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夏の邂逅
青々と茂る街路樹の道をバイクで駆け抜ける。夏の空気がさわやかな風となって、純白を保つわたしの尻尾を吹き抜ける。大人達はまだまだ仕事に勤しみ、学校を終えた子供達が遊びの計画を立て始める、そんな時間帯。今日の修理の仕事は予想外に早く終わった。難航すると予想していただけに、とても気分がいい。さて、これからどうしよう。街に繰り出してみようか。少し遠出をして、海沿いの道を走るのも気持ちいいだろうな。アイツと行った、あの海沿いの道。よし、アイツに会いに行こう。昨日の今日会ったばかりだって?いいじゃない。大学時代は毎日のように顔を合わせてたんだから。あの学園には、アイツからバイク関連の呼び出しを受けて行くのがお決まりのパターンだけど。用事がなくても、たまにはわたしから会いにいってもいいよね。アイツってば全然こっちの仕事場には顔を出してくれないんだから。まあ、それだけ教師の仕事も忙しいんだろうけど。少し待ってみて会えないなら別に何か考えよう。ふふ、アイツは元気にしてるかな。この暑さにばててたりしないだろうか。弾むような気分で、わたしは佳望学園へとバイクを走らせた。学園に人影はまばらだった。本来なら下校を始めているであろう子どもたちの姿も見えない。おかしいなと疑問に思ったが、すぐに気付いた。そうか、学生はもう夏休みなんだ。いつもよりだいぶ少ないとはいえ、学園に人の気配は十分に感じられた。校舎からは管楽器の演奏が、グラウンドからはバットにボールが当たる小気味の良い音が聞こえてくる。何度かお世話になっている自転車置き場に愛車を止めて、誰かいないかと見回しながら学園の敷地内を歩く。用もないのにいきなり訪ねていって、アイツの仕事の邪魔をしちゃいけない。アイツに知られず確認するなら、生徒の誰かに聞くのがいいだろう。お、あの子は…ちょっと小さいな。あれは…いやもっと真っ白で………あれ?見知った顔を探していたつもりが、いつのまにか白いふさふさの尻尾を探していた。そんな自分に気付いて苦笑する。わたしったら、あの子にも会いたかったのかな。毎回毎回、そう都合よくは会えないだろう。やがて、グラウンドを外れた広場でキャッチボールをする知った顔を見つけた。あの子達は確か…「おーいタスクくーん!ナガレくーん!」投げようとした手を止め、振り返った犬の少年が驚いた声を上げる。「あれぇ?えっと…すぎも」「ミナでいいよ!」前にもこんなやりとりしたなあ。あの少年の真っ白な毛並みを思い出してクスリと笑う。「いいなあ、夏休みかー。君たち今日はどうしたんだい?」「今日が終業式だったんです。半日でしたけどまだ残ってる人はいますよ」「ふーん。あれ、もう一人の…アキラ君は今日は?」「ああ、それがあいつ…期末の数学でひどい点とって、今サン先生の『数学の苦手を吹っ飛ばせ!サンのスーパー補習講座!』受けてるんです」「ははは、そっか。じゃあサンは今忙しいのか」「えっと、サン先生に用事ですか? できるまで徹底的にやるって言ってたからいつ終わるのかわかりませんよ」「ん、わかった、ありがと。こっちも大した用事じゃないんだ。ちょっと待っててみるよ」「待つならあそこのベンチがいいと思いますよ」タスク君が指さした先には並ぶ植木と、その下にベンチが一つ。あそこなら校庭全体がよく見えそうだ。「おっ、いいねえ! 気が利く男子は女の子にもてるぞタスク君!」「やっ、やだなあ…何言ってるんですか」恥ずかしそうに否定するタスク君とナガレ君に軽く別れを告げて、わたしは彼が教えてくれた場所へ向かった。普段から多くの人が使っているであろう、空色のベンチ。木陰に吹き抜ける風は涼しく、夏の暑さを感じさせない。近くに自販機もある。校庭が一望できて、人の出入りも確認できる。いい場所を教えてくれたタスク君に感謝しよう。さてと、どれくらい待ってみようかな…「……来ない」何度思ったかわからない心の声が、つい口から出ていた。傍らのグローブとボールを見やり、小さく息を吐く。これを使っていた二人はもう帰ってしまった。返却は運動用具倉庫の隙間から放り込んでおけば問題ないらしい。アバウトな学園だ。高かった太陽は今は大きく傾き、学園は夕暮れの雰囲気に包まれていた。吹奏楽部や野球部の音もやがて消え、教師の帰る姿も見られる。それでもアイツの姿は見えない。わたしも最初はこんなに待つつもりはなかった。ここに来る前から決めていたことだ。ある程度時間を決めて、それで会えなかったら今日は諦める。そう決めていたのに…時間になった。アイツも忙しいんだな。仕方ない、今日は帰ろうか…でも、もう少し待ってみよう。もうちょっと待てばアイツがひょっこり顔を出す気がする。いやいや、もう少し。あと十分。あと五分…そんな感じでもう少し、もう少しが重なって、結局こんな時間まで待ってしまった。まるで煮え切らない情けない自分に苦笑する。…なんでだろ。わたし、こんなにもアイツに会いたかったのか。目をつぶり、大きく息を吸って、吐いた。このもやもやした気持ちごと吐き出すように。何をやってるんだ、杉本ミナ! お前はもう大人の女なんだろ。いつまでもうじうじしてるなんて大人失格だぞ!「よしっ、帰ろう!」自分を叱咤して、勢いをつけて立ち上がった。暗くなる前に帰ろう。今日はさよならだ、佳望学園。大きく伸びをして、最後の挨拶のつもりで学園を見やった。ふと、ある一点で目が止まった。教職員出入り口辺りに佇む人影がひとつ。アイツではない。スラリと背筋の伸びた犬の女性。実際に会ったことはないけど、わたしはその姿に心当たりがあった。そうだ、あの人は…自然と、わたしの足はそちらへ向かっていた。近づく背中。はっきりしていく姿。結わえた後ろ髪に、ゆったりと揺れる尻尾。「………」「…あ、あの、はじめまして!」少しの間躊躇ったが、思い切って声をかけた。耳を倒さないよう、尻尾を太らせないように強く意識する。振り返る彼女の前髪がふわりと揺れる。「あら、あなたは…」「無断で学園に入って申し訳ありません!あのわたしサン…先生の知り合いで杉本ミナっていいます、はじめまして」正直緊張していたわたしは、必要なことを一気にまくしたてた。大丈夫だよね。言ってること間違ってないよね。「前にも学園に来てたわね。はじめまして杉本さん、私は教師の英です」やっぱり。この人が英先生だ。部外者のわたしが学園にいることで注意されないか不安だった。柔らかく微笑む英先生の姿に、わたしは心の底から安堵する。「サン先生に用事かしら? 生憎彼はまだ仕事中なのよ。そろそろ終わるころだと思うんですけど…」「いえ、いいんです。大した用事ではないので」「もう終わってるかもしれないわね。職員質に帰っているようなら呼んできましょうか?」「いえいえ! お仕事を邪魔してはいけないので!」「そう…わざわざ来てくださったのに悪いわね」「わたしは大丈夫ですので…その…」言葉に詰まる。今言うべきことがあるのに、その言葉が出せない。初対面のこの人に失礼にあたるのではないか。迷惑をかけてしまうのではないか。でも、今を逃したら次のチャンスはいつになるかわからないのだ。今だ。今言わなければ…「…あ、あの!」意を決して声を出した。英先生は少し驚いた顔を見せる。「なにかしら?」「英 美王先生…ですよね」「あら…?名前まで言ったかしら?」「その…あなたのことは前から知ってたんです。サン先生に聞いてました」「あら、そう、彼が…」「それでずっと、直接お会いして話してみたいと思ってたんです」今言うべきことは言った。わたしは不安に押しつぶされそうになりながら、黙って答えを待つ。「そうでしたか…」英先生は少し考えた後、わたしの隣を抜けて歩きだした。慌てて目で追う。「え? あの!」「ここで立ち話もなんですから。そうね、あそこのベンチでいいかしら?」「あ、ありがとうございます!」「いえいえ、私も少し休憩しようと思っていたのよ。ちょうどよかったわ」英先生を先に少し歩いて、先程まで座っていたベンチに今度は二人で座った。どう切り出せばいいか困っていたわたしに気付いて、英先生が先に口を開いてくれた。「改めてはじめまして。英語教師の英美王です」「あ、はい、はじめまして。サン先生の知り合いの杉本ミナです。父とバイク屋をやってます」「サン先生と知り合ったのはバイク関係で?」「いえ、大学時代からの友人です」「え…あなたは…?」「…?」何か疑問を感じたようで、英先生の言葉が止まる。わたしはなんのことかわからず首を傾げる。「…あ、いえ、なんでもないわ。ごめんなさい、忘れてちょうだい」「あ、はい」少し考えて自己解決したようだった。「それであなたは…サン先生から私のことを聞いていた、と?」「はい。結構よく話してました」「厳しくて口うるさい人?」「えっ、ええっとその……はい。そんなことも言ってましたけど…でっでもその全然そんなことないですよ!わたしはとっても優しくていい人だと思ってます!」慌てて否定するわたしを見て、英先生は優しく微笑む。「ふふっ、ありがとう。でもいいのよ、その通りなんだから。何が良くて何が悪いかなんて、結局その人の価値観でしかないわ。彼の判断で良かれと思ってやっていることも、私はきっと否定してしまっている。そんな私ですもの、嫌われても仕方ないと思うわ」「そんなことありません!!」思いもよらない一言に、つい声が大きくなってしまった。英先生ははっきりと驚いた顔でわたしを見ている。「あっ、ごめんなさい…」「そんなことって?」「その…英先生が嫌われているなんて…そんなことないです」そんなことない。アイツはこの人のことを悪く言わない。直接話してこの人から受けた印象は、アイツの話から受けた印象のままだった。話の内容こそ愚痴でも、どこか嬉しそうな調子を感じる。サンは英先生のことを決して嫌っていない。いや、むしろ………「英先生は…サンのことをどう思ってるんですか?」ほとんど無意識に、ポツリと言葉が出た。「え…?」言葉が出て、英先生の小さく驚く声を聞いて…やっと気付いた。「あ…!」耳がカッと熱くなるのを感じる。なんてこと聞いてるんだわたしは。確かに聞きたかったことではあるが、これはさすがに直接的すぎる。「あ、いえあのそのっ! サッ、サンの仕事って直接見たことないので!教師としてのサンはどんななのかなって思って!」慌てて手を振りながら、なんとかフォローした。英先生は、ふふっ、っと小さく笑って答えてくれた。「そうね…たまに提出が遅れたりするけれど、基本的に仕事は真面目にやってるわ。関係ないことをやっているように見えても、ほとんどの場合期限までにはきっちり仕上げてくる。仕事の効率がいいのね。初中高等部を兼任していて誰よりも忙しいはずなのに、そんな様子は全く感じさせない。授業もわかりやすいって生徒にも大人気。私よりもずっと優れた教師よ、彼は」「そう…なんですか…」サンがすごいヤツということは大学時代からよく知っていた。そう、わたしがどうやってもこの人には敵わないと、教師になることを諦めるほどに。しかし、わたしとは経験が違う現役のベテラン教師からも、そこまで評価されていたとは…「…驚きました」「ふふっ、そうね。私も最初はそう思ったわ。あ、私がこう言っていたことはサン先生には内緒にしてね。あの人きっと調子に乗っちゃうから」「あはは、そうですね。サンには内緒にしておきます」改めて思った。すごいヤツだったんだ、アイツ。「彼のことは……そうね、尊敬、してるわ」「尊敬…ですか」「ええ」尊敬…か。どこかほっとしたような、嬉しいような気持ち。驚きと、ほんの少しの疑惑。それらの感情がぐるぐるとわたしの中で渦を巻く。「…不思議な人」「…え?」考え呆けていたわたしは、英先生が続けて発した言葉に反応するのに、少しの時間を要した。それに気付いていたんだろう、英先生は一呼吸おいてから、言葉を続けた。「普段の彼とは違う別人のような一面、感じたことはあるかしら?」「あ…あります!」想定外の言葉に驚いたが、確かに、そういうことがあった。何度か感じたことがある。例えば、中睦まじい母子を見たとき。若いカップルを見たとき。それ以外にも時折。アイツの顔が、言葉が、まるで別人のように感じることがあった。わたしの答えを受けて英先生は、そうね、彼は…と続ける。「子供みたいな人かと思えば、不意に別の…大人の顔を見せることもある。まるで別人のようだけれど、それもまた紛れもなく彼自身で。まだ若いのに、私よりもずっと深く複雑な人生を歩んでいる…」英先生。この人…「彼のことを、もっと知りたい。私はそう思っているわ」この人は…もしかして…「…どう? 質問の答えになったかしら?」「あ…」そこまで言われてはっと気付く。英先生はつい出てしまった最初の質問に答えてくれていたんだ。「は、はい! ありがとうございました!」またしても耳に熱が集まるのをわたしはじんじんと感じていた。「その…すみません。失礼なことを聞いてしまって…」「ふふっ、いいのよ。なんだか学生時代を思い出したわ」「そう…ですか…」この状況でまた聞くというのは気がひけた。でもそれ以上に、新たに生まれた疑問を聞かずにはいられなかった。「英先生。あなたは…」「…?」「あなたはサンの過去…フリードリヒのこと…知っているんですか?」わたしは知らない。噂はいくつかあったけど…ドイツ出身。本名はフリードリヒ。確かなのはそれだけだ。わたしが何度聞いてもはぐらかされてしまう。たぶん誰にも話していなかった、サンの過去。この人はもしかして、それを知っているんじゃないだろうか。しばらく考えていた英先生が、やがて口を開いた。「……知っているわ」「それは…サンから…?」「ええ。彼から聞いた話よ」…やっぱり。この人はわたしとは違う。サンにとって、特別な人なんだ。予想はしていたので、驚くことはなかった。しかし…「そう…ですか…」感じた落胆は小さくなかった。俯いていたわたしの耳の付け根に何かが触れる。柔らかく頭を撫でるそれは英先生の手だった。「あなたは…本当にサン先生のことが好きなのね」顔を上げると、微笑む英先生。まるで母のようだ、そう感じた。「えっ…と…その…」「わかるわよ。私だって元、女の子ですもの」「…はい」わたしを撫でる手から、英先生の優しさが伝わってくる。気持ちいい。心が安らぐ。「大丈夫よ。あなたの気持ちはきっと彼に届くわ」「………」わたしはしばらくの間、彼女の優しさに身を委ねていた。少し経って、わたしを撫でていた手がピタと止まった。その手を口元に当てて少し考えた後、英先生はポツリと呟く。「最終的にはちゃんと言わないとわからないかも…」「やっぱり…そうですかね」「あの人そういうことには鈍感っぽいもの」「英先生もそう思うんだ…」ベンチに置いていたわたしの手に、英先生の手が重なった。口調が、わたしに向けたものに変わる。「でも焦ることないわ。あなたたちはまだ若いんですもの」「そんな、英先生だって」「いいのよ。私のことは気にしないで」わたしの手が持ち上げられ、英先生の両手に包みこまれる。「過去の話だって、いつか彼の方から話してくれるわよ」「そう…ですかね」「ええ、きっと。あなたを応援してるわ、杉本さん」「ありがとうございます…英先生」沈んでいた気持ちは、わたしの中からすっかり消え去っていた。空に一番星が輝きだした。英先生がベンチから立ち上がる。「さてと、そろそろ仕事に戻らなくちゃ」しまった。英先生がまだ仕事中だということを完全に失念していた。英先生に続いてわたし慌てて立ち上がり頭を下げた。「仕事中に長く付き合わせてしまって申し訳ありません!」「そんな気にしなくていいわよ。私もいい気分転換になったわ」わたしの体を起こして、英先生は言葉を続ける。「そんなにかしこまらないで。私たち、せっかくこうやって知り合えたんだから」ね、杉本さん。そう言って英先生は微笑む。そっか。そうだよね。それじゃあ…「ミナでいいですよ!」わたしは返す、いつもの言葉。「そうね。私も美王でいいわ、ミナさん」「美王先生!」わたしはもう一度頭を下げる。心の底から示す、感謝の気持ち。「今日は本当に…ありがとうございました。美王先生と会えてよかったです」「ええ、私もよ。ミナさんと会えて嬉しかったわ」極自然に、わたしたちは握手を交わした。「よかったら、また後でゆっくり会いましょう。今度は仕事中じゃないときにね」「そうですね。嬉しいです、美王先生。またどこかで」別れを告げた後は、その姿が校舎内に消えるまで、わたしはずっと美王先生の後ろ姿を見つめていた。あの人が英美王先生。サンにとって特別な人。すごく美人で、わたしよりもずっと大人で。その姿から。立ち振る舞いから、言葉から、「気品」というものを感じさせる。わたしもいつか、あんな人になれるだろうか…ぼんやりと見つめていた校舎から、新たに現れる小さな影。タタタッと、まっすぐこちらへ駆けてくるその影は…「あ…」「や、ミナ!」今日のわたしがずっと待っていた、サンその人だった。「どーしたのさ今日は。バイクは問題ないよ?」「ん…いや別に…若い少年たちに会いたくなってさ。何となくよってみただけだよ」「またうちの生徒をかどわかしに来たのかー、悪い大人だなー」「失礼な! いいじゃないたまには」「でも残念でしたー、終業式で全然生徒いなかったでしょ」「いいもん! タスク君には会えたもんね!」「ええっまた!? タスク危ないなー。そろそろミナの魔手から守ってやらなくちゃ!」「うっさい!」放った猫パンチはサンの頭の跳ねっ毛に吸い込まれて、ポスン、と期待はずれな音を立てた。「ミナさあ…実は相当長くいなかった?」「う…いや…」はたと止まったサンの目線の先には、わたしが時間を持て余して飲んでいた、三つ重なった空き缶があった。うーん…失敗した。怠慢しないでちゃんと捨てておくべきだった。「こんな真夏に何やってんだよ、熱射病になるぞ」「お生憎様、猫は寒がりなんです。その分暑いのは結構平気なんだよ」「っていうかホントに長い間何してたわけ?」「えー…っと…」言い訳を探すわたしの頭に、不意に――ちゃんと言わないとわからないかも…――美王先生の言葉がよぎる。そうだよね。逃げてばかりじゃ何も変わらない。ですよね、美王先生。「サンをさ、待ってたんだよ」「…え?」「サンに会いたくて、ずっと待ってたんだ、わたし」「…何でさ?」「………ふぅ」お見事。素晴らしい鈍感っぷりだ。わたしの気持ちに気付かないまでも、何か感じるものはないのかコイツは。君が好きだからだよ、サン。好きな人に会いたいっていうのに、何か理由がいるかい?こんな何かのついでのような場面で、さすがにそこまで言うことはできなかった。ベンチに置いてあったグローブを、後ろ手にサンに向けてポンと投げる。もう一つのグローブをはめてボールは右手に、サンに振り返った。「サンとキャッチボールがしたかったんだよ! ほら行くよ!」「えっわっ、ちょっと!!」サンは慌ててグローブをはめると、わたしの球をパシンと受け取った。「いきなり何するんだよう」愚痴を言いながらも、サンはいい球を投げ返してくる。「ハハハ、油断してるサンが悪い」そうやって話しながら、少しずつ距離を開けていった。夕暮れの校庭で、サンと二人。ボールと言葉のキャッチボールが続く。言葉を投げて、ボールを投げる。「さっきね、美王先生と話したんだー」「えー、英先生とー?」「うん。綺麗な人だねー」「でしょー」「すごく大人だよね。サンとは大違いだ」「うるさいよ!」「アハハハ!」こうやってサンをからかって笑っている、これがわたしなんだ。わたしはたぶんこれからも、美王先生のようにはなれないだろう。でも、これでいい。そう思う。わたしは変わらない。変わらずに想い続けていれば、この気持ちは届くさ。届かせてやる。いつかアイツを振り向かせてやる。グローブの中のボールを、ギュッと握りなおした。「サン! 覚悟しときなさいよー!」大きく振りかぶって思い切り投げた速球は、サンの胸の正面でバシンとグローブに収まった。「…へ? 今何か違った?」「あ、ひどーい! わたしの思いの丈を込めたボールだったのにー」「えー、ちょっと速いだけで何にも変わんなかったよー」「ちぇー、残念」今はまだ、わたしの気持ちは届かない。でも、いつかきっと、ね。やがてキャッチボールの音は止まり、一学期の仕事を終えた佳望学園は、夏の星空に包まれていった。<おわり>
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