※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

ライオンに大切なもの


自転車は自分だけの時間を与えてくれる。一人になりたいならば、自転車に乗ればよい。
ペダルに己の力を込めて、ハンドルに自身の行き先を委ねて、すうっと空気に溶け込めば一人きりの時間が流れる。
「……」
風が心地よい。カーディガンでも少し寒いぐらいだ。だけど、体の毛並みはふかふかと体温を護ってくれる。
頬をなぞる風が毛並みを揺らし、季節の変わり目だと自己主張しているのがびしびしと分かる。
学校からの坂道を犬上ヒカルは自転車で駆け下りていた。すっかり秋めいた周りの景色にヒカルの白い尻尾に毛並みが映える。
ヒカルはイヌのケモノの少年。秋の稲穂に負けないぐらいのたわわな尻尾が、吹流しのように風に乗る。

きょういいことがヒカルにあった。そんなときの自転車はまるで自分の考えていることを知っているかのように、
ヤツは素直に忠実に走ってくれる。足取りが軽い。ヒカルはもともと感情を露にしない子だが、尻尾は隠しきれなかった。
前かごに収まっているヒカルのカバンがほんのちょっと重い。だけど、重いから嬉しい。家に着くまで重みでヒカルを押さえくれる。
いつしか自転車は坂道を降りきって、商店街へと差しかかる。賑わいの前の静けさか、欠伸をしている店主を横目に走り去る。
とくに用事はないけれど『商店街』と聞くと、買い物欲が掻きたてられるのはご愛嬌、ですよね。

「あっ」
反射的にブレーキを握り、金属が軋む音を散らばらせると、ヒカルはぐらつく前輪を固める。両足が地面に降り立つ。
尻尾が静かにサドルをなぞる感覚が、尻尾から腰、腰から背中へと伝播してくるのがビシビシと分かる。
「獅子宮先生だ」
学校で現代社会の教鞭をとる獅子宮怜子。その人だ。

八百屋で獅子宮先生を見た。
野菜を吟味する獅子宮先生を見た。
獅子宮先生はライオンだ。ライオンのケモノは皆勇ましい。
威風堂々、教室の空気をごっそりもぎ取ってしまうほどの気配を持つ女教師。
獅子宮怜子の姿をヒカルは視線で追うと、さらにブレーキをぎゅっと握る。

ざわざわと昼下がりの商店街は教室よりも騒がしく、人一人居なくなっても誰も気付かなくないぐらいの賑やかさ。
ただ、獅子宮怜子は違った。彼女はライオン。どんなにたくさんのケモノに囲まれても、彼女が吠えれば皆が振り向く。
もっと言えば、もはや彼女のトレードマークになっている隻眼が、獅子宮怜子の持つ存在感を誇張するぐらいに創り上げていたのだ。

ヒカルは自転車を押しながら獅子宮怜子が物色している八百屋の脇に近づくと、自分自身の気配を消したくなった。
獅子宮怜子に気付かれるのがけっして嫌というのではなく、なんとなく、ほんとうになんとなく、理屈では伝えられない気まぐれ。
野菜選びに夢中になる獅子宮怜子と自転車の前方を気にしながら、カチカチと自転車の車輪を廻すと、
ぴょんとヒカルの目の前に子ネコが飛び出した。反射的にブレーキを握る。金属の軋む音が飛び散る。獅子宮怜子が振り向く。
「なんだ、犬上少年か」
八百屋の中の獅子宮怜子は絶壁の上で雄叫びを上げる獅子と言うより、ダンボールの中に放り込まれた新たな飼い主を待つ獅子のようだった。
ごくりとつばきを飲み込んで、ヒカルは小さく会釈を獅子宮怜子に交わした。

ヒカルは元々口数の少ない子だ。その代わりに言葉や表情を使わずに相手に印象を伝えるのが得意な子だ。
それだけ相手の気を許しやすいタイプの少年。しかし、ヒカルが尻尾を隠して警戒すれば話は別。
「おかしいか?わたしがここにいることが」
「……」
雑踏の中。午後の日差し。
「わたしだって料理ぐらいは……」
意識的に目を合わせまいと獅子宮怜子が横を向く。手には袋詰めされた男爵イモが息苦しそうに詰まっている。
土から顔を出したばかりの男爵イモは、洗ってそのまままるかじりしてもよいぐらいに、生きが良く見える。誰もしないと思うが。
それに気付いたヒカルは恐る恐る獅子宮怜子に言葉をかけた。
「カレーですか」
「ああ、カレーだ」
忙しなく店主が他の客をさばいている中、獅子宮怜子は他の具材を適当に選び会計を済ませた。
一方、ヒカルは心なしか尻尾を揺らすことが隠せなかった。ゆらゆらと、揺れる尻尾。

      #

隻眼のライオンが野菜を詰め込んで、その隣を白いイヌの少年が自転車を押す。増えてきた人ごみの中通り抜ける。
商店街をさよならして、人通りが少なくなった電車通りに抜けると、ヒカルは車道側に獅子宮怜子と歩道で並んだ。
教師と教え子。その関係を知っている者から教えてくれなければ、その答えを導くことが出来ない雰囲気を獅子宮怜子は持っていた。
「先生、カレー作るつもりなかったですよね?」
たわいのないヒカルの言葉に獅子宮怜子が足を止め、ビニール袋の中で野菜がもみ合う音だけを残す。
ヒカルは獅子宮怜子に横顔を許す。逆を言えば、横顔しか許さない。
犬上ヒカルはそういう子だ。ヒカルをよく知る獅子宮怜子だって知っている。しかし、返事はやや歯切れが悪い。

「そ、そんなことはない。料理は苦手だが、わたしだって女の端くれだ。カレーの一杯や二杯」
「カレーに使うのはメークインですよ」
大きく息を吐いたのは獅子宮怜子。これ以上少女のように恥らっても仕方がない。
「そうなのか?」
「型崩れがしませんしね。ぼく、ちょっと先生を試してみたんです。わざと『カレーですか』って。そしたら先生は『カレーだ』と返した」
牙を見せずに、ぐっと堪えるライオンの姿があった。
二人をからかいに後方から路面電車が轟音と共に近づいてくる。
「オトナをからかうんではないっ。犬上少年」
「ごめんなさい。ちょっと……」
路面電車の音が二人の間に割り込む。地響きがするかのような鉄の車の音。

「なんだろう。先生の印象に八百屋さんってなかったから」
レールと車輪のつなぎ目が二人の開いた会話の隙間を救う。モーターの音がけたたましい。
二人の間を繋ぐ電車の音はヒカルにはちょっと恐ろしくも聞こえた。だって、獅子宮怜子が許してくれるのかヒカルには想像出来ないから。
路面電車が通り過ぎませんように。ヒカルは白い毛並みを揺らしながらまだたきをして祈った。
「ふふふ。面白いな、犬上少年。野菜も食うぞ、わたしは」
あっけない答え。
二人に呆れたのか、昭和生まれの電車は遠くに過ぎ去って行った。
再び、二人は歩き出す。信号も二人を見つめてちょっと青ざめていた。

「先生は……、あの」
俯いたままヒカルは獅子宮怜子を呼ぶ。
「先生はライオンですね」
「ああ、どう見てもライオンだぞ」
「えっと、あの。『オズの魔法使い』のライオンですね」
信号機が気を利かせたのか、顔を赤らめて二人の足取りを止める。
「『オズの魔法使い』のライオンは勇気が欲しい『臆病ライオン』。勇気が手に入ると噂を聞いて、人間の少女のドロシー、
イヌのトト、そしてブリキのきこりに藁の案山子と共にエメラルドシティを目指すんです。先生はライオンです」
「わたしがか」
「本当は女の子らしく料理をこなしてみたい。でも、料理は苦手。男爵イモでカレーを作ろうとしてましたからね。
それで勇気を手に入れようとエメラルドシティ……八百屋に向かった。ですよね、獅子宮先生」
「わたしにメルヘンを当てはめるとは思わなかったぞ」
「メルヘンでしょうか?あの物語は。オトナが読んでも十分面白いと思いますよ、多分。
誰だって自分の欠けているものを補いたく思うでしょうしね。でも、ぼくはまだまだそれが分からない」
「若いな」
「若いですね。ダメダメです」
白く大きな尻尾は少し元気がなく見えた。

「犬上少年。ひとつ聞いていいか」
ピンと跳ね上がるヒカルの尻尾がサドルに当たる。道端に落ちていたタバコの吸殻をぎゅっと踏んで、獅子宮怜子は恥ずかしげに問いかけた。
「男爵イモで、なにが出来るかな」
「……」
いきなりヒカルは自転車に飛び乗ると、ペダルに足を掛けた。獅子宮怜子の問いかけを無視しているわけではなく。その証拠に
「コロッケとか、ポテトサラダですね」と、背中を向いたまま答えていたのだから。
「うむ、犬上少年。礼を言おう、ありがとう」
ヒカルは軽く会釈をすると「ここで曲がりますから」と言い残して、自転車をこいで自宅へ向かっていった。
カバンに『オズの魔法使い』の和訳初版を詰め込んで。


おしまい