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無の天使


 

 その少年を始めて見た様々な芸術家たちは、口をそろえてこう呟いたという。
「美しい。」
と。

プロローグ 神々の黄昏について
五百年の昔。世界には文明が飽和していた。
古き良き神の秩序を破り、人々は、生命を作り出した。憎み争い血を流した。
そうしていくうちに、世界の本質である、この世界の《基盤》を崩壊させかけた。
基盤とは、神々が創造した世界を描くキャンバスであると共に、世界を成り立たせる最低基準面でもある。
屈強にして貧弱。温厚にして冷徹。喧騒にして静寂。曖昧にして明確。明にして暗。虚無にして存在。漆黒にして純白。零にして一。濃厚にして希薄。白にして黒。+にして-。罪にして正義。

全ての相反する要素を持ち、全てが同一であるもの。混沌。それこそが、完全にして唯一の根源、『基盤』。
神のみに与えられた、神聖にして汚されざる遊び場。神々は、この上に世界を描く。平和で、豊かで、永遠の世界を作ろうと。
しかし、世界の中枢になりうる存在だった人類は、離反した。科学という名の武器を駆使し、世界を造り替える鍵を見つけた。人は、原子操作により、クローン技術により、《創造》を知った。知ってしまったのだ。
それらを利用することが、神々が描いた絵画であるこの世界の基盤を作り変えるのと同義であるという事も知らずに。
こうして、人類は、自覚はあるのに、罪の意識もあるのに、しかし野望と希望を両の翼にして、

神の、領域を、侵した。

神の鉄槌が下り、人類の築いた科学による千年王国が崩壊するまで、十年とかかる事は無かった。
相次ぐ天変地異。最早、豪雨干ばつ等、異常気象は常識で、繰り返す大地震と大竜巻は、人の力による建造物群をことごとく破壊した。さらには地殻変動が始まり、北米大陸とユーラシアの大部分そしてオーストラリアと、文明の拠点だった土地は海中に没した。
火口より噴出す硫化水素ガスと、地球規模で蔓延した新型ウイルスにより、八十億の個体数を誇った人類も、九割方が死に絶えた。
そして十年目。これこそが最後にして最大の罰である、《基盤改ざん》が訪れた。
世界形態は一変した。これまで人類に恩恵を与えた《海》が瞬時にして、一滴残らず、干上がったのだ。
砂漠世界時代の到来だった。
それでもなお、生き残った人々はわずかに残ったオアシスに、こびりつくようにして生きている。

これは、そんな滅びの世界での物語である。


1無の天使とナーガの関連
少年は、特異な血の持ち主だった。
父親と母親は蛇人族、蛇と人、両方の姿を持ち合わせる生き物だった。
そもそも蛇人族とは、太古の昔世界の創造にかかわった蛇神の一族、ナーガ族と人との混血児から始まった。
蛇神ナーガ族は、複数の頭を持つ蛇や、人の上半身を持つ蛇として描かれる。
もともとは蛇の化け物の一種だったが、世界創造にかかわった功績を認められて神になったという。
ナーガと人との混血は、長い時を経て、やがて人の領域で暮らすようになって来た。
ナーガの、神の領域は人の血の入った混血にはあまりにもつらすぎたのだ。
そして今、蛇人族は人の領域からも独立し、蛇人族の領域をつくって暮らしている。
しかし、時たまに血が濃くなるなどのハプニングが起こると、その血はまれに、先祖帰りを起こす。
人の血のほうがわずかにまだ濃いものの、ほかの蛇人族よりもナーガに近い存在。
言ってみれば、初代の蛇人、ナーガと人の初めての混血児と同じような血の配分をもった子が生まれるのだ。
少年は奇しくもそのパターンに当てはまり、ナーガにこの世で一番近い人間となった。
しかしナーガの血が中途半端に強いため、彼には恐ろしい能力がふたつほど備わった。
一つ目は、人に殺意を抱かせる力。被殺害性因子を、生まれた時から保持していたのだ。
彼を認知した人間の大部分は、彼に殺意を抱き、彼を殺害しようとした。
彼はいわば幼いころ遊んだシャボン玉のような存在なのだ。
はかなく、綺麗だから、つい無償に壊したくなる。
いや、それは実行に移され、彼は何度も壊されてきた。
しかし皮肉にも、ここで第二の力が役に立つ。
肉体が殺されると、蛇の能力をもった人間に身を転じる力。
蛇の身体を持つことと、蛇の能力を持つことには、段違いな差がある。
前者は蛇であって、たとえ人の心を持っていたとしても蛇なのである。考えるのも、何をするのも、蛇の脳なのだから。
しかし、蛇の能力を持つことは、人+蛇という事だ。
両方のよいところを掛け合わせ、しかも格段に身体能力が上がる。
そして傷の治りも速くなる。
言い換えれば、彼にとって自分を殺した奴の一人や二人、瞬時に復活してしっぺ返しを食らわすなんて簡単だ。と言うことなのだ。
まあ、そういった欠点から、蛇人族の祖先は人の社会と縁を切ったのだが……。
蛇人族にもいつしか人の血が少しずつ混ざり、その力も薄れた……。
普通の人間とほぼ同じになった蛇人族の中に突如生まれた少年は。

小さな村の中、家族を除いた全ての蛇人族から迫害されるようになった。

例えば、近所の子供ら。友人たちでさえその血に惑わされ、少年に包丁を突き立てて遊んでいたと言う。
はじめはさほどではなかったが、少年はいつの間にか友人の中でのペット、奴隷、……いや、玩具に成り下がっていた。友人らにはいじめをしているという意識は無かった。どれだけ刺しても姿を変えてよみがえる人形で遊んでいる感覚。
そして決まり文句。「化け物め。」
痛みは感じる。死ぬ。蛇人になる。しかし、蛇人になる前から彼の身体は縄で縛られており、全くの無抵抗状態。
家に帰るころには人に戻り、当然のように傷は癒えているので、長い間気付かれることは無かった。
やがて、彼の顔からは表情が消えていったと言う。
しかしもうそれは手遅れの合図であり、その日、それは起こった。毎日毎日虐められていた少年は、そして少年の中のナーガは、成長していたのだ。それこそ、とうとう縄を素手で千切れるほどに。
少年が理性を取り戻したとき、そこには元友人たちが累々と横たわっており、命の息吹などは全く感じられなかったと言う。
鮮血の中、少年は狂ったように叫び、叫び続けて、のどがかれてもなお叫び続け、そして駆けつけた蛇人族たちに、有無を言わさずもう一度殺された。
彼らは、いじめっ子たちの親だった。
そのうち、蛇人族の都からたくさんの役人やら研究者やらが駆け付け、村から少年を連れて行った。
少年はもうすぐ十歳の誕生日を迎えようとしていた。


2若き盗賊団長の末路
盗賊から足を洗って一年。ようやくこの日が来た。
皮の上着に白いシャツ、黒目に黒い三つ網の青年、コアンはぴかぴかに磨き上げた看板を、店の戸口にかけた。
「レパードなんでも相談所」
とある。早い話が興信所である。
彼は、幻と呼ばれた盗賊団、レパードの若き団長だった。
盗賊団レパード。
はじめは、どこにでもあった小規模な盗賊団で、主に追いはぎや馬車襲撃など、「みみっちい」仕事をしていた。しかし、父親の死を機に、団長の名前を告いだコアンは、若干十六歳にしてレパードを変えた。
相次ぐ美術館や宝石店への強盗。
しかも利益の半分は貧民に分け与えると言う半ば義賊。
庶民のアイドル的な存在となった盗賊団。
当時突破不可能と言われていた警備システムを次々と破った天才。
長い黒髪をたらした盗賊。
それがコアンであり、コアンの盗賊団であり、コアンの仕事だった。
だが、二年も続けると、さすがに飽きた。
それに、掛け替えのないものを失うことの悲しさを学ぶ機会があった。
そのコアンのとった行動はただひとつ。
「よし、みんなで新しいまともな職に就くか。解散!」
なんと三日にして全団員を更生させたばかりか、それまでの利益半分をすべてもとの持ち主に返してしまったのだ。
こうして、盗賊団レパードはあっと言う間に裏社会から、そして表社会からも姿を消したのだ。
その後一年間、コアンはバイトバイトの毎日を送った。
団員たちには全員分職場を与えたのだが、肝心の自分を忘れていたのだ。
そして。コアンは節約でためたお金で家を買い、(路地裏だったけど)とうとうレパードなんでも相談所を開業した。
盗賊時代のいろいろな経験を何とかして、人のために生かせぬかと考えた上での結論だった。で。
それから三日がたった。
一日目はにこにこと、二日目には退屈そうにカウンターに座っていた彼は、いい加減ぶち切れた。
「だあああっ!何でお客がこねえんだ!!」
頭をかきむしり、のた打ち回る。
その時、からからとベルが鳴ってドアが開き、入ってきた依頼人の夫婦と、ぼさぼさになった三つ編みのコアンの眼が合った。
「……」
「……」
無言で眼を逸らし、そそくさと店を出て行こうとする夫婦の、夫の方のズボンの裾にコアンはしがみついた。

数刻後

「なるほどねえ。政府の下っ端さんが自ら誘拐に監禁ねえ。面白えじゃん。」
三十分後、どうにか体裁を繕ったコアンは夫婦の話を聞いて顎に手を当てた。
夫婦と向かい合ったソファー。真ん中にあるテーブルの上の紅茶は、冷めかけていた。
「ええ。あの子がかわいそうで、私……。」
「それだけではありません。最近出回り始めた芸術作品の中に、どう見ても息子がモデルだとしか思えないものがちらほらしているのです。」
母親と父親の交互な発言に、にやりとコアンは口の端をゆがめて笑った。
「しかもその芸術作品がやたらと高価なんだろ。発売元も政府だったりして。」
「そうです、その通りなのです……。」
母親の目には涙がたまっている。
「ほーほーほー。つまり政府の下っ端さんは、正当防衛なのに罪人扱いされて転がり込んできた息子さんを、通常の裁きにかけずに監禁したわけだな。しかも芸術作品のモデルにしてそれを売りさばき、親玉の懐を潤していると。」
「私は……私は許せません!蛇人族の村も、政府も。あの子の血にどのような因果があろうと、それを異端者として扱ったり、殺して遊んだり……。しかもその上、芸術作品を通して晒し者にするなんて!!」
ドン!父親がテーブルを叩いた。紅茶が揺れて、一滴がテーブルにこぼれた。
「しかも……。作品の中の息子は笑っていないのです。だからと言って悲しんでいる顔でもない……。作品の題名はなんだかわかりますか?!どれもこれも、すべて、『無の天使』なのです!!あの子の顔には表情というものが一切なかったのです!!どれだけ傷つけられれば、あのような顔になるのか……。」
母親も、くしゃくしゃの顔で叫んだ。
コアンは思考に入る。
(『無の天使』ねえ。確か見た事があるな……。絵画だったか……。
ああ、オークションか。そういや結構な値で取引されていたな……。
なかなか佳い作品(ルビ:いいもの)ばかりだった……。
だが、モデルのあの表情はいただけねえと前から思ってたんだ。)
「もう一度聞くが、そいつは正当防衛なのに捕まったんだな?」
「はい……。」
「よし! 俺に任せろ!! そういう奴は放っちゃ置けねえ。そいつを一丁その都から救い出して、うんにゃ、盗み出してやろうじゃねえか!!!」
「出来るんですか?」
「当たり前だろ? 俺は、一年前一世を風靡した盗賊団レパードの、元団長だかんな!」
ドン!キラキラ光る両親の四つの目の前、コアンは自分の胸を叩いたが、勢いあまって、むせ返った。


3邂逅の日
一ヵ月後……。
コアンは蛇人族の都の宿屋に来ていた。色々と苦労は、した。
怪しまれながらも、関所は偽造通行券と袖の下で突破。
人間である事を理由に、いろいろなところで疑われたりした。
同じように、人だから、とレストランで門前払いを喰らい、ご飯も食べられない日があった。宿屋も然り。
この、蛇人族の地では、人間差別が深く根付いている。
しかしコアンは、どんな逆境にも負けない自身があった。どんな仕事もやり遂げるプライドが会った。初めての仕事を成功させようとする気迫があった。
そして何より、あの虚無の眼をした子供を救い出したかった。
色々と聞き込みをし、計画を練る。そしてコアンは、今夜決行と言う所までこぎつけた。
しかし……。
「どういうことだったんだ、ありゃあ。」
宿のベッドに寝っ転がるコアンは、三つ編みにまとめた髪をいじくって、口に手を当てた。
あの夫婦は言った。
『あの子を救い出したら、しばらく外の街を見せてやって欲しいのです。』
『あの子はまだ外の世界を見たことがない。だから・・・・・・。私たちにも逢わさなくて良い。二人で旅に出てあげてくれませんか?』
『もちろんお金は払います!蛇人の村には戻さないでください!』
いつまでの旅になるか分からないと言うので、せっかくのレパードなんでも相談所も引き払い、旅支度も整えてここまで来たが、彼らの台詞のうち、一部分が気になった。
『私たちに逢わさなくてよい。』
一体……。
一刻も早く逢いたいからコアンに依頼をするのではないのか。
それを、逢わさなくてよいとは……。
コアンはしばらく考えにふけったが、あまりいい考えは浮かばなかった。
「ま、いいか。」
寝転んでいたベッドから腹筋の力で立ち上がり、コアンは身体の関節をコキコキと鳴らした。骨には悪いのだが、こうしないとやる気が出てこないのだ。
「よっしゃ。盗賊コアン様復活!」
わけのわからない気合い文句を発し、彼は宿屋を後にする。

少年はとろりとした目で……いや、ぼうっとしているのではない。なんの感情も、光すら返さない眼で檻の外を見た。
「オオ……オオオ……なんと美しい。この子こそ、私が長年捜し求めていた『無の天使』だ……。」
先の丸まった八の字ひげに、ベレー帽と言ういでたちの、なんとも解りやすい画が、檻の中に居る少年を頬に手を当て、宝石でも見ているような眼で見つめている。
その横で、神官がいつもの様に揉み手をしていた。
(先ほどから、何か、おかしなものが騒いでいる。)
そういった事実を確認すると、少年はふっと目を逸らした。
「いいねえ、良いねえ、美しいねえ。ぜひとも私の絵の題材にさせていただきたいねえ。」
「いいでしょう、いいでしょう。この少年こそ我ら蛇人族の生んだ奇跡、ナーガの血を色濃く受け継ぐ子、ですよ。」
「この子を描くんだったら、私の絵の値段も鰻上りだねえ。何せこの無表情!ここまでの ものを造るのにはどれだけの年数がかかったことか。でもおかげで高い絵が描けるねえ!」
「ええ、ええ。そして利益は……。」
――山分けにしよう。
絵描きと神官、二人の大の男、しかも良い年したおっさんがダンスを始めたが(BGM・ヴィバルディの春)、少年の目にそれは映っていない。
十ヶ月前から、ずっとこういう生活をしていた。
朝から晩まで窓のない地下室の檻に入れられたままですごす。明かりは油のよく切れるランプひとつ。看守すら居ない地下牢で一人ぼっち。
ふるさとに居るころからあった無表情は、ここに来てついに完全なものになった。
何かに興味を示すこともせず、食事や排泄などの生きるために必要なこと意外は何もしない。感情なんて期待するだけ無駄だ。その瞳にはもはや絶望すら映っては居ない。
ただひたすらな無表情は、ある意味とても神々しくて、思わず見とれる程だったと言う。
そしてたまに今のように、檻越しに神官と芸術家が訪れ、彼の表情を使って優れた芸術作品を創って行った。
絵画、彫刻、版画、小説、写真……。
その少年を始めて見た様々な芸術家たちは、口をそろえてこう呟いたという。
「美しい。」
と。
「言う」のではない。「呟く」事しか出来なかったのだ。
しかも、ありふれた賞賛の言葉だけを。
いろいろと回りくどい表現方法を持っているはずの小説家たちでさえ、彼を見た瞬間に表せる言葉は持ち合わせていなかった。
声を出すことも憚られるほど、その少年に圧倒されていたのだ。
しかし誰が檻の外におり、何を言おうと、少年の虚ろな目は動く事無くぼんやりとよどみ凍りつき、光を返すことはなかった。
そう。それは今日も同じ。
夢中で筆を動かす画家と、ホクホク顔でそれを見つめる神官。
描かれていることを自覚しているのか居ないのか。少年はピクリとも動かずただ地面を凝視していた。
途中から自分を見る画家の眼が変わったのにも、気付かないで。
数時間がたち、ようやく絵が完成した。
「いやあ、すばらしいねえ。この少年の名前は何と言うのかね?」
「聞くだけ無駄ですよう。こやつは何せ呪われたナーガの血を持った子供ですからね。」
「それもそうだねえ。わっはははははははは……」
「ははははっはははっはははは」
神官たちの声が遠ざかる。
少年のいる地下牢の階段を上りきり、そこで画家は再び口を開いた。
そこは屋外で、もうすっかり暗くなっており、神官の位置から画家の顔は見えない。
「そうだ。ところで君、あの少年を私に預けてみないかね。」
それ来た!神官は思った。
神官は特別な術によって防いでいるのだが、あの少年には出会ったものの殺意をあおる力がある。だが、その誘惑に任せて彼を殺してしまうと、今度は怒り狂う蛇神が出てきて、 強力なしっぺ返しを食らうことになる。
そのことは、彼の故郷から送られてきた文書で知っていた。
保身には一生懸命な人だから、神官は、常に体力を消費しながら、自分自身に神術を掛け続けている。
だが、さしもの神官もそれほど信仰心が強い方ではないので、新術の力も弱く、自分以外に術はかけられない。
したがって少年に出会う芸術家たちは、少年の能力から護られていない。そのため、この男のように、自分のものにして後でじっくり殺そうとたくらむものが後を絶たないのだ。
しかし、少年にそうおいそれと人殺しをしてもらっては困る。
芸術家が化け物に殺されて、しかもその化け物が前、神殿にいたなんて噂が広まったら……。
「いやぁ……、あの子は化け物とはいえ、私たちの大切な資金源でしてねえ。そう簡単に手放すわけには……。」
画家は渋る神官の言動を少し取り違えた。
金さえ出せばいくらでもどうぞ、と。
「じゃあ、これでどうだね。」
画家の差し出した小切手を見て、神官は歩みを止めた。その脳裏を、札束の鳥が縦横無尽に駆け巡った。ごくり。知らず知らずのうちに喉が鳴る。
神官は、職務にはある程度忠実な人間だったが、自分の金集めにも一生懸命になれる人物だった。
(仕方ない。上には逃げられたとでも言っておこう。)
「ならば……」
一瞬の思考。神官が返事をしようとしたときに、おおいかぶさる声があった。
それは、恐れおののく兵士たちの声だった。
「侵入者だ……っ!!!」


4天使の飛翔するとき
少年は、膝を抱きかかえた姿勢を変える事無く、床を見つめている。
彼の無表情は、自分を護る盾。決して感情や思考それ自体がなくなったわけではなかった。ただ、外からは見えないように隠していただけだ。
だから、少年は考える。少年は、頭の中で呟く。幸せになる道を探そうと、必死で。
思考の間だけは自分は幸せだ。本当の今はどこかに隠れてしまうから。
今は、逃げる方法の模索。
……もう殺されるのは、いやだ。
蛇の姿になりたい。蛇になれれば、きっとここからにげられる。でも、僕は死なない限り蛇にはなれない。いっそのこと殺してくれたら楽なのに。
そしたら、ぼくは蛇になれる。蛇になって、あいつらみんなかみついてひきちぎってけりとばしてなぐりつけてこわい目にあわせてやる。そしてここを出るんだ。
パパやママには会いたいけど、今度ばかりはあの人たちもぼくの事をころしたいと思うかもしれない。
誰とも会わなければいい。誰も居ないところに行けば良い。自分ひとりで生きればいい。
だれもいない砂漠のまんなかに行こう。
誰も僕を壊そうとは思わないし、僕もやがて寂しくは無くなるだろう。だから。
早く、僕を…殺して……。
少年は、自分にまだ願望が残っていることにほっとする。歪んでいようと、狂っていようと、少年が「しあわせ」になれる唯一の方法を、望めている(・・・・・)事に。
望みというものが、人間全てに普遍的に備わっていなければならないものである事すら忘れて。
でも、せっかく持った望みも、なかなか実行に移されることはない。
想像と現実を隔てる線。それは、越えてはいけない線。越える事等始めから出来ない線。
実行に移すには、リスクがいる。
少年にとっての今のリスクは、なんだかんだ言っていても、何度経験していようとも、死ぬのが怖い、と言うこと。自分から蛇になど、なれないということ。
それは相手にもとっくに解っており、だから脆い地下牢に衛兵もなしに入れられている。
逃げることなど出来ないから。逃げるために自殺なんて出来ようはずがないから。
少年は、死ななければ絶対にナーガの姿にはならない。なれない、ならせないから。
ナーガには役不足の神殿地下の牢屋も、無力な少年相手なら思う存分付け上がる。
少年は、線を越えられない。もう逃げることは、出来ないのだ。
少年は、目に憂いを浮かべようとした。しかし、そのよどんだ色が動く事は、最早ない。

無いように、思われた。

その時。
ズーンと言う重い振動が彼を襲った。建物自体が大きく揺れ、彼は床の上を転がる。
「……?!」
何が起こったのか把握できない。
しかし、続いて爆発音と共に石造りの天井が壊れた。
少年は二三度目をしばたたかせ、起き上がった。その真横にいきなり元天井の大きな石が落下する。
少年はそれを無表情に見つめた。
いや、それひとつではない。何個も、何個も。
石は落下と同時に砂煙と小さな破片にバラけ、飛び散った。
食らったらひとたまりもない。石は少年が手を広げたぐらいあるのだ。小さな少年なんてあっと言う間に頭からつぶされてしまうだろう。
……当たったら痛いだろうな。
少年はやっとのことで命の危機を感じ、逃げようとしたが思いとどまった。
……そうだ。今ここで死ねば蛇になれる。
少年は動きを止めた。砂煙が濃くなり、目を開けていられなくなる。
ガラ…ひとつ……、ガラ……またひとつ……。
落ちては地面に吸い込まれるように崩れていく天井の石。少年の頭上の天井が崩れた。
少年は動けない。少年は動かない。
今、少年は線を超えようとして……。
「おーい、今助けるぞー?!」
いきなり、場違いな明るい声が頭上から聞こえた。何がなんだか把握出来ないまま、 少年の身体は軽々と宙に浮いた。

「……え」

否、少年は身体にロープを巻きつけられ、遠心力に任せて引き上げられたのだ。
一瞬のことだった。
『無の天使』は、初めて天使らしくふわりと宙を舞い、
「よっと。」
温かい腕の中に抱きとめられた。
「あ……」
少年の無表情は一瞬崩れ、驚きが顔の表面を支配する。
腕の中自分を見上げる少年を見据えた後、コアンは、にこりと笑った。
「あの……」
少年は口を開いた。今助けるぞ。それは、少年が十年足らずの人生で、一番渇望していた言葉だった。…どうしてぼくを助けてくれるの? そう聞きたかった。
しかし、少年の見上げる男は、笑顔で、立て続けに言葉を放つ。
「悪い悪い。怖い思いさせちまったな。爆弾を使ってちょっと壁を崩すだけのつもりだったんだが、火薬の配分を間違えちったよ。……俺はコアン。あんたのご両親に依頼されておまえのことを盗みに来た盗賊だ。」
自分を助けに来た理由は分かった。しかし、次の疑問が浮かぶ。
どうしてぼくを殺したがらないの?
この時のリークには知る由もなかったが、彼の非殺害性因子とでも呼ぶべき特性は、祖先を同じくする蛇人族の間でしか通用することがない。
方やコアンは一介の人間である。彼にとっては、先祖がえりをしたナーガであるリークも、神官たち一般の蛇人族も、関係のない、異種の生物なのだ。
この瞬間、リークは始めて、自分たち蛇人族とは異なる種の生き物と、相まみえたのであった。
「あの……。」
少年は、震える口を開いた。コアンは、首をかしげて声に耳を傾けようとする。
その時、どたどたと足音がして、邪魔が入った。神官と画家、それに衛兵たちが駆けつける。
「その子供は私の物だ。返してもらおうか。」
画家が叫ぶ。その隣の神官は相変わらず腰低揉み手だ。でも目は笑っていない。
「画家大先生もそう言っておられる事ですし、ね。」
その神官の言葉を合図に、衛兵たちがいっせいに持つ槍を、刀を、コアンに向ける。
だが。
「へー。少しは鍛えてあるんだ。」
コアンは不敵に笑う。
ニヤニヤとしたわけのわからない男に、画家は叫ぶ。
「早く子供を渡さんか!!!」
びく、と震えた少年は、目を瞑りコアンにしがみつく。
「こら、男の子なんだから我慢しろ。」
それを聞き少年は不安そうにコアンを見上げた。
「と、言いてえトコだが……。」
同時にときの声を上げ、衛兵が飛び掛ってくる。
いきなりのハイジャンプでそれをよけたコアンは叫んだ。
「怖くて当たり前だ! だが、いいか? 生き残りたかったらしっかり掴まってろ! 歯ぁ喰いしばらねえと舌噛むぞ!!」
力を緩めかけた少年はあわてて今一度コアンの服にしがみつき、口を閉じた。



5 蛇人族
すばらしい脚力でまず一人目の衛兵の頭を踏み台にし、コアンは跳んだ。
二人分の体重を顔面に受けた、かわいそうなその衛兵はグシャ、と嫌な声を上げて地面とコンバンハする。
その間にコアンは石造りの神殿の屋根に降り立った。そこは平らになっている。
「ああっ! 神聖なる神殿の屋根に土足で上がるなんて!!」
神官は卒倒しそうになる。
もともと強くなく、しかも腐っている信仰心が痛んだわけではない。ただ、こういうことになると、熱心な上司に責任を問われる事にもなりかねない。それだけは避けたい事態だった。
「えーい、屋根に上れ! なんとしてでも捕まえろ!!」
画家は必死になって指示を出す。
本当ならば今この場で指揮権を持つのは、いまや地面にへたり込んでいる神官なのだが、衛兵たちもただ飯食いでは肩身が狭い。
どうせならしっかり暴れようと次々と壁をよじ登る。
その事実に神官は泡を吹いて後ろ向きに倒れた。夢の中で、どう責任逃れをしようか考えるつもりなのだろう。
一方、階上では、少年が、コアンと出会って初めて意味のある単語を口にしていた。
「高い……。」
いつしか表情が生まれ始めている。高台から見る夜の街に感動しているのか。
その目は大きく見開かれ、そこかしこを見回している。
砂煙にうっすらと浮かぶ町の明かり。
道の脇につけられたランプの街灯が規則的に並び、その周りを薄く光が円を書いている。
それ以外は全くの闇。
民家の明かりはとっくに消されている時間帯のようだ。
「こわいか?」
コアンに聞かれて少年は首を横に振る。
「よし、えらい。もう少し我慢しろよ。なんせこれから大立ち周りだからな。」
コアンは少年の頭をぽん、と押さえた。びく、と少年が震える。
その直後、まず五人の衛兵が屋根の上に上ってきた。
「フツーにやっつけたんじゃ面白くねえからな・・・・・・。」
五人はコアンを中心に円、包囲網を作り、けん制する。どうやら本能的にコアンの技量を推し量ったらしい。強そうだからみんなでいっぺんにやっちゃおう、という暗黙の了解が透けて見えた。
「だからといって……。」
頭の上を槍がかすめ、コアンは身を軽く沈めて交わす。
「アクロバティックな事も不可能だよな……。」
少年の腕力では側転をしただけで振り落とされてしまうだろう。
「しかし五人一片に殺っちまうのは荷が重いし……。」
膝と背骨をうまく使い、S字になって突き出された槍をかわすコアン。
「人死はこいつにゃ見せれない、と。」
リークを見、跳躍。
足の下を剣が交錯。
人死に、何てことばは、使ってみただけで格好つけているだけだ。実を言うと、そんな経験は一度も無かったりする。
「はぁぁぁぁぁっ!」
と、やり使いの兵士が渾身の突きを食らわせてきた。
「危ねっ!」
ぎりぎり避けると、脇のすぐそばに通る槍の柄を見て、コアンは戦法を決めた。
「槍、も~らいっと!」
交わしたまま相手方に一歩踏み込み、槍の柄をむんずとつかむと、目にも留まらぬ早 業で相手の目玉にチョキをした指を押し付けた。
「目潰し!」
コアンが指を抜くと、相手は目の奥の神経を圧迫された所為で気絶した。
彼は、いや、いまや再び戦地に蘇った盗賊は、倒れ行く彼の腕から細身の槍を抜き取り、頭上で回転させた。
後四人。
コアンの目は油断なく周りを見回し、まずリーチの分有利にいける剣使いを狙うことにした。
「ウリャ!」
相手よりも早く仕掛ける。剣使い二人をターゲットに、まず軽く刃先を薙いだ。
二人の鎧を、真一文字の奇跡が掠め、火花が散る。
鎧の硬さは予想通りで、なまくら槍の刃なんぞでは突き通せない。でも、これでいいのだ。
「ひっ。」 
二人は思わず萎縮する。
「そーれっ!」
ガキン!
挑発とも掛け声とも取れる声を出し、コアンは再び槍を払う。重い金属音と共に二人の刀はあらぬ方向に飛んでいった。
二人は、助けてくれー、とかおっかさーん、とか叫びながら、我を忘れて屋根から飛び降りた。直後、地面の辺りで、嫌な音がした。
「ま、この高さなら骨折で済むな。」
ニヤニヤと笑いながら、コアンは下を見下ろす。
後二人。
と、その無防備な背中にしがみついていた少年が、後ろを見て「あ……。」と、声にならぬ声を上げた。その眼が、久しぶりの恐怖に凍りつく。そこに、兵士の持つ、振り上げたこん棒が大映しになる。
「教えてくれてありがとよっ!」
少年が捕まっている背中が、いきなり、地面に向けて傾いた。少年があわてて手を放す。
コアンは、屋根のふちで倒立をした。片手は槍を持ったままで。
「ぐわっ!」
後ろから襲いかかろうとしていた兵士は、顎を蹴り上げられ、仰向けに宙を舞い、頭から床面に激突した。
「バーカ。正々堂々やんねーからいけねえんだよ。」
言いながら、コアンは片腕の力で跳躍し、一回転して床面に降りる。ついでに兵士の身体をけり落としておいた。
驚きと、歓喜に満ちる少年の眼。相変わらず頬に変化はないものの、瞳には輝きが戻りつつある。出会ったばかりと言うのに、すっかりコアンに全面の信頼を寄せている。
「ようやくいい顔、できるようになったじゃん。」
コアンは彼の頭に手を置いた。眼を瞑りながらも、少年は嫌がるそぶりは見せなかった。
しかし。
それまで、茶番にも等しい大立ち周りを見ていた一人の兵士が、もたれていた壁から背を離した。服装も、帽子も、規定のものとは少し違っている。なにしろ、眼だけが見える覆面をかぶった、全身黒ずくめ。それも、身体にぴったりした革服と、あまりにもこの状況下にそぐわない。防御力も殆どなさそうだ。
やけに身体の線が細く、背丈も低い。少年兵なのだろうか。
「さーて、残すはあと一人。」
挑発的な言葉を投げかけたはずのコアンだが、語尾が震えるのが自分でも分かった。
つきを背に立つ兵士は、きわめて自然体だ。月による逆光で顔が見えない。
しかし兵士は、今までの兵士たちとは、明らかに異質な雰囲気を放つ。これまでの普通の兵士とは違い、禍々しくも粘着質な気。
その正体の理解を、本能が拒む。コアンの頬に、汗が伝った。
しかし、その臆病にも似た希望は、暫らく後に、見事に破られる事となる。
「…『無の天使』……。……絶対逃さない……。」
その声。それは、二重にコアンを戦慄させた。
一つは、今日出会った少年と、等しいほどの無表情にして無感動、無抑揚な音質。
そしてもう一つは、声がやけに若く、甲高いというところで……。
「女か……。」
コアンは呟く。女性で、しかもここまで細い体つきをしているにもかかわらず、瘴気をも感じさせるじっとりした殺意が漂ってくる。武器を持っている様子は無い。
身のこなしの軽い彼の事だ、こんな華奢な女性相手に喧嘩をしても、普段ならば楽勝、のはずである。
だが、この不安は一体何だというのだ。
呟きを聞いた女の目が、心なしか光ったように見えた。その色は、コアンの後ろで震えている少年と同じ、濃い緑。
「だから……、何になる?私は女。戦いに向いた身ではないのは承知している。だが、それで忠誠心が揺らぐわけではない。」
闇に浮かぶ二つのエメラルド。それが瞬時に赤く染まり、瞳孔が縦に切れ上がる。
空気が瞬時に、凍りついたように凝固する。コアンは、手で少年に離れるよう合図した。
「貴様の死という事実もな!」
女は跳躍した。コアンの跳躍を遥に上回る脚力。
真っ直ぐ、コアンに向かって降りてくる、頭上からの、重力を伴った蹴り。いわゆるドロップキックという奴だ。それは彼女の軽そうな身体でも、十分な威力を発揮するのに違いない。
しかし。コアンの手元には、槍がある。彼女の脚のリーチをゆうに上回る槍が。
これを使えば、彼女の足がコアンに届く前に串刺しに出来る。
そういった安易な発想から、コアンは槍を構え、
「――だぁあっ!」
腰を支えに、上に向かって突き上げた。相手は空中、避けられる筈がない。
そして、女の表情は……

にやり

と歪んだ。
「?!」
コアンが眼を見開く。この状況下で、何故笑う? コアンは自問する。
それは、コアンの出した「突き」こそが女の最も望んでいた攻撃だったからだ。
コアンは失念していた。この戦いという本来女性の参加がそぐわない場所に、装備もロクにしていない彼女が居るという事は、彼女には男性を上回るアドバンテージがあるということ。防具の装備すら必要としなくていいほどの――。
自答した瞬間、ビルン!!気色の悪い音を立て、わずかに槍の矛先をずれてコアンのほうに向かった脚が、旋回してコアンの胴体に巻きついた。
いや、脚などではない。人はそれを足とは呼ばない。なぜならそれは……。
「……なるほどな。《蛇人族》とはよく言ったもんだ。」
蛇人族。蛇と人、双方の姿を併せ持つ種族。
締め上げられた手から、乾いた音を立て、槍が落ちる。
女性の脚は、いつしか蛇の尾になっていた。女性は、コアンの槍が身体に届く瞬間、人間の皮を破り捨てた。いまや彼女は、一匹の巨大なニシキヘビへと変異していたのだ。


6アンタの幸せ
ギチ……、ギチギチ……。
鱗と鱗がこすれあい、嫌悪感をもよおす音を立てる。その尾に幾重にも胴に巻きつかれ、元盗賊は呼吸もままならない。コアンは、あまりの圧力に眼が眩むのを感じた。視界が狭くなる。暗くなる。
ものが、認識できなくなる。
「くそっ……。」吐き捨て、抵抗を試みるが、間接の急所を締め付けられているの で、力を込めることが出来ない。
「うう……。」
無駄とは分かっていたが、胸元に手を伸ばさずに入られない。
(あいつさえ呼べりゃぁ……)
「無駄だ。あまり抵抗すると、骨にひびが入る。」
コアンの目論見を、冷淡な声が破り去った。
伸ばした手の甲に、ニシキヘビが噛み付いた。「うあ゛っ……!!」痛みに、コアンは眼を瞑る。どろどろと、二つの孔から血が滴る。手から力が抜けた。
「貴様……俺を殺す気か!?」
汗が噴出した。毒の恐怖に、身体が震えてくるのを、必死で押さえる。これほどまでに自制心を必要としたのは、十八年生きても今以外にない。
「心配無用だ。私に毒はないのだ。昔抜かれてしまったからな。」
低い声。先ほどの女性の声なのだろう。音の根源的部分は同じだが、邪悪な響きを帯びている。本能的に、同じ者だと思いたくない。
「この身体と、この牙、そしてこの力さえあれば、――何もいらない。」
心を見透かされたようで、コアンは戦慄したが、話を変えて紛らわす。
「あんた、その身体で喋れるのか……。」
「ああ、身体を改造された際に、声帯を移植してもらったからな。……良いか、これが最終通告だ。『無の天使』からは手を引け。でないと、私はお前を殺さねばならない。殺生は好まないが、食べる為ならば、話は別だ。噛み付いて引き裂いて血をすすり骨を砕き、欠片一片塵一片、残さず我が糧へと変えてやる……!!」
ガチ、ガチッ! 噛み合わされる歯。ちろちろと出入りする先の分かれた舌が、歯を舐める。コアンの手の甲に噛付いたとき付着した血を、舐め取っているのだ。
「つまり……、諦めねーと喰うぞオラって、脅してるわけだな。」
「人の言葉を簡略化するな。しかし、言いたい事は同じだな。理解したなら話は早い。何に使うつもりかは知らぬが、『無の天使』はお前には不釣合いだ。諦めろ。」
蛇の目は、本気だ。コアンにもはっきりと分かる。
だが。コアンは答える。
「嫌だね。」
「な……、自分が何を言っているのか、分かっているのか?」
「ああ。少なくともまだ、ボケちゃいないんでね。……俺はな、お前らと違って、あいつを利用しようなんざ、これっぽっちも考えない! ただあいつが嫌がっていたから連れ出すだけだ。俺は、無く子も黙る、『レパード』の団長だった男だぞ! 子供ひとり守れねえで、俺がのうのうと生きるなんて、真っ平だ!!」
「思い直せと言っているだろう!」
蛇が激昂する。しかし、コアンももう、我慢なら無かった。理性など、とっくに吹っ飛んでいる。ここで死んでも良いと、始めて思った瞬間が訪れていた。どうせ死ぬなら、命をかけて説得しようと。それが自分の務めだと。
「アンタだって、こんなところで何やってるんだよ! さっきのアンタの目は、俺が一番嫌いな目だ! 自分の感情押し黙らせて、食って殺して千切って捨てて。あんたのしたいことは、絶対他にあるだろ! でないと、そんな死んだ魚みたいな目、どう頑張っても作れねーよ!! 殺すのが嫌なら、さっさと兵隊なんか辞めて、何処へでも行けば良いだろう?! あんたのその力があれば、何処でだって生きていける。今からでもいい、さっさと逃げろよ!!       アンタの幸せ、見つけに行けよ!!!」
「黙れ!! せっかく釈明の余地を与えてやったというのに!! それに、私の幸せは、ここにいて、ここの仕事に尽力する事だ! 戯言も休み休み言え!! 何を言っても私の忠誠心は変わらぬ!! 無駄だと何度言わせれば気がすむ?! もう許さぬ! ここで、お前を喰らってやる!!!」
ぎりぎりぎりぎり……。絶え間なく鱗がしまる。圧力が増し、コアンは思わずよろけ、そのまま床に倒れこむ。
「ぐ、あああああああああああああああああああああああああああああっっ!!!!!」
コアンは絶叫した。しかし、胸がしまり、次第に声も小さくなる。
「望まねえことして……、また傷つくのはおめーなんだよっ……。」
薄れる意識の中、それでも必死にコアンは呼びかける。意識の闇に耐え、閉じていく眼を開こうと足掻きながら。
「五月蝿い!! 死ねっ! 今すぐ私の前から消えろぉっ!!」
蛇は気付いていない。爬虫類の目から、涙が一筋、こぼれている事に。
床に落ち、水の珠がはじける。
「ほら、そうやって自分を迷わせる奴を排除する。それが、お前が迷ってる証拠だよ。」
「わ、私は迷ってなど居ない!!」
さらに圧力がかかり、コアンは咳き込んだ。
最早ここまでか。コアンは眼を閉じる。血流が止まり、体中がしびれてきた。耳鳴りに邪魔され、周囲の音も聞こえない。五感全てが、急速に失われていった。
だから、次の瞬間に起こった事もまた、知らない。

「――ん、何だ、お前は。……ナーガ…? ………まさかっ……!!」
ザシュッ……。 

フッ。
突如、蛇の締め付けが弱まった。理解してくれたのか?
コアンはそう思ったが、急に開放されたせいもあり、咳き込むのに忙しく、状況がつかめない。なぜか、遠くのほうで争いの音が聞こえる気がする。
めまいのせいで目は使い物にならなかったが、暫らくすると、視覚が戻ってきた。
先ず眼に入ったのは、赤みだった。血。大量の血液が、ここの床にたまっている。
――ただし、自分のものではなかった。
「ひっ……。」
コアンは思わず息を呑む。掌が、赤く染まっている。いや、触覚が戻っていないせいで気付かなかったが、たった今まで、血の水溜りに手を置いていたようだ。べっとりと付着した血。その持ち主は、丁度、ひくひくと痙攣して絶命するところだった。
少年は、ゆっくりと鱗の生えた手で、蛇の眉間を切り裂いた剣を抜いた。
その眼は、横たわった蛇と同じ、爬虫類の形質を持っていた。感情の読めない目が、こちらを見ていた。
認識したコアンを先ず襲ったのは、安堵でも驚愕でも恐怖でもなく、怒りだった。



7内なる声とナーガの力
話は、数分前にさかのぼる。
少年は、コアンと名乗る盗賊が対峙する人物を見た。同じ蛇人族のようだが……。
これまでの兵士たちも十分恐怖に値していたが、この人間は、それ以上の恐怖を少年に与えた。いや、本能的な嫌悪といったほうが正しいかもしれない。
戦慄を覚える、死んだような眼をしている。自分と同じ眼。自分はあのように、見えるのか……。なんて、気味が悪い――。
その人物は、どうやら女性のようだった。彼女とコアンは、二言三言話した。
場の空気が、ぴんと張り詰める。
ふと、コアンの手が、自分に向かって『しっしっ』とやっているのに気がついた。
離れていろ、という事らしい。
これまでの、大男たちとの対決では、こんな事は無かった。よほど相手が強いのだろう。
不安が襲ってきたが、それを不安と理解できぬまま、少年は、ゆっくりとコアンから遠ざかる。後ろ向きに、一歩、二歩……。
あの女性がこちらを向きはしないか、気にかかった。
ようやく、十歩離れたそのときに、女性がコアンに飛び掛った。
負けないで!!声に出して叫びたい。しかし、場の空気がそれを邪魔する。「あ……。」例によって、口から漏れたのはその一言だけだった。
コアンは、槍を突き出して応戦した。しかし、女性は空中で変異した。
黒い服と、人の皮が、つま先から破れて言った。そして現れるのは、美しい模様の鱗。桜の花びらが散るように、皮が破け、錦織の紅葉の様な、色の乱舞が現れる。

綺麗。

つい、アナンタは思った。思ってしまった。
皮の下から現れたのは、一匹の蛇だった。少年のような半端者ではない。一本のラインを描く、艶かしい鱗の集合体。つややかな白い腹。
本物の、しかし巨大な蛇が、そこに居た。
蛇は、コアンに巻きついた。駆け寄りたい衝動がこみ上げる。しかし出来なかった。
もう、その蛇は少年の視界を一杯一杯に埋め尽くしていた。少年は、自分以外の蛇人族が蛇になるところを見るのは、初めてだった。ドキドキした。凄く、懐かしかった。
ああなりたい、そう思った。
蛇はコアンに噛み付く。赤い血。舐め取っている。綺麗。綺麗。赤が、綺麗。
本来恐怖を与えるべき、その姿。しかし裏には、完璧という名の美しさが潜んでいた。
しかし。
どう考えても、コアンは劣勢だった。必死に何かを言っているが、聞き入れられる様子はない。
少年は、コアンの事が好きだった。初めて出会った、家族以外に、自分を殺そうとしない人物。気遣い、守り、助けてくれた人。勝手にはめられた、『無の天使』という鎖から、自分を解放しようとしてくれる人。
少年は、コアンに居なくなって欲しくなかった。ずっと一緒に居たかった。それこそ、本物の家族のように。心なしか、少年の父親にコアンは似ている。
対する蛇は、綺麗だった。憧れた。先ほど感じた本能的嫌悪は、自分の変異した姿から来る劣等感なのだろう、漠然と思った。
とめなくてはいけない。しかし、どちらかを殺しでもしなければ止まらないのだろう、きっと。
守ってくれる人が居なくなっては、悲しい。
綺麗なものは、心に刻んでしまえば、もう二度と忘れない。それだけで終わりだ。

しかし、死んでしまえば二度と会えない事実は、同じ。

「・・・・・・・・。ぼくはいま、なにを考えていたんだろう。」
アナンタは呟いた。声に出して呟いた。
「死んでしまえば? 二人のうち、どちらかを殺すの? ぼくが? できるわけ、無いのに?」
自問の群れ。向こうでは、コアンと蛇がもみ合っている。その気配は分かる。しかし、そのとき。
内なる何かが、そっと、少年に呼びかけた。
《お前になら、出来るだろう。選んだどちらかを殺すことが。》
「誰……? で、できないよ! ぼくには力がない。それに、ぼくはだれかを殺したいなんておもわないから!」
《力がない。殺したくない。おまえが? ・・・・・・ははっ! 嘘も大概にしろ! お前には有る。力がある。眠っている力があるではないか。それに、その力は復讐を望んでいるぞ? お前でも分かるだろう? 力の願う復讐が。いままで、何人の奴らに傷つけられた? 何人の奴らに殺された? 何人の奴らの見世物になり、何人の奴らの金儲けの道具になり、何人の奴らに見下された? 哀れみも、優越感のうちだぞ! あの盗賊だってそうだ。真っ先に攻撃しなければならないお前を無視するあの女もな! 皆皆皆皆皆皆皆、お前の敵だ。》
声は、響く。脳の中核の、自分以外が決して触れてはいけない場所を、揺さぶる。
「みんなが、敵、なの? でも、それだけで殺さなきゃいけないって事にはならないだろ?」
《甘いな。そこまでして、お前は他人を生かしたいか。恨まぬというのか。傷つけぬというのか。甘い。甘すぎる。》
声は、浸透する。脳の中核の、自分以外が決して触れてはいけない場所を、浸す。
「甘くても、良いよ。それに、コアンの事は、ぼく、信じるよ?」
《信じる! 「信じたい」だけではないのか? もう、自分の本心を隠す必要なんて無いのだ。殺せば良い、望んでいるのだろう? それだけだ。》
声は、変革する。脳の中核の、自分以外が決して触れてはいけない場所を、組み替える。
「バ、バカを言うな…。お前のほうを、ぼ、ぼくは信じない……」
《私の言う事を信じたくないのなら、それで良いだろう。だがな、現実を見てみろ。お前が信じたいというあの盗賊は、あと少しで死ぬぞ。》
「え……。」

――その時、声は、少年と同化した。


8覚醒
少年は、戦いの方角を見た。心持、焦点の定まらない瞳で。
「思い直せと言っているだろう!!」
蛇が、凄い剣幕でコアンをどやしつけている。
「コアン……。助けないと……。」
ふら、少年は、よろめいて、しかしその方角へ行こうとした。なぜかとても足が重い。《内なる声》との対話は、とても体力を消費するようだ。眼が痛い。くらくらする。
《そのまま行っても、あの女の尾で一閃されれば、ひとたまりも無いだろう。手立てが有る。後ろを見るが良い。》
「これ、剣……。」
少年は言われるがままに後ろを見た。一振りの剣が落ちていた。
先ほど逃げ出した兵士のものだ。
「剣で、どうするの?」
《そんなことは、自分で考えろ。おまえなら、そろそろ分かってもいいはずだ。》
「あ、まって、いっしょに居て……。」
《内なる声》は、あっと言う間にフェードアウトし、消えてしまった。
何度呼びかけても、返答が帰ってくる様子はない。ただ、声は、少年の中に、確固たる意志を残していった。
いちいちやり方を、教えてくれる存在が、居なくなっただけで……。
「……。」
少年は、どうしたものかと、足元の剣を眺めた。長さは、少年の胸辺りまである。幅は、少年の掌ぐらい。形状は、両刃式で、かなりの厚みがある。ナイフのように切り裂くよりも、斧やナタのように、叩き切るための刃物らしい。
少年は、布の巻かれた柄を持ち、ゆっくりと上げてみた。……持ち上がらない。
如何して大人は、ここまで重い武器を軽々と振り回せるんだろう。少年はため息をついた。そして、深く息を吸うと、渾身の力でそれを持ち上げる。
後から分かった事だが、この剣は、特別に重量級で、あの剣兵の腕力に合わせたオーダーメイドだったのだ。
「うー…ん。」
ようやく、切っ先が地面から離れた。しかし、どうやっても構える事が出来ない。
「ちっくしょー…っ。」
頑張ったが、剣の切っ先は、地面についてしまった。
「ど、どうしよう。」
《内なる声》は言った。《そんなことは、自分で考えろ。》何か。何かできるはずだ。この剣で……。
ふと、少年は、その方向性に行き着いた。
同時にその考えを切り捨てる。冗談じゃない。そんなこと、してたまるか。
しかし。
「もう許さぬ! ここで、お前を喰らってやる!!!」
蛇の声がして。
「ぐ、あああああああああああああああああああああああああああああっっ!!!!!」
コアンが叫んで。
少年は。少年は、考えた。
僕は、これから、これで死ねばいいのではないか……?
コアンが死ぬのは、嫌だ。ぼくがそうなるのも、嫌だ。でも。コアンが死んだら助からないけど、ぼくがそうなって、それでコアンが助かるのなら、悪くはない。
どうせ、何度もされてるんだ。自分でやったって、もう、何も変わらないよね。
座り込み、握った剣の柄を、ゆっくりとあげる。
それは、少年のいままでの経験で、最も痛みが少なく、迅速なやり口。
地面と腕の二点。それだけが、剣の支点。そして。
「痛くありませんように。」
呟いて、少し勢いをつけて。何のためらいも無く。

剣の刃に、首を這わせた。

切れる。
入ってくる、冷たい金属。
痛い?
い、痛い!痛い・・・・・・・。でも。足りない。もっと、もっと深く。深く切っ先をねじ込む。
金属の刃が冷たい。湧き出る血が熱い。冷たい。熱い。痛い。痛い。苦しい。
でも、早く。早くしないと、あの人が、助からないから。だから僕は。
そして、こりっ、というあっけのない音と一緒に。
少年は、自ら頚動脈を切断した。
突如、どくどくと音を立て、勢いよく血液が吹き出た。ホースの裂け目から溢れる水のように、突如マグマを噴出す火山のように、決壊したダムの水のように。
辺りを染める、赤い霧。床を浸す、鉄の匂い。少年を長い間苦しめてきたそれら。
でもいまは、正義の象徴。変身の為の後光。勇気を示す、赤。噴出し噴出し、びちゃびちゃと音を立てて、床を叩く。
勢いをつけすぎて気管をと神経を傷つけてしまった。呼吸が上手くいかない上、訪れた痛みは少年の意識を今にも持って行きそうだ。しかし、こうしたほうが、綺麗に死ねるし、後の嫌なにおいが残らないことを、経験上少年は知っていた。
少年は、無表情で、自らから吹き出す血を眺めている。
腹を割けば、見た目が悪いし、内臓の潰れる匂いは、なんとも言いがたい。首を絞めると、苦しすぎるし、鬱血して変な顔になるから、好きではない。手首を切ったら、死ぬまでに時間がかかりすぎて困る。土座衛門なんて、真っ平だ。肺に入った水を吐き出すのに、少なくとも一週間はかかる。毒は、顔が変になるし、苦いし、効くのに時間差があるかもしれないし、結構怖いので嫌いだ。
だから、首を切るのが一番良い。
少年は、餓死と病死と凍死と老衰以外の、ほぼ全ての死因を体験していた。
しかし、それらは皆、他人のせいで起こった死。
しかし今は、少年の果てし無い純粋な殺意が、自らに向いた瞬間だった。
そして、少年の意識が遠のきかけたころ、それは起こった。
少年の身体を、淡い白い光が包む。身体の表面を覆い尽くしただけでは飽き足らず、まわりの空間にまで広がりを持ち、ついには光の円柱と化した。
それが消えた時、そこには、「一人」の蛇人がいた。
くすんだ金髪と、骨格と、服だけを残し。皮膚も、瞳も、爪も、舌も、牙も、何もかもが蛇。斜めに切れ上がった金の瞳。虹彩は無く、縦に走る黒い瞳孔。その下の鼻は平たく、口も耳近くまで裂けている。二本の牙と、別れた舌が特徴的である。そして、全身を走る鱗たち。どんな宝石にも、芸術作品にも負ける事はないであろう、翠の輝き。
――あの錦織の蛇すら、上回るほどに。
先ほどの傷は、変身の過程で完治して居り、失った血液も殆ど回復されていた。
昨日までは、忌むべき姿。しかし今日は、大切な人を守るために変身したヒーロー。
少年は、自分をそう評した。
少年、否、蛇人は、先ほどに自分の首を切った剣を軽々と持ち上げた。変身前とは、とんでもない力差が有る。持った本人があきれるほどに。
「五月蝿い!!死ねっ!今すぐ私の前から消えろぉっ!!」
蛇が叫んでいる。コアンが危ない。
蛇人は、地面を一蹴りするだけで、コアンの元へ駆けつけた。跳び立つ時、床が陥没する感触があったが、あえて無視する。責任は、あの奸臣神官が取れば良い。
気配を消すのは、蛇が狩をするときの常識だ。同じ蛇であるはずの、コアンに巻きつく大蛇にも気取られる事は無く、背後を取る。
蛇は、渾身の力でコアンを締め上げている。その頬が、細かく震えていた。得物をつぶす快感にでも酔っているのだろうか。やられる方は、面白くもなんとも無いのに。
蛇の頬が震える理由を、蛇人は見ていない。蛇の涙が、見えていない。
だから。
蛇人は、無表情のまま、剣をかざした。コアンの身体から離れたところにあった、蛇の身体の中間地点に狙いを定める。
「さよなら。」
口の中で呟き、彼は目標を見定めるために一度刃をあてがう。
「……ん、何だ、お前は。」
蛇が振り返った。顔に有るのはほんの少しの疑問。
しかし彼の姿を捉えた時、彼女の表情は一変した。
「お前は、ナーガだとっ?…まさか――っ!!」

ザシュッ……。

蛇人の少年は、何のためらいも無くその胴に剣を叩き下ろした。今まで幾度と無く、少年がされてきた事だった。ただ一つの違いは、少年は生き返り、蛇はもう 生き返らないという事だけ。
先ほどの少年と同じように、蛇の身体から、血が噴出す。今度は内臓もともに切ったので、嫌なにおいが充満する。蛇がのた打ち回る。
完全に切断する事ができなかったので、蛇人は、忌々しそうに剣を引き抜いた。
と、最後の力を振り絞ったのだろう、蛇が、蛇人に向けて跳躍した。体中の筋肉をばねにし、痛みをこらえての最後の特攻。
しかし、蛇人はそれを無表情に見下ろしていた。傷ついた蛇からはもう、先ほど少年が見た美しさが感じられない。神である蛇人の翡翠の鱗に比べたら。噴出す赤も、ただの吐き気を催す液体でしかなかった。
その瞬間、蛇人は、無表情だった。神のくせに、無の『天使』の顔をしていた。ただ、このしつこい蛇を黙らせよう。それしか考えていなかった。
蛇人は、剣を振り上げ、大蛇に刺突を見舞った。
飛び掛る勢いも手伝い、眉間に侵入した剣は特に抵抗も無く、するりと蛇の脳を貫いた。のたうつ筋肉が急速に力を失った。それでも剣の勢いは止まらない。刃の部分が全て吸い込まれ、つばさえものめり込み、結局蛇人の持つ柄まで、勢いが死ぬ事は無かった。
遠くで、コアンが咳き込む音が聞こえた。直後、彼は血を見たのだろう。息を飲む声も聞こえる。これしきの血で驚くなんて。蛇人の中の少年は、そう考える。全然たいした事、無いのに。
それよりも今は、この蛇の最後を確認しなければならない。
どれほどの時間がたっただろうか。ひくひく、と最後に痙攣し、蛇は動かなくなった。
安心し、蛇人は蛇から、剣を抜いた。何事も無かったかのように手馴れた動作で。

「おい!!」

次の瞬間、蛇人に怒鳴りつける声があった。




9コアンとリーク
「コアン……。」
いささか不明瞭な発音だが、蛇人は普通に喋る事が出来る。
「さ、早く逃げようよ。こんな所を見つかったら、つかまるだけじゃ、済まされないよ。」
蛇人は彼に対して、初めて、流暢に話した。
「お前……、自分が何をしたか、分かってんのか?」
コアンの声は、いつもよりもトーンが低い。分かりきった事を聞くなよ、と蛇人は思い、そう言った。
「コアンが殺されそうだったから、助けただけだよ。この人、なんだか怒ってたし。」
事も無げに返ってくる返事。コアンの怒りはさらに増す。
「良いか、お前は、どういった形であれ、殺しをしたんだ。これは、絶対やっちゃ、いけない事なんだぞ?」
ふと、一陣の風、らしきものが蛇人を包んだ。波が引くように鱗が消え、元の少年が立っている。元のまま。救い上げたときと、なんら変わりはなく。
「何で、殺したらいけないの?」
少年は、問い返した。純粋な疑問だった。 
「何でって……。」
予想外の質問に、コアンは戸惑いを見せた。
「そりゃ、決まってるだろ。死んじまったら、その人に待っているはずの『その先』がなくなるからだよ。辛い事も苦しい事もあるはずだ、しかし、楽しくないなんて、誰にも言い切れない。それに、生きるというのは、凄い事だろ? 命は、生まれる前にふるいに掛けられる。何億のうち、たった一つが命になる。何億分の一の確立で生まれてきたというだけで、奇跡だ。そして、生きている間も、常に様々なふるいに掛けられる。運、治安、能力、そのほかにも色々。この奇跡の結晶を、無理矢理もぎ取るのは悪い事だと、俺は思う。」
コアンの信条だった。しかし少年の反応は、予想だにしないものだった。
「そんなの、ただの幻想だよ。」
「何?」
「じゃあ、『その先』さえあれば、殺されてもかまわないの? ふるいに掛けられなければ、死んでも良いの? 奇跡でなければ、消えても仕方ないの? 悪くなければ、何をしても良いの? それが真実なら、何度も殺されてきたぼくって、何なの? ぼくは殺されてもかまわないの? ぼくは、死ぬのがどんなに痛いことか知っている。 どんなに怖い事かも、何度も思い知った。 ぼくは、死んでもまた生き返るから、『その先』はある。 でも、人生が始まったばかりで、しっかりしたふるいに掛けられた覚えはない。 『要らないもの』であるぼくの存在自体は、奇跡でもなんでもないとおもう。 それに、ぼくは殺されて当然って、何度もいわれてきた。 誰かがぼくを殺すことは、別に悪い事じゃないんだよ。 なのにコアンは、ぼくがこの人を殺すと、怒るんだね。 不公平だと思うよ、凄く。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
コアンは、ただ驚いていた。目の前の純粋そうな少年の心は、度重なるいじめや、それに伴った死によって此処まで荒んでしまっていた。見た目と現実とのギャップ。
かすれた声で、お前、と呟く。
「お前の持っている、因果応報という考えは、間違いではないのか?」
「知ってる、それ。眼には眼を、歯には歯をって奴だね。そんなの、間違ってるよ。だって、ぼくが一方的にやられるだけだもん。それで済んで行くんだから、それに越した事は無いと思うね。ただ、ぼくが我慢すれば良い。そういいたいんでしょ?」
コアンは、目の前が暗くなる思いだった。
確かに、因果応報という考えは間違いだと諭そうとした。しかし、それは、少年に対する圧力にしかなりえない。元義賊の自分の信条だった、正論。一瞬にして砕け散るほどに、脆く、薄く、軽い最後の望み。
「如何したの? コアン。顔色が悪いよ。」
少年がコアンを見つめる。コアンの表情が変わった。暗くて今まで見えなかった、その服に付いた赤い汚れ。
「お前、まさか、自分の命を自分で……。」
情報としては聞いていた。少年が死んだ後の事を。生体活動が停止すると、自動的に蛇と人が融合した姿になる事を。そして、自分が兵士たちを排除したため、殺される理由もないのに彼が蛇人になっていたという事は。
彼は、コアンを助けるためだけに、自殺という方法を取って一時的な強さを手に入れたのだ。
「案外、簡単だったよ。コアンのためだもん。」
先ほどの眼。頼られている、と感じた。それ以上に、少年はコアンに依存していた。
たった、三十分前に会ったばかりなのに。
少年は待っている。間違った事であるなどとは知らずに、コアンの口から出る次の言葉に期待をしている。
「……。」
もう何を言っても、彼の傷は治らない。精神面(こころ)の傷は、直せない。しかし。
痛みを和らげる事なら、できるかもしれない。
精神面の傷と反するエネルギーである、正の精神エネルギーを与え続けたのなら、もしかしたら彼のゆがみを修正できるかもしれない。
思い切り笑う事。一途に思うこと。必死で努力する事。何かをいつくしむ事。
教えられるかもしれない。
コアンの心に一縷の望みが芽生えた。その瞬間、コアンはありのままの少年を、受け入れる決意をした。その言葉を、言う決心をした。
にかっ、と笑顔を向ける。
「有難う……。」
ポン。コアンは少年の頭に手を載せた。暖かくて、大きな手。少年は首をすくめながらも、うれしそうに頬を緩める。
「あ、今お前、笑った?」
コアンが、あわてて少年の顔を覗き込む。
自分でも出来ないと思っていたのだろう。それを聞き、信じられない、といった眼をして、少年は頬に触った。
「笑えてる……。」
もう、二度と自分に訪れないと思っていた顔。頬に添えた少年の手に、涙が伝う。
「泣けてる……。」
駄々漏れになった涙。
封印したはずの、二つの顔。傷つく原因になる、脆い顔。やっとの事で、さらせる人ができた。
「う―っ……。」
しゃくりあげ、リークはコアンの胸に抱きついた。コアンは、その小さな背中をぎゅっと抱きしめた。
と、十秒と絶たないうち、いきなり下が騒がしくなった。兵士のコスチュームが見え隠れする。それを見、盗賊は、なんとも言えない気分になった。そう、逃亡する高揚。 盗賊の快感。味わうなら、一人より二人がいい。
「逃げるぞ!!」
コアンは叫ぶ。胸元にあった、お気に入りの笛を、思い切り吹いた。辺りの空気に、音色が響く。高らかに、高らかに。
「まてっ……。」
丁度四方八方から兵士の群れが這い上がってきた。敵意をむき出す屈強な男たち。
しかし、きっとコアンには敵わない。
「なあ、お前、名前は?」
コアンは、けん制する男たちから目を離す事無く、少年に聞いた。
「リーク……。」
少年は、嗚咽の間に告げる。
「そうか、リーク。いい名前だな。走れリーク!!」
言葉と同時に、コアンは少年の背中を叩き、神殿の屋根を駆けた。その後ろを、バランスを崩し、一瞬転びかけた少年が追う。
朝日が昇りだし、それをバックに何か高速の物体が近づいていた。

「リーク、跳べっ!!」

コアンの掛け声に、二人は跳躍する。
「無茶だ!! あんなところから飛び降りれば、死ぬだけだ!!」
すっかり存在を忘れ去られていた画家が、死に物狂いで叫ぶ。影が薄い上、醜い事この上ない。二人と地面が近づくに連れ、虐待趣味の持ち主は、愉快そうな笑顔になる、しかし次の瞬間泣き顔になった。
落下中の二人を、高速の物体がさらったのだ。それは、二人を乗せたままぐんぐんと遠ざかる。
いまさらのように、兵士の間に驚愕が広まった。
「飛行装置(エア・オート)・・・・・・・。レパード時代の秘密兵器だよーん!!」
コアンは、遠ざかり行く蛇人族たちに、あっかんベーをした。
まだ画家が叫んでいたが、その声はもう届かない。
どれほど遠ざかっただろうか。
「凄いね、これ。笛の音で呼べば来るの?」
リークがたずね、コアンは頷く。
「ああ。これはな、魔術の対極に位置する科学の結晶だ。何百年も前に滅びた術だが、地方じゃ、残ってる所もある。俺には良く判らないが、大昔の動物の油を燃料にしてるんだとよ。後ろでぐるぐる回ってるプロペラってので、空気を叩いて飛んでいる。丁度鳥と同じだな。呼べば来るのは、コンピュ…なんだっけ?とにかく、機械の脳みそに、この音のほうに飛ぶよう、覚えさせているからだ。」
「へーっ……」
暫らくの間、無言の状態が続いた。少年は、眼下を流れる景色に夢中になっている。
唐突に、元盗賊が口を開いた。
「なあ、リーク。来てもらって早々悪いが、これから暫らく、俺たちは、旅をしなきゃならんらしい。いく当てもないがな。お前、行きたい所、有るか?」
少年は首を振る。
「ううん、ない。パパやママは? 二人になら、会いたい。」
「二人には、遭えない。会えない理由があるんだとよ。あきらめろ。」
「そうか……。じゃあぼく、コアンとだったら、何処でも良いよ。」
「仕方ないな。じゃあ、大陸一周でもすっか。」
「一周?!このキルケ大陸を?広いよ?きっとできな……。」
「やる前から出来ない、っていうなよ。これは正論だが、なかなか的を得ているだろう。大丈夫だ、俺が付いてる。」
「……行く!!」
「いー度胸じゃん。じゃ、このエア・オートでも返しにいくか。」
「誰のなの?」
「それはな……。」
砂漠の世界を、真っ直ぐに切り裂く線。二人を乗せた飛行装置が遠ざかる。
少年の頬を、髪を、服を、目を、乾いた風が襲うが、それでも少年は前を見る。
何処へ行く当ても無い旅。しかし、きっと楽しい旅。『この先』というのも、中々面白い。
ふと、殺してしまった蛇にも、こんな楽しい『この先』があったのかな?と疑問がかすめた。悪い事をしてしまった。いつか本当に死んだら、天国で謝ろう。本気で、人に対して悪かったと思えた。
かりそめだった自由が、本物になった。
きっと、変われる。漠然とした期待を抱き、少年は、一つくしゃみをした。