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名月
「……くそ、眠れない」深夜、街の彼方此方で聞こえていたTrick or treatの声もすっかり影を潜めた夜遅く。ある事情で起きざる得なかった俺は、ベッドの上で何処か遠くへ飛んでいってしまった睡魔に対する愚痴を漏らした。眠ろうとベッドに入って部屋の明かりを消しても、眠気が来るどころか逆に頭が冴えて眠れる気がしない。無論の事、早く眠れる様にホットミルクを飲んでみたり羊を数えてみたりもしたが、なしのつぶてで効果が無い。結局、眠れないばかりかイライラだけが募るだけとなってしまった。……こうなったのも全て、何時の間にか部屋に侵入していた一匹の蚊が悪いんだ!眠ろうとベッドに入った矢先、俺の耳元に聞こえるのはプイ~ンと耳障りな羽音。蚊を退治しようと明かりを点けたら点けたで、羽音の主は何処かへ姿を消して見つからずじまい。諦めてベッドに入ったら入ったで、またも耳元にプイ~ンと聞こえてくる蚊の羽音。ええ、もう本気でぶち切れましたよ。これほど腹が立ったのは鎌田の触角の時以来だ。無論の事、わざわざ玄関に置いてある殺虫剤を持ってきて、部屋中に殺虫剤乱舞かましましたよ。もう部屋が殺虫剤のエアロゾルで霞んで見えるくらいに濃密かつ徹底的に撒きまくりましたよ。余りにも殺虫剤撒きすぎた所為で、少し具合が悪くなったのは内緒と言う事にしてくれ。で、数分後、殺虫剤によって力尽きている蚊の姿をベッドの上で見付けた時は、ザマぁみろ、人の安眠を邪魔するからこうなるんだ! と、俺が大人気無く喜んだのも無理も無いだろう。……まあ、それで興奮した所為で、睡魔さんも仕事放棄してしまったんだろうな……。ああ、このまま朝になるまで眠れない夜を過ごす事になるのか……参ったなぁ……。ま、幸いといっちゃあなんだが、明日が休みなのが救いと言えば救いか。しかし、だからと言ってこのまま眠らずにぼんやりと過ごすのもなんだし、本を読むなりモンハンするなりして時間を潰すかな?そう、頭の中でぼんやりと考えつつ、俺は窓へと視線を向ける。窓の外に見えるは、濃紺一色の空にぽっかりと浮かぶまん丸の満月。「……ああ、そうか。今日は中秋の名月だったっけ?」ぽつりと呟く俺の言葉に応える者は無く、代わりに窓の向こうの満月が優しい光を湛えている。そのおかげか、何時も見慣れている部屋の窓が一枚の名画にも見える。……そうだ、こんな夜こそ、ちょっと散歩に出かけてみようかな?こんな月が綺麗な夜に散歩に出ないなんて、ちょっと損をした気分になるじゃないか。それに、こう言う満月が輝く夜ならば、ひょっとすれば何時も見慣れた景色も違う様に見えてくるかもしれない。運が良ければネコの夜会に遭遇できるかもしれない、そうなればネコ達の様子でも眺めて夜を明かすのも悪くないな。まあ、万が一、其処で帆崎先生や泊瀬谷先生に会ったとしても、「月が綺麗だったから」と言えば誤魔化せるか?「良し、思い立ったら吉日と言うことで、早速行くかな」早速とばかりに軽く身なりを整えた俺は、そろりと自室を後にした。そして、家の玄関に到着した俺は、恐らく寝ていであろう義母さんや親父を起こさぬように気を使って靴を履き、音を立てぬ様に静かに土間へ踏み出す。「……?」その際、俺は少しだけ妙な違和感を感じたのだが、明かりが殆ど無い玄関を見まわしてもその原因を掴める筈も無く。結局、俺は違和感の原因が何なのか分からないまま、音を立てぬ様に玄関を後にするのだった。すっかり寝静まった深夜の住宅街。頬に当たる涼やかな秋の夜風が何処か心地良い。聞こえるのは俺自身の足音と、一時の生を謳歌する虫達の鳴き声だけ。俺以外に道行く者の姿は無く、まるでこの夜の街の支配者になったかのような錯覚さえ感じさせる。「…流石は名月って言われるだけあるな」ぽつりと漏らす俺の見上げた先、満月の金色の明かりが街並みを優しく照らす。その光景は、絵本の様な何処か現実味の無い幻想的な景色。何時も見慣れた桜並木も、何時も見慣れたあの家も、この時だけは別の姿を俺へ見せてくれる。やっぱり、散歩に出かけて良かったな。あのまま家でモンハンで時間を潰していたら、こんな景色は見られなかっただろう。良し、これだったらもう少しだけ足を伸ばしてもよさそうだ。ひょっとしたら面白い物も見られるかもな。そう思った俺は、先の中央大通りの方へと足を運ぶ。桜並木の道を下った先、何時もならば市電やら車がひっきりなしに通る大通り。だが、真夜中である今は市電も車庫へと引き篭もり、車も思い出した様に通るだけで何処かうら寂しい。普段、通学に通り慣れている道ではあるが、真夜中の人気が無い時に通るのは流石に初めてである。街を照らす明かりと言えば、ぽつんぽつんと道に立つ街灯のか細い光と、空に煌煌と輝く満月と星々の光だけ。普段は夜中でもネオンの激しいパチンコ屋も、若い女性達で賑わうあのブティックも、今は闇の中で静寂を保っている。当然、歩道には俺以外に他の人の姿は殆ど無く、俺の足音だけがこつこつとアスファルトの上に響き渡る。しかし一応は大通りである以上、こんな夜中でも通りかかる人も居る事には居る。たとえばジョギングをしている人。上下のジャージ姿のイヌの女性は多分、ダイエットの真っ最中なのだろう。タンクトップにスパッツ姿の豹の男性は、身体を鍛えている所なのだろうか?仲睦まじく並んで歩くネコの老夫婦は、夫婦共々健康に気を使っているのだろう。そして、家路に付く人々。ふらふらと危なっかしく歩くヨレヨレのスーツ姿のネコの男性は、宴会の帰りなのだろう。何処か疲れた様子のスーツ姿のウシの男性は、激務が終わったその帰りなのだろう。ご苦労さん。上機嫌に尻尾を振って歩くキツネの女性は、帰った後の一杯でも心待ちにしているのだろうか?そうやって通りかかる人をつぶさに観察していると、その一人一人の人生(ケモノ生?)が見えてくるのが面白い。なんだか、人間観察を趣味としている親父の気持ちも何となく分かるような気がする。……そう言えば、こんな夜道を歩いてて思い出した事だがあれは確か、俺が幼稚園の頃だったか。親父と義母さんが本当の両親ではないと俺が初めて知った時。余りにも受け入れ難い事実に強いショックを受けて、俺は義母さんの手を振りきって泣きながら家を飛び出したんだよな……。あの時は、親父と義母さんが今まで本当の事を黙ってた事に、酷く裏切られた気がして、そしてとてつもなく悲しくなって、もう訳も分からないまま走り回って、気が付いたら俺は今のような夜道を充ても無くさまよい歩いていたんだよな。その頃になると、流石に子供でも冷静に戻る訳で、早くも家に帰りたい気持ちが募り始めていた。何せ、子供の俺にとって人通りの無い夜の街の光景は何処までも恐ろしく見えて、酷く不安を感じさせた。その上、人間の裸足にとってごつごつしたアスファルトの道は、立っているだけでも酷く苦痛で、俺が親父や義母さんと違う、裸足では外を歩けない種族である事を深く痛感させられていた。けど、だからと言って衝動的に飛び出してしまった以上、今更家に引き返す訳にも行かず、俺は辿りついた藪の森公園のベンチで独り、泣き腫らした両目もそのままに途方に暮れるしか出来なかった。……そんな時だったか、何処からか俺を呼ぶ声が聞こえ始めたのは。それは、他人の子である筈の俺を必死に探す、義母さん達御堂家の家族全員。普段は家から出掛ける事が殆ど無い親父でさえも、大きく声を張り上げて俺へ呼びかけていた。良く見れば、余程慌てて家を出たのだろうか、義母さんは俺と同じく裸足だった。……何で、何で種族すら違う貰い子である筈の俺を、義母さん達はこうも必死に探すのだろうか?多分、義母さん達は本気で俺の事を心配していたのだろう。しかし、その時の俺にはそれが分からなかった。だが、その代わりに、俺は義母さん達にとてつもなく悪い事をしているという事は分かった。遂に居た堪れなくなった俺が義母さんの前に姿を見せると、義母さんは真っ先に俺へ駆け寄り、優しく抱き寄せた。義母さんは怒らなかった。だが、代わりに俺を強く抱き締めわんわんと泣いた。そして俺も泣いた。親父は何も言わず尻尾を揺らしながら、義母さんの胸の内で泣きじゃくる俺の背中を優しく撫でていた。義姉さんは呆れていながらも、何処か安心した様子で俺達の様子を眺めていた。……この時、俺はようやく気付いた。家族ってのは血の繋がりや戸籍とかじゃなくて、愛で成り立ってる物だと言う事に。そして、その日の夜は家族四人で一緒に並んで寝たのは、言うまでも無いだろう。そう言えば、俺が高校に入った頃に上京していった義姉さんは元気にしているのだろうか?まあ、あの義姉の事だ。俺が心配するまでも無く、都会で元気ハツラツに尻尾を立てながら過ごしている事だろう。――ふと、鼻腔に潮の香りを感じ、俺は物思いに耽るのを止めて周囲を見まわす。「……っと、何時の間にか潮騒通りまで来たのか?」俺の見た先、道沿いの防風林の向こうに広がるのは、月明かりを波で照り返す夜の海であった。どうやら、俺は物思いに耽っているうちに、古浜海岸とは反対に位置する美浦海岸沿いの潮騒通りまで来ていた様だ。……やれやれ、どうも俺は親父に似て、考え事をしていると周囲が見えなくなってしまうようで。ポケットに仕舞っている携帯を取り出して見ると、携帯の時計は今が深夜の一時を周る事を知らせていた。俺は少しだけ考えた後、どうせ海まで来たなら夜の海岸を歩いて見ようと思った。周囲を優しく照らす月とその周りで瞬く星々の下、人気の無い浜辺を行くのはさぞムード満点であろう。そんなごく他愛の無い、しかし、それでも充分な理由だった。「しっかし、本当に人がいねーな?」浜辺へと入った俺は、さくさくと砂浜を踏み鳴らしながら周囲を見まわして独りごちる。こんな夜、一人くらいは夜釣りをしている人が居るかと思っていたが、どうやらこの日の美浦海岸は俺の貸切の様である。ああ、ここまで来るんだったら釣り道具でも持ってくるべきだったかな? なんか少し損した気分だ。「……」俺は何言う事無く、人気の全く無い深夜の浜辺を歩く。そう言えば、ここは何処かで見た場所だなと思ったら、この海岸、夏の林間学校で訪れた場所じゃないか。道理で、林間学校のしおりに書かれてた行き先に見覚えがあった訳だ、思いっきり身近な場所じゃ見覚えあるのも当然だ。おまけに行きのバスは利里とのゲームに夢中になってて、帰りのバスは睡眠不足と疲労で寝てたもんだから、この場所に来ている事なんて全然気付きもしなかった。にしても、まさか歩きで行ける場所にあるとはなぁ、意外や意外と言った所か……。「……ああ、そういや朱美と約束してたんだっけ? 夜に一緒に飛ぼうって」ふと、俺はあの林間学校二日目の夜を思い出し、その時の思い出に浸る。あの時は良い所まで行って置きながら、自分のうっかりミスで全てフイにしてしまったんだよな……。おまけに帰りに獅子宮先生に捕まってしまうわ、しかも俺と朱美の様子を見られてたわで散々だったよな。まあ、なんだかんだ言って、獅子宮先生も俺と朱美の事を黙っていてくれてたようだし、今となっては良い思い出なのだが……。そう、俺は独り、思い出を振り返りながら、月明かりの下、浜辺に転がっていた流木を椅子代わりにして座り、打ち寄せる波をぼんやりと眺めていた。ーーその時。「そこの非行少年!」「――っ!?」不意に掛かった声に驚いた俺は思わず、がばっ、と立ち上がって辺りを見まわす。しかし、海岸の何処を見まわしてみても、俺へ声を掛けてきたと思しき人影は見えない。じゃあ、一体誰が? と首を傾げたその矢先、ばさっばさっ、という断続的な羽音と共に強い風が吹きつけてきた。――って、これはまさか?「朱美!?」「やっほ、卓君」そう、それは噂すれば曹操の影ありというべきか、俺の視線の先、煌煌と輝く月をバックに、朱美が両の翼を羽ばたかせて降り立つ所であった。そんな絵になる光景を前に、俺は一瞬だけ見蕩れてしまった。そんな俺の横へ砂浜に降り立った朱美は歩み寄り「ねぇ、卓君。こんな所でこんな時間に何してるのよ?」「いや、それは俺のセリフだって。朱美こそ何でここに?」「ん? あたしはちょっと目が冴えちゃって眠れなくてね、何だったらと思って空の散歩してた所」両の翼を腰の後に組んであっけらかんと言う朱美に、俺はふうと溜息を漏らし、「なんだ……って事は俺と殆ど同じって事かよ。実は言うと、俺もちょっとした事で眠れなくなっちまってな。かといって家で一晩中ゲームしてるのも難だし、だったらと散歩する事にした訳。ちょうど月も綺麗だった事だしな」「へぇ、すっごく奇遇じゃないのよ卓君。あたしも月が綺麗だったから空の散歩をする事にしたのよ?それで思い出の海岸まできたら、その浜辺で卓君が座ってるんだから。なんだかお姉さん、運命感じちゃうな―?」「お姉さんって……いや、まあ良いけどさ」と、俺が呆れていた所で、朱美が俺の方へ向き直り、「ねえ、所で卓君。あの日の約束は覚えているよね?」「ん?…ああ」憶えているも何も、ついさっきまでその事を思い出していたばかりである。つーか、この時この状況で思い出さない奴が居るのなら、それは相当な朴念仁かお馬鹿さん位であろう。って、ここで今気付いたが、今、それを行うには一つだけ問題があるのだが……。「でも、約束を果たすにしても俺、アレを持ってきちゃいないぞ?」「……アレ? ――って、ああ! 肩パットの事?」「そうそう、その肩パットも無いのに、如何するんだよ?」そうである、俺は軽く散歩するつもりだったから、当然、肩パットなんぞ持ってきていないのだ。朱美が俺をぶら下げて飛ぶ際、先ず件の肩パットを俺の両肩に装着した後、俺の両肩へ乗った朱美が足の爪を食い込ませる様に肩パットを足の指で掴む事で、ようやく安定した飛行が可能となる。その為、肩パットが無ければ朱美との飛行は実質上、不可能といっても良い。しかし、だからと言ってわざわざ家へ取りに戻るにしても、今や草木も眠る丑三つ時である。寝ている親父や義母さんを起こさずに肩パットを取って戻ってくるなんて、先ず無理と言っても良いだろう。ケモノの耳は意外に敏感なのだ。ドアの開け閉め程度ならまだしも、ガサゴソと家捜しなんぞしていたら確実に気付かれる。そうなれば、こう言う事に関して厳しい義母さんの事、厳しい追及の上、夜が明けるまで説教される事間違いなしである。これじゃ流石の朱美も諦めざる得ないだろうな……。「だーいじょうびっ! 心配無用よ卓君!」「え? 大丈夫って……」しかし、俺の予想に反して、妙に自信満々に耳をピンと立てて元気良くサムズアップしてみせる朱美。その自信満々ぶりに俺が疑問を投げかける間も無く、朱美は腰のポケットをまさぐり「私、こー言う事もあろうかとっ! 肩パットを持ってきているのでしたー♪」気をきかせたベンじいみたいなセリフを言いながら取り出したのは、なんと俺が使っているのと同じタイプの肩パット!をいをい、随分と準備が良いじゃないか……?「何時かこう言う事もあるだろうな―と思って、お出かけする時は何時もポケットに忍ばせてたのよ。あたしの準備の良さに感謝しなさい! 卓君」「へぇへぇ、感謝感激雨アラレでございますお嬢さまぁ」両翼を腰に当ててえっへんと胸を張る朱美に、俺はわざとらしいくらいに腰を低くして感謝の言葉を述べる。そんな俺の様子が余程可笑しかったのか、朱美はクスリと笑みを漏らし、「卓君、それは幾らなんでもわざと過ぎるんじゃない?」「うわ、ひっでぇな! 『あたしに感謝する時は何時もこうしなさい』って言ったの何処のどいつだよ?」「あれ? あたし、そんなこと何時言ったっけなー?」「言ったよ。中等部二年一学期の始業式の時、遅刻しそうだった俺を飛んで輸送してくれた後にな」「おお、そう言えばそうだったわね? 卓君、良く憶えているじゃない。お姉さん感心しちゃうなー、ナデナデしてあげる」「あのなぁ……」へらへらと笑いながら俺の頭を撫でる朱美へ、ちょっとだけジト目を向けた後、俺はふぅ、と息を吐いて、改めて本来の話題へと戻す。「まあ、それは良いとして、飛ぶなら飛ぶで早くしないと夜が明けちまうぞ?」「あ! 言われてみればそうだったわね。なら卓君、早く準備終わらせちゃって」「へぃへぃ」朱美に急かされるまま、俺は朱美から肩パットを受け取り、それを手早く肩へ装着する。そして、肩パットが身体にしっかりと固定されている事を確認した後、俺はその場にしゃがみ込んで準備完了。……しかし、待てど暮らせど何時もの重みが肩に掛かることが無い。如何したんだ?「……朱美?」「あ、ちょっと待って、足の砂を落としてるから」心配になって朱美の方を見ると、先ほど俺が座っていた流木を椅子代わりにして足に付いた砂を落としている所だった。多分、朱美は自分の足に付いた砂が俺の肩に掛からない様に配慮していたのだろう。こう言う細かな気遣いが出来る辺り、朱美は女の子らしいというか何と言うか……。「おまたせ!…っと」そう考えていた所で、砂を落とし終わった朱美が肩に飛び乗ったらしく、ずしりと肩へ重みが掛かる。その際、砂浜の柔らかさの所為で俺の体勢が僅かに崩れたのに気付いたらしく、上から朱美の心配げな声が掛かる。「卓君、あたし…重くないかな?」「いや、全っ然大丈夫だ」これはやせ我慢でも何でも無く、本当に朱美の体重が軽いのだ。意外に良く知られていない事ではあるが、空を飛ぶ鳥人や朱美の様な蝙蝠人の体重は平均して軽めなのである。と言うのも、彼らの身体は空を飛ぶ為、骨が中空構造になっているなど徹底した軽量化が図られており、俺よりも幾分大きめな鷲人の宮元先輩でさえも、本人の自己申告によるとその体重は僅か40kg程度しかないのである。そして、この肩に感じる重みからすると、朱美はおよそ30kg前後しかないと思っても良いだろう。「ねえ、卓君。今、何か変な事考えなかった?」「へ? 変な事って何が? それより早く行かないのか?」「……むう、まあ良いけどさ」俺の返答が気に入らなかったのか、少しだけむくれたような朱美の言葉の後、彼女は羽ばたき始めたらしく、ばさっばさっと言う音と共に俺を中心として強い風が吹き始める。風で吹き飛ぶ砂塵が目に入って痛い、涙が出る。でも、ここは朱美との約束の為、今しばらくは我慢だ!次第に軽くなって行く朱美の体重。俺はタイミングを見計らいつつ、足に力を込める。「行くぞ、朱美」「うん」そして、肩に掛かる体重が皆無になった所で、俺は足に込めていた力をジャンプする形で一気に解き放つ。ふわり、と身体が重力の頚木から解き放たれる独特の感覚を感じて下を見れば。先ほどまで俺達がいた砂浜がゆっくりと離れて行くのが見えた。「良し、離陸成功! それじゃ行くわよ」掛け声と共に、俺をぶら下げた朱美は夜空へと羽ばたく。さぁ、いざ行かん! 月明かりの下のナイトフライトへ!朱美の力強い羽ばたきの音が響く中、俺の見下ろす視界は濃紺と月の光が織り成す世界へと移り変わって行く。視界を前方へ移せば、月明かりを照り返す海原の一大パノラマが広がっている。なんとも良い景色だ。やっぱ、今夜は散歩に出かけて正解だったかも。こんな絶景を見られたのだから。「やっぱり夜空に飛ぶのも気持ち良いわねー。ほらほら、卓君、お月様が綺麗よ」上昇気流に翼を乗せた事で余裕が出来たのか、足の下の俺へ話し掛ける朱美。その声は羽ばたく翼の様に軽く、何処までも上がっていきそうな調子だった。俺は空に浮かぶ月を見上げながら、ふと気付いた事を朱美へ言う。「そういや…こうやって一緒に飛ぶの、あれから久しぶりだよな」「え? あ、ああ、そうね……」しかし、朱美から帰ってきたのは妙に歯切れの悪い返事。そして、数秒ほどの沈黙の後、朱美が声のトーンを数段落として言う。「ねえ、卓君……やっぱり…恐くないかな?」「へ?……恐くないって? ――あ……」ここで俺は、ようやく自分が迂闊な事を言ってしまった事に気が付いた。そうだ、朱美はまだ気にしていてたんだ。あの日の事を……。「卓君はあの夜、恐くなんかないさって言ってくれたけど。やっぱり、本当は飛ぶの…恐いよね?だってあたし…今でも夢に見るもん、あの冬の火事の…あの時の事を……」だんだんと下がって行く朱美の声のトーン。恐らく、今の朱美の顔はこれまでに無い位に暗い物となっているだろう。ああ! 俺は馬鹿も馬鹿の大馬鹿だ! 心の傷を穿り返して如何するんだ。こうなる事が分かっていながら何故あんな事を!ええぃ! こうなれば朱美には悪いが、少々荒療治と行くしかあるまい。「だから卓君…本当、恐かったら無理しなくても良いの、降りたいなら直ぐに言って――」「ほーら、ぶーらぶら♪」「――って、ちょ!? 卓君?! いきなりなにをしてるのよ!?」いきなり両足を前後にぶらぶらとさせ始めた俺に、朱美は悲しげな表情をすっ飛ばして酷く驚き、悲鳴に近い声を上げる。そこで俺はぶらぶらとさせていた足を止め、朱美の方へ笑顔を向けて言う、「本当に飛ぶのが恐かったら、こんな馬鹿な真似はしね―だろ? 普通」「…………」翼を羽ばたかせながらも、きょとんとした表情を浮かべる朱美。うん、ちょっと可愛い。そしてきっちり数秒の間を置いて、朱美は怒りに耳をわなわなと震わせて叫ぶ、「な、何を考えてるのよ!? 卓君! それで本当に落ちてたら如何してた訳? 下手したら怪我じゃ済まないのよ!!」俺の頭へ振りかかる朱美の酷くごもっともな怒声。その怒声の度合いから見て、朱美は本気で驚き、そして心配したのだろう。「ねえ、卓君! 何とか言ったらどうなの! こんな事して――」「……悪ぃ。俺には、朱美が暗い顔しているのが如何しても我慢できなくてな……」「……卓君」その言葉でようやく俺の意図を察したのか、朱美の声が急に落ち着きを取り戻す。俺は朱美の顔をじっと見上げ、自分の考えと想いを伝える。「何度も言うけど、俺はもう飛ぶ事は恐くはない。なんたって、朱美の事を信じているからな。だから、朱美は何時までもあの時の事を気にしないでさ、その…何時もの明るい顔を見せてくれよ、な?」うん、我ながら何と気恥ずかしいセリフだ。くさいにも程がある。しかもこんなセリフがすらすらと出てくるようじゃ俺、ヨハン先生の事を馬鹿に出来ないかも。「……」朱美は何も言わないで翼を羽ばたかせている。しかしその代わり、落ちつき無く視線をキョトキョトと巡らせていた。その上、良く見れば羽ばたいている彼女の翼膜が、月明かりの下でも分かるくらいに真っ赤に紅潮している。……ええっと、これは何だか、すっごく嫌な予感が……。「もう! いきなり何を言ってるのよ―!!」「って、うおぉっ!? ちょwwwwやめっ!?」予感的中! 恥ずかしさを紛らわそうとしたのか、朱美が足をぶんぶんと揺らし始めた!当然、その朱美の足にぶら下がっている俺は滅茶苦茶に振りまわされる事に!「卓君ったら! 何が『朱美の事を信じてるからな』なのよ! 聞いてるこっちが恥ずかしいじゃないのよ! もうっ!!」「うわっ! うわわわっ!? 恥ずかしい事言った俺が悪かった! だ、だから足揺らすの止めぇぇぇぇぇぇぇっ!?」そして、月明かりの下の浜辺にて。恥ずかしがる朱美に揺さぶられる俺の悲鳴が、何処までも響いたのだった。……教訓、飛行中のくさいセリフは危険ですので止めましょう。「……ったく、本気で落ちるかと思った……」「ごめんごめん。…でも、ヨハン先生みたいな事を言う卓君も悪いのよ?」暫く経って、ナイトフライトを終えて地上に降り立った俺は、打ち寄せる波の音をBGMに、先ほどの流木に朱美と腰掛けて二人語らっていた。「だからってなぁ、海のど真ん中で人ぶら下げた足を振りまわす奴が何処に居る?」「あはは、だからごめんって言ったじゃない。それに危ない事した卓君だって同罪よ?あの時は本当に卓君が落ちちゃうかと思ってドキドキものだったもん」「はは…それはごめん」まあ、確かに朱美の心の傷を何とかする為とはいえ、あれはちょっとばかし危なかったか……。下手すりゃ朱美諸共海に落っこちてたかもしれないのだ。よくよく考えりゃ俺は馬鹿な事をしたもんだ。まあしかし、結果的に朱美に笑顔が戻ってきてくれたから、ここは一先ず結果オーライとしておこう。……無論、あんな馬鹿な真似はもう二度としないと猛省しておくのも忘れずに。そして、そのまま数分ほど、俺と朱美はお互いに何も語らう事無く、月光輝く夜空を見上げる。聞こえる音とすれば海から聞こえる優しい波の音と、穏やかに吹く風が揺らす防風林の葉刷れの音だけ。最初にその沈黙を破ったのは、朱美だった。「……それにしても、本当に良かった」「良かったって?」朱美はオウム返しに問う俺を一瞥し、クスリと笑うと、「それはね。卓君とまた飛べたって事」「俺と?」「……本当ね、あたし、あれからずっと不安だったの。ひょっとしたらあの事件の所為で、卓君、空を飛ぶのが恐くなってるんじゃないかって」「……」そうか……朱美はずっと気にしていたんだ。あの冬の火事の日、人助けの為とは言え無理を承知で飛んだ所為で、自分のみならず俺まで怪我をさせてしまった事。それが心の棘となって、朱美が本来持つ繊細な心へずっと刺さり続けていたんだ。そう、幾ら時間が流れても、それは消える事無くずっと……「卓君ってさ、本当、昔っからやせ我慢する所があるからさ。口では恐くないと言ってても…本当はすっごく恐がってるんじゃないかな? って思ってたのよ。そう、夏の林間学校の二日目の夜の時も、卓君…なんだかんだ言って結局飛ばなかったし、尚更ね?」ここで俺は一つの疑問に行き当たり、それを朱美へ突っ込む。「おいおい、林間学校の時って言うけど、昼の自由時間の時に一度飛んだじゃないか。それはどうなるんだよ?」「その時は、卓君を怖がらせない様にだいぶ低い高度を維持するよう、ずっと気を使ってたのよ?」言われてみれば、確かにあの林間学校の自由時間、朱美は高く飛ぼうと思えばもっと高く飛べていた筈なのに、俺をぶら下げて飛んだ時は最後まで高度数メートルを維持し続け、それ以上の高度へは決して行こうとはしなかった。多分、あれは朱美にしてみれば、俺の空に飛ぶ事へのリハビリのような物だと考えていたのだろう。……いや、だったらそうと早く言えと思うのだが、今更それを突っ込んでも無意味だとも思うので、ここは黙っておくとしよう。「でも、今回、卓君と飛んだ事でやっと確信できた。卓君はもう、本当に大丈夫だって事がね?だから、本当に良かったって言ったのよ、分かった?」言って、朱美が俺へ向けた笑顔は本当に安心しきった、何処までも優しい笑顔。そう、朱美の心にずっと刺さっていた棘が、長い時間をかけて今、ようやく抜け落ちたのだ。俺はふっと頬を緩め、朱美へ言う。「あのな、朱美。空を飛んでた時さ、俺、お前になんて言ったか憶えているか?」「……え?」聞き返す朱美の目をじっと見て、俺は優しく言い聞かせる様に続ける。「俺、朱美の事を信じているからって言ったろ? そう、林間学校の時だって同じ様な事を言ったじゃないか。それに冬のあの時も、俺は言った筈だ、一緒にいれば何でも出来る。一緒にいれば俺達は無敵だって。だからな、その、朱美も……俺の事を本当に信じてくれよ。お願いだから……」しかし、途中まで言った所で急に気恥ずかしくなった俺は、最後まで朱美の顔を見ている事が出来ず、頬が熱くなるのを感じながらそっぽを向いてしまった。嗚呼、俺とした事が何と情けない。自分の言った臭いセリフに恥ずかしくなるとは……。と、俺が頭の中で情けない気分を感じた所で、朱美はクスリと優しく笑い、「うん、分かったわ。…卓君があたしを信じてくれる様に。あたしも、これから卓君を信じてあげる」「朱美…」「よくよく考えてみればあたし。卓君の事を信用していないような物だったもんね?卓君は大丈夫だって言ってるのに、あたし、自分で確かめてみるまで独りで勝手に不安がってたもの。信用されていないと卓君に思われても、仕方ないわよね……」言って、朱美はばつの悪そうに翼の鉤爪で耳元を掻きながら続ける。「だから…そのお詫びと言っても難だけど。これからは誰が何と言おうとも、卓君の事を信じてあげるわ。その…何と言うか、卓君に嫌われたくないからね」最後の所で気恥ずかしくなったらしく、朱美はぷいとそっぽを向く。恐らく、彼女の翼膜は今までにない位に真っ赤に紅潮している事だろう。俺はそっぽを向いている朱美に向け、優しく声を掛ける。「だったら、俺も何と言われようとも、朱美の事は信じてやる。絶対にだ」「……本当に?」朱美が不安げな眼差しを湛えながらゆっくりと振り向く。無論、俺の答えは一つしかない。「ああ、本当さ。朱美」「卓君…」俺と朱美の視線が重なる。そのままお互いに何も言わず、ただ、双方の目を見詰め合う。浜辺に打ち寄せる波の音よりも、互いの鼓動の方が大きく聞こえる。「…朱美」「…卓君」そして、ゆっくり、ゆっくりと、俺と朱美の距離が縮まって……「あれ? そこに居るのは……?」「「―――!!??」」――唐突に後から掛かった声に、驚いた俺と朱美は慌てて飛びのく様に双方から距離を取った。そして、無粋な声の主の方へ視線を向ければ、そこに居たのは見慣れた姿であった。「「ザッキー!?!?」」「なんだ、御堂に飛澤か? お前ら、こんな時間にこんな場所で何やってるんだ?」そう、俺と朱美が通う佳望学園の生活指導兼古文教師、ザッキーこと帆崎先生だった!無論の事、思いがけぬ教師の登場に、俺は慌てふためきつつも必死に弁明する。「いやそのあのえっと、俺は眠れなかったから夜の散歩してただけでして、はい!」「そ、そうそう、あたしもなんだか眠れなくて空の散歩しててね。そしたら、この海岸でたまたま卓君の姿を見たから、奇遇だねってちょっと話をしてただけなのよ、うん!」俺と同じく慌てふためきつつも、翼膜の先をばたばたと振って俺の話に合わせる朱美。そんな俺達へザッキーは変な物でも見るような怪訝な眼差しを向けた後、溜息一つ漏らして「学生がこんな真夜中に出歩いちゃイカン……と本来だったら叱っておく所だが、今夜はネコの夜会もある事だし、お前らはネコじゃないけど今回だけは特別に見逃してやる」「えっ、本当!? 感謝するわ、ザッキー!」喜ぶ朱美へ「だが、次は無いからな?」と人差し指の爪を向けるザッキーを横目に、俺は心の内で安堵の息を漏らした。これで義母さんの説教を食らわずにすむ。義母さんは怒ると英先生並に恐いからなぁ……ああ、良かった良かった。――って、実際の所は全然良く無いんだが、せっかくのチャンスをフイにされたんだし。恨むぞザッキー。つか、よくよく考えてみれば何でザッキーがこんな所に居るんだ? ネコの夜会にしては場所が違うし……。と、俺が疑問を口にする前に、恐らく同じ疑問を感じた朱美がザッキーへ問う。「所でさ、ネコの夜会があるにしても、何でザッキーがこんな所に居るのよ?」「ああ、それは今夜は中秋の名月だろ? だから今回のネコの夜会は、月が良く見えるこの場所でやろうって事になってな」「へぇ、そうなんだ」「なるほど、だからか……」言われて周囲を良く見れば、遠くの方でネコと思しき影がちらほらと見えた。恐らく、彼らは今回のネコの夜会の参加者達なのだろう。当然、ネコであるザッキーが参加してても何らおかしくはない。それに、月が綺麗な今夜くらいは、せめて見晴らしの良い場所でやりたくなるのも心情といった所だろう。「っと、それよりもだ、お前ら。明日が休みと言っても、今は時間が時間だから早く家に帰った方が良いぞ。せっかくの休日を、眠い目を擦って過ごしたくないだろ? まあ、俺はネコだから別に良いんだが」「いや、少し良くないような気が……」「あはは、流石にネコでも寝不足にはなるでしょ?」「あー、そうなんだよなー。夜会に出席した翌日はもう眠たくて眠たくて、いっつもルルに叩き起こされる事に……。って、そんな話している場合じゃなくて、もう兎に角お前らは帰った帰った、ネコじゃないのに夜会に参加して如何するんだ」気苦労の絶えない妻帯者から教師の顔に戻ったザッキーに帰るように促され、朱美は「ザッキーのケチー」とぶー垂れる。その際、ふと周囲を見まわした俺はある事に気付いたのだが、それを口にする前に少し残念そうな朱美が言う。「ちぇ、もう少しお月見を楽しみたかったのになぁ……。ま、ちょっと良い運動したお陰で眠たくなったのも確かだし、夜更かしで毛並みが荒れない内にあたしも帰ろうかな?」「そっか…もうこんな時間だしな。それじゃ朱美、また来週な」「うん、卓君も早く家に帰るのよ? それじゃ卓君、それにザッキーもまた来週ね!」そして、朱美は俺とザッキーに見送られながら満月の沈み掛けた夜空へと飛び立っていった。その姿が景色の向こうへ消えて行くのを最後まで見届けた後、俺は心の中で夜空よりも深い溜息を漏らした。……あ~あ、せっかくのチャンスがまたも良い所で水の泡ですか。しかもよりによってリア充のザッキーの所為でだよ。くそう、この前もそしてこの前もみんな良い所で横槍が入って台無しになってるじゃないか。どんだけ運が無いんだよ、俺は。はぁ、この調子だと、これからまたチャンスが来ても、何かの邪魔が入っておじゃんになりそうな予感がするなぁ……。そう、俺は心の中で愚痴を漏らしつつ、ぼんやりと夜空を眺めているザッキーの方を忌々しげに見やる。「……?」それに気付いたザッキーは俺の視線の意図が掴めなかったのか、不思議そうに首を傾げた。どうやら、邪魔した事に本気で気付いてないでやんの、このリア充。……ハァ、なんだか怒ってるのも馬鹿らしくなってきた、とっとと帰って寝るか……。いや、その前に一つだけ気になった事があったんだっけ?「ほら、御堂も早く帰った帰った」「はいはい…っと、その前に一つだけ聞いて良いですか?」「ん? なんだ?」何気にこちらへ耳を向けるザッキーへ、俺は気になったことを言う。「ネコの夜会って言ってましたけど、良く見たらネコじゃない人も居るような……」「おお、それか?」そうである。俺が聞いた話では本来、ネコの夜会に参加しているのはネコ人のみだという話である。しかし今、俺が見渡した限りでは、この海岸にはチーターやライオン等の姿が見られるのである。はて、これは一体……?「実は言うと最近、自分も『夜会』に参加したいって言う虎やヤマネコ等のネコ科の人からの申し出が多くなってな。それで、今までは『夜会』に参加できるのはネコだけ、って言うのが暗黙のルールだったんだけど今回からはネコ科の人も参加OKって事になったんだよ」「なるほど、そう言う訳か……って」ザッキーの説明に納得のセリフを漏らしたと同時に、俺の心の中で鎌首をもたげるトテモイヤナヨカン。散歩に出かける直前に玄関で感じた小さな違和感。ネコ科の人も参加できるようになった『夜会』。そして最後に、あの時と同じパターンの状況の流れ。この三つの繋がりから、これから起こり得るであろう展開は一つしか思い浮かばない。「え、えっと、あの……ネコ科って事は、ヒョウの人も含まれる訳じゃ……」「おお、そりゃ当然だろ? で、それが如何したんだ、御堂」やっぱりか! これは拙い、拙過ぎる!そうなると早くこの場から離れなくては……そう、このトテモイヤナヨカンが現実にならない内に!「ああ、いえ、何でもありません、帆崎先生。俺も早く帰って寝ないと――――」と、妙な敬語を使いつつザッキーへパタパタと手を振って、そのまま踵を返そうとしたその矢先。「卓ちゃん」ぽんと俺の肩に置かれる肉球の付いた誰かの手。そして、直ぐ後から掛けられる優しげな、それでいて凄みのある声。背筋に嫌な汗を感じつつ、俺は壊れかけのロボットの様に首をギギギと軋ませて、後へ振りかえる。「もうこんな夜遅くなのに、何でこんな所に居るのかなぁ?」夜の闇に溶け込みそうな、全身を包む漆黒の毛皮。そんな周囲の黒の中で映える月光の様な金色の双眸が優しく、そして鋭く俺を見据える。「え、いや、その、それは……」「あのね、お母さんは何時も言ってるでしょ? 夜更かしは行けないって。でも、それをなんで何で守れないのかなぁ? ねぇ、卓ちゃん?」そう、そこに居たのは義母さんだった。外見こそ、義母さんはにっこりと優しげな笑顔を浮かべてはいるが、不機嫌に揺れる尻尾から見て、今、義母さんが怒っているのは間違いないだろう。ここでようやく、俺は出かける直前に玄関で感じた違和感の正体に気付いた。そう、あの時は無かったのだ。普段ならば玄関の土間に置かれている筈の義母さんの靴が。無いのも当然だ、義母さんが『夜会』へ出かけていたのであれば。「おお、御堂君のお母さんでしたか。貴方も『夜会』に?」「ええ、帆崎先生。昼頃にご近所さんから今夜は月が綺麗ですからどうですか、と誘われまして……。けど、ちょっと用事を思い出しましたので、先生には悪いですけどもう私は帰る事にします」「はぁ。そうですか…それは残念だ」ザッキーと歓談しつつも、義母さんの手は俺を逃がすまいと、その爪を俺の肩へ食い込ませている。もう肌寒い季節にも関わらず、毛皮の無い額からだらだらと流れ出る脂汗。しかし、俺はそれを拭き取る事も出来ず、ただただ硬直するしか他がない。「それでは帆崎先生、私達はここでお先に失礼します。ほら卓ちゃん、行くわよ」「いでででっ!? ちょ、義母さん! 爪が食いこんで、痛てててっ!」言って、義母さんが俺の手をがっしりと掴み、すたすたと歩き出す。義母さんは相当怒っているらしく、掴んでいる手の爪が俺の手の皮膚に食い込んで痛い!しかし、だからと言ってその手を振り払える筈も無く、俺は情けない悲鳴を浜辺に残し、義母さんに連行されるのであった。ややあって。『夜会』の会場である美浦海岸を離れ、中央通りへ続く潮騒通り。深夜の為か、車通りの殆ど無いその道を、俺は義母さんに手を引かれつつ我が家への帰路に就いていた。足取り軽やかに鼻歌を漏らす義母さんに対し、俺は足取り重くがっくりと頭を項垂れていた。もし、俺の腰に尻尾が生えていたならば、その尻尾はだらりと重く垂れ下がっていたに違いない。それも当然である、これから俺を待っているのは義母さんによる厳しく長い説教なのだ。この時ほど俺は、悪戯がバレて英先生に連行されるサン先生の気持ちを理解出来た事は無かったことだろう。そんな暗澹とした気分を俺が感じていた所で、不意に義母さんが鼻歌を止めて、夜空を見上げつつ漏らす。「それにしても、お母さん、昔を思い出しちゃったわ」「……?」はて、昔を思い出す、とは……?思わず首を傾げる俺に気付いたのか、義母さんは俺へ説明する様に続ける。「そう……アレは確か、二十年前の事だったかしら。その頃の私はある小説家の編集担当をやっていてね、毎日多忙な日々を送っていたの。そんなある日のこと、私が担当していた小説家から『重要な話がある』と呼び出されたのよ。指定された時間と場所は、今日の様に月が綺麗な真夜中の、人気の無い静かな海岸。私は何の話なのかも知らされず、独り不安に駆られながらその約束の場所へ足を運んだの」空を見上げつつ義母さんは語る。まるで思い出の一つ一つを噛み締めるように。「私が到着した時、彼は浜辺で独り、夜空に浮かぶ月を見上げて静かに佇んでいたわ。私は早速、彼へ『重要な話』が何なのかを尋ねてみたの。だけど、彼は妙に口篭もるばかりで話そうとしない。それを前に私は不安を感じたわ、ひょっとしたら彼は小説家を辞めるとか言うんじゃないか。だから話し難いのだろうかって。そして、私も彼もお互いに何も言わないまま、永遠とも思える程の時間が過ぎた後だったわ」思わず「それで?」と聞く俺に、義母さんはクスリと笑うと、「彼、いきなり背筋と尻尾をピンと立てると、恥ずかしそうに私へこう言ったの。「結婚…してくれ」って。そう、彼の言う重要な話というのは、実は私へのプロポーズだったのよ」「―――って、義母さんの言う『彼』って、まさか親父の事!?」「うん、大当たりよ♪ 卓ちゃん」し、信じられない……あの口下手かつ超奥手なあの親父からプロポーズするなんて……。「あの時は本当にびっくりしたわぁ、私。今まであの人、私に対してそんな素振りを全然見せなかったのだから。そりゃ、私もあの人に対して少しだけ気があったけど、好意の欠片も見せない彼の態度を前に、少しだけ諦めかけてたのよ。けど、そんな矢先の告白よ? もうその時の私ったら、驚きの余り呆然と立ち尽くすしか出来なかったのよ。しかもあの人もあの人で、告白した事で緊張の糸が切れたのか、私の返事を待つ事無くその場でぶっ倒れるし。もうその時はグダグダのグズグズ、しかもその翌日に私がOKって告白の返事を返したら、あの人、また気絶したのよ?もう、今思い出しても可笑しくて可笑しくて堪らないわ」そう、昨日あった事の様に楽しそうに、時にははにかみつつ語る義母さんの表情は、まさに恋する乙女その物。結婚からもう二十年以上の時が経つと言うのに、義母さんの恋の炎は未だに消えずに燃え続けている。そして、対する親父もまた、二十年の時が過ぎても義母さんの事を愛しく想い続けている。何と羨ましい事か。何時か、そう、何時の日か俺も、今日のこの夜の事を振り返り、誰かへ話す日が来るのだろうか?今はまだ、それは分からない。だが、何時か必ず訪れる事を信じるとしよう。そして、話をしている内に気が付けば、俺と義母さんが歩いて居たのは我が家近くの桜並木。何かに夢中になっていると時間が早く流れる物だな、と頭の中でぼんやりと思っていた所で、夜空を眺めていた義母さんが、はと何か思い出したかのように言う。「あ、言っておくけど卓ちゃん、この話を私がしたって事、あの人には黙ってて頂戴ね?実は言うとこの話、あの人から「話さないで欲しい」と堅く口止めされてるから」確かに、親父が「話さないで欲しい」と言う気持ちも分からないでもない。自分からプロポーズしておいて緊張でぶっ倒れました、だなんて誰だって振れ回られたくはない。……となるとここで少し希望が出てきた訳で……。「ああ、分かった…けど、その代わり、今回の説教は短めに……」「卓ちゃん。それとこれとは話は別よ? 卓ちゃんには説教したい事が山ほどあるんだからね?」「……はは、そうですか……」が、その僅かな希望さえも義母さんに笑顔で潰され、がっくりと項垂れた所で。俺はふと、ある事に思い当たった。そう、何で義母さんはいきなり俺にこんな話をし始めたのだろうか、と。しかし、その事を俺が問おうとするよりも早く、義母さんが俺へ漏らす。「それにしても、本当に残念だったわね、卓ちゃん」「へ? ……残念って……」言い出した事の意が掴めず、思わず聞き返す俺。しかし、義母さんは俺の話を聞いていないのか、励ますような調子で続ける。「もう告白まで後一歩という所で、先生に邪魔されちゃうなんて、本当に惜しかったわ。けど、卓ちゃんはまだ若いんだし、機会を望めば何度だって機会は訪れるわよ、だから挫けずに頑張りなさいお母さんは卓ちゃんのこと、応援しているわ。ファイト!」…………。「……え゛?」何それ? いきなり何を言い出してるんですか? 応援って如何言う事ですか?そんな調子で軽く混乱状態に陥った後、ようやく正気を取り戻した俺は、震える声で義母さんへ問いかける。「え、エーっと、あの、まさかとは思いますけど……義母さん、何時から、見ていたんですか?」「え? 何時からって? んーっと……朱美ちゃんが卓ちゃんへ「そこの非行少年!」って声を掛けた辺りからかしら?――って、卓ちゃん、いきなり如何したの? がっくりと膝を付いちゃったりして…」「い、いや、何でも無い、気にしないで」ど、道理で……義母さんは「昔を思い出しちゃったわ」とか言う訳だ。殆ど最初っから見ていたんだよ、この義母(ひと)は……。流石は黒豹、気配を消すのに長けてらっしゃる。――って、ちょっと待て、義母さんが見ていたって事は他の『夜会』の参加者達も見てたりとか……?「いや、まさかな……?」様々な予測が俺の脳裏を過るが、しかし当然、それを確かめる術がある筈も無く。例え義母さんの説教が早く終わったとしても、今夜中は眠れなくなりそうだと、俺はこれからの事を悲しくも予感するのであった。尚、これは本当に余談ではあるのだが、俺と義母さんが家に帰った時、何らかの事情で目を覚ました親父が独り置いて行かれたと思ったらしく、静まり返った居間で、一人寂しそうに尻尾と頭を項垂れていたのだった。えっと、親父……ゴメン。―――――――――――――――――――――了――――――――――――――――――――――――
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