近世判決見本

近世判決見本
          弁護士山崎今朝彌評釈
大正四年れ第一六六七号
      判決書
          東京都芝区三田四国町二番地医師
          奥山伸
          当四十三年
 右痘病及血清、其他細菌学的予防治療品製造取締規則違反被告事件に付、大正四年五月六日東京地方裁判所に於て、言渡したる判決に対し被告及弁護人は上告を為したり、因て判決する左の如し
 本件上告は之を棄却す
      理由
[上告趣意書第一点]
 原判決は被告を警視総監の許可を受けず、細菌学的予防治療品の一種なる「チブス」予防液を製造して、販売したる者とし、内務省令細菌学的予防治療品製造取締規則第四条を適用罰金拾円に処し、其証拠として原審に於ける被告の「私の製造したる本件予防液は、一合乃至七合入七百十壜乃至千四百壜なる旨」の供述を採用せり、右被告の供述せる所のものを、其儘換算せる升量は合計五十四石八斗四升に該当するを以て、原審は斯かる多量の予防液を製造するは被告の弁解如何に関せず、販売の目的を以て之を製造したるものなること、一点の疑なしとの見地より「被告は販売の目的を以て本件予防液を製造し之を販売したるものなり」と犯罪事実を認定せられたること明なり、然れ共(一)世界開闢以来「チブス」予防液使用の全量が五十四石八斗四升の十分の一にも、達せざることは、萬国統計に依るも疑なき処にして、(二)記録卅一丁被告聴取書の本件予防液は、一壜の容量五人、乃至二十人分の注射容量にして、予防液注射は一人一回五六滴を程度とすとの記載は、斯道専門大家の鑑定を待たず容易に信用し得べく、(三)普通薬液特に注射用の薬液は製品第何号何瓦入と呼称し、麦酒正宗乃至はラムネ、サイダーに至る迄六合入七合入の壜は此世に存在せず、彼此綜合、原審公判始末書被告供述の何合入何壜は、何号何瓦の誤記なること、三才の童子と雖も之れを知らん、果して然らば原判決は被告が極少量の予防液を製造したりとの供述を、世界開闢以来の製造高より多量の予防液を、製造したりと供述したるものと誤解し、此説明に基き、判示量の予防液製造の事実を認定し以て犯罪を断定したるものなれば、結局虚無の証拠を採用したる不法ありと云ふに在るも
[判決理由第一点]
 原審公判始末書には右判示と同一なる被告供述の記載あり原審に於ては被告の供述を其儘採用し来り以て断罪の資料と為したるものにして何等の不法あることなし、弁護人は右始末書の記事は誤記に係る旨主張するも記録上何等誤記の事実を肯定すべき証左の見るべきものなく苟も一旦公判始末書に被告の供述として録取せられたるが最後、誤記の立証なき限り、太陽も西より昇天し日本帝国も民国となるべきものなるのみならず弁護人所論の事実の如き三歳の童子と雖も之を知ると云ふと雖も八十の老翁の之を難しとする所、論旨は理由なし。
[上告趣意書第二点]
 原判決は明治三十六年内務省令第五号第一条中の販売なる文字を「反覆するの目的を以て為す有償名義の譲渡」と解し其結果被告に、本件予防液の製造分与に付営利の目的を有せず、専ら研究の目的に出し事実を認定しながら、被告が他人よりは該液分与に対し、品物の謝礼を収受したる事実のみを採て以て直ちに、被告を前記省令違反の罪に問ひたり、然れ共同省令は粗製品未成品研究品等の危険を取締る法令にあらず、既成品営業品の製造を取締る省令なれは、同省令中の販売なる文字も「営利目的を以てする有償譲渡」と解するを正解と信ず、然らずんば該省令の認可を受くるには、法令上三四十万円の資金を要し、又該治療品の研究発明には長日月間の実験を必要とし、此必要なる実験を自家患者に応用実験するも、苟も多少の謝儀を収受する以上原判決の所謂「反覆するの目的を以て為す有償譲渡」となる結果、該省令中の治療予防品は、事実上其研究発明を禁圧せらるるに至らん、豈是れ法の精神ならんや、若し夫れ世の勢力家にして権威隆々たる各学校の教授、各博士の病院研究所等に於て、本令規定の予防治療品を当該監督官庁の認可を受けず之れを製造し、之れに一定の対価を附し研究の為め之れか、使用を世に広告し官憲之れを検挙せず、世人之れを怪まざるは、人に依り法を二三にし罰すべきを罰せざるにあらず罰す可らざるが故に、罰せざるなり、果して然らば本件被告の予防液も、亦営利の目的更になく、専ら研究の目的を以て実費以下の対価を以て分与せしものとして、無罪の言渡をなすべきに原判決が、事茲に出てざりしは、法律の解釈を誤りたる不法ありと云ふに在るも
[判決理由第二点]
 右明治三十六年内務省令第五号第一条に所謂販売なる文字は汎く代償を得て右第一条規定の製造品を譲渡するの意義に解すべく必ずしも営利の目的に出ることを要すべきものに非ざれば原審が之を反覆するの目的を以て為す有償名義の譲り渡と解し被告の判示行為を有罪に処分したりしは不当にあらず、其結果医業の研究発明を禁圧し学術の進歩発達を妨害するの理由を以て法の解釈を斟酌すべきにあらず、法語に云ふ、悪法も法なりと、法は学者を抗にし聖人を獄に下す、若夫れ以下に至つては是我国体の精華にして教育の淵源亦実に茲に存す、本論旨も理由なし。
 右の理由なるを以て、刑事訴訟法第二百八十五条に依り主文の如く判決す。
 大正四年七月十二日
          大審院第二刑事部
          裁判長判事 鶴丈一郎
          判事 水本豹吉
          判事 泉二新熊
          判事 鶴見守義
          判事 藤波元雄
          裁判所書記 北川銓総
<以上は、判決の判示部分を除き、山崎今朝弥氏が著作者である。なお、上記判決理由中に山崎が「独自の評釈」を付加している箇所がある。>
<旧仮名遣いはそのままとし、踊り字は修正し、旧漢字は適宜新漢字に修正した。>
<底本は、東京法律事務所『月報』第11号3頁、大正4年(1915年)8月20日号>

<※本判決を受けて、山崎は北里博士告発状(『東京法律』25号6頁、大正5年(1916年)11月1日号にも「書式文例三」として掲載されている。)を起案し、北里柴三郎を警察に告発している。>
最終更新:2009年11月17日 21:05
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