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浄土真宗一の会 教学テキスト 真宗学3号 問8


問
 善知識を謗ることはもちろん、おろそかに思っただけでも法謗の大罪
 を犯すことになると教えられた親鸞聖人の御言葉とその出典を書きなさ
 い。
答
 「善知識をおろかに思い、師をそしる者をば、謗法の者と申すなり。」
 (末灯鈔)

平成16年4月24日(土)
教学講義 講師:中根繁会長
この御文の「師」とは、善知識のこと。

つまり、善知識を疎かに思ったり、善知識を謗る者を法謗罪を造っている
者ということ。

法謗罪の重さは、親を千人や1万人殺すことよりも重い罪。

真宗学3号の問い9にあるように、法謗罪は何よりも重い罪である。それ
は、仏教だけが全人類を助けるたった一本の道である。その仏教を非難し
たり、疎かにすることは全人類が助かる立った一本の道をたたき壊すこと
になる。それは、全人類を地獄に堕とす行ないに等しい。これは何者にも
変えられない大罪である。

信心決定するまでは、法謗罪よりも親を殺した罪の方が重いと思ってい
る。信前は、どうしても法謗罪の重さが分からない。

ところが、信心決定すると阿弥陀仏の本願に背き続けて来た事の大罪を思
い知らされる。罪を罪とも知らずに大変な罪を造り続けて来たという自己
の姿を自覚する。

しかし、信心決定した後も、逆謗の屍は変らないので法謗罪は造ってしま
う。

善知識も、お釈迦様や親鸞聖人や蓮如上人に対して、何でこんな事をされ
たんだろうか…?と疑問に思うことがある。自分には分からないが、何か
深い御心があっての事だろうと確信しているが、でも何でかな…?と思っ
て考えてしまう。

この心の相を分析すれば、親鸞聖人の上に立って分別していると言える。

本当は蟻が象を見るようなもので、蟻には象の世界は分からないのに「分
かる」と思っているようなもの。親鸞聖人の深意は、自分では分からない
のに「分かる」と思っているから、親鸞聖人の御心を量ろうとする。

これこそが、疎かに思っている相である。

信前であろうが、信後であろうが、本質的には法謗罪をやめることはでき
ない。

これを逆謗の屍と言う。

「屍」というのは、死んだ心ということ。

この死んだ心は、信心決定した後も、生き返る事はない。死んだままで変
らない。

具体的には、法謗罪を造る事は大変な罪だという事が本当に分かったら、
法謗罪を造るのをやめるはず。ところが、煩悩があるが故に、信後も法謗
罪を造ってしまう。

故に、親鸞聖人は「逆謗の屍」と仰しゃる。

つまり、信心決定しても絶対に助からない自己に変わりはない。地獄一
定。

信後は、たとえ法謗罪を造ってしまったとしても、その罪が障りとなって
地獄に堕ちる事はない。

逆謗の屍をも必ず救うという阿弥陀仏の本願の御力によって、必ず極楽に
生まれられる。

機相から言えば、死ぬまで助からない。地獄しか行き場がない。地獄行き
の心が極楽往きの心に生まれ変わって助かるのではない。地獄往きのまま
で、その地獄往きの者を救うのが阿弥陀仏の本願。

よって、信後は絶対助からないまんまで、絶対助かるという自覚がたつ。

ある時、蓮如上人が、ご説法の最中に聴衆に向って「この中で絶対に助か
らない者が居る。」と仰った。すると、聴衆の中で一人だけが、サッと手
を挙げた。すると、蓮如上人は、今度は「この中で絶対に助かる者が居
る」と仰った。すると、またさっきの手を挙げた者だけが、サッと手を挙
げた。この人だけが本当に助かった人である。

信心決定すると、絶対に助からない自覚と、絶対に助かるという自覚の両
立がおこる。

これを機法二種一具の深信と言う。

この矛盾した心境は、信後の立場からすれば何も矛盾していない。

信後の側から信前の善悪、軽重、遅速、大小などに囚われている姿を見る
と、真実が分からず逆立ちしているように見える。本当は、善悪、大小な
どというものはない。全ては矛盾の統一物なのである。

だから、絶対助からないのも、絶対助かるのも真実である。

これを譬えれば、地獄一定の機を10トンの大きな石とすると、その石は
水に入れれば沈んでしまう性質は変わらない。その石を水に浮かべるに
は、10トンの石を乗せる事ができる船に乗せればよい。この船に乗れ
ば、石は石のままで水に浮くことができる。ここで言う「船」とは、阿弥
陀仏の本願のことを譬えている。

阿弥陀仏の本願は、地獄一定の者を極楽一定に助ける力を持っている。

その本願力に救われた時に「弥陀五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひと
えに私一人が為なりけり」という思いになる。

しかし、自分の機相は「いづれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一
定すみかぞかし」という思いしかない。

この矛盾した気持ちが一つになっているので、「一具」と言う。

仏教は不二の法門である。「不二」というのは、二つとも無いということ
ではなく、2つでないということ。全ての対立する概念は、実は対立する
ものではなくて、一つのものだということである。

禅宗などは、この不二の世界を座禅によって知ろうとする。
浄土真宗は、聴聞によって知る方法をとる。

禅宗では、絶対に助からないので、禅宗をやっていても分からない。
本当に救われるのは、浄土真宗の聴聞のみである。

聴聞は、この不二の世界を知ろうとする為にするとも言える。

不二のことを、「不一不異」とも言う。「不一」とは、一つではないとい
うこと。「不異」とは、異ならずということ。つまり、二つの別々のもの
ではないということ。

紙の裏表の関係や、明かりを闇の関係は、不一不異である。静と動の関係
も同じである。

独楽(こま)は、高速で回転しているほど一点に止まっている。

人間は、分別智でしか理解できない。しかし、信心決定の世界は無分別の
分別の世界。

分別を超えた真実の世界が、無分別の世界。分別しようとするのが自力。

デカルトの「我れ思う故に我れあり」の「我れ」は自力。
仏教は、その「我れ」をも否定した境地。

仏教は究極の否定の教え。自力が廃るとは、全てが否定された究極の状
態。

この境地に到るのは、聴聞によってのみである。

[get5out考察]


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問
善知識をおろそかに思うことが法謗罪になると仰有った親鸞聖人の
お言葉と根拠を聖教で示せ。
答
善知識をおろかに思い、師をそしる者をば、謗法の者と申すなり。(末灯鈔)
解説
・善知識――信心決定の体験と深い教学を身につけられた方。
・謗法――法謗罪
・おろか――おろそか

問
善知識をおろそかに思うことが謗法罪になる、と仰有った親鸞聖人の
お言葉と根拠を示せ。
答
○善知識をおろかに思い師をそしる者をば謗法の者と申すなり。(末灯鈔)

問
 善知識をそしることはもちろんおろそかに思っただけでも法謗の大
 罪を犯すことになると教えられた親鸞聖人の御言葉と出典を
 示しなさい。
答
 「善知識をおろかに思ひ、師をそしる者をば、謗法の者と申すなり。」
                            (末灯鈔)

問
 善知識を謗ることはもちろん、おろそかに思っただけでも法謗の大罪を犯す
 ことになると教えられた流祖の御言葉とその出典を書きなさい。
答
 ○善知識をおろかに思い、師をそしる者をば、謗法の者と申すなり。
                           (末灯鈔)

生死の一大事(十五) 
 五逆罪と法謗罪

 会 長 中 根  繁

・・・親鸞
聖人は末灯鈔に、「善知識をお
ろかに思ひ、師をそしる者をば、
謗法の者と申すなり」と教えられ
た。あからさまに仏法や善知識
(仏教の正しい指導者)を誹る人
だけではなく、善知識をおろそか
にする人も法謗の者であると仰しゃ
るのである。
・・・

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