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 深紅の滴が白い布に散った。
 それが、雪のなか鮮やかに散った血を思いださせた。
 幼きころに交わした誓約と白鳥の流した血――死を連想させる。
 カーラインは、血が滲んでいる指を舐めた。
「馬鹿ね」
 刺繍よりも、遠い異国の地にいるアルベルトのことしか頭になかった結果がこれだ。
 ため息をついて針をおく。物憂げに窓の外を見れば、吸い込まれそうなほど天高くどこまでも青い空がひろがっている。
 別れた日も、こんな青空の下だった。

       *

「アルベルト! お父さまと一緒に十字軍に加わるというのは、本当なの?」
 昼下がりの気怠げな空気を破ったのは少女の高い声。薔薇園に佇んでいる彼を見つけて、一直線に向かっていき、勢いあまって転けそうになったところを抱きとめられた。全速力で走ってきたせいで肩で息をしている。まだ幼さを残した頬を紅潮させて、青年を睨みつけた。
「……カーライン様」
 微かなため息が耳を甘くかすめる。彼女を見つめる澄んだ瞳はいつも優しい。その瞳で困った顔をされると、まるでわたしが困らせることばかりしているみたいじゃないの! と頭にくるのだった。事実そうなのだが、彼女には自覚がなかった。
「その困った顔は本当だってことよね」
 腕を突っ張って、言い逃れを許さないとばかりにアルベルトを見据えた。
「わたしも一緒に行くわ!」
「駄目です」
 いつもは彼女の我が儘を少し困った顔で笑って許してくれるのに。今日は違った。彼は誰よりも優しかったが、彼女が悪いときは本気で怒ってくれる唯一の存在でもあった。でもこれだけは譲れない。
「アルベルト。あの白鳥にかけてあなたはわたしを独りにしないって誓ったわ。その誓いを破るなら、わたしがついて行くしかないじゃないの!」
 激しく気持ちをぶつけた後、カーラインはそんな自分が嫌になった。彼の瞳に苦悩がにじんでいるのを見たからだ。
「――ではこの城を誰が守るのですか?」
 声は静かだったが、厳しかった。
 あえて目を背けたいと思っている事実を彼は告げた。目をそらして、唇を噛む。
「……わかってるわ。お父さまの留守を預かるのは一人娘であるわたししかいないってこと。――わかってるわよ!」
 ただそれを受け入れたくないだけ。父の従者として聖地に向かえば、必ず生きて帰る保証などない。もう二度と会えなくなるかもしれないのだ。足下が崩れていく感覚に彼女は震えた。嫌だ。そんなこと耐えられない。
「あなたを失うぐらいなら、城なんてどうなろうと知った事じゃないわ!」
「カーライン様!」
「アルベルトの馬鹿! どうしてわかってくれないのよ。あなたのことを息子だと認めないで、ただの従者としてしか扱わないあんな父親のためにどうして?」
 アルベルトは微笑した。
「たしかに馬鹿かもしれない……ですが、父と呼ぶことを許されなくても、母を亡くして身よりのなかった私を引き取ってくれました。……そのご恩に報いなければなりません」
「――わたしは許さないわ。あなたが許しても!」
 許さない。父を、運命を、神を! 
 真実を知らされた時、心は切り裂かれ――血が流れた。嵐の夜、犯した罪を薔薇だけが知っている。そして、わたし達を永遠に縛りつづける。



 一ヶ月前だった。
 父に呼ばれて、突然、結婚するように命じられた。相手は年寄りで結婚するのは三度目だった。
 彼女は初めて父に反抗した。自分が愛しているのはアルベルトだと告げた。
 その時だ。父からアルベルトが腹違いの兄だと知らされたのは。
 父は息子が欲しかったが、政略で結婚した妻との間には、娘が一人生まれただけ。失望した彼は妻の死後、十三歳になるアルベルトを呼び寄せた。しかし、神のもとで結婚の秘蹟を受けなかった男女から生まれた子供は、跡取りとして認められない。だから息子として認めず、ただ従者として側に置いた。まさか自分の娘が異母兄であるアルベルトを愛するようになろうとは思いもしなかったらしい。恋人同士のようだという召使いたちの噂を聞いた父は、娘を結婚させることで決着をつけようとしたわけだ。
 彼女は、告げられた真実に絶望した。
 そんなことを今更知らされても、もう手遅れだ。父にかえりみられなかった子供時代、あの寒々と広い城のなかで、互いに肩をよせあって生きてきた。わたしは、アルベルトを愛してしまった。兄としてではなく。

 アルベルトのところにどうやってたどりついたのか覚えていない。
「何があったんですか?」
 心配する声がして、彼女は悪夢から覚めたように思えた。一番聞きたかった声。もう何も考えなくていい。腕のなかにとびこんで、汗と日なたの匂いを吸いこんだ。これで大丈夫。恐れることはないのよ。
「大丈夫ですか」
 優しくあやすように背中を撫でてくれる。
 お父様は嘘を言っているの。アルベルトが兄だなんて。嘘よね。そうよね?
「わたし達、……異母兄妹なんですって」
 彼の手が止まった。震えが伝わってくる。でも、顔を見ることができない。
「……どうしてそれを?」
 彼の声は掠れていた。
 どうしてそれを? 彼女は頭のなかで繰り返す。もしかして、……知っていたの?
「お父様よ。棺桶に片足を突っ込んだ老いぼれ領主と結婚しろって言ったわ。だからわたしは嫌だってはっきり言ってやったのよ。愛している人がいて、その人以外と結婚なんてしないと――その時よ。あなたが兄だと告げられたのは」
 苦しげな息が漏れる。破れそうなほど激しい鼓動を感じる。
「でも、わたしの気持ちを止めることなんてできない」
「カーライン様、いけません!」
 さえぎろうとする声に被さっていく。「わたしが、愛しているのは――」顔をあげる。目と目があう。
「あなたよ」
 だが、彼の手が離れていく。こんなに近くにいるのに。遠くなる。
 握りしめられた拳が震えている。いつだって真っ直ぐに彼女を見つめた瞳は閉ざされた。
「……あなたは、私の、大切な……妹です」
 亀裂が走り、粉々に砕けていく。陽射しにきらめく硝子細工のような美しい思い出が。愛だと信じていたものが。
「……知っていたのね、そうでしょ? わたし達が異母兄妹だということを! なのにわたしに教えてくれなかった!!」
 怒りと悲しみが混じり合って、激しく吹き荒れていく。彼は、その嵐に為す術もなく立ちつくすだけだ。
「わたしの気持ちには気づいていなかったとは言わせない。わたしは恋人気取りでいたんだから。馬鹿みたい! あなたは妹としてしか見てなかったのに」
 頬を伝う涙は熱いのに、目はきっと凍りついている。彼女はそう思って、笑った。なんだか無性に可笑しかった。
「カーライン様!」
 笑うのをやめて、冷たい視線を投げつける。
「なにかしら、お兄様。そんな顔なさらないで。もう二度とお兄様の側をうろついて困らせたりしませんわ。わたしは、お父様の命じた方と結婚します」
 彼の瞳が絶望に染まったのを見て、彼女は、微笑んだ。
 ――残酷で美しい女神のように。


更新日: 2008-06-19
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