を運ぶ。そこはヒカル、そして泊瀬谷のクラスだった。
 「やっぱり来たか」
 「こんばんは、白先生」
 教室に入るとすでに教室に来ていた先輩の白先生が、生徒たちの机の上にティーセットを並べていた。ゴールデンウィークを利用して、
とある地方の陶器市で仕入れたそうだ。白先生曰く「有意義な無駄遣いができた」らしい。教壇の上には湯沸しポットが白い息を立てながら、
白先生を催促していた。保健医である白先生、普段の保健室と違って普通の教室にいることに少し落ち着かないのか、そわそわとしきりに
自慢するほどでもない脚を組み直していた。色気を振りまく三十路じゃなかろうに。その度に愛用のスリッパが不安定な動きをする。
 「教室で夜を過ごすって、初めてなんです」
 「これもネコだけの特権だからな。ほら、お茶を入れるから飲みなさいよ」
 真っ白なカップは予め温められていた。こうしておくと、お茶の温度がカップに奪われないからだ。ポットにイヌハッカを入れてお湯を注ぐ。
慣れた手つきで蓋をする白先生を、生徒に戻ったかのように、生徒たちが座る椅子に腰掛けて泊瀬谷は目線で追いかける。ジロジロ見るなと白先生は照れ笑い。
 「ほら、ハーブティーだぞ」
 「いただきます」
 こぽこぽと注ぎ口からこぼれる『イヌハッカ』のハーブティー。周りで管を巻いていたネコたちも、魅惑の香りに誘われて心を奪われる。
泊瀬谷と白先生はしばらくお茶をしながら、他愛のない話をしていた。ネコだけの時間だから、何しても自由。ネコたちはそんなこと分かっているし。
 「こうして教室でお茶をしていると、学生時代を思い出しますね。もっとも、こんな高級なお茶なんて手に入りませんでしたけど」
 「ふふふ。生徒に戻った気がするからな。遠い昔の話……だ、なんて生徒の前では口にできないけどな」
 「白先生らしいですね。それにしてもあの頃のわたし、何を考えてたんだろう」

 そろって黒板のほうへ振り向くと、誰もいない教壇が意外と大きく見えた。泊瀬谷は教壇に立つ自分をふと振り返ると、どうして教師の道を選んだのか
自分がまだ生徒だった頃を思い出した。夢だけは見るのも罪はなかったあの頃と、夢を見ることさえ罪な今の泊瀬谷。夢なんか昔に
もっと見ておけばよかったのに。かちゃりと磁器の音が痛く突き刺さる。残りのお茶がカップの中で波を立てて揺れていた。
いっそ、ハーブの香りの力を借りて、自分を都合よく化かしてしまおうか。
 「小さい頃から、先生になるんだって思ってました。何も迷わずに。父が教師をしてたから当然自分も教師になるんだって。
でも、それでよかったんでしょうかね。どう思いますか、こんなわたしのことを。でも……困りますよね、白先生」
 白先生は答えを教える代わりに、泊瀬谷にお茶のお変わりを注いだ。イヌハッカは弱ったネコにいちばん効く。
 泊瀬谷は日に日に短くなる夜を惜しんでか、カップに口を付けて昔を忘れることにした。
 「泊瀬谷が何者であろうと、泊瀬谷とわたしがこうして一緒にお茶をしてるだけで儲けものじゃないか」
 三十路の理論は世を捨てているようで、そして優しすぎる。ポンと泊瀬谷の肩を軽く白先生が叩くと、白先生の白い毛が泊瀬谷の服にまとわり付く。

 夜も過ぎて。明け方になる頃、教室の者たちは学園のシャワー室で汗を流して帰途に着いた。白先生は「ウチより職場のほうが落ち着く」と
言い訳をしてそのまま保健室へ出向き、泊瀬谷はここから帰ることを名残惜しんでか、みんなが帰ってしまった頃に校門を潜ったのだった。
湯上りの体に受ける風が心地よい。花の香りがする。ネコのツメに残る学生時代の思い出を胸に、朝早くやって来るヒカルと帰り道の坂道で出くわしたのだった。
 学生時代の苦味を口に残しながら。

   #

 自転車にまたがるヒカルを目の前にして、泊瀬谷はその夜白先生に尋ねたことをヒカルにもらしたて後悔していた。。
 どうして、自分よりも年下の子に悩みなんか打ち明けてるんだ。先輩の白先生ならまだしも、自分の生徒じゃないか。
 もう、夏の風が吹き抜ける季節がやってくる。学校へ続く坂道、灰色の石畳、彩を捨てた桜の樹。季節が変わる。泊瀬谷も肌で感じる。
でも、記憶はけっして裏切らないし、悪意なく無邪気に泊瀬谷を苦しめる。甘い香りがヒカルに絡み付く。
 「そうだ!ヒカルくん。確か、前にさ。自転車の後ろに乗せてってくれたこと、覚えてるかな」
 「……」
 「先生が自転車の鍵なくしちゃって、帰り道のヒカルくんが……」
 「……」
 「この坂道を一緒に下ってさ……、忘れてるよね」
 自分勝手じゃないか。淡い思い出話をでっちあげたかのような、泊瀬谷のひとりよがり。何昔のことを引きずってんだ。
叱ってよ、どこかの誰か。泊瀬谷は焼けっぱちだ。そういうネコはたちが悪いけどヒカルはそれさえ気にしない。
だって、ヒカルはイヌだから。泊瀬谷は自分がネコであることが嫌になりそうになった。
 「覚えてます」
 泊瀬谷は耳を立てる。
 過去から苦しめられたり、救われたりといい加減にしろと、泊瀬谷は自分自身を恥ずかしく思った。
いやなことを思い出したくないから、一人っきりの夜が短くなればいいのに。だけど、誰かと一緒いるときは、
夜が長いほうがほっとするからそっちの方がいいのかなと、次の夜会を楽しみにしながら泊瀬谷はヒカルに朝のさよならを言うと
家路を急ぐ。歩いて下る坂道は、風が心地よい。

おしまい。

挿絵:彼は誰時