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 嵐の夜だった。
 鎧戸は叩き破られんばかりに激しく音をたてて揺れていた。外を彷徨う亡霊が入れてくれとすすり泣き、唸り、脅しつけている――あれはただの吹き荒れる風の音だ。彼女は耳を塞ぎ、ベッドの中で胎児のように丸まって震えながら、必死に言い聞かせていた。
 荒れ狂う風に怯える夜は、アルベルトが手を握ってくれた。彼女が眠りにつくまで。
 だが今、側に彼はいない。拒絶された日から、彼の姿を追いかけそうになる度に唇を血が滲むほどに噛みしめた。心は凍てついたはずだ。恋が死んだあの時に。なのに!
 明日になれば、結婚相手である隣領主の城に向けて出発することになっていた。せめて、最後に別れの言葉を交わしたかった。未練たらしいと自分に腹を立てたが、これで最後かもしれないと思うといてもたってもいられず、アルベルトを探した。城中を探し回った。
 だが彼はどこにもいなかった。
 ――こんな嵐の夜にいったいどこへ?
 唸りをあげる風にまぎれて馬がいななくのが聞こえた気がした。
 アルベルトだ!
 直感だった。寝台から飛び降りる。燭台を手に取り、闇に浸食された螺旋階段を駆け下りていく。扉を開けると、薔薇の濃厚な香りが鼻をついた。庭園は母の好きだった薔薇で狂おしいまでに満たされている。幾何学式に整えられた通路に足を踏み入れた途端、激しい風雨に叩きつけられ、燭台の火は消えた。
 星も月もない、圧倒的な闇。
 稲光が闇を切り裂いた。
 一瞬の鮮烈な輝きに照らされ、闇から男が現れた。死を運ぶ烏の翼のように、マントは風に煽られはためく。
「アルベルト!」
 吹きつける風雨に挑むように叫び、彼女は駆け寄っていた。何も考えず、一途に彼だけを想った。
 手が腕に触れた。
 頭巾(フード)からこぼれた濡れそぼった髪が目にかかり、雨が滴り落ちていく。見上げる彼女の顔にも。
「……どこへ行っていたの?」
 彼は答えない。どこか遠いところにいるようだった。腕を揺さぶる。
「明日になれば、わたしはもうこの城にはいないのよ。もう会えなくなるのよ!」
「……安心してください」
「それはどういう意味なの? 会えなくなるのが嬉しいとでも?」
 アルベルトは、首を微かに横に振った。
「結婚しなくても良くなったからですよ」
「なぜ? どういうことなの」
 腕を伸ばし、彼の目を隠している濡れた髪をかきあげた。また闇を切り裂く青白い光が走った。澄みきった湖のような瞳が彼女を見つめていた。
「――私が、殺したからです」
 白鳥の命を奪ったときと同じように、彼は静かに告げた。
「あの男は、あなたを汚してしまう。殺さなければ、皮と骨だけの皺まみれの手であなたを抱く――死んで当然なんです」
 淡々と語っていた声がふいに震えを帯びた。目を見開いたままで言葉もない彼女を見下ろして。
「ですが、私も同じだ。きっと、あなたを汚して、壊してしまうでしょう」
 無理に微笑んでみせて、彼は離れていこうとする。彼女は必死に腕にしがみついた。
「答えも聞かずに行く気? わたしは、汚しても壊されてもいい。あなたに側にいてほしいの!」
 背中に手が回された。抱き寄せられる。嵐よりも強く、激しく。
 雨が二人の体温を奪っていく。だが自分以外の体温が暖めてくれる。
 互いに相手の姿だけを見つめ、熱病に罹ったように震えながら、唇が重なっていく。

 風に翻弄されて悶え、薔薇が散っていく――血のごとく赤い花びらが。

 ――わたし達は罪を犯した。

 そして、あの時と同じ薔薇園で、彼は離れていこうとしている。
 隣領主を殺した暗殺者はまだ見つかっていない。死体は森の中で発見されたが、犯人の手がかりも血の跡も嵐でかき消されてしまっていた。とはいえ、まだ安心するわけにはいかなかった。隠された罪が暴かれる日がいつ来るか脅えながら生きていかねばならない。
 それでも、この恋が禁じられていても、神に背いたって貫いてみせる。なのにアルベルトは一人で罪を背負って、聖地へ行くのだ。
 壁際のベンチの両脇に二本の低木が壁に沿って互いに蔦を絡ませ合っている。まるで恋人同士のように。カーラインは睫毛を伏せて、指を伸ばし、掴んだ。
 それは深紅の、薔薇。
 刺が突き刺さり、血が滲んだ。優しく彼の唇が押し当てられ、痛みが熱にかわる。
 伏せていた眼を上げた。
「――約束して」
 真っ直ぐに、強い眼差しで。
「必ず生きて帰ってくるって。約束してくれないんだったら、どんなに反対したって、無理矢理ついていくから!!」 
 空の青にとけ込んでいくような微笑みを浮かべ、彼は誓った。
「片割れをなくした白鳥にかけて約束します。必ず帰ってくると」
 カーラインの瞳から涙がこぼれ落ちる。
 聖地へ向かう恋人同士は、こうして約束を交わしあうのだろう。だが、約束を果たせずに死んでいく者のなんと多いことか。それでも、泣いて縋ってもとめることができない男を好きになってしまったのだ。騎士が忠誠を尽くすのにふさわしい貴婦人として振る舞わなければならない。
 背筋をのばす。
「……父をよろしく頼みます」
 もう約束をせがまない。
 アルベルトは差しだされた手をとり、接吻する。
「……御意」


       *


 あれから、もう三年が経ったのだ。
 聖地エルサレムが異教徒の手に陥ちたという知らせが届いたとき、領主である彼女の父は、聖地奪還を神に誓った。
 父の従者だった彼もまた、ともに出征した。
 武勲となによりも無事を祈って、神に捧げるタペストリーを縫っていたのだ。
 それなのに、血が流れた。
 不吉な予感に胸が締めつけられる。この空につづく異国の地で、彼は無事でいるだろうか。
 その祈りは、馬の嘶きによって破られた。
 中庭が、騒がしい。
 窓から身を乗り出すと、もうもうと砂埃をたて、騎士が連なって帰ってくるのが見えた。砂埃にまみれ、くたびれきった姿が彼らの旅が長く過酷だったことを知らせてくれる。
 カーラインの顔が喜びで輝いた。
「帰ってきたんだわ!」
 勢いよく立ち上がると、側で一緒に刺繍をしていた侍女が、驚いた顔を向ける。
「主の下で戦ってきた騎士たちが帰ってきたのよ!」
 弾んだ声で告げると、侍女も喜びの声をあげて、立ち上がった。
「長旅で疲れている騎士のために熱い風呂の用意と宴の準備を急いでちょうだい」
 女主人の指示に侍女は丁寧に一礼し、迎えの準備をするため足早に去っていく。
 カーラインもまた軽やかな足取りで大広間へと向かった。



「……お父さまが死んだ?」
 カーラインは、自分の声がどこか遠くから聞こえてくるようだと、思った。
 床に跪き報告をしているのは、古くから父に仕えていた老騎士。霜のように白い髭を震わせ、言った。異教徒の軍に攻め寄せられ、味方が総崩れしそうなときでも、決して退かずに勇敢に闘われ見事な死を飾ったと、領主である父を褒め称えた。
 カーラインは父らしい死に方だ、と思っていた。後悔などなかっただろう。戦うことが生きることだった根っからの武人である父には。それでも少しは、後に残す娘のことを、心配してくれただろうか。
 カーラインは、視線を泳がせる。崩れそうな自分を支えてくれる人を探す。
 壁に掛けられたタペストリーと領主の紋章楯が飾られた大広間には、花が散りばめられたイグサで覆われた床に跪いている家臣たちの姿があった。だが、意気揚々と出発していった兵たちの半数以上の姿がない。聖地から無事帰ってきた者がこれだけしかいないのか。まるで夢をみているようだ。そう、これは夢だ。あの人がいないもの。
「……アルベルトの姿がみえませんね。遅れてやってくるのですか?」
 声が震えるのを抑える。何気ない口調を装って、尋ねる。だが、答えは彼女の聞きたかったものではなかった。
 老騎士は、言う。
「主君の危機に、自らを楯とし、異教徒の刃に倒れました。見事、騎士としての務めを果たし、主君の恩に報いたのです」
 嘘をついている、と彼女は思った。あの人が私を置いて死ぬはずがないもの。



 カーラインは、どうやって寝室まで帰ってきたのかわからなかった。
 騎士たちに風呂で疲れを流させ、食事をとらせるようにと侍女に命じたことは、ぼんやりと覚えていた。父のいない年月してきたこと、城主としての務めを果たすことは、すでに習慣だった。
 閉じた扉にもたれたまま、胸をおさえてうずくまる。
「……嘘よ。だって、ずっと側にいるって誓ったもの。絶対に帰ってくるって言ったんだもの」
 彼女を残して旅立つ前、必ず帰ってきますと彼は誓ったのだから。
 彼は約束を破ったことは一度もなかった。
 だから、きっと帰ってくるわ。
 茫洋と泳いでいた視線が窓の外にひろがる空を見た瞬間。
 ――ああ、あのときの空もこんなふうに眩しいほどに青くて。
 涙がとまらなくなる。
 女主人として家臣の前では決して見せなかった涙が、彼女の頬を濡らしていく。
 今だけは、ただの恋人を失った少女になれた。