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Break Out ~月の灯~


はじめに言っておきます。
ここからわたしがお話しすることは、いわゆる『夢オチ』です。
しかし、夢だからこそ広がる世界があると思うのです。
因幡リオという現実と空想の狭間を思い違う愚か者がいるということをお許しください。

    #

きょうも新しい夜が来た。カーテンを開けると雲ひとつない夜空が広がり、雪の季節には珍しく清々しい。
時計の針は7時を差し、慌しく準備をする両親の生活音が下の階から聞こえる。
まだ眠い目を擦りつつ、パジャマを脱ぐ。
スカートを履き、脇腹のクリップを止めてジッパーをじりりと上げると、ちょこんとわたしの短い尻尾がスリットから取り残された。
後ろ手で尻尾のクリップを探りながら、きょう一日のことを考える。いつものことだが、癖になっている事実。
「きょうは定例委員会かあ。やだなあ……部費の話し合い」
風紀委員長を務めるからには、委員としてわたしも参加しなければならない。
早く日が昇ってくれればいいのに。そして、何もかも照らしてしまえ。しかし、日が昇るのは全ての授業が終わった頃。

冷えた空気の中、カーディガンに袖を通す瞬間は気持ちが良い。ベッドに腰を掛けて、履きなれたニーソックスに白い脚を通すと、
まるで命を吹き込まれたかのようにニーソはふくらみを帯びだした。膝上の食い込みから溢れるわたしの毛並みが眩しく見えた。
教科書と休み時間に読もうと考えているラノベが詰め込まれた通学かばんを手に、わたしの部屋から夜ごはんの待つキッチンへと向かう。

「マオ、こんばんー」
遅くまで昼ふかししていた弟のマオがだらしなく自分の部屋から出てきた。
冬服のマオはすこし背が伸びたように見える。
やる気の無い声で「……姉ちゃん、こんばん」と返す弟へ、少しちょっかいを出したくなった。
キッチンではごはんに味噌汁という、甚だしくオーソドックスな夜ごはんが並べられているが、飽きが来ないのが優秀だ。
テレビからは「こんばんは」とアナウンサーが揃って夜の挨拶。一日の始まりとしては元気が余りすぎる。
「早く食べないと、学校に遅れるよ」と、母親の声。テレビの占いは、わたしたちウサギがきょうのラッキー2と報じる。
ラッキー1よりかは、何となく気が軽く思える。そう考えると、ラッキー1のイヌが気の毒になってきた。

    #

いつも通う通学路は、光に満ちて星空の存在を忘れさせていた。ある街灯は切れかけてチカチカと点滅する。
夜も浅いので人通りは少ない。わたしたち学生や勤め人がちらほらと眠い目を擦りながら、行く先へと歩いているだけだった。
「リオー、こんばんー」
満天の星空のような底抜けの声でイヌの芹沢モエがわたしに近寄ってきた。彼女とは同級生なのだが、わたしよりしゃれこけている。
その証拠に尻尾の柔らかそうな毛並みが、他の女子よりも噴水のように華やかなのだ。同性のわたしでも触ってみたい。
と、思っているとモエはわたしに抱きついてくる。少しくすぐいったがるわたしを見て、幸せそうに感じる、そういう子なのだ。

「わたしをはづきちと思っていいよ!」
「は、跳月先生は……そういう人じゃありません!」
わたしと同じウサギの化学教師・跳月先生。耳が垂れているのがオトナな雰囲気を醸し出す。
跳月先生の名前を聞くと体は拒まないのに、気持ちは高鳴る。だけど、言葉で拒んでしまうのは不思議だ。
わたしと同じく跳月先生も占いナンバー2だと思うと、ナンバー1のイヌであるモエより気楽に、そしてちょっと共犯意識のようなものが芽生える。
こそこそと、そしてわくわく。それを考えるとわたしはぎゅっと片手を握り締めたくなった。

でも、モエの腕がくるりとわたしの腕に絡んでくる。彼女は「あまがみしちゃうぞー」と、頬を寄せる。
肩まで伸ばしたモエのセミロングの髪が、わたしの口元をなぞる。女の子同士、恥じらいが心地よい。
モエのちょっかいを受け止めながら、わたしたちは市電の走る大通りへと向かった。空は時を刻むに連れて暗くなる。
はっきりと月が浮かぶのが見えた。青白い月にはうっすらとウサギの姿。わたしが月明かりに上せていると、モエがわたしの短い尻尾を握った。
「一時限目は化学だもんね、はづきちの」
はっきり言うと、化学は苦手。複雑に絡み合う無機質な化学式を眺めなければならない苦痛。しかし、それを教えるのは血の通った人と言う不思議。

電停で市電を待ちながら、天に昇る月を見つめていると月のウサギに手招きされているような気になった。
一時限目がゆううつだから、ちょっと月まで遠回り。でも、わたしは風紀委員長。抜け駆けなんか許してくれない。
悲しくも、学校へ向かう市電が灯りを先頭につけて電停へと近寄ってくる。差すように眩いヘッドランプが、わたしたちの影を地面に落とす。
わたしとモエが市電に乗り込むと、暖房で車内がぬくもっていた。しかし、不思議なことに乗ってきた乗客はわたしたちだけ。
冬風に晒されたわたしのメガネが一瞬で曇る。何もかもがぼんやりと目に映るのは、見たくないものを遮ってくれて少し嬉しい。
曇ったメガネを指差してモエは笑っていた。モエが笑ってくれれば、それでいい。

「やだなあ……はづきちの授業」
言葉はウソをつく。ヒトがウソをつくのではなく、言葉がウソをつく。
化学抜きで跳月の化学の授業を受けてみたいと、思いながらメガネをクリーナーで拭くと市電は街をすり抜けて、街灯りを映していた。
ふと、鉄の車輪が刻むリズムが消えて、一瞬お尻が重くなった。お尻どころか、体もだ。
やがて車窓の灯りは消えて、街路樹の枝葉をかすめて、窓の外からはヒトの息づく屋根が眼下に広がって、わたしたちの街から遠ざかる。
長い耳が空気圧のせいかツンと痛くなった。次第に今度は体が軽くなり、ふわりと翻るスカートを慌てて押さえる。
「何?」
「飛んじゃったね……。って、マジどうする?」

わたしたちは月へと向かって飛び立つ市電からほしいままにされるしかなかった。
はるか遠くにわたしたちの学校の校舎が見える。全ての校舎の明かり。夜の始まりと共に、授業が始まろうとしているのだ。
「わたしたち……サボり?」
「ってゆうか、サボり」
モエは心なしか自慢の尻尾が元気がないように見え、わたしはわたしで苦手な授業から逃れられたことの安堵と、
風紀委員長としての責務放棄について悩んでいた。しかし、市電の正面からの月光でそれをぼやかせてくれるような気がしてきたので、
しばらくは学校のこと、授業のこと、そして跳月先生のことを忘れることにした。

    #

「いい加減起きろ。因幡」
目が覚めると、窓は暗かった。夜が近づく。昼が逃げる。黄昏どきと人は言う。
はっとして、ずり落ちたメガネを掛けなおすと、明々と働くストーブとその側に一人の男がいた。
「はっ」
となりにはモエはいない。モエとは「委員の仕事、がんばー」と背中を叩かれた後廊下で別れたはずだ。
しかしモエの代わりにいたのは、化学教師の跳月だった。ここは校内の化学準備室。市電のようなシートもつり革もない。

「あの……。学校サボって、ごめんなさい。わたし、月に行ってました。それで」
「まだ寝ぼけたことを言っているのか?『はづきちー!漕艇部ったら部費がどーたらこーたらで』って泣きついたのはどこの誰だ」
「ひーん。月が、月が」
わたしが向かっていたはずの月は、ぼんやりと東の空に浮かんでいる。月はどう足掻いても、眺められるだけの役しかできないのだと今頃分かった。

月は冷たい。化学のようだ。冷徹な教師のように見える。
「はづきち、聞いてくれますか。わたし、不思議な夢を見ていました」
「……ふう」
帰り支度をしながら、わたしは跳月先生に夢の一部始終を話した。
呆れられるかもしれない、笑われるかもしれない。それでも、わたしはそれでよかった。
だって、跳月先生とどのような形でさえ関われれば、わたしはちょっと幸せなのだから。
ウサギの待つ月へ行かなくて、本当によかったと思いながら、わたしは跳月先生の長い耳を独り占めした。


おしまい。