哲学入門

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哲学入門について書いていきます。 デカルトは、哲学全体を一本の樹木として例えた。 「その根は形而上学であり、その幹は自然学。そこから出ている枝は諸学問であり特に医学と工学(機械的技術)。そしてその果実は道徳であると」(『哲学原理』参照) ホッブスは、「哲学」というときほぼ「学問」という意味でも用いており、哲学を「既知の原因あるいは知りたいという思い・エロス[産出力]により、正しい推論を通じで獲得される結果あるいは現象の知識。または、既知の結果から正しい推論を通じて獲得される知識」と、いったりしている。(『物体論』参照) ヒュームは、「哲学的探求に用いて成功を希望できる唯一の方策は、諸学の首都たる人間本性そのものに端的に進軍することである」といっている。(『人性論』参照) カントは、「すべての理性の学のうちで学習されうるのは数学だけであって、哲学(それが歴史的なものでないかぎり)はけっして学習されず、理性に関して言えば、たかだか哲学することだけが学習されるにすぎあない」といっている。(『純粋理性批判』超越論的方法論第三篇 参照) ヘーゲル死後 フォイエルバッハは、「新しい哲学は人間を、人間の土台としての自然学をふくめて、哲学の唯一、普遍、最高の対象とする」としい人間学を押し出す(『将来の哲学の根本問題』参照) マルクスは今までの哲学を、ただいろいろに解釈しただけの思弁哲学であるといっている。 「哲学者たちはただ世界をさまざまに解釈してきただけだ・・・」(『ドイツ・イデオロギー』フォイエルバッハに関するテーゼ参照) ニーチェ、ハイデガーは、科学と敵対的に展開し、「将来の哲学者は芸術的文化の高等法院にならねばならぬ」とか、「存在を捉えるには詩人的思惟、回想的思惟によらねらばらぬ」とかいっている。(『断片』『形而上学とは何か』参照) ラッセルは、このような過程から「神学と科学との間には、この両方から攻撃にさらされている境界地(no man’s land)がある。この境界地が哲学である」といっている。(『西洋哲学史』参照) 田中美知太郎は、「ラッセルの哲学史は、間接的な哲学否定の歴史にすぎず・・・哲学が否定的に取扱われることになってしまったのである。・・・ラッセルのいう「大きな力を及ぼす」哲学の積極的内容は、これを神学と科学との間の「no man’s land」とするだけの規定で、果たして十分に把握できるものかどうか大いに疑問であると言わねばならない。とにかく哲学の歴史は、単に神学を悪玉とし、科学を善玉とするような、単純至極の闘争劇のうちに収拾されてしまうものではないことは、ラッセル哲学史の一面性が、なによりもはっきりとこれを示している」(『哲学への案内』参照) 田中美知太郎は、「哲学において、私たちが直接に知ることのできるのは、歴史のうちに与えられている哲学でありますが、しかしこのことは、歴史のうちに与えられている哲学が、哲学のすべてであるということを意味するものではありません。歴史のうちに解消し、歴史を絶対者とする考え方は、実際には、その歴史を更に絶対化された今日という日、もしくは絶対化された明日という日に解消しようとするものであって、それはかえって歴史を否定し、哲学を否定する結果になることは既に申したとおりです。歴史の意味は、歴史だけでは解けません。哲学史に意味を与えるものは、哲学史のうちに解消されてしまうことのない、哲学そのもの、あるいは永遠の哲学と呼ばれたものでなければなりません。」(『哲学のために』参照) フィヒテは、「どういう哲学をひとが選ぶかは、そのひとがどういう人間であるかにかかっている。・・・哲学体系は死んだ家具のようなものではなく、それをも一つの魂によって生かされている」といっているのを思い出しました。(『知識学への第一序論』参照) 哲学がよくわからない。 哲学することで何を求めればよいのか? それは哲学史にあるのか? 否。自分の過程にあるのか? リチャード・ローティは、「すこし大雑把だが、私は哲学者というものを、根本的に公的な目的を達成するような仕事をするミルやデューイやロールズのような哲学者と、根本的に私的目的の達成のための仕事をする哲学者に分けている」といったりしている。(『脱構築とプラグマティズム』参照) 私の個人的な憶測では、ローティのいうような根本的に私的目的の達成のための仕事をする哲学者はどうも反哲学を標榜しているように見受けられます。 個人的に哲学というものに対して、傾倒してやまない一つの考え方がある。 それが「技術の技術としての哲学」by田中美知太郎 世界観、形而上学からスタートする体系重視ではない、だれもがぶつかるであろう、些細でもあり根本的な問題から始まる問いとしての哲学。 最後にその部分を引用して終わります。 「哲学は科学であるよりも、むしろ技術である。あるいは技術の技術であるといった方が、もっと適切かもしれない。今日の技術の概念は、きわめて狭小であって、工業生産の工程などに局限されて考えられる傾向が多いけれども、これはもっとひろく使用や処理、獲得や管理、教育などについても考えられなければならない。そしてわれわれは技術の手段的な面に注意をうばわれて、目的は何であっても、それのために最も効率のいい手段を考えるのが技術であるという風に見たりするけれども、単なる科学的知識から技術を区別するのは、実にこの「目的」の明確さにあるということを忘れてはならない。技術の代表的産物であるとも見られる機械は、いつも一定の目的を果たすために、あらゆる無駄を省き効率的に作られているのであって、漫然と何の目的もなしに部品が集められ、これに運動が与えられたとしても、それは機械とは呼ばれないのである。しかしわれわれは目的のこの自明性のために、かえってそれが盲点となって「機械的」という言葉を、無目的ということの代名詞に使ったりするのである。しかし今われわれは、目的の一義的な支配をもって、技術の決定的な特質と見なければならない。そしてこのような目的は、アリストテレスが『ニコマコス倫理学』のはじめに示しているように、上下の関連を通じて目的の体系に組織されるものなのであって、それはギリシャ語で考えれば、善の支配ということであり、今日の言葉で言えば、価値の世界が構成されるということであろう。哲学において求められている全体性は、抽象的な普遍でもなければ、単なる自然でもなく、むしろわれわれ自身の喜びともなれば、また悲しみともなるような、価値を帯びた全存在なのであって、われわれが世界とか、人生とかいう言葉で指向しているのが、それであるとも考えられる」(『哲学への案内』参照)
哲学入門について書いていきます。 デカルトは、哲学全体を一本の樹木として例えた。 「その根は形而上学であり、その幹は自然学。そこから出ている枝は諸学問であり特に医学と工学(機械的技術)。そしてその果実は道徳であると」(『哲学原理』参照) ホッブスは、「哲学」というときほぼ「学問」という意味でも用いており、哲学を「既知の原因あるいは知りたいという思い・エロス[産出力]により、正しい推論を通じで獲得される結果あるいは現象の知識。または、既知の結果から正しい推論を通じて獲得される知識」と、いったりしている。(『物体論』参照) ヒュームは、「哲学的探求に用いて成功を希望できる唯一の方策は、諸学の首都たる人間本性そのものに端的に進軍することである」といっている。(『人性論』参照) カントは、「すべての理性の学のうちで学習されうるのは数学だけであって、哲学(それが歴史的なものでないかぎり)はけっして学習されず、理性に関して言えば、たかだか哲学することだけが学習されるにすぎあない」といっている。(『純粋理性批判』超越論的方法論第三篇 参照) ヘーゲル死後 フォイエルバッハは、「新しい哲学は人間を、人間の土台としての自然学をふくめて、哲学の唯一、普遍、最高の対象とする」としい人間学を押し出す(『将来の哲学の根本問題』参照) マルクスは今までの哲学を、ただいろいろに解釈しただけの思弁哲学であるといっている。 「哲学者たちはただ世界をさまざまに解釈してきただけだ・・・」(『ドイツ・イデオロギー』フォイエルバッハに関するテーゼ参照) ニーチェ、ハイデガーは、科学と敵対的に展開し、「将来の哲学者は芸術的文化の高等法院にならねばならぬ」とか、「存在を捉えるには詩人的思惟、回想的思惟によらねらばらぬ」とかいっている。(『断片』『形而上学とは何か』参照) ラッセルは、このような過程から「神学と科学との間には、この両方から攻撃にさらされている境界地(no man’s land)がある。この境界地が哲学である」といっている。(『西洋哲学史』参照) 田中美知太郎は、「ラッセルの哲学史は、間接的な哲学否定の歴史にすぎず・・・哲学が否定的に取扱われることになってしまったのである。・・・ラッセルのいう「大きな力を及ぼす」哲学の積極的内容は、これを神学と科学との間の「no man’s land」とするだけの規定で、果たして十分に把握できるものかどうか大いに疑問であると言わねばならない。とにかく哲学の歴史は、単に神学を悪玉とし、科学を善玉とするような、単純至極の闘争劇のうちに収拾されてしまうものではないことは、ラッセル哲学史の一面性が、なによりもはっきりとこれを示している」(『哲学への案内』参照) 田中美知太郎は、「哲学において、私たちが直接に知ることのできるのは、歴史のうちに与えられている哲学でありますが、しかしこのことは、歴史のうちに与えられている哲学が、哲学のすべてであるということを意味するものではありません。歴史のうちに解消し、歴史を絶対者とする考え方は、実際には、その歴史を更に絶対化された今日という日、もしくは絶対化された明日という日に解消しようとするものであって、それはかえって歴史を否定し、哲学を否定する結果になることは既に申したとおりです。歴史の意味は、歴史だけでは解けません。哲学史に意味を与えるものは、哲学史のうちに解消されてしまうことのない、哲学そのもの、あるいは永遠の哲学と呼ばれたものでなければなりません。」(『哲学のために』参照) フィヒテは、「どういう哲学をひとが選ぶかは、そのひとがどういう人間であるかにかかっている。・・・哲学体系は死んだ家具のようなものではなく、それをも一つの魂によって生かされている」といっているのを思い出しました。(『知識学への第一序論』参照) リチャード・ローティは、「すこし大雑把だが、私は哲学者というものを、根本的に公的な目的を達成するような仕事をするミルやデューイやロールズのような哲学者と、根本的に私的目的の達成のための仕事をする哲学者に分けている」といったりしている。(『脱構築とプラグマティズム』参照) 「哲学は科学であるよりも、むしろ技術である。あるいは技術の技術であるといった方が、もっと適切かもしれない。今日の技術の概念は、きわめて狭小であって、工業生産の工程などに局限されて考えられる傾向が多いけれども、これはもっとひろく使用や処理、獲得や管理、教育などについても考えられなければならない。そしてわれわれは技術の手段的な面に注意をうばわれて、目的は何であっても、それのために最も効率のいい手段を考えるのが技術であるという風に見たりするけれども、単なる科学的知識から技術を区別するのは、実にこの「目的」の明確さにあるということを忘れてはならない。技術の代表的産物であるとも見られる機械は、いつも一定の目的を果たすために、あらゆる無駄を省き効率的に作られているのであって、漫然と何の目的もなしに部品が集められ、これに運動が与えられたとしても、それは機械とは呼ばれないのである。しかしわれわれは目的のこの自明性のために、かえってそれが盲点となって「機械的」という言葉を、無目的ということの代名詞に使ったりするのである。しかし今われわれは、目的の一義的な支配をもって、技術の決定的な特質と見なければならない。そしてこのような目的は、アリストテレスが『ニコマコス倫理学』のはじめに示しているように、上下の関連を通じて目的の体系に組織されるものなのであって、それはギリシャ語で考えれば、善の支配ということであり、今日の言葉で言えば、価値の世界が構成されるということであろう。哲学において求められている全体性は、抽象的な普遍でもなければ、単なる自然でもなく、むしろわれわれ自身の喜びともなれば、また悲しみともなるような、価値を帯びた全存在なのであって、われわれが世界とか、人生とかいう言葉で指向しているのが、それであるとも考えられる」(『哲学への案内』参照) ちょっと古い哲学感かもしれません。 現代は分析哲学が主流になってますね。 分析哲学参照

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