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月に吠える


「なぁ、親父。一つ聞きたいんだけどさ」

ある日の夕飯時、我が家の食卓で家族三人が夕食を取っているその最中。
血の繋がらぬ我が息子、卓がふと何かを思い立った様に質問を投げ掛けてきた。
はて、私に聞きたい事とはなんだろうか? その疑問を表してか小刻みにゆれるわが尻尾。

「親父は遠吠えとかした事あるのかな」
「何故そんな事を?」
「いや、親父は狼だろ? 遠吠えの一つくらいした事あるのかなって?」
「…………」

私は何も答えず、ナイフでなます切りにしたロースカツを口に運ぶ。
ふむ、流石妻――利枝の手製のロースカツだ。街のレストランで出てくる物より数段美味しい。
と、その私の行動を息子は黙秘と取ったのだろう、仕方なくと言った感じで妻に話を振る。

「じゃあ義母さん、親父が遠吠えしたの見た事ある?」
「う~ん、それが残念ながら結婚してから今の今まで見た事ないのよね……」
「え? 本当かよ? 義母さんまで見た事ないって…何処まで寡黙なんだ親父は?」
「…………」

至極残念そうな妻の答えに少し驚いた卓は、私に向けてやや呆れ混じりに言う。
だが、私は何も答えないし、尻尾も振る事はしない。私にだって答えたくない事や知られたくない事はある。
そう、それが例え目に入れても痛くない息子や、この世のどんな物よりも愛しい我が妻が相手であったとしてもだ。

「そういや義母さん、今日の金曜ロードショーはあの『若頭』の劇場版らしいぜ? クラスの連中が話してた」
「あら、今日放送だったの? 保存用にDVDに録画しなくちゃ」

その後、どうやら卓も聞き出すのを諦めたらしく、
早々に話題をこれから見るテレビ番組の内容に関する物へと切り替えた。
結局、この日のこれ以降、私の遠吠えに関する話題は語られる事はなかったのだった……。

       ※ ※ ※

時間は移り変わり深夜。かつては草木すらも眠りに付くと言われた丑三つ時。

「…………」

何時も妻と一緒の部屋で寝ている私は今夜、
ある事をする為、起きている事を気取られない様に寝たフリを決めこんでいた。
その寝たフリは今回も上手く行っていたらしく、耳を澄ませて見れば妻から聞こえるのは静かな寝息だけ。
やれやれ、さっき見ていた映画の影響で、今夜は寝てくれるまで大分時間が掛かったが、何とかなりそうである。

「…………」

ベッドの布団の動きで妻を起こさぬ様、私は細心の注意を払いながらそおっとベッドから抜け出る。
その際、妻は軽く身じろぎをした物の、私が抜け出た事に気付かなかったらしく、静かな寝息を立て続けていた。
ふう、少し驚いたじゃないか。これから私のやろうとしている事は、例え家族であろうとも知られては行けないのだ。
今となっては形骸化しつつある物の、一応は我々のコミュニティの間での大切な取り決めである。

「…………」

ベッドから抜け出た私は、足音の一切を立てぬ様に足の肉球に神経を集中させて、ようやく寝室のドアの前に辿りつく。
ここが最初の難関だ。そう、ドアの開け閉めの際に出る金属音は、思った以上に夜の静かな空気に響き渡るのだ。
迂闊にドアの音を立てた所為で折角眠っていた妻を起こしてしまう、という事態は何としても避けたい所である。

「…………」

私はまるで繊細な硝子細工を扱うように、指先の肉球に全神経を集中し、ゆっくりと、そして確実にドアノブを捻る。
やがて指先に確かな感触を感じると同時に、金属同士が擦れあうごく小さな音が響き、閉ざされていた扉が開かれる。
そしてそっと妻の方へ耳を向ける、聞こえてくるのは先ほどと同じ小さな寝息だけ。……如何にか起こさずに済んだか。
無論、ドアを閉める際は開ける時と同様――いや、それ以上に細心の注意を払うのは忘れない。
何せドアの開閉の際、1番大きな音を立てるのはドアを閉めるその時なのだから。

「ふむ」

ドアが完全に閉まったのを指先の感覚で確認し、聞き耳を立てて妻がまだ寝ている事を確認した後、
更に注意深く周囲へと気を配り、その後私はようやく深夜の闇に沈んだ我が家の廊下へと足を踏み出す。
この前、部屋から出るや寝惚けた卓と遭遇した事があったのだ。それを考えれば警戒はするに越した事はない。

ミシリ……ミシリ……

「…………」

警戒心が最大になっている故か、普段は決して気に止める事の無い、床材が軋む音が嫌に耳に触る。
この音が妻や卓に聞こえる事は無いとは私自身分かってはいるが、それでも起こしてしまっていないか気が気では無い。
それは二階へ続く階段も同じ事であり、一段一段昇る度に私は耳を動かし聞き耳を立てて、周囲の変化に気を配る。
そんな私の細心の注意と警戒の甲斐もあって、私の望まぬ事態も起こらぬままなんとか二階へと辿りついた。

「よし」

さてここからが二つ目であり一番の難所だ。
今、私が目指す目的の場所、其処へ辿り着く為には如何しても卓の部屋の前を通る必要があるのだ。
卓は私や妻の様なケモノとは違い、普通の人間である。しかし、その警戒心は少なくとも其処らのケモノ以上と私は見ている。
何せ、部屋の前の廊下を行く際に出る僅かな床材の軋む音でも、卓はしっかりと聞き取り、反応するのだ。
それも私や妻のような良く動き、良く聞こえるケモ耳を有していないにも関わらずである。

「…………」

一階の廊下を行く時以上に細心の注意を払いながら、一歩一歩足取りを進めて行く。
その際、壁越しの卓の動きの一切を聞き逃さぬ様、ケモ耳を目一杯に卓の部屋の方へと傾けた状態で。
余りの緊張の為か、握っている掌の肉球が染み出た汗でじっとりと濡れるのを感じる。

『……うぅん』
「――っ!」

――卓の部屋から聞こえる呻き声、高鳴る私の心臓の鼓動!
だが、それ以上の変化は起こる事無く、再び周囲は静けさを取り戻した。
……やれやれ、全く驚かせてくれる。相変わらず”役目”の日の夜にここを行くのは心臓に悪い。

さて、予定の時間までもう時間はない。ここで悠長にやっていたら間に合わなくなってしまう。
卓の部屋を通り過ぎれば目的の場所まで直ぐ其処だ。後は慎重かつ迅速に行くだけだ。
そう、私は緩みかけた自分の心へ活を入れて、止めていたその足を踏み出したのだった。

                    ※ ※ ※
「間に合った」

十数分後、月光と星の光が注ぐ夜空の下、ようやく目的の場所へ到着した私は、
腕に巻かれた機械式の腕時計の針がまだ予定時刻に差し掛かっていない事に安堵の息を漏らした。
私が目指していた目的の場所、そして同時に今私がいる場所。其処は何て事のない、我が家の屋根の上である。
空に満月が浮かぶこの日、重要な”役目”を与えられた私は如何してもこの場所に行かねばならなかったのだ。

「ふむ」

チキチキと小刻みな音を刻んで動く針を注視しつつ、私は準備を始める
後五分――居住いを整える。
後四分――喉の調子を確かめる。
後三分――深呼吸を行い、呼吸を整える。
後二分――何か忘れた事が無いか最終確認。
後一分――ただ、その時を待つ。

そして、時計に内蔵された小さな鐘によるアラームが、その時が訪れた事を私へ知らせる。
――良し、今だ。

「るぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ……」

天を仰ぎ、口を僅かに開き、私は世の全てへ響かせるが如く、低く、長く、腹の奥から搾り出す様に吼える。
それはまるで、『私はここだ! 私はここに居るぞ!』と、空へ向けて自分の存在を誇示する様に。
だがそれは、狼にしか聞こえぬ特殊な音域、他の種族には静かな風の音の様にしか感じられぬだろう。

「ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ…………ふぅ」

肺に溜まった空気を全て使いきり、数分間の間続いた遠吠えを止めた私は一息付ける。
今日は空気が澄んでいるお陰か、遠吠えを止めた後でも私の声は深夜の空気へと余韻を残していた。
やがて、その余韻すらも風に吹かれて消え失せて―――刹那

オォォォォォォォ………

おぉぉぉぉぉぉぉ………

Oooooooooooo………

夜の街の其処彼処から響き渡り始めるは、街中に住まう同族達による返答の遠吠え。
力強い物、甲高い物、か細い物、野太い物、多種多様の違いは在れど、それは等しく狼達による特別な遠吠え。
嘗ては獲物を捕えた事を仲間へ知らせ、同時に自分の縄張りを他の同族へ宣言する為に行われ、
知性を持ち文明を得た今は、狼達による秘密のコミュニティ間での互いの無事と結束を確かめ合う為の儀式として。
この遠吠えは何時の世の満月の空へと響き渡り続けていた。

そして今回、私は佳望の街在住の狼達の秘密のコミュニティにおいて、栄誉ある遠吠え役に選ばれていたのだ。
ここに至るまで妻や卓に気付かれない様に大分神経をすり減らしたが、
今、街中から響く同族の遠吠えを前にしていると、その精神的な疲れも少しだけ癒える様な気がしないでもない。
……まあ、またこんな苦労をするのであれば、もう二度とする気も起きないのだが

そして、街中から響く同族達の遠吠えによる合唱を耳に、私は独り思う。
……恐らく、今後の未来でも、この狼達による秘密の遠吠えは人知れず、満月輝く深夜の空へと響く事だろう、と。

                         ※  ※  ※

「おはよう……」
「あら、卓ちゃん。おはよう。昨日は良く眠れた?」
「ああいや、それがなんか風の音が五月蝿くてな……あんまり良く眠れなかった」
「あらあら、それは大変ね……そう言えば、あの人も昨日は眠れなかったらしくて、まだ部屋で寝ているわ」
「へえ、何時も朝早くから起きてる親父にしちゃ珍しいな……なんかあったのかな?」
「さぁ……? あの人にも人には言えない事情があるのでしょうね?」
「ふぅん……」


「…………」

朝、穏やかな朝日が差し込む寝室にて、
深夜の大仕事を終えた男が独り、その疲れきった身体と精神を休めるべく、ベッドの中で惰眠を貪っていた。
耳すらも動かす事無く静かな寝息を立てる男のその表情は、何処か誇らしげな物だったと言う。

―――――――――――――――――――――了―――――――――――――――――――――