浄土真宗一の会 教学テキスト 真宗学3号 問21


問
 歎異抄はなぜ危険か述べなさい。
答
 ○信のない者が書いた本であり、カミソリのような本である。カミソリ
 はおとな(信を得た人)が持てば重宝だが、子供(信のない人)が持て
 ば人を傷つける為危険。

平成16年6月19日(土) 大塚出張所(茗荷谷)
教学講義 講師:中根繁会長
歎異抄は、念仏が前面に出ていて、念仏為本の立場で書かれている。

しかし、浄土真宗は、信心為本の教えだから、本当ならば信心が前面に出
ているべきもの。

念仏為本は、浄土宗の教えであって、信心為本が正しい。

歎異抄の作者は、唯円と言われているが、この唯円は聖人の高弟である。
その唯円が、果たして念仏為本の立場で書くだろうか?

唯円は聖人から信心為本の話を常に聞いていたのだから、信心為本の立場
で書くべき。

もし本当に唯円が書いたのならば、「唯円は、信心決定していなかった」
と言う事ができる。

信心決定していない者は、どうしても念仏為本になりがち。

現在の浄土真宗の本山である本願寺は、念仏為本になっている。

歎異抄は、現在の東本願寺の教学の元となった清沢満之によって、世間に
紹介された。

清沢満之は、信心決定していないのに、じぶんでは「信心決定した」と
思って、真宗改革を起こした。

清沢は、今までの真宗教学に批判的だった。そして、真宗教学を変えた。
東本願寺の宗門大学である真宗大学の学長をやっていた。

清沢は、「死後については、まだ経験した事がないので分からない」と
言っている。

これは学者特有のズルイ言い方。仏教学者なので、「死後の世界は無い」
とは、とても言えない。

仏教が、三世因果の理法を教えているのは、周知の事実なので、仏教学者
としては、死後を否定するのは、とても勇気の要る事。だから、「死後は
まだ経験していないので、経験をした事がない事は論じない」とうい表現
を取らざるを得なかったのだろう。

彼の本心は、「死後は論じない」と言っているのは、「死後は分からな
い」という事。

「死後が分からない」というのは、死後については信じられないという事
である。

無限の智恵と慈悲に生かされている者が、死後の世界が分からない筈がな
い。

ところが、彼は、死後について触れようとはしていない。
これは、死後は分からないという何よりの証拠。

聖人は、教行信証の中で「臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」と仰って、
「死後は一念にして極楽に生まれて、仏の証を開く事ができる」と仰って
いる。

清沢は、「死後は無い」などと言っていないが、彼の影響をそのまま受け
た本多彰朗は、死後を否定して、「聖人は、この世で仏になられたんだ」
と主張した。

本多は、学者でないから、仏教学を無視して死後を否定したが、清沢は学
者なので、頭の理解の上では、「死後を教えられたのが仏教だ」と分かっ
ているので、明確には言っていない。

[get5out考察]


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問
『歎異鈔』は、なぜカミソリ聖教で危険だといわれるのか。その理由をあげよ。
答
・他力信心の極致をあらわしたものだから。
解説
・蓮如上人は歎異鈔の最後にただし書きをされた。
・歎異鈔の作者は不明、唯円房の説もある。
・十八章からなっている。十章までは親鸞聖人の説としてあらわし、それ
 を通して異議を破邪したのが十一章~十八章までである。

問
『歎異鈔』は、カミソリ聖教で危険だと、なぜ
言われるのか。その理由をあげよ。
答
○他力信心(真実信心)と、親鸞聖人の教えを、
よく理解している人が読まと、とんでも
ない読み間違いをするところが多いので、子
供にカミソリを持たせた譬えで言われる。

問
 歎異抄はなぜ危険か。
答
 ○ 信のない者が書いた本であり、カミソリのような本である。
 カミソリは、おとな(信をえた人)が持てば重宝だが、子供(信の
 ない人)が持てば人をきずつける為危険。

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最終更新:2010年10月23日 19:19