精神論の極意


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注:サフィニア邸の記事



2007年11月 支援論第二類「極意の片鱗」 より

支援論特別編。

私と仲のいい人であればたいてい私の口から聞くであろう、師匠の話。
私の回復弾の撃ち方は、文字通りその人のものです。
私はドンドルマで一番理想的な弟子だと思います。
そして一番理想的な弟子を持った先生はドンドルマ一の師匠ということに(笑
で、ドンドルマ一理想的な師弟は互いに意見を交換しながら切磋琢磨
今は一人で活動する弟子はその魂の上に立っているのです。

先生は人と楽しく遊ぶ為に命を懸ける、という人です。
ホントに、一所懸命です。
支援の目的は前衛が気持ちよくプレイできることだ というのも師の受け売り。
小技の数々で「魅せて」いくのも支援という名の「エンターテインメント」。
その中軸になってる回復弾だって、「カッコいいと思わせるために撃つ」んだと
まあ普段酔ってるのでどこまで本気かわかりませんが…

支援戦術の理論は戦略の域を出ません。
役に立つか、どうかという観点で話をされるのはもっともなことなのです。
人に宣伝するにも、それが一番効果のあることです。
それは間違いなんかではありません。
そして確かに、戦術として支援の数々は有効なものです。
でもなぜ、エンターテインメントのような、
見せる技を、わざわざするのか、攻撃を放棄するという一見無駄な行動は
何のためにするのか。
それは、味方のピンチを取り除いて、攻撃を助けるため、
攻撃してないように見えて実は攻撃効率上がってるんだよー っていうのは
「真の目的」に寄与するスパイスのようなものでしかないと思うんです。
戦術的有効性なんて、みんなそうです。
支援は、役立って、なおかつ不思議に楽しいから、愛されるべきもの。
その真の目的というのが…まだ一言では表せませんけど。

今日もいいプレイができました。
技量的に調子がいいというわけでは決してないんです。
無駄だとも思えるほどの回復弾を撃ち合い
絶対的不利の中で泥と血にまみれながら笑いあい
そのなかで、「一緒にいると元気になれるよ」といわれたときに
嬉しいでも楽しいでもない、それ以上の、不思議な気分になれました。
そう、支援っていう手段で、回復弾やその他の手段を通じて
<直>で手をさしのべることで、目指しているのはここ。
元気を分け合えるような相手、
その人の為というときに初めて一生懸命の技が出るような相手
そこでゲームが最高に楽しいといえる仲間
そういう人に出会えるように
私はこの技を身につけてきたんだ、と感じました。
たかがゲーム一つで大げさでしょうか。
いいえ、この絆はバーチャルじゃないはずです。
だって、画面の向こうでおんなじことを考える人がいるんだから。

私のおかげで元気になってくれる人がいたら
たとえ私が元気じゃなくてもそこで元気になれる。
私は装備のためになんか全然頑張れないけど
こんなに長くプレイしてきて、素材は全部投売りにしてもなお続くのは
ほかならぬ(狩りの、ゲームの)仲間がいるからで、
これほどの友達に出会えるからで、
その人と楽しくやれたらいいなって思うから
カッコいい技も役に立つ技も、それに必要な知識も、身についてきたんだな と
そしてそこに
支援という「プレイスタイル」の極意がある、と
そう感じたのでした。

初歩的なこと。
 支援は、相手がいなければできない。

その相手が、私の支援を喜んでくれるならどれだけ私は幸せでしょう。
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